神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
朝は来た。
けれど、安心は連れてこなかった。
薄い光が、古い空き家のカーテンの隙間から差し込んでいる。
畳の上には、夜の名残がまだ沈んでいた。
眠ったはずなのに、身体は重い。
休んだはずなのに、息は浅い。
桜は布団の中で目を開けると、最初に自分の右手を見た。
赤い令呪。
消えていない。
夢ではない。
ペンテシレイアと繋がっている証。
聖杯戦争に数えられた証。
桜はそっと左手でそれを覆った。
隠すためではない。
ただ、熱を確かめるように。
すぐ近くで、雁夜が壁にもたれて眠っていた。
眠っているというより、限界で意識を落としているようだった。
顔色は悪い。
呼吸も浅い。
それでも、桜の近くから離れていない。
窓辺にはペンテシレイアが立っている。
ほとんど動かず、外を見ていた。
眠った気配はない。
ヒッポリュテは壁に背を預け、目を閉じていた。
ほんの少しだけ眠っているようにも見える。
ただ、その姿勢はいつでも起きられる形のままだった。
桜が身じろぎすると、最初に反応したのはペンテシレイアだった。
「起きたか」
「……はい」
「水を飲め」
言い方は短い。
でも、机の上にはすでに水の容器が置かれていた。
桜はゆっくり起き上がる。
身体が少しふらついた。
ペンテシレイアが眉を寄せる。
「急ぐな」
「ごめんなさい」
「謝るな」
「……はい」
そのやり取りで、ヒッポリュテも目を開けた。
「眠れたか」
桜は少し考えてから頷く。
「少し」
「それでいい」
ヒッポリュテは立ち上がろうとして、ペンテシレイアに睨まれた。
「座っていろ」
「確認だけだ」
「私が見た」
「……そうか」
ヒッポリュテは大人しく座り直した。
それを見て、桜はほんの少しだけ目を瞬かせた。
昨日なら、きっと立っていた。
傷を隠して、平気だと言って、確認へ行っていた。
でも今は座った。
それが、少し不思議だった。
ペンテシレイアは保存食を一つ取り、桜の前に置いた。
「食べろ」
桜は包みを見下ろす。
「こんなに食べてもいいんですか」
「食べなければ動けない」
即答だった。
ヒッポリュテも頷く。
「食べられる時に食べるのは、戦場の基本だ」
桜の手が止まった。
戦場。
その言葉が、部屋の中に落ちる。
ヒッポリュテは一拍置いて、言い直した。
「……生活の基本でもある」
ペンテシレイアが横目で見る。
「言い直したな」
「間違ってはいない」
「最初からそちらを言え」
「努力する」
「また努力か」
桜は保存食を両手で持ったまま、少しだけ口元を緩めた。
すぐにそれを隠すように俯いたが、部屋の空気はほんのわずかに柔らかくなった。
桜は小さく一口食べた。
味はよく分からない。
でも、食べ物だった。
水を飲む。
喉を通る。
それだけで、身体の奥が少しだけ現実に戻る。
その時、外に置かれた小型の通信機が短く鳴った。
柔らかかった空気が、一瞬で硬くなる。
ペンテシレイアの視線が窓から通信機へ移る。
ヒッポリュテは桜の前に半歩出た。
雁夜もその音で目を覚ました。
「……何だ」
掠れた声。
通信機から、昨日と同じ低い声が聞こえた。
『遠坂が動いた』
その名前が出た瞬間、桜の身体が固まった。
水の容器を持つ指に力が入る。
ヒッポリュテはそれに気づいた。
ペンテシレイアも、雁夜も気づく。
だが、通信機の向こうの声は淡々と続けた。
『遠坂時臣が、桜の所在を探り始めている。教会経由ではなく、独自に使い魔を動かしている。間桐にも動きがある。監督役も未登録マスターの存在を把握している』
「今さら父親面か……!」
雁夜が吐き捨てるように言った。
声には怒りがある。
弱った身体から、それだけがこぼれ落ちたようだった。
桜の肩が小さく揺れる。
ヒッポリュテは雁夜を見る。
「怒るなら外でやれ」
雁夜が顔を上げる。
「何だと」
「桜の前で、桜の父を壊すな」
部屋が静まり返った。
雁夜の怒りが、言葉の途中で止まる。
彼の怒りは正しい。
少なくとも、桜を間桐に渡したという事実に対して怒る資格はある。
だが、その怒りを桜の前に叩きつければ、桜の中に残っているものまで壊す。
父を憎んでいいのか。
父を恋しがっていいのか。
それすら分からない子どもの前で、誰かが答えを決めてしまう。
それは、また一つ奪うことになる。
雁夜は唇を噛んだ。
血が滲みそうなほど強く。
それでも、黙った。
通信機の声が続く。
『遠坂が君たちへ接触する可能性がある』
「接触ではなく回収だろう」
ヒッポリュテは返す。
通信機の向こうで、少しだけ間が空いた。
『その可能性が高い』
桜は右手を胸元に寄せたまま、ぽつりと呟いた。
「お父様……」
その一言で、部屋の中の音が消えた。
遠坂。
父。
元の家。
姉。
そこにあったはずのもの。
そこから出されたという事実。
間桐への恐怖とは違う。
もっと古くて、もっと柔らかくて、だからこそ痛いもの。
ヒッポリュテは桜の前には立たなかった。
代わりに、桜の横へ腰を下ろした。
遮るのではなく、隣にいるために。
ペンテシレイアが眉を寄せる。
「父とは、子を差し出すものなのか」
桜の目が揺れた。
雁夜がまた何か言いかける。
ヒッポリュテは静かに首を振った。
「少なくとも、そうでない父もいるはずだ」
ペンテシレイアは不満そうだった。
だが、それ以上は言わなかった。
◇
遠坂邸では、時臣が静かに宝石を手にしていた。
深紅の石。
魔力を帯びたそれは、淡く光を宿している。
机の上には、いくつかの資料と報告が並んでいた。
未登録の令呪反応。
キャスター討伐時の異常な介入。
間桐桜と思しき少女の存在。
正体不明の女。
バーサーカーと思しきサーヴァント。
そして、切嗣側と接触した可能性。
直接向かうのは危険だった。
相手の戦力が不明。
桜がマスターとなっているなら、刺激の仕方を誤ればサーヴァントが動く。
切嗣が絡んでいるなら、なおさら不用意に身を晒すわけにはいかない。
だからまずは、声を届ける。
確認する。
必要なら、次の手を打つ。
綺礼が控えていた。
「桜嬢の安全確認ですか」
「そうだ」
時臣は宝石を見つめたまま答える。
「まずは桜の状態を確認する」
「回収ではなく、確認ですか」
時臣の指が、一瞬だけ止まった。
それは本当に小さな間だった。
だが、確かにあった。
「状況次第だ」
綺礼はそれ以上問わなかった。
時臣は魔術式を起動する。
宝石の光が広がり、薄い鳥の形を取る。
使い魔。
遠くへ声を運ぶための、慎重な手段。
その鳥が窓辺へ向かって飛び立つ。
廊下の影で、小さな足音が止まった。
凛だった。
彼女は扉の隙間から、父の声を聞いていた。
桜。
安全確認。
回収。
危険。
単語だけが胸に刺さる。
「桜……?」
凛は小さく呟いた。
何が起きているのかは分からない。
でも、妹に何かが起きている。
それだけは分かった。
◇
隠れ家の空気が揺れた。
結界の外縁に、何かが触れた。
切嗣側が用意した簡易結界。
それが微かに反応する。
通信機の向こうで、男の声が低くなった。
『来た』
ペンテシレイアの両手に、短い曲刀が現れた。
光を吸うような刃。
双剣。
畳の上に細い影が落ちる。
「まだ斬るな」
ヒッポリュテが言う。
「向こうが先に手を伸ばした」
「だから、何を掴みに来たのか見る」
ペンテシレイアは不満そうに刃を下げた。
下げただけで、消してはいない。
雁夜は桜の近くに移動する。
桜は右手を握りしめていた。
窓の外から、淡い光を帯びた鳥が入ってくる。
生き物ではない。
魔力で作られた使い魔。
宝石の気配が混じっている。
遠坂のものだ。
鳥は部屋の中央で止まった。
そして、声がした。
『桜。聞こえているか』
桜の身体が、びくりと震えた。
父の声。
姿はない。
目の前にはいない。
それでも、声だけで桜は固まった。
ヒッポリュテは反射的に遮ろうとして、止まった。
勝手に遮っていいのか。
父の声を聞くかどうか。
それを選ぶのは、桜ではないのか。
桜は震えながら、かすれた声で答えた。
「……はい」
雁夜が顔を歪める。
ペンテシレイアの双剣がわずかに鳴る。
使い魔の声は、変わらず冷静だった。
『無事なら返事をしなさい』
心配している声に聞こえる。
けれど、命令にも聞こえる。
桜は口を開きかける。
しかし、声が出ない。
ヒッポリュテは静かに言った。
「無事だ」
使い魔の向きが、ヒッポリュテへ変わる。
『君が、桜を連れている女か』
「そうだ」
『桜は遠坂の娘だ』
「間桐へ渡したのだろう」
空気が凍った。
雁夜が拳を握る。
桜は俯く。
ペンテシレイアの視線が冷たくなる。
使い魔の向こうで、時臣は一瞬だけ黙った。
だが、声は崩れなかった。
『魔術師の家として必要な判断だった』
「なら今、桜に必要な判断は桜がする」
『子どもに戦争の判断をさせるつもりか』
「戦争に数えたのはそちら側だ」
ヒッポリュテの声は荒くない。
静かだった。
静かだからこそ、部屋の中に重く落ちる。
『桜を危険に晒しているのは君だ』
「その通りだ」
桜が顔を上げる。
ヒッポリュテは続けた。
「だが、だからといって、桜を誰かの都合で連れていかせる理由にはならない」
『桜』
時臣の声が、ヒッポリュテを越えて桜へ届く。
『戻りなさい』
桜の指が震えた。
戻る。
その言葉は、柔らかく聞こえるはずだった。
でも、今の桜には分からない。
どこへ。
遠坂へ。
間桐へ。
父のいる場所へ。
虫のいる場所へ。
姉のいる場所へ。
自分が出された場所へ。
桜は喉を震わせた。
「どこに、ですか」
その一言で、使い魔の光がわずかに揺れた。
時臣は、すぐに答えなかった。
雁夜が息を詰める。
ペンテシレイアも黙る。
ヒッポリュテは桜の横にいた。
前に立たない。
答えを代わりに言わない。
ただ、そこにいる。
桜はそれ以上続けられなかった。
でも、その一言だけで十分だった。
戻れと言われた。
でも、戻る場所が分からない。
その痛みだけは、部屋に残った。
ヒッポリュテは静かに言う。
「桜が戻ると言うなら、私は止めない」
雁夜が驚いたようにこちらを見る。
ペンテシレイアも目を細める。
ヒッポリュテは使い魔を見た。
「だが、誰かの都合で連れていくなら止める」
『その選択が、桜をさらに危険に晒すとしてもか』
「選ばせない安全なら、もう見た」
使い魔の光が、少しだけ強くなる。
時臣の声は、最後まで冷静だった。
『いずれ、直接話す必要がある』
「その時、桜が聞くと言えばな」
『桜』
もう一度、父の声が届く。
桜は顔を上げられなかった。
『無事でいなさい』
その言葉を最後に、使い魔の光がほどけた。
宝石の粒のような光が空中に散り、消える。
部屋には静寂が戻った。
誰もすぐには動けなかった。
◇
切嗣は通信越しに、やり取りを聞いていた。
隠れ家の映像には、俯いた桜と、横に座るヒッポリュテが映っている。
舞弥が隣に立つ。
「遠坂はまた来ますね」
「ああ」
切嗣は短く答えた。
時臣は桜を完全に切り捨ててはいない。
だが、父としてだけでは動いていない。
魔術師として。
家長として。
戦争の参加者として。
回収する可能性は高い。
桜は父を拒絶しきれていない。
それは当然だ。
子どもだからではない。
家族だからだ。
そして、それは弱点になる。
「移動させますか」
「まだだ。今動けば、追跡される」
切嗣は画面を見る。
ヒッポリュテは、桜の前ではなく横に座っている。
それを見て、わずかに目を細めた。
所有しようとしているわけではない。
だが、手放すつもりもない。
面倒な相手だ。
「遠坂の使い魔の残滓を追え」
「はい」
「次の接触が早まるかもしれない」
◇
通信が切れた後、桜は泣かなかった。
ただ、右手を握っていた。
白くなるほど強く。
ヒッポリュテは、桜の隣に座ったまま言った。
「答えなくていい」
桜は小さく首を振る。
「でも、聞かれました」
「今答えなくていい問いもある」
桜は、ゆっくり顔を上げた。
その目は、泣く寸前のようで、まだ泣いていなかった。
「私、どこに戻ればいいんですか」
重い問いだった。
遠坂。
間桐。
この隠れ家。
ヒッポリュテたちのいる場所。
どれも確かな答えではない。
ヒッポリュテは、すぐには答えられなかった。
簡単に言えば嘘になる。
でも、何も言わないままにはできなかった。
「戻る場所は、誰かに決めさせなくていい」
桜は瞬きをする。
「でも……」
「今すぐ決めなくていい」
ヒッポリュテは桜の右手を見た。
「戻るかどうかも、どこへ戻るかも、今ここで決めなくていい。聞かれたから答える必要はない」
「……はい」
「怖いなら怖いままでいい。分からないなら分からないままでいい」
桜の肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
ペンテシレイアは双剣を消した。
雁夜は壁際で、何も言わずに俯いている。
彼の怒りは消えていない。
だが、今はそれを桜へ向けることをしなかった。
その沈黙だけでも、桜には十分だった。
◇
遠坂邸。
凛は自分の部屋にいた。
ベッドに座り、膝の上で手を握っている。
廊下で聞いた言葉が、頭から離れない。
桜。
危険。
戻りなさい。
父の声はいつも通りだった。
落ち着いていて、正しくて、遠い。
でも、凛には分かった。
何かがおかしい。
桜が、何かに巻き込まれている。
会いたい。
その気持ちが、胸の中で少しずつ膨らんでいく。
行ってはいけないことは分かっている。
父に言われていない。
夜は危ない。
聖杯戦争という言葉も、まだ全部は分からない。
それでも。
「桜に会いたい」
凛は小さく呟いた。
誰にも聞こえない声だった。
けれど、その声は凛自身の中に残った。
朝の光は部屋に差し込んでいる。
それでも、冬木の夜はまだ終わっていなかった。