神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
用意された隠れ家は、古い二階建ての空き家だった。
住宅街の外れ。
隣家との距離は近すぎず、遠すぎない。
人の気配は薄い。
だが、完全な孤立でもない。
逃げ道は三つ。
玄関。
裏口。
二階の窓から隣の塀へ抜ける道。
正面の通りは見通しが悪いが、二階からなら左右を確認できる。
狙うにも、逃げるにも、悪くない。
悪くないからこそ、気に入らない。
ヒッポリュテは玄関に入る前に、足を止めた。
背後では桜が小さく息を詰めている。
ペンテシレイアは黙って周囲を見ていた。
雁夜は疲労で顔色を失っているが、それでも桜の近くを離れようとしない。
舞弥は必要な説明だけを終えると、すぐに下がった。
「一階の奥に水と食料。医療品は居間に。二階は使わない方が安全です。窓には近づきすぎないでください」
それだけ。
親切ではない。
取引の範囲を言葉にしただけだった。
舞弥が外へ出る。
扉が閉まる。
静けさが落ちた。
桜は玄関の中を見回した。
古い木の床。
薄い埃の匂い。
壁に残った、誰かの暮らしの跡。
空っぽなのに、少しだけ家の形をしている。
「ここ……いてもいい場所なんですか」
小さな声だった。
ヒッポリュテは答える前に、部屋の奥を見た。
布団が数枚。
折り畳みの机。
水。
保存食。
包帯。
消毒薬。
毛布。
必要なものはある。
だが、すべてが置かれたものだ。
与えられたものではない。
「少なくとも、今夜はな」
そう答えると、桜は少しだけ困った顔をした。
安心していいのか、分からない顔だった。
その表情を見て、ヒッポリュテは言葉を足した。
「勝手に入った場所よりはましだ」
「……はい」
「ただし、完全に安全ではない」
桜は頷いた。
怯えたというより、そう言われた方が受け止めやすい顔だった。
安全だと嘘をつかれるより、危険が残っていると告げられる方が、今の桜にはまだ信じられる。
それが良いことなのかどうかは分からなかった。
「姉上」
ペンテシレイアの声が飛ぶ。
「座れ」
「まず中を確認する」
「座れ。今すぐ」
命令に近い声だった。
ヒッポリュテは振り返る。
ペンテシレイアは腕を組んでいた。
黒い手甲は消えている。
だが、その目はまだ戦場にある。
怪我人を見る戦士の目。
そして、逃がす気のない妹の目だった。
「私は平気だ」
「その言葉を禁止にしたい」
「禁止されるほど言ったか」
「数えきれない」
ペンテシレイアが一歩近づく。
「座れ」
ヒッポリュテは反論しようとした。
だが、桜が見ていた。
桜の視線が、血の滲んだ腕に向いている。
心配と不安が混ざった顔。
その顔を見て、ヒッポリュテは反論を飲み込んだ。
「……分かった」
居間へ入る。
古い畳の上に座ると、ようやく身体の重さが分かった。
腕が熱い。
肩から指先まで、鈍い痛みが伸びている。
斧の反動は、まだ骨の奥に残っていた。
呼吸を深くすると、胸が軋む。
ペンテシレイアは医療品の箱を開けた。
薬品の匂いが部屋に広がる。
ヒッポリュテが包帯へ手を伸ばすより早く、ペンテシレイアがそれを奪った。
「貸せ」
「自分でできる」
「姉上は自分の傷を軽く見る」
「軽く見てはいない」
「重く見たことがない」
言い返せなかった。
ペンテシレイアは乱暴に古い包帯を外す。
傷が空気に触れ、痛みが走る。
桜が小さく息を呑んだ。
ヒッポリュテは顔を動かさない。
ペンテシレイアは消毒薬を手に取り、一瞬だけ止めた。
「痛いぞ」
「分かっている」
「なら痛いと言え」
「……痛い」
ペンテシレイアは少しだけ目を細めた。
それから、傷口を消毒する。
鋭い痛みが走る。
ヒッポリュテは息を詰めた。
桜が不安そうに見ている。
ペンテシレイアは、包帯を巻きながら低く言った。
「そうやって最初から言え」
「努力する」
「努力ではなく、言え」
「……分かった」
「分かっていない時の返事だ」
桜が、ほんの少しだけ目を瞬かせた。
笑いそうになって、すぐに唇を閉じる。
それでも、空気がわずかに柔らかくなった。
ヒッポリュテはそれを見て、肩の力を抜いた。
ほんの少しだけ。
桜は畳の端に座っていた。
出された水にはまだ手をつけていない。
両手を膝の上に置き、右手の令呪を左手でそっと覆っている。
「あの」
桜が言った。
「私、わがままを言いましたか」
部屋が静かになる。
雁夜が顔を上げる。
ヒッポリュテは桜を見た。
「取引の時か」
「はい」
桜は俯く。
「休みたいって、言いました。みんなに休んでほしいって……でも、それで取引することになって」
「必要を言っただけだ」
ヒッポリュテはすぐに答えた。
「それは、わがままではない」
桜は顔を上げる。
まだ信じきれていない目だった。
ペンテシレイアが包帯を結びながら続ける。
「倒れてから言う方が迷惑だ」
桜は少し困った顔になる。
「めいわく……」
「そうだ。苦しいなら苦しいと言え。眠いなら眠いと言え。腹が減ったなら腹が減ったと言え」
「でも……」
「言わなければ分からない」
ペンテシレイアは桜を見る。
「分からなければ、守り方を間違える」
その言い方は優しくない。
だが、桜はゆっくり頷いた。
「はい」
ヒッポリュテは水の容器を一つ取り、封を開ける。
匂いを確認し、口をつけずに少しだけ手に垂らす。
特に異常はない。
ペンテシレイアも見て頷く。
ヒッポリュテはそれを桜へ差し出した。
「飲め」
桜は両手で受け取る。
少しずつ飲んだ。
喉が動く。
それだけのことなのに、ようやく人らしい時間が戻ってきた気がした。
雁夜は壁際に座り込んでいた。
疲労が限界なのだろう。
だが、目は桜から離れない。
桜もそれに気づいている。
気づいていながら、どう声をかければいいか分からない顔をしていた。
「桜ちゃん」
雁夜が言う。
声はかすれていた。
「ごめん」
桜の手が止まる。
「俺が、もっと早く何かできていれば」
桜は困った顔をした。
怒っているわけではない。
責めたいわけでもない。
けれど、謝られても、どう返せばいいのか分からない。
雁夜もそれを分かっているのか、続ける言葉を失っている。
ヒッポリュテは口を挟まなかった。
ペンテシレイアも黙っている。
これは、自分たちが代わりに答えるものではない。
桜はしばらく水の容器を見つめていた。
やがて、小さく言った。
「雁夜おじさんが、悪いんじゃないです」
雁夜の顔が歪む。
救われた顔ではなかった。
むしろ、余計に苦しくなったような顔だった。
桜は続けようとして、言葉を探す。
でも、その先が出てこない。
間桐のこと。
怖かったこと。
助けてほしかったこと。
助けに来てくれて嬉しかったこと。
雁夜を見ると、間桐という名前の奥にある、まだ知らない暗さまで一緒に近づいてくる気がしてしまうこと。
たぶん、その全部が絡まっている。
桜は言えなかった。
雁夜は、無理に聞かなかった。
「うん」
彼は小さく頷いた。
「今は、それでいい」
桜はほっとしたように、ほんの少しだけ肩を下ろした。
◇
少し離れた場所で、衛宮切嗣は隠れ家の状況を確認していた。
映像は粗い。
音声も完全ではない。
だが、十分だった。
桜は水を飲んだ。
ヒッポリュテは座った。
バーサーカーは手当てをしている。
間桐雁夜は限界に近い。
まだ戦える。
だが、今すぐ大きく動ける状態ではない。
舞弥が静かに問う。
「信用できますか」
「できない」
切嗣は即答した。
「だから近くに置く」
彼の視線は、画面の中のヒッポリュテへ向いている。
神話の名を名乗った女。
サーヴァントではないと言った。
人間でもないと言った。
桜を中心に判断している。
だが、感情だけでは動いていない。
戦場を読み、退路を断ち、交渉も理解している。
危険だ。
敵に回せば面倒な相手。
だが、条件で動かせる可能性もある。
「敵に回すより、条件で縛る方がまだいい」
舞弥は少しだけ目を伏せる。
「破られた場合は」
「その時は排除する」
切嗣の声には、迷いがなかった。
それが子供を含む集団であっても。
そこに桜がいても。
戦争の計算から外すことはない。
舞弥は頷いた。
「監視は継続します」
「ああ」
切嗣は画面の桜を見た。
小さな手。
令呪。
バーサーカーを止める声。
あの子供は弱点であり、制御点であり、同時に交渉の中心だった。
扱いを間違えれば、全員が敵になる。
それだけは、確かだった。
◇
別の場所で、セイバーは未遠川の方角を見ていた。
光を放った後の疲労はある。
だが、彼女の中に残っているのは疲れだけではなかった。
アイリスフィールが隣に立つ。
「気になるの?」
セイバーはしばらく黙っていた。
やがて頷く。
「はい」
彼女は自分の剣を見下ろす。
「あの一撃は、私だけのものではありませんでした」
「誰かが助けた?」
「姿を見せず、それでも確かに戦場を支えた者がいました」
怪物の再生が鈍った瞬間。
川の魔力が断たれた感覚。
自分の剣が届く道が、開いた瞬間。
あれは偶然ではない。
セイバーはそう感じていた。
「敵か味方かは分かりません」
セイバーは静かに言う。
「ですが、あの場にいた誰かは、勝利を奪わず、道だけを開きました」
アイリスフィールは柔らかく微笑んだ。
「会ってみたい?」
セイバーは少しだけ考える。
「はい」
そして、視線を夜へ戻す。
「その者が何を守ろうとしているのか、知りたい」
◇
遠坂邸では、時臣が報告を受けていた。
キャスター討伐。
未登録の令呪反応。
間桐桜と思しき少女。
金色のサーヴァントが「神代の残り香」と評した正体不明の女。
バーサーカーと思しきサーヴァント。
情報は断片的だった。
だが、断片だからこそ、時臣の表情は硬かった。
桜。
その名が、聖杯戦争の盤面に戻ってきている。
ただの家族の問題ではない。
遠坂の血の問題であり、間桐との約定の問題であり、聖杯戦争の秩序の問題でもある。
金色のサーヴァントは、退屈そうに杯を傾けていた。
「娘一人に、随分と回りくどい」
時臣は静かに頭を下げる。
「家の問題であり、戦争の問題でもあります」
「ならば、王ならば奪い返せばよい」
その言葉は、軽く投げられたものだった。
だが、時臣の胸には深く入った。
奪い返す。
父としてではなく。
家長として。
魔術師として。
聖杯戦争の参加者として。
時臣は顔を上げる。
「まずは、確認が必要です」
「確認、確認か」
金色のサーヴァントはつまらなさそうに笑う。
「雑種は手順が好きだな」
時臣は反論しなかった。
ただ、桜へ向けるべき手を考え始めていた。
◇
夜はさらに深くなった。
隠れ家の一階。
桜は布団の上で眠っている。
深い眠りではない。
時折、右手が胸元へ動く。
令呪を隠すように。
守るように。
それでも、目は閉じていた。
呼吸も先ほどより落ち着いている。
雁夜は壁にもたれて眠っていた。
眠ったというより、意識が落ちたに近い。
顔色は悪いままだ。
それでも、桜の近くから離れていない。
ペンテシレイアは窓辺に立っていた。
カーテンの隙間から外を見ている。
手甲も鎖も消えている。
だが、気配は尖ったままだ。
ヒッポリュテは包帯を巻かれた腕を見下ろした後、窓辺へ視線を向けた。
「少し休め」
「姉上が寝たらな」
「私は平気だ」
「本当に禁止にしたい」
「では、別の言葉を考える」
「黙って寝ろ」
ペンテシレイアは振り返らない。
ヒッポリュテは少しだけ苦笑した。
声には出さない。
桜が起きる。
「頼るのが下手だ」
ペンテシレイアが言った。
外を見たまま。
ヒッポリュテは答えるまでに少し時間を置いた。
「王は頼るものではないと思っていた」
「なら王は不便だな」
「ああ」
素直に頷くと、ペンテシレイアが少しだけこちらを見る。
意外そうな顔だった。
ヒッポリュテは眠る桜を見る。
「不便だ」
ペンテシレイアはしばらく黙った。
やがて、低く問う。
「姉上は、今も王なのか」
その問いは、刃のようではなかった。
もっと静かで、もっと深かった。
ヒッポリュテはすぐに答えられない。
神代では女王だった。
アマゾネスを率い、戦場に立ち、命令し、守り、奪い、選んできた。
だが今はどうだ。
サーヴァントではない。
現代人でもない。
マスターでもない。
この時代に居場所があるわけでもない。
ただ、桜とペンテシレイアのそばにいる。
守ろうとしている。
帰ってきたと言われた。
ただいまと返した。
「分からない」
ヒッポリュテは言った。
ペンテシレイアは黙って聞いている。
「でも、守るものはある」
窓の外で、遠く車の音がした。
冬木の夜は静かではない。
どこかで誰かが動いている。
敵か、味方か、監視者か。
それでも、この部屋には眠る子どもがいる。
疲れ果てた男がいる。
窓辺に立つ妹がいる。
守るものはある。
今は、それだけで十分だった。
ペンテシレイアは少しだけ目を伏せた。
「なら、今はそれでいい」
その言葉は、許しではない。
答えでもない。
だが、今夜を越えるには十分なものだった。
ヒッポリュテは壁にもたれた。
目を閉じるつもりはなかった。
それでも、少しだけ瞼が重くなる。
ペンテシレイアは窓の外を見たまま、小さく言った。
「寝ろ」
「見張りは」
「いる」
「一人では――」
「姉上」
低い声。
「頼れと言った」
ヒッポリュテは言葉を止めた。
そして、ゆっくり息を吐いた。
「……少しだけだ」
「好きにしろ」
ペンテシレイアは外を見ている。
その背中は、もう置いていかれた子どものものではなかった。
ヒッポリュテは、その背中を見ながら目を閉じた。
◇
高所に、金色のサーヴァントがいた。
冬木の夜を見下ろす。
神代の斧の気配は薄れていた。
だが、完全には消えていない。
あの重み。
あの残り香。
現代の薄い夜に紛れるには、濃すぎる。
「隠れているつもりか」
彼は杯を傾ける。
赤い液面が揺れる。
遠くの街明かりが、その中に歪んで映った。
「なら、こちらから照らしてやる」
誰に聞かせるでもない声が、夜に落ちた。
休むための場所に、朝はまだ来ない。