神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
凛が遠坂邸へ戻された時、父は玄関ホールで待っていた。
怒鳴られると思っていた。
叱られると思っていた。
けれど、時臣は声を荒げなかった。
いつも通り背筋を伸ばし、いつも通り静かな目で、凛を見下ろしていた。
その静けさが、かえって怖かった。
「凛」
名を呼ばれただけで、凛の肩が小さく跳ねる。
服は少し汚れていた。
靴にも土がついている。
手の中には、桜と選んだリボンが握られたままだった。
時臣の視線がそこへ落ちる。
ほんの一瞬。
それから、父は言った。
「どこへ行っていた」
凛は唇を噛んだ。
嘘をつくこともできた。
散歩。
買い物。
魔術の練習。
でも、どれも口にはならなかった。
凛は父を見上げる。
「桜に会いに行った」
時臣の表情は変わらなかった。
変わらなかったからこそ、凛には分かった。
今の言葉は、父の中で重く受け止められたのだと。
「単独でか」
「うん」
「この時期に、護衛もなく、使い魔の届かない場所へ出たのか」
「だって……」
凛はリボンを握る手に力を込めた。
「桜が危ないって聞こえたから」
「凛」
時臣の声が、少しだけ低くなる。
「お前の行動は、遠坂の後継として軽率だ」
その言葉は、正しいのだろう。
父にとっては。
遠坂にとっては。
魔術師としては。
でも、凛の胸には別の痛みとして入ってきた。
「後継とかじゃない」
凛は顔を上げた。
「私は桜のお姉ちゃんだもん」
時臣が黙った。
わずかな沈黙。
ほんの一瞬だけ、父の目が遠くなる。
凛はその隙を逃さなかった。
「桜、怖そうだった」
時臣の指が、微かに動いた。
「見たのか」
「うん。遠くからだけど。窓のところにいた。知らない女の人が近くにいて、でも……桜を無理やり連れてる感じじゃなかった」
凛は言葉を探しながら続ける。
頭の中には、あの光景がまだ残っている。
窓の向こうの桜。
顔色が悪くて、でも生きていて。
自分を見たのに、走って来なかった。
声は届いた。
でも、手は届かなかった。
「桜、帰りたいのか分からなかった」
その一言に、時臣はすぐに答えなかった。
凛は父の沈黙が怖くなって、さらに言葉を重ねる。
「お父様は、桜を戻すの?」
「桜の安全は確認する」
「確認じゃなくて」
凛は一歩前へ出た。
「話して」
時臣の視線が、凛へ戻る。
「話す?」
「桜がどうしたいのか、聞いて」
「桜はまだ幼い。状況を正しく判断できるとは限らない」
「でも、桜のことだよ」
凛の声が少し震えた。
「桜が決めるって、あの人は言ってた」
時臣の目が細くなる。
「あの人?」
「桜のそばにいた女の人。私が『なんであなたが決めるの』って言ったら、あの人は言ったの。『私が決めるのではない。桜が決める』って」
時臣は黙った。
凛には、その沈黙の意味は分からない。
けれど、父がその言葉を軽く受け流していないことだけは分かった。
「凛」
やがて時臣は言った。
「お前は部屋に戻りなさい」
「でも」
「これは聖杯戦争に関わる問題だ。子どもが不用意に近づいていいものではない」
「桜も子どもだよ」
凛は即座に返した。
時臣の唇が、わずかに引き結ばれる。
「だからこそ、私が判断する」
「お父様が?」
「遠坂の家長として。桜の父として」
父として。
その言葉を聞いて、凛は一瞬だけ黙った。
父は桜を父として見ている。
なら、どうして。
どうして、桜はあんな顔をしていたのだろう。
「じゃあ、ちゃんと話して」
凛は小さく言った。
「桜、怖そうだったから」
時臣は凛の手の中のリボンを見た。
古いリボン。
桜が家にいた頃のもの。
その色は、今の遠坂邸には少し似合わないほど柔らかかった。
「部屋へ戻りなさい」
時臣は静かに繰り返した。
「今日は外出を禁じる」
「……はい」
凛は従うしかなかった。
けれど、リボンを握る手は緩めなかった。
◇
凛が去った後、時臣はしばらくその場に立っていた。
桜、怖そうだった。
帰りたいのか分からなかった。
その言葉が残っている。
桜には、桜に相応しい道がある。
そう考えていた。
遠坂の魔術刻印は一つ。
凛が継ぐ。
桜の資質を眠らせるには惜しい。
間桐へ出すことは、魔術師の家として必要な判断だった。
それは今でも変わらない。
変わらないはずだった。
だが、凛が見た桜は、時臣の想定した“正しい道を歩む娘”ではなかった。
怖そうだった。
帰りたいのか分からなかった。
その言葉は、魔術師の理屈では処理しきれない場所へ沈んでいく。
「師よ」
背後から声がした。
綺礼だった。
いつからいたのか。
足音は聞こえなかった。
「凛嬢には、どこまで伝えるおつもりですか」
「必要なことだけだ」
時臣は即答した。
「聖杯戦争の詳細を不用意に知らせる必要はない」
「では、桜嬢にとって必要なことは?」
時臣は、綺礼を見た。
綺礼の表情はいつも通り静かだった。
問いに悪意はない。
少なくとも、表面上は。
だが、その問いは時臣の胸の奥を正確に突いていた。
「桜には、状況を確認した上で伝える」
「状況を、ですか」
「今の桜の周囲には不確定要素が多すぎる。未登録のサーヴァント、正体不明の女、衛宮切嗣の関与。直接接触するには危険が大きい」
「それでも、会われるおつもりで?」
時臣は少しだけ沈黙した。
会う。
その言葉は、想定していた“回収”や“確認”よりも、ずっと個人的に響いた。
「管理された場を設ける」
時臣は言った。
「中立に近い場所。教会を介すか、こちらの使い魔で安全を確認した上で、桜本人と話す」
「父として?」
綺礼の問いは静かだった。
時臣はすぐには答えなかった。
「遠坂の家長としてだ」
「なるほど」
綺礼は軽く頭を下げる。
それ以上、踏み込まなかった。
踏み込まなかったことが、かえって言葉を残した。
桜にとって必要なことは何か。
時臣は答えを出せないまま、手元の宝石を見下ろした。
◇
部屋の奥で、金色のサーヴァントが退屈そうに杯を傾けていた。
時臣と綺礼のやり取りを、聞くともなしに聞いていたらしい。
「随分と面倒なことをしているな」
時臣は振り返り、頭を下げる。
「お耳汚しを」
「娘を駒にしたのなら、駒として扱えばよかろう」
時臣の表情がわずかに硬くなる。
「桜は駒ではありません」
金色のサーヴァントは笑った。
楽しげというより、退屈を少しだけ紛らわせるような笑いだった。
「ならば、なぜ盤上に置いた」
時臣は答えなかった。
答えられなかったのではない。
答えはある。
魔術師としての答えなら、いくらでもある。
家の継承。
才能の保存。
遠坂と間桐の均衡。
聖杯戦争への備え。
だが、そのどれもが、先ほどの凛の言葉の前では少しだけ色を失っていた。
桜、怖そうだった。
時臣は沈黙したまま頭を下げる。
金色のサーヴァントはそれ以上追及しない。
ただ、杯の中の赤い液面を眺めながら、つまらなさそうに呟いた。
「雑種の家族ごっこは、時に戦より見苦しい」
◇
隠れ家では、桜が膝を抱えて座っていた。
凛の声が、まだ耳に残っている。
また来るから。
絶対、また来るから。
嬉しかった。
でも、怖かった。
凛が来れば、父も動く。
遠坂が動く。
間桐も動くかもしれない。
そして、ヒッポリュテもペンテシレイアも、また傷つくかもしれない。
自分が誰かに会いたいと思うだけで、周りが危なくなる気がした。
「お姉ちゃん、怒ってましたか」
桜はぽつりと聞いた。
ヒッポリュテは、包帯を巻いた腕を膝に置いたまま、少し考える。
「怒っていた」
桜の肩が小さく落ちる。
「たぶん、心配で」
桜は顔を上げた。
「心配……」
「ああ。怒っている顔に見えたのなら、会えなくて怖かったのかもしれない」
桜は唇を噛む。
「私、行けませんでした」
「行かなかったんじゃない。動けなかったんだろう」
桜は黙った。
その違いは、小さいようで大きかった。
行かなかった。
それは自分で拒んだように聞こえる。
動けなかった。
それは、身体が止まってしまったということ。
怖くて。
迷って。
分からなくて。
「……はい」
桜は小さく頷いた。
ペンテシレイアが窓辺から言った。
「姉なら、待てばいい」
桜が振り向く。
「え?」
「妹が動けないなら、姉が待てばいい」
ペンテシレイアの声は、いつもより少し低かった。
怒っているわけではない。
ただ、どこか遠いものに触れている声だった。
ヒッポリュテは何も言えなかった。
ペンテシレイアは続けない。
自分の言葉が自分にも刺さったことに気づいたのか、少しだけ気まずそうに窓の外へ視線を戻す。
桜は、その横顔を見ていた。
「待ってくれますか」
桜が聞いた。
ペンテシレイアは、すぐには答えなかった。
やがて、短く言う。
「来ると言ったのだろう」
「はい」
「なら、来るまで生きていろ」
少し乱暴な言い方。
でも、桜はそれを聞いて、小さく頷いた。
「はい」
ヒッポリュテはペンテシレイアを見る。
ペンテシレイアは視線を合わせない。
その耳元が少しだけ赤く見えた気がした。
◇
衛宮切嗣は、公園での会話を何度も聞き返していた。
音声は粗い。
風の音も混じっている。
だが、必要な言葉は拾えている。
神代にあったものは遠い。
国もない。
民もいない。
神代にあったもの。
彼女はそう言った。
比喩か。
記憶か。
切嗣は煙草に火をつけず、指先で弄ぶ。
舞弥が横に立っていた。
「神代に生きていた、という意味でしょうか」
「断定はできない」
切嗣は答える。
「だが、あの武装と合わせれば、ただの詐称ではない」
神話の名を名乗った女。
サーヴァントではないと言った。
人間でもないと言った。
神代級の武装を扱い、戦場の供給線を断ち、セイバーの一撃が届く状況を作った。
そして、王だったことを認めた。
危険度は下がらない。
むしろ上がっている。
「セイバーへの影響は」
舞弥が問う。
「ある」
切嗣は短く言った。
「あの女はセイバーの理想に触れた。剣を鈍らせる可能性がある」
「距離を置かせますか」
「置かせたい」
切嗣は淡々と答える。
「だが、無理に止めればセイバーは別の形で動く。今は監視を続ける」
「遠坂の動きは」
「桜本人との対話を狙うだろう。すぐに強行はしない。時臣はそういう男じゃない」
切嗣は遠坂邸の方向へ視線を向ける。
「だが、凛が動いたことで状況は変わった」
「子供の行動が?」
「ああ」
切嗣の声は冷たい。
「子供の行動は、時に大人の計画を壊す」
◇
遠坂邸。
時臣は一人で執務室にいた。
机の上には宝石。
地図。
教会との連絡手段。
間桐への伝達に使える魔術式。
いくつもの手段が並んでいる。
だが、どれも選びきれない。
正体不明の女は、桜の意思を口にした。
凛も同じことを言った。
桜がどうしたいのか。
魔術師としてなら、幼い子どもの意思など不確定要素でしかない。
それでも。
桜は、問い返した。
どこに、ですか。
戻れと言われて、戻る場所が分からなかった。
時臣は目を閉じる。
短い沈黙の後、机上の宝石を一つ手に取った。
「桜と直接話す」
誰に告げるでもない声だった。
父としての感情ではない。
少なくとも、時臣自身はそう思っている。
必要な確認。
遠坂の家長としての判断。
聖杯戦争の参加者としての手順。
そう呼べる形に整えなければならなかった。
だが、宝石を持つ指には、ほんの少しだけ力が入っていた。
◇
凛は部屋に戻されていた。
外出禁止。
しばらく屋敷から出てはいけない。
当然だと思う。
でも、納得はしていない。
凛は机の前に座り、あのリボンを見つめていた。
桜と選んだリボン。
それを媒介にして、少しだけ桜に近づけた。
怖かった。
虫も、知らない女も、銃を持った大人も。
でも、桜を見た。
桜はいた。
そして、あの女は言った。
桜が決める、と。
「桜が決めるって、あの人は言ってた」
凛は小さく呟く。
父は確認すると言った。
大人たちは回収すると言うかもしれない。
戻りなさいと言うかもしれない。
でも、桜が決めるのなら。
桜が決められるようにしなければいけない。
そのためには、桜の声を聞かなければいけない。
窓越しではなく。
遠くからではなく。
ちゃんと。
凛はリボンを握った。
「じゃあ、桜が決められるように、私が聞く」
その声は小さかった。
けれど、昨日より少しだけ強かった。
遠坂邸の中に、静かな火種が残った。