神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
案内された場所は、古い倉庫だった。
港から少し離れた区画。
外壁は剥がれ、看板は錆び、入り口のシャッターは半分だけ上がっている。人の気配はない。だが、完全に捨てられた場所でもなかった。
足跡がある。
つい最近、人が出入りした跡。
入口から奥までの導線は短い。
だが、左右に逃げ道がある。
外へ抜ける裏口もある。
上階には窓。
狙撃に向いた高さ。
物陰は多いが、隠れられる場所は限られている。
ヒッポリュテは、倉庫の中へ足を踏み入れながら、周囲を見た。
「良い場所だな」
前を歩く黒衣の女は答えない。
ヒッポリュテは続けた。
「逃げるにも、殺すにも」
女の足が一瞬だけ止まりかけた。
だが、振り返らない。
ペンテシレイアは最後尾にいた。
両腕には、黒い手甲。
指先から伸びた鉤爪は、まだ消えていない。
彼女は先導する女の背中を見ている。
距離は近すぎない。
だが、踏み込めば届く。
殺意を隠す気もない位置取りだった。
桜は、ヒッポリュテの服を掴んでいる。
小さな指に力が入っていた。
未遠川の光を見た後だというのに、息は落ち着いていない。
銃口を向けられた恐怖が、まだ身体に残っているのだろう。
雁夜は桜の横に立っていた。
顔色は悪い。
それでも、桜と黒衣の女の間に身体を入れようとしている。
守れるかどうかではない。
守ろうとしている。
倉庫の奥には、簡素な机が置かれていた。
椅子が数脚。
金属製のケース。
水。
携帯食料。
包帯。
薬品。
どれも整っている。
整いすぎている。
優しさではない。
取引材料として並べられたものだ。
ヒッポリュテは、すぐには近づかなかった。
ペンテシレイアも同じだった。
鉤爪の先で、水の容器を軽く引っかける。
外装を裂き、中身を確認する。
舞弥の目が、わずかに細くなった。
「器用だな」
ヒッポリュテが言う。
ペンテシレイアは容器から視線を離さずに答えた。
「近いものを裂くなら爪がいい」
鉤爪が、薄い容器の表面をなぞる。
「群れを払うなら鎖。斬るなら双剣。槍は、投げる時と距離を取る時だ」
桜が小さく瞬いた。
「武器、たくさんあるんですか」
ペンテシレイアは桜を見る。
ほんの少しだけ、声が柔らかくなった。
「手に馴染むものを使うだけだ」
「……すごいです」
「すごいことではない。生きるために必要だった」
桜はそれ以上聞かなかった。
ペンテシレイアも、それ以上言わなかった。
ヒッポリュテは机に置かれた医療品を見た。
欲しい。
それは事実だった。
腕は熱を持っている。
斧を呼び出した反動は、まだ身体の奥で軋んでいた。
桜も休ませたい。
雁夜も限界だ。
だが、差し出されたものにすぐ手を伸ばすほど、鈍くはなれない。
倉庫の片隅に置かれた機器から、声が響いた。
『座って構わない』
「顔を見せない相手と取引する趣味はない」
ヒッポリュテは立ったまま返した。
『顔を見せる価値があるか、まだ判断していない』
「なら、こちらも答える価値を選ぶ」
短い沈黙。
通信機の向こうにいる男は、感情を見せない。
怒りもしない。
焦りもしない。
ただ測っている。
『まず確認する。桜は、なぜマスターになった』
雁夜が反応しかける。
ヒッポリュテが視線だけで止めた。
「巻き込まれた」
『偶然か』
「結果としてはな」
『君が関与している』
「ああ」
『認めるんだね』
「認めたところで、桜を渡す理由にはならない」
通信機の奥で、紙をめくるような微かな音がした。
『あのサーヴァントは、バーサーカーで間違いないのか』
「桜と繋がっている」
『質問に答えていない』
「答える価値を選ぶと言った」
ペンテシレイアの鉤爪が、机の端を軽く叩いた。
金属音が響く。
『真名は』
「答えない」
『制御はできているのか』
ヒッポリュテは、少しだけペンテシレイアを見た。
ペンテシレイアは不快そうに目を細める。
制御。
その言葉が、気に入らないのだろう。
ヒッポリュテも同じだった。
ペンテシレイアは桜の駒ではない。
桜もまた、ペンテを縛るための器ではない。
だが、切嗣が知りたいのはそこだ。
命令が通るか。
暴走するか。
桜を守るか。
それだけだ。
「桜を傷つけることはない」
『それは制御の保証ではない』
「こちらが出す答えとしては十分だ」
『では、君は何だ』
「桜とペンテを守る者だ」
『それも分類ではない』
「今はそれで十分だ」
通信機の向こうが沈黙する。
怒りではない。
情報を整理している沈黙だった。
『キャスター討伐を裏から支援した理由は?』
「放置すれば桜が狙われる。子どもが狙われる。街も巻き込まれる。十分だろう」
『聖杯を求めていないと言った』
「ああ」
『なら、なぜ戦場に残る』
「桜が数えられた」
ヒッポリュテは、桜の右手を見た。
桜は反射的に手を胸元へ寄せる。
今度は隠さなかった。
ただ、押さえた。
「ペンテは桜と繋がっている。間桐には渡さない。遠坂にも、他の陣営にも、勝手に扱わせない」
『間桐から桜を奪った理由は』
雁夜の息が荒くなる。
ヒッポリュテは短く答えた。
「渡せば壊れると思った」
『君の判断で?』
「そうだ」
『その判断で、桜は聖杯戦争に巻き込まれた』
空気が冷えた。
雁夜が拳を握る。
ペンテシレイアの鉤爪が、ぎり、と音を立てた。
桜は俯いた。
ヒッポリュテは、少しだけ目を伏せた。
「そうだ」
否定できない。
しない。
そこから逃げれば、桜を見られなくなる。
「桜ちゃんはマスターなんかじゃない」
雁夜が言った。
声が震えている。
「戦いたくてそこにいるんじゃない」
『戦いたくて戦場にいる者の方が少ない』
通信機の声は冷たかった。
雁夜が言葉を失う。
ヒッポリュテも、一瞬だけ黙った。
その言葉は、正しかった。
桜は望んでいない。
雁夜も望んでいない。
ペンテシレイアも、本来ならこの時代に呼ばれるはずではなかった。
自分も、望んでここに立ったわけではない。
それでも、戦場にいる。
願望と現実は、別のものだ。
『君が桜を守る限り、桜は狙われ続ける』
声が続く。
『君が離れれば、交渉の余地が生まれる』
瞬間。
鎖が鳴った。
ペンテシレイアの鉤爪が消えたわけではない。
その手元に、重い鎖が現れた。
棘付きの鉄球が、夜の倉庫の中でゆっくりと揺れる。
黒く、鈍く、禍々しい質量。
近くを裂く爪とは違う。
距離を潰し、群れを砕き、隠れている者の気配ごと叩き潰すための武器。
舞弥が即座に銃を構え直した。
雁夜が桜を庇う。
桜が息を呑む。
「もう一度言え」
ペンテシレイアの声は、低かった。
感情を抑えている。
だからこそ危険だった。
ヒッポリュテは一歩だけ横へ動いた。
ペンテシレイアと舞弥の射線の間。
無理に止めれば、余計に爆ぜる。
だから、言葉を選ぶ。
「守る者を減らせば狙われない、という考えは嫌いではない」
ペンテシレイアがこちらを見る。
雁夜も、信じられないような顔をした。
ヒッポリュテは続ける。
「だが、それを桜に押しつける気はない」
通信機の向こうが沈黙する。
「桜を安全にするために、桜から奪う。そういう手は、もう見飽きた」
間桐。
遠坂。
魔術師。
家。
血筋。
才能。
器。
桜から何かを奪う時、大人たちはいつも理由を用意する。
未来のため。
家のため。
才能のため。
安全のため。
そんなものは、もうたくさんだった。
桜が、小さく口を開いた。
「私は……」
声が細い。
だが、消えなかった。
「置いていかれるのは、嫌です」
誰もすぐには返さなかった。
桜は右手を押さえる。
「戦いたいわけじゃないです。怖いです。でも、知らないまま、どこかに置いていかれるのは……嫌です」
ペンテシレイアの鎖が、少しだけ揺れを止めた。
雁夜は苦しそうに顔を歪める。
舞弥は無表情のままだったが、銃口は動かない。
通信機の声は、しばらく何も言わなかった。
やがて、低く告げる。
『条件を提示する』
「聞こう」
『一時的な隠れ場所。医療品。食料。簡易的な結界。他陣営の動向情報。間桐と遠坂の監視情報の一部を提供する』
「代わりは」
『セイバー陣営への敵対行動を取らないこと。桜を使って他陣営と交渉しないこと。大規模戦闘で市街地被害を拡大させないよう動くこと。必要に応じて情報交換に応じること』
「戦力の詳細は」
『知りたい』
「拒否する」
即答だった。
通信機の向こうで、わずかに息を吐く音がした。
『理由は』
「こちらの刃の数を数えたいなら、自分で見ろ」
ペンテシレイアの口元が、わずかに上がった。
桜はその意味がよく分からない顔をしている。
雁夜は疲れたように目を伏せた。
『では、最低限でいい。目的は』
「桜を間桐に戻さない。ペンテを利用させない。聖杯は求めない。奪われるなら壊す」
『君自身の正体は』
「今は出さない」
『交渉相手として、不十分だ』
「顔も出さない相手に言われる筋合いはない」
また沈黙。
今度の沈黙は、少し長かった。
ヒッポリュテは桜を見る。
「桜」
桜が顔を上げる。
「聞いたな」
「……はい」
「この男は信用できない」
舞弥の銃口が、ほんの少しだけ揺れた。
ヒッポリュテは構わず続ける。
「だが、休める場所はある。水も、薬も、情報もある。行くか」
桜は怖がっていた。
それは分かる。
銃を構える女。
姿を見せない男。
取引。
条件。
どれも桜には重すぎる。
けれど桜は、ヒッポリュテの腕を見た。
ペンテシレイアの魔力の揺らぎを感じたのだろう。
雁夜の顔色も見た。
そして、自分の右手を見た。
「休みたいです」
小さな声。
「みんなに、休んでほしいです」
ヒッポリュテは頷いた。
「なら、取引する」
『成立、と見ていいのかな』
「まだだ」
ヒッポリュテは通信機を見る。
「顔を見せろ」
倉庫の奥。
暗がりの中で、気配が動いた。
それまで遠くにあった視線が、近くなる。
舞弥は銃を下げない。
ペンテシレイアの鎖鉄球も、まだ重く揺れている。
やがて、暗がりから男が現れた。
黒いコート。
疲れた目。
感情を削ぎ落としたような顔。
銃は見えない。
だが、殺意はある。
武器を持っていないように見せているだけで、いつでも殺せる位置にいる。
男は、ヒッポリュテたちから一定の距離を保って立った。
「衛宮切嗣だ」
その名が倉庫に落ちる。
ヒッポリュテは、その名を知っていた。
だが、初めて聞いたように受け止める。
「ヒッポリュテ」
それだけ言った。
王号も、由来も、神代の話も出さない。
ペンテシレイアがわずかにこちらを見る。
桜は静かにその名を聞いていた。
切嗣の目が、ほんの少しだけ動く。
「神話の名か」
「今は、それで十分だ」
「そうか」
切嗣はそれ以上踏み込まなかった。
踏み込まない代わりに、覚えた。
そういう目だった。
「協力ではない」
切嗣が言う。
「一時休戦だ」
ヒッポリュテは頷く。
「信用ではない。条件だ」
ペンテシレイアは鎖鉄球を収めない。
舞弥も銃を下ろさない。
雁夜は苦々しい顔で桜のそばに立っている。
桜は疲れ切っていた。
それでも、今にも倒れそうな足で立っている。
ヒッポリュテは、桜の頭に軽く手を置いた。
「休むぞ」
桜は小さく頷いた。
「はい」
切嗣は舞弥へ視線を向ける。
「案内してくれ」
「はい」
倉庫の奥にある扉が開く。
別の車両。
別の移動経路。
用意されていたものだ。
ヒッポリュテは桜を連れて歩き出す。
ペンテシレイアは最後尾についた。
雁夜は無言でついてくる。
切嗣は少し離れて歩いた。
近づきすぎない。
離れすぎない。
互いにいつでも動ける距離。
倉庫を出ると、未遠川の湿った匂いは薄れていた。
夜はまだ暗い。
だが、今度の足取りは、逃げるためだけのものではなかった。