神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
風が、温かかった。
神代の空気はいつも重い。
光も、音も、匂いも、すべてが濃い。草の青さも、土の熱も、遠くで鳴る馬の嘶きも、現代の記憶にあるどんな景色より鮮やかで、息を吸うだけで胸の奥まで満たされる。
けれど、その日の風は、やけに優しかった。
戦場の前に吹く乾いた風ではない。
血の匂いを運ぶ風でもない。
ただ、肌を撫でて、髪を揺らして、隣を歩く小さな気配を近くに感じさせる風だった。
「姉上、遅い」
不満そうな声がした。
振り向けば、少女がこちらを見ていた。
ペンテシレイア。
まだ幼い。
背丈も、腕も、戦場に立つにはあまりにも細い。
けれど、その目だけは違った。
まっすぐで、強くて、こちらを見上げる瞳の奥には、すでに戦士の光が宿っていた。
小さな頬を少しだけ膨らませ、彼女はまた言う。
「姉上が遅い」
「遅れてはいない。お前が早いだけだ」
「違う。姉上が遅い」
即答だった。
疑う余地などない、とでも言いたげな顔。
ヒッポリュテは少しだけ目を細める。
「……そうか」
認めると、ペンテシレイアは満足そうに頷いた。
単純だ。
けれど、その単純さが愛おしい。
彼女はすぐに前へ出る。
だが、完全に先には行かない。
必ず数歩先で止まり、振り向く。こちらが追いつくまで待って、また歩き出す。
守られていると分かっている。
それでも、隣に立とうとする。
その背中はまだ小さい。
小さいのに、まるで世界を押し返すつもりで立っている。
見ているだけで、胸の奥が少し痛んだ。
まだ早い。
戦場は。
王の責任は。
血の匂いも、選択の重さも、失う痛みも。
そのすべてを、この子が背負うにはまだ早い。
だから守る。
そう決めていた。
何度も、何度も。
この時代に目覚めてから、ヒッポリュテはその決意だけを繰り返してきた。
自分が何者なのか。
どこから来たのか。
なぜこの身体にいるのか。
まだ分からないことは多い。
けれど、目の前の妹を守りたいという感情だけは、疑いようがなかった。
「姉上」
また呼ばれる。
「なんだ」
「もし、戦いになったら」
ペンテシレイアは歩みを止めた。
風が彼女の髪を揺らす。
幼い頬。
細い肩。
それなのに、声だけは揺れない。
「私は、戦う」
断言だった。
迷いがない。
その言葉に、ヒッポリュテは思わず苦笑しそうになる。
早い。
あまりにも早い。
この子は、こちらが隠そうとするものを、いつも真っ直ぐ見に来る。
「駄目だ」
「なぜ」
また即答。
拒まれることを予想していたような速さだった。
「お前はまだ――」
「弱いから?」
言葉を被せられた。
小さな声ではなかった。
怒っているわけでもない。
ただ、傷つく前に自分から言ったような声だった。
ヒッポリュテは息を止める。
「……違う」
「なら、何」
ペンテシレイアは振り返った。
逃げ場のない目だった。
幼さの奥に、誇りがある。
自分も戦士なのだと、自分も守る側に立つのだと、こちらに認めさせようとしている。
その目を、真正面から受け止める。
けれど、口から出た言葉は、あまりにも不器用だった。
「守るためだ」
沈黙が落ちた。
ペンテシレイアの表情が、ほんの少しだけ曇る。
彼女は目を伏せた。
「……それは、私の役目でもある」
小さい声。
でも、折れてはいなかった。
その瞬間、胸が痛んだ。
分かっている。
この子は、守られるだけでは終わらない。
そんな器ではない。
いずれ戦場に立つ。
いずれ誰かを率いる。
いずれ、自分の怒りも誇りも抱えて、前へ進む。
それを知っている。
知っているからこそ、守りたかった。
矛盾している。
この子を戦士として認めたい。
けれど、傷ついてほしくない。
いつか隣に並んでほしい。
けれど、今だけは後ろにいてほしい。
王としてなら、鍛えるべきなのだろう。
姉としてなら、抱きしめて隠してしまいたい。
そのどちらも、自分の中にある。
どちらも本当で、どちらも選べない。
「姉上」
もう一度、ペンテシレイアが呼ぶ。
「なんだ」
「手を」
一瞬、意味が分からなかった。
彼女は少しだけ顔を逸らし、小さな手を差し出していた。
強がりで、負けず嫌いで、いつも前へ出ようとする少女。
その手は、まだ幼かった。
柔らかくて、温かくて、こちらを信じ切っている手だった。
「……ああ」
ヒッポリュテは、その手を取った。
握ると、すぐに握り返される。
思ったより強い。
逃がすまいとするように。
置いていかれまいとするように。
その感触が、妙に強く残った。
この手を離してはいけない。
そう思った。
理由は分からない。
けれど、胸の奥で何かが警鐘のように鳴った。
風が止まる。
温かかったはずの空気が、急に冷える。
足元の草が揺れなくなった。
鳥の声も、馬の嘶きも、遠くで響いていた女たちの笑い声も、すべてが薄くなる。
「……姉上?」
ペンテシレイアの声が、遠く聞こえた。
ヒッポリュテは彼女の手を握ったまま、周囲を見た。
視界が揺れている。
目の前の草原に、違う景色が重なった。
燃える街。
夜の川。
鉄の音。
血の匂い。
知らないはずの戦場。
けれど、どこかで知っている光景。
喉が詰まる。
これは何だ。
夢か。
予兆か。
記憶か。
足元が軋んだ。
世界がずれる。
神代の空が割れ、知らない夜が差し込んでくる。
「姉上!」
ペンテシレイアが強く手を引いた。
その力で、意識が一瞬戻る。
目の前にいる。
ペンテシレイアがいる。
心配そうに顔を歪め、こちらの手を必死に握っている。
戻らなければ。
ここにいなければ。
この手を握っていなければ。
そう思った。
だが、世界はもうずれていた。
目の前にいるはずの少女が、ひどく遠い。
手は繋がっている。
なのに、距離だけが引き伸ばされていく。
離れるな。
無意識に握り返した。
強く。
強く。
壊してしまいそうなほどに。
「姉上、痛――」
その声が、途中で途切れた。
切れた。
何かが切れた。
音はなかった。
衝撃もなかった。
ただ、そこにあったはずの温度が消えた。
握っていた手の感触が、消えた。
目の前にいた少女が、光の向こうへ遠ざかる。
「ペンテシレイア!」
叫んだつもりだった。
声が出たのかも分からない。
白い光が視界を塗り潰す。
手を伸ばす。
何も掴めない。
そこにいたはずの妹が、いない。
温かかった手が、ない。
世界が裏返る。
空が割れる。
身体が引き剥がされる。
神代の濃い空気が遠ざかり、代わりに薄く冷たい空気が肺へ流れ込んでくる。
◇
静寂。
最初に感じたのは、冷たさだった。
背中が硬いものに触れている。
土ではない。
草でもない。
石でもない。
もっと平らで、冷たくて、人工的なもの。
ゆっくり目を開ける。
空があった。
知らない空だった。
神代の空ではない。
色が薄い。
光が弱い。
遠くに、四角い建物の影がある。
風が軽い。
あまりにも軽くて、肺に入っても満たされない。
身体を起こす。
視界が揺れる。
耳に届く音が違う。
馬の声ではない。
戦士たちの声でもない。
遠くで機械のような音がしている。
鉄の箱が道を走る音。
どこかで電気の低い唸りが聞こえる。
匂いも違う。
土ではない。
草ではない。
油。
排気。
コンクリート。
そして、どこかに混じる水の匂い。
現代。
その単語が頭に浮かぶ。
だが、自分の知る現代とも少し違う。
見覚えがあるようで、ない。
ヒッポリュテは、ゆっくり手を見る。
何もない。
空っぽだった。
さっきまで、そこにあった。
温かい小さな手。
強く握り返してきた手。
痛いと言いかけた声。
それが、ない。
「……ペンテ」
呼ぶ。
返事はない。
当然だ。
ここにはいない。
分かっている。
分かってしまう。
さっきまで隣にいた。
声が届く距離にいた。
手を伸ばせば触れられる場所にいた。
それなのに、今はもういない。
手を離した。
いや、違う。
離したのではない。
離れた。
勝手に。
世界が引き裂いた。
自分は握っていた。
離すまいとしていた。
それでも、離れた。
その違いが、妙に重かった。
離したわけではない。
けれど、残されたペンテシレイアに、その違いは届くだろうか。
あの子はどう思う。
姉が突然消えた。
手を握っていたのに。
痛いと言いかけた瞬間に。
目の前から消えた。
置いていかれたと、思うのではないか。
胸の奥が冷える。
神代の風よりも、今の空気よりも、ずっと冷たいものが沈んでいく。
「違う」
誰に言うでもなく、呟いた。
「違うんだ」
声は薄い夜に吸われた。
返事はない。
言い訳を聞いてくれる妹はいない。
差し出された手もない。
握り返す温度もない。
ヒッポリュテは立ち上がろうとして、膝をついた。
身体が重い。
神代から引き剥がされた反動なのか、呼吸がうまく入らない。
それでも、倒れているわけにはいかなかった。
ここがどこかを知らなければならない。
なぜ来たのかを知らなければならない。
どう戻るのかを、探さなければならない。
ペンテシレイアのもとへ。
あの手のもとへ。
立ち上がる。
空を見上げる。
薄い空。
軽い風。
神々の気配が遠い世界。
その空は、やけに広かった。
広すぎて、どこにも繋がっていないように見えた。
ヒッポリュテは、空っぽの手を握りしめる。
爪が掌に食い込む。
痛みがある。
なら、まだ動ける。
「待っていろ」
声は小さかった。
それでも、今度は消えなかった。
「必ず戻る」
誰に届くわけでもない誓いだった。
けれど、言わずにはいられなかった。
手を離したのではない。
離れたのだ。
だからこそ、もう一度掴みに行く。
この知らない空の下で、ヒッポリュテは初めて、自分が本当に一人になったことを知った。