神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
遠坂邸の夜は、静かだった。
時臣が戻った後も、屋敷の空気は乱れていない。
廊下の灯り。
磨かれた床。
整えられた調度。
何一つ変わらない。
けれど、遠坂時臣の胸の内には、確かに小さな歪みが残っていた。
桜は戻らなかった。
泣き叫んだわけではない。
父を拒絶したわけでもない。
ただ、震えながら言った。
今は戻れません、と。
その小さな声が、時臣の中で消えずにいる。
執務室の奥で、金色のサーヴァントは杯を傾けていた。
報告はすでに聞いている。
桜が退いたことも。
正体不明の女がそれを守ったことも。
その場にいたバーサーカーらしき女戦士が、今にも斬りかかりそうだったことも。
金色の瞳に、わずかな興味が宿る。
「子に退けられ、女に遮られ、それでも王を気取るか、時臣」
時臣は深く頭を下げる。
「お見苦しいところを」
「見苦しいかどうかは我が決める」
杯が置かれる。
乾いた音が、部屋に響いた。
「その女、ますます見たくなった」
時臣の顔がわずかに硬くなる。
「王よ、あの女には未知の要素が多すぎます。軽率な接触は――」
「軽率?」
その一言で、空気が変わった。
時臣はすぐに言葉を止める。
金色のサーヴァントは笑っていた。
怒ってはいない。
だが、笑っている方が恐ろしい時もある。
「我が見ると言ったのだ。雑種の許しが要るか」
「……失礼いたしました」
時臣は頭を下げる。
止められない。
分かっている。
この王は、興味を持てば動く。
命令では縛れない。
令呪を使うには、あまりにも重すぎる。
金色のサーヴァントは窓の外を見た。
冬木の夜。
遠く、街の灯りの向こう。
隠れたつもりの小さな場所。
そこに残る、現代には濃すぎる匂い。
神代の残り香。
王だった女の影。
そして、あり得ない場所にあるはずのない歪み。
黄金の瞳が細くなる。
「ほう」
唇が薄く笑う。
「見えぬのではない。見え方が濁るか」
時臣は顔を上げなかった。
何を見ているのかは分からない。
ただ、王の興味がさらに深まったことだけは分かった。
「神代の残り香。王の残骸。女の未練。どれも半端だ」
金色のサーヴァントは立ち上がる。
その所作だけで、部屋の空気が一段低くなる。
「よい。直接見る」
「王よ」
「くどい」
時臣は黙った。
金色の影が、夜へ溶ける。
遠坂邸の静けさだけが残った。
◇
隠れ家では、桜が布団の上で膝を抱えていた。
礼拝堂での父との対話の後、疲労は一気に出た。
それでも、眠れない。
父の声が残っている。
本来いるべき場所。
安全が保証される場所。
お前の才能を無駄にしないため。
そして、自分の声も。
私、才能じゃないです。
今は戻れません。
言えた。
でも、言った後の方が怖かった。
父は怒らなかった。
連れていかなかった。
それが少し不思議で、余計に落ち着かない。
「怒られませんでした」
桜はぽつりと言った。
ヒッポリュテは包帯を巻いた腕を膝に置き、桜のそばに座っている。
「怒られると思っていたのか」
「はい」
桜は右手を握った。
「逆らったから」
ペンテシレイアが窓辺から振り返る。
「怒られる理由がない」
「でも……」
「言われた通りにしなかっただけだろう」
桜は少し困った顔をした。
ペンテシレイアの言葉はまっすぐすぎる。
でも、まっすぐだからこそ、難しい。
ヒッポリュテが静かに言う。
「逆らったのではない。答えたんだ」
「答えた……」
「ああ。聞かれたから、答えた」
桜はその言葉を何度も胸の中で繰り返した。
逆らったのではない。
答えた。
それだけで、少しだけ息がしやすくなる。
雁夜は壁際に座っていた。
顔色は相変わらず悪い。
だが、時臣の話題になっても怒鳴らなかった。
礼拝堂でヒッポリュテに止められたことが、まだ残っているのだろう。
桜が話している時、自分の怒りでそれを覆わなかった。
それだけで、雁夜もずいぶん消耗していた。
「桜ちゃん」
雁夜は掠れた声で言う。
「よく言ったよ」
桜は雁夜を見る。
褒められると思っていなかった顔だった。
「……ありがとうございます」
その小さな返事に、雁夜は少しだけ笑おうとして、うまく笑えなかった。
窓辺で、ペンテシレイアの気配がふと変わった。
最初は小さな違和感だった。
風の音が変わったわけではない。
使い魔の羽音もない。
魔術式が触れた反応でもない。
それでも、部屋の上から何かが落ちてきたような圧があった。
見下ろされている。
それも、こちらを探す目ではない。
最初からそこにいると分かって、ただ眺めている目。
ペンテシレイアの両手に、双剣が現れた。
「上だ」
ヒッポリュテは桜の前に立つ。
桜の身体が強張る。
雁夜も立ち上がろうとして、壁に手をついた。
屋根の上。
そこに、金色がいた。
夜の中に浮かぶ黄金。
隠れる気など一切ない。
街灯の光を受け、金の髪と装飾が闇に浮き上がっている。
見下ろす視線。
退屈そうな口元。
こちらの都合など、最初から存在しないかのような立ち姿。
「隠れ家というには粗末だな」
金色のサーヴァントが言った。
声は高くない。
だが、屋根の上から落ちたその言葉は、部屋の中まで届いた。
ペンテシレイアが窓を開け放つ。
双剣が消え、代わりに重い鎖が手元へ現れた。
棘付きの鉄球が、窓辺で低く揺れる。
「降りてこい」
金色のサーヴァントの目が細くなる。
「誰に向かって命じている」
その一言で、空気が潰れた。
桜が息を止める。
雁夜の顔から血の気が引く。
ペンテシレイアの殺気が跳ね上がった。
ヒッポリュテは低く言う。
「やめろ」
「敵意がある」
「敵意ではない」
ヒッポリュテは屋根の上を見た。
「もっと悪い」
金色のサーヴァントが笑った。
「ほう。多少は分かるか」
ヒッポリュテはその姿を見上げた。
遠坂のアーチャー。
それ以上は口にしない。
知っている。
その真名も。
その宝具も。
その傲慢さも。
だが、知っていることを知られるわけにはいかない。
金色のサーヴァントは、まるでその沈黙すら楽しむように目を細めた。
「名を伏せるか。よい。名乗る価値があるか、我が見定めてやる」
「頼んでいない」
「許した覚えもない」
ヒッポリュテは答えない。
ペンテシレイアの鎖が、ぎり、と鳴った。
金色の視線が、ヒッポリュテから桜へ移る。
ただそれだけで、桜は肩を震わせた。
「それが火種か」
ヒッポリュテが桜を隠す。
ペンテシレイアも窓辺から一歩引き、桜の位置を射線から外した。
金色のサーヴァントはそれを見て、愉快そうに笑う。
「幼子一人に、遠坂も間桐も、貴様らも踊らされる。滑稽だな」
「子どもを盤面の中心に置いた大人たちが滑稽なだけだ」
ヒッポリュテは静かに返した。
金色のサーヴァントの笑みが少し深くなる。
「言うではないか」
彼の視線が、再びヒッポリュテへ向いた。
それは、ただ見るだけの目ではなかった。
表面を剥がし、奥にあるものを量る目。
「王だったそうだな」
「そう呼ばれていた」
「ならば問う。王がなぜ、そんな子どもの陰に隠れる」
「逆だ」
ヒッポリュテは桜の前に立ったまま言う。
「子どもの前に立っている」
金色のサーヴァントは鼻で笑った。
「前に立つだけなら兵にもできる」
「なら、兵にもできることを王ができない理由はない」
その返答に、金色の瞳がわずかに変わった。
怒りではない。
興味。
退屈の中に、一つだけ音が混じったような目だった。
「サーヴァントではない。人でもない。神代の亡霊でもない」
金色のサーヴァントの声が、少しだけ低くなる。
「半端なものよ」
言葉は、正確にヒッポリュテを刺した。
サーヴァントではない。
人でもない。
この時代に自然に立つ者でもない。
神代から弾かれ、ここに流れ着き、肉を持ったまま歪んでいる。
半端。
それは、ヒッポリュテ自身がどこかで感じていたことでもあった。
だが、顔には出さない。
出すより早く、ペンテシレイアが爆ぜた。
「姉上をそう呼ぶな」
金色のサーヴァントの視線が、ペンテシレイアへ動く。
「姉上?」
その一言で、ペンテシレイアは自分が何を言ったか悟った。
だが、もう遅い。
金色のサーヴァントは笑った。
「ほう。神代の姉妹か」
ペンテシレイアの鎖が唸る。
「黙れ」
棘付きの鉄球が窓から放たれた。
夜気を裂き、屋根の上の金色へ一直線に走る。
その瞬間、空中に金色の門が一つ開いた。
剣とも槍ともつかない宝具が射出される。
それは鎖鉄球にぶつかり、弾いた。
重い音が夜に響く。
ペンテシレイアの腕がわずかに引かれる。
格差は明らかだった。
金色のサーヴァントは動いてすらいない。
「躾のなっていない獣だ」
ペンテシレイアの目が真紅に燃える。
もう一撃を放とうとする。
「ペンテ!」
ヒッポリュテの声が強く飛んだ。
部屋の空気が震える。
ペンテシレイアの動きが止まる。
だが、怒りは消えていない。
鎖を握る手が震えている。
その時、桜が声を出した。
「ペンテさん、だめです」
小さな声だった。
それでも、届いた。
ペンテシレイアの肩がわずかに揺れる。
鎖が下がる。
金色のサーヴァントがそれを見て、愉快そうに目を細めた。
「小娘の声で獣が止まるか」
「獣ではない」
ヒッポリュテが言う。
桜も震えながら顔を上げた。
「ペンテさんです」
金色のサーヴァントが桜を見る。
桜は怖かった。
今にも目を逸らしたかった。
でも、言ってしまったからには、引けなかった。
「ペンテさんは、ペンテさんです」
声は震えている。
それでも、名前を呼んだ。
ペンテシレイアは何も言わない。
ただ、鎖を握る手から少しだけ力が抜けた。
「雑種どもの群れにしては、退屈はせぬ」
金色のサーヴァントは笑う。
「満足したなら帰れ」
ヒッポリュテが言った。
「我がいつ帰るかを、貴様が決めるか」
「ここは桜が休む場所だ」
その言葉に、金色のサーヴァントの瞳がわずかに鋭くなる。
「我に場所を譲れと言うか」
「譲れとは言わない。踏み荒らすなと言っている」
沈黙が落ちた。
ペンテシレイアが息を詰める。
雁夜も、桜も、動けない。
金色のサーヴァントはしばらくヒッポリュテを見ていた。
怒るか。
笑うか。
殺すか。
どれが来てもおかしくない沈黙。
やがて、彼は笑った。
「よい。今は見逃してやる」
金色の門が閉じる。
屋根の上の黄金が、夜の中で揺れる。
「その半端な王冠が、いつまで頭に乗っているか見てやろう」
「王冠などない」
「ある」
金色のサーヴァントは断じた。
「貴様が捨てたつもりでも、匂いは残る」
ヒッポリュテは黙った。
その言葉は、先ほどの半端という言葉よりも深く沈んだ。
王ではないと思っても。
国も民も遠いと言っても。
残るものはある。
捨てたつもりのものが、血や声や立ち方に残る。
金色のサーヴァントは最後に桜を見た。
「小娘」
桜の身体が固まる。
「選べるうちに選べ」
その声は冷たい。
けれど、妙にまっすぐだった。
「選ばぬ者は、いずれ誰かの所有物になる」
桜は息を呑む。
ヒッポリュテの目が細くなる。
金色のサーヴァントは満足したように背を向けた。
「せいぜい悩め」
黄金の姿が、夜に溶ける。
「悩む雑種は、退屈しのぎにはなる」
その言葉を残して、圧が消えた。
ようやく、部屋の中に呼吸が戻った。
◇
ペンテシレイアは、しばらく鎖を握ったまま動かなかった。
悔しさが全身から滲んでいる。
あの一撃。
弾かれた。
相手は動いてすらいない。
その事実が、彼女の誇りを焼いていた。
「次は殺す」
「次も無理だ」
ヒッポリュテは即座に言った。
ペンテシレイアが睨む。
「言うな」
「言う。今のままでは届かない」
「分かっている」
低い声。
怒りと悔しさが混ざっていた。
「分かっているから、言うな」
ヒッポリュテは少し黙った。
「……すまない」
ペンテシレイアは答えない。
ただ、鎖を消した。
桜は布団の端を握りしめていた。
「怖かったです」
「あれは怖くていい」
ヒッポリュテはすぐに言った。
桜が顔を上げる。
「怖くて、いいんですか」
「ああ」
ヒッポリュテは屋根の方を見る。
もう金色の気配はない。
それでも、あの視線の重さは残っている。
「あれを怖くないと思う方が危ない」
桜は小さく頷いた。
右手を見る。
令呪。
マスターとして数えられた印。
選べるうちに選べ。
選ばぬ者は、いずれ誰かの所有物になる。
あの言葉が、頭から離れない。
「選ぶって、怖いです」
「ああ」
「でも、選ばないのも怖いです」
ヒッポリュテは少しだけ黙った。
その言葉は、桜の中で何かが動き始めている証だった。
「なら、急がず選べ」
「急がず……」
「誰かに急がされた時ほど、立ち止まれ」
桜はゆっくり頷いた。
ペンテシレイアは窓の外を見ている。
まだ悔しさは消えていない。
だが、桜の声で止まった自分の手を、彼女は忘れないだろう。
◇
離れた場所で、切嗣は一部始終を見ていた。
舞弥が隣に立つ。
「遠坂のアーチャーが接触しました」
「見えていた」
「排除対象ですか」
「排除できる相手じゃない」
切嗣の声は冷たい。
だが、その言葉には重さがあった。
排除しない、ではない。
排除できない。
その違いは大きい。
金色のサーヴァントは、切嗣にとっても危険すぎる存在だった。
だが、収穫はあった。
ペンテシレイアは挑発に弱い。
桜の声で止まる。
ヒッポリュテはアーチャーの危険度を正確に測っている。
そして。
「あの女は、遠坂のアーチャーを知っている」
舞弥が視線を向ける。
「真名を、ですか」
「断定はできない。だが、知らない者の反応ではない」
ヒッポリュテは真名を口にしなかった。
金色のサーヴァントを見て、驚かなかった。
挑発にも乗らなかった。
危険だと知っていた。
それも、観測してから判断したのではない。
最初から知っているような反応だった。
「彼女の情報源は不明なままですね」
「ああ」
切嗣は煙草を指先で回す。
火はつけない。
「監視を強める」
◇
夜の高所で、金色のサーヴァントは一人笑っていた。
ヒッポリュテたちの隠れ家は、もう遠い。
だが、あの空気はまだ記憶に残っている。
半端な王。
怒りを纏う妹。
令呪を持つ小娘。
壊れかけた男。
そして、誰も完全には従わない奇妙な群れ。
「せいぜい悩め」
彼は夜を見下ろす。
「悩む雑種は、退屈しのぎにはなる」
冬木の夜は、また一つ厄介な視線を抱え込んだ。