神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
銃口は、怪物の牙より静かだった。
黒い川の匂いは、まだ夜に残っている。
未遠川の上で膨れ上がっていた異形は消え、騎士王の光もすでに薄れていた。だが、勝利の余韻など、どこにもない。
あるのは、冷えた空気。
濡れた路面。
血の滲んだ腕。
そして、こちらをまっすぐ狙う黒い銃口。
ヒッポリュテは桜を背に庇った。
半歩。
それだけ動くだけで、腕の傷が熱を持つ。
だが、下がらない。
下がれば、桜が前に出る。
ペンテシレイアの気配が跳ねた。
彼女の両腕に、黒い手甲が現れる。
金属とも骨ともつかない質感。
指先から伸びた鉤爪が、夜気を裂いた。
今まで握っていた槍はない。
距離が近い。
ならば、長柄は要らない。
切り裂き、抉り、喉を掴むには、その爪で十分だった。
「近い」
ペンテシレイアが低く言う。
「殺すには十分だ」
黒衣の女は、表情を変えなかった。
銃口も下がらない。
その立ち方は、魔術師のものではなかった。
戦士でもない。
兵士。
もっと乾いた、目的だけを残した身体の使い方。
ヒッポリュテは、その女よりも遠くにある視線を感じていた。
別の場所。
別の高さ。
こちらを測る目。
銃を向けているのは目の前の女だが、問うているのは別の男だ。
通信機から、低い声が落ちる。
『君たちは、何者だ』
雁夜が桜を庇うように腕を広げた。
桜はヒッポリュテの服を掴んでいる。
震えている。
それでも、泣いてはいない。
ヒッポリュテは通信機の方を見た。
声の主を知っている。
知っているからこそ、口には出さない。
ここで名を呼べば、こちらの手札を一つ明かすことになる。
「先に銃を向けた者が、名を問うのか」
通信機の向こうで、わずかな沈黙があった。
『名乗る価値がある相手か、まだ判断していない』
「ならば、こちらも同じだ」
女の指は引き金にかかったままだ。
ほんのわずかでも桜へ銃口が流れれば、ペンテシレイアは動くだろう。
そして、ペンテが動けば女は撃つ。
撃てば、ヒッポリュテも動く。
その一瞬で、場は壊れる。
「銃口が桜へ向いた」
ペンテシレイアが言う。
「まだ撃っていない」
「撃ってからでは遅い」
『正しい判断だ』
通信機の声が、淡々と割り込んだ。
評価。
それ以外の温度がない。
ペンテシレイアの殺気が濃くなる。
「評価したか、今」
女の銃口が、わずかに動く。
ペンテシレイアの鉤爪が鳴った。
ヒッポリュテは、痛む腕を上げて制する。
「動くな」
「姉上」
「まだだ」
「また待つのか」
「桜がいる」
その一言で、ペンテシレイアは止まった。
だが、鉤爪は収めない。
黒い手甲の先が、銃口と同じだけの殺意を返している。
その張り詰めた空気の中で、桜が小さく息を吸った。
「撃たないでください」
震えた声だった。
けれど、確かに届いた。
女の目が、わずかに桜へ向く。
ペンテシレイアも一瞬だけ止まる。
桜は両手でヒッポリュテの服を掴んだまま、続けた。
「誰も、撃たないでください」
それは目の前の女へ向けた言葉だった。
同時に、ペンテシレイアへ向けた言葉でもあった。
自分を守るために、誰かが殺し合う。
その気配を、桜はもう知っている。
知ってしまっている。
だから止めた。
怖いのに。
声が震えているのに。
それでも、止めた。
通信機の向こうの沈黙が、わずかに深くなる。
遠くの視線が、桜へ向いたのが分かった。
測っている。
桜がこの場を止めたことを。
ペンテシレイアが桜の声で止まることを。
ヒッポリュテが桜を中心に動くことを。
この男は、そこを見ている。
『その子供は、マスターか』
「桜ちゃんを道具みたいに見るな!」
雁夜が怒鳴った。
声が掠れている。
それでも怒りだけははっきりしていた。
通信機の声は揺れない。
『令呪を持っている以上、他陣営はそう見る』
桜の手が動く。
右手を隠そうとした。
ヒッポリュテは、その前に一歩出た。
桜の小さな動きが見えなくなるように。
「なら、こちらが先に見る目を選ぶ」
『見る目?』
「駒として見るか。守るべき子として見るか。交渉の札として見るか。戦場は勝手に数える。なら、こちらは勝手に選ぶ」
言いながら、ヒッポリュテは自分の声が思ったより冷えていることに気づいた。
怒りではない。
怒りよりも先に、判断が出ていた。
桜がマスターとして見られる現実は否定できない。
なら、その現実の中で、誰より先に桜の扱いを決めなければならない。
奪われる前に。
定義される前に。
利用される前に。
『保護するとは言わない』
通信機の声が言った。
『だが、取引ならできる』
雁夜が歯を食いしばる。
「取引だと……?」
『君たちの現在位置は、すでに複数の陣営に知られている。間桐、遠坂、監督役、他のマスター。今夜の動きで、さらに目立った』
正しい。
腹立たしいほどに。
『その子供は令呪を持っている。バーサーカーと接続している。さらに、君は神代級の武装を使った』
ヒッポリュテは沈黙した。
ペンテシレイアの鉤爪が、また小さく鳴る。
『このまま動けば、狙われる。隠れても追われる。君たちには休む場所も、医療品も、情報網も足りない』
「それで?」
『こちらは一時的な隠れ場所、医療品、食料、情報を提供できる』
「代わりに、何を求める」
『君たちの目的と戦力を知りたい』
女の銃口は、まだ下がらない。
取引。
そう言いながら、場の主導権を握るための圧は残している。
助けるためではない。
測るため。
使えるか。
危険か。
殺すべきか。
通信機の向こうの男は、それを見極めようとしている。
「取引なんかするな」
雁夜が低く言った。
「こいつらは桜ちゃんを利用する気だ」
「利用する気があるから、条件が読める」
ヒッポリュテは答える。
雁夜がこちらを見る。
「何だと?」
「善意だけの相手より、まだ扱いやすい」
「お前……!」
「善意を疑わなくていい相手など、この戦場にはいない」
雁夜は言葉を失った。
桜も、少しだけヒッポリュテを見る。
その視線に戸惑いがあった。
優しいだけではない。
守ると言いながら、冷たい言葉も選ぶ。
それがヒッポリュテだった。
ペンテシレイアは、黒い手甲をつけたまま女を睨んでいる。
ヒッポリュテはその腕を一瞥した。
「槍は?」
「近い」
ペンテシレイアは短く答える。
「こちらの方が速い」
「そうか」
「喉を裂くなら、爪で足りる」
女は反応しない。
だが、わずかに重心が変わった。
ペンテシレイアの間合いを測り直したのだろう。
通信機の向こうの男も、同じことをしているはずだった。
ヒッポリュテは言う。
「桜に銃口を向けた時点で、話の値は下がった」
『だろうね』
「それでも、聞くだけは聞く」
即答はしない。
信用はしない。
だが、拒絶もしない。
ヒッポリュテの腕は限界に近い。
ペンテシレイアも消耗している。
桜は立っているだけで疲れている。
雁夜も、いつ倒れてもおかしくない。
余裕がない。
その事実から目を逸らせば、守るものを失う。
「桜」
ヒッポリュテは振り返った。
桜が顔を上げる。
「聞いたな」
「……はい」
「嫌なら断る」
雁夜が息を呑んだ。
ペンテシレイアも、わずかにこちらを見る。
通信機の向こうも黙った。
桜は驚いたような顔をしていた。
自分に聞かれると思っていなかった顔だ。
ヒッポリュテは続ける。
「怖いなら怖いと言え。行きたくないなら行きたくないと言え」
桜は黒衣の女を見る。
銃を見る。
通信機を見る。
雁夜を見る。
ペンテシレイアを見る。
そして、ヒッポリュテの腕を見た。
赤く濡れた布。
傷口。
隠しきれない疲労。
桜は小さく唇を噛む。
「怖いです」
「ああ」
「でも……」
声が震える。
それでも、桜は言葉を選んだ。
「休める場所が、あるなら……行きたいです」
大丈夫です、ではなかった。
我慢します、でもなかった。
行きたい。
自分の必要を、初めて小さく差し出した声だった。
ヒッポリュテは頷いた。
「なら、聞く」
通信機の向こうで、男が短く言った。
『場所を変えよう』
女は銃口を下げなかった。
ペンテシレイアも鉤爪を収めなかった。
休戦ですらない。
ただ、撃たずに歩く時間が与えられただけだ。
女が横へ動く。
進む方向を示す。
「こちらへ」
雁夜が桜を庇う位置を保つ。
桜はヒッポリュテの服を掴んだまま歩き出した。
ペンテシレイアは最後尾につく。
黒い手甲はそのまま。
女の背中を、いつでも裂ける距離で見ている。
ヒッポリュテは、通信機から届く気配を追った。
声の主は、まだ姿を見せない。
こちらの消耗を見ている。
ペンテシレイアの反応を見ている。
桜の選択を見ている。
雁夜の怒りも、すべて測っている。
怪物は、目の前に出てきた。
人間は、姿を隠したまま手を伸ばす。
厄介なのは、どちらか。
答えはまだ出ない。
しばらく歩いたところで、通信機から再び声がした。
『一つ確認しておく』
ヒッポリュテは足を止めない。
『君たちは、聖杯を求めているのか』
桜の手が服を強く掴む。
雁夜が顔を上げる。
ペンテシレイアの鉤爪が、静かに鳴った。
聖杯。
この戦争の中心。
多くの者が求め、殺し合い、願いを託す器。
ヒッポリュテにとって、それは目的ではない。
だが、無関係ではいられない。
桜が数えられた。
ペンテシレイアが繋がれた。
自分も、この時代に立っている。
なら、求めずとも巻き込まれる。
奪う者がいるなら、抗うしかない。
「求めてはいない」
ヒッポリュテは言った。
「だが、奪われるなら壊す」
通信機の向こうで、沈黙が落ちた。
女の足が、一瞬だけ止まりかける。
ペンテシレイアは笑わなかった。
雁夜も何も言わない。
桜だけが、ヒッポリュテの服を掴んだまま、息を殺していた。
未遠川の怪物は消えた。
だが、冬木の夜から殺意が消えたわけではなかった。