神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
凛は、朝からずっと落ち着かなかった。
朝食の味がしない。
父の声も、いつもより遠い。
屋敷の廊下を歩く足音が聞こえるたび、凛は顔を上げた。
けれど、誰も何も教えてくれない。
桜。
危険。
戻りなさい。
昨夜、扉の向こうから聞こえた言葉が、頭の中で何度も繰り返されている。
父はいつも通りだった。
背筋を伸ばし、声を荒げず、正しいことだけを口にする。
だからこそ、凛には分かった。
何かを隠している。
桜のことで。
凛は自分の部屋に戻ると、机の引き出しを開けた。
奥にしまっていた小さな箱。
その中には、古いリボンが入っていた。
淡い色の、もう少し子どもっぽいリボン。
桜がまだ家にいた頃、二人で選んだものだった。
凛はそれを手のひらに乗せる。
胸の奥が、少し痛くなった。
「桜……」
父に聞けば、きっと止められる。
母に聞いても、困った顔をされるだけかもしれない。
綺礼に聞くのは、なんとなく嫌だった。
なら、自分で探すしかない。
桜が危ないなら。
桜がどこかで泣いているなら。
会いに行かなきゃ。
凛は小さな宝石を取り出した。
まだ未熟な探索の術。
正確な場所までは分からない。
けれど、媒介がある。
桜と繋がっていたもの。
姉妹だった証のような、小さなリボン。
凛は息を整える。
父に見せれば、きっと未熟だと言われるだろう。
それでも、今はそれしかなかった。
宝石が淡く光る。
リボンが、ほんのわずかに揺れた。
凛は目を見開く。
方角が出た。
曖昧で、頼りなくて、いつ消えてもおかしくない糸。
それでも、確かに何かがあった。
「……待ってて」
凛はリボンを握った。
「私が行くから」
◇
遠坂邸では、時臣が次の手を考えていた。
桜との通信は、短かった。
短すぎた。
無事は確認できた。
だが、状況は悪い。
桜は未登録のマスターとして認識されている。
傍にはバーサーカーと思しきサーヴァント。
さらに、正体不明の女。
その女は桜の意思を盾にしている。
いや、盾にしているだけではない。
少なくとも、桜はその女の側にいることを完全には拒んでいなかった。
そこが厄介だった。
時臣は机の上の宝石を見下ろす。
直接向かうには危険が多い。
使い魔だけでの確認にも限界がある。
教会を通すか。
間桐へ圧をかけるか。
あるいは、切嗣側の動きを探るか。
選択肢を並べている時、ふと廊下の気配に意識が向いた。
凛の気配が薄い。
部屋にいるはずの娘の気配が、屋敷の内側から外へ流れている。
時臣は目を細めた。
「凛?」
返事はない。
そのわずかな遅れが、決定的だった。
◇
凛は屋敷を抜け出していた。
昼間の冬木は、夜よりも明るい。
明るいのに、凛には落ち着かない。
道行く人たちは普通に歩いている。
車も走っている。
店も開いている。
昨日の夜、川に怪物が出たことなど、誰も知らないような顔をしている。
凛はリボンと宝石を握りしめ、細い路地へ入った。
方角は合っているはずだった。
たぶん。
いや、きっと。
術式は不安定で、ときどき反応が薄れる。
そのたびに凛は立ち止まり、もう一度集中した。
「こっち……?」
小さな光が揺れる。
凛は唇を結び、また歩き出した。
怖くないわけではない。
でも、怖いから戻るという考えは浮かばなかった。
桜の方が、もっと怖い場所にいるかもしれない。
そう思うと、足は止まらなかった。
◇
少し離れた場所で、舞弥が報告した。
「遠坂の長女が屋敷を出ました」
切嗣は短く視線を動かした。
「単独か」
「はい」
「追跡は」
「継続しています」
切嗣は地図に視線を落とす。
凛が向かっている方角。
隠れ家との距離。
遠坂側の使い魔。
間桐の監視。
それらを頭の中で重ねる。
遠坂凛は、戦力としては小さい。
だが、桜にとっては違う。
姉。
家族。
遠坂への未練。
父とは別の、もっと柔らかく、もっと危うい繋がり。
「接触は?」
舞弥が問う。
「まだするな」
切嗣は答えた。
「監視しろ。危険が近づいたら報告」
「保護は」
「状況次第だ」
子どもが一人で戦場に近づいている。
それは危険だった。
だが、その危険がどう動くかを見れば、桜とヒッポリュテの反応も分かる。
切嗣は感情を混ぜなかった。
ただ、次に起こることを待った。
◇
隠れ家の中で、桜は急に顔を上げた。
水を飲んでいた手が止まる。
何かを聞いたような顔だった。
ヒッポリュテはすぐに気づく。
「どうした」
桜は窓の方を見る。
外には何も見えない。
けれど、桜の目は何かを追っていた。
「お姉ちゃんが……」
その一言で、部屋の空気が変わった。
雁夜が息を呑む。
ペンテシレイアが窓辺へ寄る。
ヒッポリュテは桜の横に膝をついた。
「凛か」
桜は小さく頷いた。
「分からないです。でも……近くにいる気がして」
右手を押さえる。
令呪の反応ではない。
魔術的な繋がりとも少し違う。
もっと古い記憶。
家の廊下。
一緒に選んだリボン。
隣にいた姉。
そういうものが、胸の奥で急に触れたような感覚。
桜は唇を震わせた。
「会いたいです」
ヒッポリュテは黙って聞いた。
「でも、会ったら……戻らなきゃいけない気がします」
その言葉は、細く、苦しかった。
凛に会いたい。
凛は怖くない。
でも凛は遠坂の娘で、桜の姉で、桜が置いてきた家の中にいる人だ。
凛を見たら、戻れと言われるかもしれない。
戻りたいと思ってしまうかもしれない。
でも、戻る場所がどこなのか分からない。
「会うことと、戻ることは同じではない」
ヒッポリュテは言った。
桜は困ったように目を伏せる。
「でも……分からないです」
「今すぐ分からなくていい」
ペンテシレイアが低く言う。
「その姉は、桜を連れ戻しに来るのか」
桜は顔を上げた。
「違います」
即答だった。
だが、次の言葉は続かない。
違うと信じたい。
凛なら、自分を取り戻すためではなく、会うために来るはずだ。
でも、凛の向こうには遠坂がある。
父がいる。
家がある。
ペンテシレイアはそれを見て、目を細めた。
「本人だけで来るのが問題だ」
ヒッポリュテは頷く。
「ああ」
子どもが一人で戦場に近づいている。
それは、善意であっても危険だった。
その時、桜の顔色が変わった。
「お姉ちゃんが危ない」
小さな声。
だが、迷いはなかった。
ヒッポリュテは立ち上がる。
雁夜も立とうとして、膝をつきかけた。
「俺も――」
「無理だ」
「でも」
「桜のそばにいろ」
雁夜は歯を食いしばった。
身体がついてこないことを、誰よりも分かっているのだろう。
桜が立ち上がる。
「私も行きます」
ヒッポリュテは一瞬だけ迷った。
置いていく。
その言葉が、桜にどれほど重いか知っている。
だが、連れていけば危険に晒す。
凛に会わせることと、危険の中へ連れていくことは同じではない。
ヒッポリュテはペンテシレイアを見た。
「桜のそばにいてくれ」
ペンテシレイアの目が鋭くなる。
「私が行く方が早い」
「分かっている」
「なら」
「桜を守れ」
ペンテシレイアが息を止める。
その言葉は、以前とは違っていた。
置いていくためではない。
役目を奪うためでもない。
任せるための言葉。
桜はペンテシレイアを見る。
震えていた。
それでも言った。
「お願いします」
ペンテシレイアはしばらく黙った。
やがて、短く答える。
「任された」
ヒッポリュテは頷き、外へ出た。
◇
凛は、路地の奥で足を止めた。
何かいる。
最初は虫かと思った。
小さな黒い影。
地面の隙間から、壁の割れ目から、排水溝の奥から這い出してくる。
普通の虫ではない。
魔力の気配がある。
気持ち悪い。
息が詰まる。
凛は後ずさった。
「な、何よ……」
宝石を握る。
魔術式を組む。
父に教わった基本。
落ち着け。
魔力を通す。
狙う。
放つ。
小さな光が虫を弾いた。
一匹、二匹。
だが、数が多い。
凛の顔から血の気が引く。
それでも逃げなかった。
「どきなさいよ!」
声が震える。
もう一度、宝石を使う。
虫が焼ける。
だが、別の虫が足元へ迫る。
凛は息を呑んだ。
その瞬間、路地の入り口から何かが飛んできた。
石だった。
ただの石。
だが、それは異様な速度で虫の群れを叩き潰した。
続けて、折れた鉄棒が飛ぶ。
壁にいた虫がまとめて弾ける。
凛が振り向くより早く、女が路地へ入ってきた。
背が高い。
傷を負っている。
それでも動きに迷いがない。
足元に落ちていた木片を拾い、次の瞬間には武器にしている。
虫を払う。
踏み潰す。
壁へ叩きつける。
斧も剣もない。
それでも、その場にあるものすべてが女の手の中で武器になった。
凛は呆然とした。
「あなた……」
「今は走れ」
女が言う。
凛は反射的に反発した。
「桜はどこ!?」
「走りながら聞け」
「答えて!」
虫が再び迫る。
女は凛の前に出る。
木片で虫を払うと、そのまま凛の腕を掴んだ。
強い。
けれど、乱暴ではない。
「ここは子どもが一人で歩く場所ではない」
その言葉に、凛の中で何かが弾けた。
「桜だって子どもでしょ!」
女の動きが、一瞬だけ止まった。
凛は息を荒げながら続ける。
「桜だって子どもなのに、危ないんでしょ!? だったら私が行くの、当たり前じゃない!」
女は凛を見た。
責めるでもなく、驚くでもなく。
ただ、まっすぐに。
「桜に会わせて」
凛は言った。
「お願い。桜に会わせて」
女はすぐには頷かなかった。
「桜が会うと言えば」
「なんであなたが決めるの!」
「私が決めるのではない」
虫の気配がまた近づく。
女は凛を背に庇いながら、短く言った。
「桜が決める」
凛は言葉に詰まった。
大人たちは、桜をどこかへやった。
父も、間桐も、知らない魔術師たちも、みんな桜の行き先を決めているように見えた。
でも、この女は違うことを言った。
桜が決める、と。
意味は分からない。
でも、その言葉だけは凛の胸に残った。
◇
隠れ家の二階。
桜は、ペンテシレイアの隣で窓の隙間から外を見ていた。
ペンテシレイアは止めなかった。
ただ、桜の肩に手を置き、倒れないよう支えている。
「見えるか」
「……少し」
路地の向こう。
遠くに、凛の姿が見えた。
髪。
立ち方。
怒ったような顔。
間違いない。
お姉ちゃんだ。
桜の喉が震える。
声が出ない。
会いたい。
呼びたい。
でも、呼んだら何かが変わってしまう気がする。
凛も、こちらに気づいた。
ヒッポリュテの横から、顔を上げる。
二人の視線が、遠くで重なった。
凛の目が大きく開く。
「桜!」
声が届いた。
桜は手を伸ばしかける。
でも、窓枠を掴んだまま動けなかった。
ペンテシレイアの手が、桜の肩を支えている。
押さえつけてはいない。
ただ、倒れないように。
凛が走り出そうとする。
ヒッポリュテが前に出た。
その瞬間、通信機が短く鳴る。
『長女をここに置く余裕はない』
切嗣の声だった。
ヒッポリュテは周囲を見る。
虫の気配は完全には消えていない。
遠坂の使い魔も遠くにある。
間桐の目も、また近づきかねない。
ここで凛を隠れ家へ入れれば、遠坂に場所が割れる。
桜は揺れる。
凛も戻れなくなる。
正しい。
腹立たしいほどに、正しい。
舞弥が路地の向こうに現れた。
銃は向けていない。
だが、退路を示すように立っている。
凛が警戒する。
「何よ、あなたたち!」
ヒッポリュテは凛の前に膝をついた。
目線を少しだけ近づける。
「今は戻れ」
「嫌!」
「今ここにいれば、桜がもっと危なくなる」
凛が言葉を詰まらせる。
「そんなの……」
「会いたいなら、生きて戻れ」
凛の目が揺れた。
子どもに言うには、重すぎる言葉だった。
でも、今の冬木ではそれが必要だった。
その時、窓の方から小さな声がした。
「お姉ちゃん」
凛が振り向く。
桜だった。
窓の隙間から、こちらを見ている。
顔色は悪い。
でも、生きている。
そこにいる。
凛の目に涙が浮かんだ。
「桜!」
桜は何かを言おうとして、言えなかった。
唇が震える。
それでも、確かに凛を見ていた。
凛は袖で乱暴に目元を拭った。
「また来るから!」
桜の目が揺れる。
「絶対、また来るから!」
ヒッポリュテは何も言わなかった。
来るな、と言うことは簡単だった。
でも、それを桜が望むのかは分からない。
舞弥が凛を促す。
凛は何度も振り返りながら、路地の向こうへ連れていかれる。
桜は窓辺に立ったまま、それを見ていた。
ペンテシレイアは何も言わない。
ただ、桜の肩を支え続けていた。
◇
遠坂邸へ戻される道すがら、凛はずっと唇を噛んでいた。
怖かった。
虫も怖かった。
知らない女も怖かった。
銃を持つ女も怖かった。
でも、桜を見た。
桜はいた。
生きていた。
そして、すぐに駆け寄っては来なかった。
その事実が、凛には分からなかった。
分からないから、余計に胸が痛かった。
それでも、諦めるという考えはなかった。
凛は握りしめたリボンを見下ろす。
桜と選んだリボン。
もう一度、ちゃんと話す。
今度は遠くからじゃなくて。
窓越しじゃなくて。
「今度は、ちゃんと話す」
凛は小さく呟いた。
冬木の空は、昼の色をしている。
それなのに、街のどこかには、まだ夜が残っていた。