神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
通信機が鳴った時、桜は思わず右手を押さえた。
もう、その音だけで身体が固まるようになっている。
誰かが来る。
誰かが呼ぶ。
誰かが、自分のことを決めようとする。
そんな予感が、音より先に胸へ落ちてくる。
ヒッポリュテは桜の反応を見て、通信機へ視線を向けた。
ペンテシレイアは窓辺から離れ、桜の斜め前に立つ。
雁夜も壁にもたれていた身体を起こした。
通信機から、低い声が響く。
『遠坂時臣が、桜本人との対話を求めている』
部屋の空気が、また少し冷えた。
桜の指先に力が入る。
お父様。
その声を思い出すだけで、喉の奥が狭くなる。
会いたいのか、会いたくないのか。
怖いのか、懐かしいのか。
自分でも分からない。
ヒッポリュテは、通信機へ向けて静かに言った。
「それを仲介するのか」
『利用できる情報がある』
通信機の向こうの男は、いつも通り感情を混ぜなかった。
『時臣が何を求めているのか。桜の扱いをどう考えているのか。君たちをどう見るのか。それを知る機会になる』
「桜の父親との対話を、観察材料にするわけか」
『戦争中だ』
短い返答だった。
その冷たさに、雁夜の顔が歪む。
「ふざけるな……」
だが、ヒッポリュテは雁夜を制した。
通信機の声が続く。
『断ることもできる。ただし、断れば遠坂は別の手を打つ』
「会わなければ終わらない相手か」
『父親だからね』
その言い方は、ひどく乾いていた。
父親。
それは、桜にとってただの役割ではない。
声を聞くだけで身体が固まる相手。
戻れと言われて、どこへと問うた相手。
ヒッポリュテは通信機から視線を外し、桜を見た。
「桜」
桜は顔を上げる。
「会うか」
その問いに、桜はすぐ答えられなかった。
会いたい。
そう思っている自分がいる。
でも、怖い。
父は怒るだろうか。
失望するだろうか。
戻りなさいと言うだろうか。
もし戻ると言ったら、どこへ連れていかれるのだろう。
遠坂か。
間桐か。
それとも、どこか別の場所か。
桜は右手を握った。
令呪を隠したい。
父に見られたくない。
でも、隠したままでは、何も聞けない気がした。
「会うのは、怖いです」
声は震えていた。
それでも、消えなかった。
「でも……聞きたいです」
ヒッポリュテは頷いた。
「なら、こちらが条件を決める」
◇
条件は、一つずつ並べられた。
桜を一人にしないこと。
場所は遠坂邸でも、この隠れ家でもないこと。
時臣は魔術的な拘束を使わないこと。
遠坂側の使い魔は最小限。
ペンテシレイアは桜の護衛として同席。
ヒッポリュテも同席。
雁夜は距離を置くが、桜の視界に入る場所にいること。
そして。
「桜がやめたいと言ったら、そこで終わりだ」
通信機の向こうで、少しだけ沈黙があった。
『子どもの感情で対話を中断するのか』
切嗣の声ではない。
遠坂時臣の声だった。
通信を繋いだ先で、こちらの条件を聞いているのだろう。
ヒッポリュテは表情を変えない。
「桜の話を聞く場だ。桜がいなくなるなら、場も終わりだ」
『安全確認と今後の処遇に関わる話だ。途中で切られては困る』
「なら、最後まで聞ける言葉を選べ」
時臣は黙った。
ペンテシレイアが横で目を細める。
桜は膝の上で手を握っていた。
怖い。
でも、ヒッポリュテが自分のために条件を出していることは分かる。
自分がやめたいと言えば終わる。
その選択肢があるだけで、息の吸い方が少し変わった。
しばらくして、時臣の声が戻る。
『承知した』
短い返答。
感情は見えない。
けれど、飲んだ。
ヒッポリュテは通信機へ向けて言う。
「場所は」
『古い礼拝堂跡を使う。教会からは離れている。出入口は三つ。監視はこちらで置く』
切嗣の声が戻った。
『僕も監視する』
「信用できる言葉ではないな」
『信用の話ではない。条件の話だ』
「そうだったな」
通信が切れる。
部屋に静けさが戻った。
桜は、右手を見下ろした。
隠したい。
でも、隠したくない。
ぐちゃぐちゃだった。
ヒッポリュテが横に座る。
「隠したいなら隠せ」
桜は首を振った。
「見られるのは怖いです」
「ああ」
「でも、隠してたら……聞けない気がします」
ヒッポリュテは何も押しつけない。
ただ頷いた。
「分かった」
ペンテシレイアが桜の前にしゃがむ。
「怖くなったら言え」
「はい」
「言わなくても、私が見ている」
桜は少しだけ目を瞬かせた。
「はい」
「でも、言え」
桜はほんの少しだけ口元を緩めた。
「……はい」
◇
古い礼拝堂跡は、街の外れにあった。
もう使われていない建物。
割れたステンドグラス。
湿った木の匂い。
長椅子のいくつかは壊れ、床には埃が薄く積もっている。
祈るための場所だったはずなのに、今は祈りよりも警戒の方がよく似合った。
ヒッポリュテは先に中を確認した。
天井。
窓。
出入口。
隠れられる場所。
狙撃される角度。
切嗣が選んだだけあって、逃げるにも監視するにも悪くない。
悪くないから、やはり気に入らない。
桜は礼拝堂の入口で足を止めた。
ヒッポリュテは急かさない。
ペンテシレイアは桜の横に立っている。
両手には短い曲刀。
双剣だった。
光を吸うような刃が、埃っぽい床に細い影を落としている。
雁夜は少し離れた位置。
顔色は悪い。
けれど、桜から見える場所に立っていた。
桜が振り返れば、そこにいる。
それだけでいい。
やがて、礼拝堂の反対側の扉が開いた。
遠坂時臣が入ってくる。
服装に乱れはない。
歩幅も一定。
背筋も伸びている。
まるで、ここが古びた礼拝堂跡ではなく、遠坂邸の客間であるかのようだった。
その整い方が、桜には怖かった。
父は変わっていない。
変わっていないように見える。
だから、自分だけが変わってしまった気がする。
時臣の視線が、桜へ向いた。
ほんのわずか、間があった。
「無事で何よりだ、桜」
父らしい言葉だった。
桜の胸が小さく揺れる。
無事で何より。
そう言ってもらえた。
でも、次の言葉で、その揺れはすぐに固まった。
「現在の状況は極めて不安定だ。お前は本来いるべき場所へ戻る必要がある」
桜は指先を握った。
本来いるべき場所。
それは、どこなのだろう。
時臣の声は落ち着いている。
落ち着いているからこそ、桜は余計に小さくなる。
ヒッポリュテは割って入らない。
ペンテシレイアも、双剣を握ったまま黙っている。
桜が聞かなければならない。
桜が言わなければならない。
桜は喉を震わせた。
「本来いるべき場所って、どこですか」
時臣の目が、わずかに動いた。
「お前の安全が保証される場所だ」
「遠坂ですか」
桜は続けた。
「間桐ですか」
礼拝堂の空気が凍る。
雁夜が奥歯を噛んだ音がした。
ペンテシレイアの双剣が、ほんの少しだけ角度を変える。
時臣はすぐには答えなかった。
その沈黙が、桜には答えのように聞こえた。
父にも、すぐには言えないのだ。
自分がどこへ戻るべきなのか。
「状況に応じて判断する」
やがて時臣は言った。
「お前の安全を最優先に考える」
「安全……」
桜はその言葉を小さく繰り返した。
安全。
きれいな言葉。
でも、どこか遠い。
時臣は続ける。
「桜。お前には優れた資質がある。遠坂の家に生まれながら、継承できる魔術刻印は一つしかない。凛が遠坂を継ぐ以上、お前の才を眠らせることはできなかった」
桜は黙って聞いている。
ヒッポリュテは時臣を見ていた。
声に悪意はない。
むしろ、時臣の中では筋が通っている。
だからこそ、痛い。
「間桐へ養子に出すことは、魔術師の家として必要な判断だった。お前の才能を無駄にしないためだった」
桜の肩が震えた。
才能。
その言葉が、胸に刺さる。
自分のため。
才能のため。
魔術師の家として。
必要な判断。
父の言葉は正しいのかもしれない。
でも、桜はその中に自分を見つけられなかった。
才能。
資質。
血。
器。
どれも自分のことを言っているはずなのに、自分ではないように聞こえる。
桜は小さく息を吸った。
「私……才能じゃないです」
時臣が止まった。
雁夜が顔を上げる。
ペンテシレイアの目が鋭くなる。
ヒッポリュテは桜の隣にいた。
前には出ない。
言葉を奪わない。
桜は震えながら続けた。
「魔術のこと、よく分かりません。遠坂のことも、間桐のことも、まだ分からないです。でも……私、才能じゃないです」
それは大きな声ではなかった。
礼拝堂全体に響くような叫びでもない。
けれど、その場の全員に届いた。
雁夜が一歩踏み出しかける。
「聞いたか、時臣……!」
「黙れ」
ヒッポリュテが低く言った。
雁夜の動きが止まる。
「今は桜が話している」
雁夜は歯を食いしばる。
怒りは消えていない。
だが、足を止めた。
桜の言葉を、自分の怒りで覆わなかった。
ペンテシレイアが時臣を睨む。
「お前は、桜を見ていない」
声は冷たかった。
「桜に付いた価値を見ている」
時臣の眉がわずかに動く。
「部外者が遠坂の事情を語るべきではない」
「ならば、子を差し出した父が語るな」
空気がさらに鋭くなる。
ペンテシレイアの双剣が、わずかに持ち上がった。
時臣の周囲に魔力が薄く流れる。
ヒッポリュテが一歩だけ前へ出た。
「そこまでだ」
ペンテシレイアは不満そうに唇を結ぶ。
だが、止まった。
時臣も魔力を収める。
ヒッポリュテは時臣を見る。
時臣もまた、彼女へ視線を向けた。
「君は桜に何を与えられる」
静かな問いだった。
ヒッポリュテはすぐに答えた。
「選ぶ時間だ」
「時間は安全を保証しない」
「急がせた安全が、桜を守ったのか」
時臣は沈黙する。
ヒッポリュテはさらに言葉を重ねない。
言い負かしたいわけではない。
ここは桜の場だ。
時臣は少しだけ目を伏せた後、言う。
「君の保護下でも、桜は戦場に晒されている」
「そうだ」
「ならば君もまた、桜を危険に晒している」
「そうだ」
桜がヒッポリュテを見る。
ヒッポリュテは否定しなかった。
守っているから安全だ、とは言わなかった。
自分のそばなら大丈夫だ、とも言わなかった。
その正直さが、桜の胸に少しだけ重く、でも確かに残った。
時臣は問う。
「ならば、なぜ君が桜を守ると決める」
「私が決めるんじゃない」
ヒッポリュテは桜を見た。
「だから、桜に決めさせる」
「幼い子に負わせるには重すぎる」
「奪われるよりはいい」
「選択を与えることが、時に残酷だとは思わないのか」
「思う」
ヒッポリュテは頷いた。
「だが、選ばせない優しさも残酷だ」
時臣は何も言わなかった。
桜は、二人の言葉を全部理解できたわけではない。
でも、自分のことを話しているのは分かった。
自分が選ぶ。
自分が選ばない。
そのどちらも怖い。
時臣が桜へ視線を戻す。
「桜」
父の声。
桜の身体がまた少し固まる。
「戻りなさい」
静かな言葉だった。
命令に近い。
でも、どこかに父の響きもあった。
桜は震えた。
戻りたいのかもしれない。
戻ったら、楽になるのかもしれない。
父の言う通りにすれば、考えなくていいのかもしれない。
でも。
戻る場所が分からないまま戻れば、また誰かが決める。
自分がどこへ行くのか。
何になるのか。
誰のために生きるのか。
桜は右手を握った。
令呪が熱い。
ペンテシレイアがそばにいる。
ヒッポリュテもいる。
雁夜もいる。
凛の声も、まだ残っている。
また来るから。
絶対、また来るから。
桜は、ゆっくり口を開いた。
「今は……戻れません」
礼拝堂が静まり返った。
大きな拒絶ではなかった。
父を否定する声ではなかった。
それでも、桜自身の声だった。
時臣は桜を見る。
初めて、その目がわずかに揺れた。
「それが今の意思か」
桜は唇を震わせながら頷いた。
「はい」
時臣はしばらく黙っていた。
誰も動かない。
ペンテシレイアの双剣も、雁夜の怒りも、ヒッポリュテの呼吸も、その沈黙を乱さなかった。
やがて時臣は、静かに息を吐いた。
「分かった。今日のところは引こう」
桜が驚いたように顔を上げる。
怒られると思っていたのだろう。
連れていかれると思っていたのだろう。
時臣は続けた。
「だが、状況は変わらない。お前は危険の中にいる」
ヒッポリュテが答える。
「それはこちらも分かっている」
「では、次はその危険をどう減らすかを話す」
時臣は桜をもう一度見た。
「無事でいなさい、桜」
桜は答えられなかった。
それでも、時臣はそれ以上求めなかった。
背を向け、礼拝堂の扉へ向かう。
途中で一度だけ足を止めた。
振り返りはしない。
「凛が、心配していた」
桜の目が揺れる。
それだけ告げて、時臣は礼拝堂を出た。
◇
離れた場所で、切嗣は会話の記録を止めた。
舞弥が隣で待っている。
「遠坂は引きました」
「ああ」
「桜の意思を尊重したように見えましたが」
「尊重ではない」
切嗣は短く言う。
「今回は条件が悪かっただけだ」
時臣は強行しなかった。
桜の拒否を受け止めた。
だが、諦めてはいない。
次の話に移しただけだ。
危険をどう減らすか。
その言葉は、次の交渉の入口だった。
「時臣は諦めない」
「ヒッポリュテ側は」
「桜の意思を盾にできる限り、強い」
切嗣は少しだけ目を細める。
「ただし、桜が揺れれば崩れる」
「監視を継続します」
「ああ」
◇
帰り道、桜はほとんど話さなかった。
礼拝堂から出た時、足が少しふらついた。
ペンテシレイアが支えようとするより先に、ヒッポリュテが横に並ぶ。
「よく言った」
桜は首を振った。
「怖かったです」
「怖いまま言えたなら、それでいい」
桜はその言葉をゆっくり受け止める。
怖いまま。
震えたまま。
小さな声のまま。
それでも、言えた。
ペンテシレイアが横から言う。
「次はもっと大きく言え」
ヒッポリュテが即座に返す。
「追い詰めるな」
「声が小さいと聞こえにくい」
「聞こえた」
「次はもっと聞こえる」
桜は二人を見て、少しだけ息を漏らした。
笑いとまではいかない。
でも、さっきまで詰まっていた胸がほんの少しだけ緩んだ。
「……はい」
小さな返事。
今は、それで十分だった。
◇
遠坂邸に戻ると、時臣を待っていたのは金色のサーヴァントだった。
彼は椅子に腰掛け、退屈そうに杯を揺らしている。
「戻ったか、時臣」
「はい」
「子に退けられたか」
時臣は静かに頭を下げる。
「今日のところは、です」
金色のサーヴァントは笑った。
「今日のところ、か。随分と慎ましい負け惜しみだな」
時臣は表情を崩さない。
「桜の周囲には不確定要素が多すぎます。強行は得策ではありません」
「不確定要素」
金色の瞳が、わずかに細くなる。
「あの神代の残り香を纏う女か」
「はい。桜は、あの女の言葉に耳を傾けています」
「面白い」
金色のサーヴァントは杯を置いた。
「その女、ますます見たくなった」
時臣がわずかに顔を上げる。
「王よ」
「王を名乗るなら、我の前に立たせてみよ」
その声には、遊びの色があった。
そして、遊びでは済まない圧があった。
時臣は深く頭を下げる。
夜は、また別の火種を抱え始めていた。