神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
金色の気配が消えても、部屋の空気はすぐには戻らなかった。
窓は閉じられている。
屋根の上にも、通りにも、もうあのサーヴァントはいない。
それでも、見下ろされていた感覚だけが残っている。
桜は布団の端を握ったまま、しばらく動けなかった。
喉の奥が乾いている。
指先が冷たい。
自分よりずっと高い場所から、ただ眺められていた。
それだけなのに、身体の奥まで見られたような気がした。
「あの人は……何だったんですか」
桜の声は小さかった。
雁夜も答えられない。
ペンテシレイアは窓辺に立ったまま、黙っている。
鎖鉄球は消えている。
けれど、その手にはまだ力が入っていた。
ヒッポリュテは桜の前に座る。
真名は言えない。
英雄王とも言えない。
けれど、ただ強いサーヴァントとだけ言えば、あの恐ろしさを軽く扱うことになる。
「今は、近づいてはいけない相手だと思っておけ」
「今は……」
「ああ」
桜は頷いた。
納得した顔ではない。
けれど、それ以上聞ける顔でもなかった。
怖かった。
その事実だけで、今は十分だった。
窓辺で、ペンテシレイアが低く言う。
「動いてもいない相手に弾かれた」
その声には、押し殺した怒りが滲んでいた。
ヒッポリュテは視線を向ける。
「相手が悪い」
「あれが遠坂のアーチャーだと言いたいのか」
「ああ」
「だから何だ」
ペンテシレイアが振り返る。
赤い目が鋭い。
悔しさと怒りで燃えている。
あの一撃は本気ではなかった。
それなのに届かなかった。
その事実が、彼女を焼いている。
「今は届かない」
ヒッポリュテは言った。
ペンテシレイアの眉が跳ねる。
「姉上」
「悔しいなら覚えておけ」
ヒッポリュテは目を逸らさなかった。
「怒りで届く相手ではない」
ペンテシレイアは歯を食いしばる。
反論したい。
だが、できない。
分かっているからだ。
怒りだけで飛びかかれば、また弾かれる。
いや、次は弾かれるだけでは済まない。
桜は二人のやり取りを見ていた。
ペンテシレイアが悔しそうにしているのを見るのは、初めてだった。
いつも強い。
怖いくらい強い。
そのペンテシレイアが、届かなかったと言っている。
あの金色のサーヴァントが、どれだけ危険なのか。
桜にも少しだけ分かった。
桜は自分の右手を見る。
令呪。
選べるうちに選べ。
選ばぬ者は、いずれ誰かの所有物になる。
あの言葉が、頭から離れない。
「選ぶって、どうすればいいんですか」
ヒッポリュテはすぐには答えなかった。
桜は続ける。
「お父様にも、戻りなさいって言われました。お姉ちゃんも来ました。ペンテさんも、ヒッポリュテさんもいてくれます。でも……どれを選ぶとか、まだ分からないです」
言いながら、桜の声はどんどん小さくなる。
「選ばないと、誰かのものになるんですか」
その問いは、震えていた。
ヒッポリュテは桜の右手を見た。
そして、ゆっくり言う。
「すぐに答えが出るものばかりではない」
「でも……」
「だが、誰かが急がせる時は、一度止まれ」
桜が顔を上げる。
「止まってもいいんですか」
「ああ」
ヒッポリュテは頷いた。
「止まるのも選ぶことだ」
桜はその言葉を、胸の奥にしまうように黙った。
答えは出ない。
でも、立ち止まっていい。
そのことだけが、今の桜には少しだけ救いだった。
その時、通信機が鳴った。
ペンテシレイアの気配がまた尖る。
ヒッポリュテは通信機を見る。
予想はしていた。
あの金色のサーヴァントが現れた以上、黙っている男ではない。
通信機から、衛宮切嗣の声がした。
『少し話がしたい』
「ここで話せ」
『桜の前ではない方がいい』
ペンテシレイアの目が細くなる。
「罠か」
『そう思うなら来なくていい』
ヒッポリュテは短く息を吐いた。
切嗣は急かさない。
だが、逃げ道は塞いでいる。
話さなければ、疑いは深まる。
話しても、疑いは消えない。
それでも、今は受けるしかない。
「場所は」
『家の前に車を回す。君だけでいい』
ペンテシレイアが即座に言った。
「一人で行くな」
ヒッポリュテは振り返る。
「桜を頼む」
「またそれか」
「一番信用しているから言っている」
ペンテシレイアは言葉を止めた。
桜が二人を見ている。
ヒッポリュテは続ける。
「私が戻るまで、ここを任せる」
ペンテシレイアはしばらく黙った。
やがて、低く言う。
「遅ければ行く」
「分かった」
「殺していたら怒る」
「殺すな」
「相手が先なら別だ」
「それでも待て」
ペンテシレイアは不満そうに顔をそむけた。
「早く戻れ」
「ああ」
◇
車は隠れ家から少し離れた路地に停まっていた。
黒い車体。
周囲に人影はない。
だが、見られている。
それも一つではない。
舞弥の気配。
別の監視点。
車内にも仕込みがあるだろう。
ヒッポリュテは後部座席の扉を開けた。
中には切嗣がいた。
運転席には誰もいない。
舞弥は外だ。
閉鎖された狭い空間。
逃げるには不便。
撃つには十分。
切嗣らしい場所だった。
「乗って」
切嗣が言う。
ヒッポリュテは少しだけ車内を見てから、乗り込んだ。
扉が閉まる。
外の音が薄くなる。
切嗣は横ではなく、斜め前を見る位置に座っていた。
真正面から向き合わない。
互いの手元が見える角度。
銃を抜くにも、躱すにも、計算された距離。
「遠坂のアーチャーを知っているね」
最初の言葉が、それだった。
ヒッポリュテは驚かない。
「見れば危険だと分かる」
「違う」
切嗣は即座に返した。
「君は見る前から知っていた」
車内が静かになる。
ヒッポリュテは返事をしない。
切嗣は続ける。
「彼が現れた時、君は驚かなかった。バーサーカーをすぐ止めた。あの相手が戦いに来たのではないと判断した。真名も呼ばなかった。危険度を知りすぎていた」
「観察力があるな」
「褒め言葉はいらない」
切嗣の声に温度はない。
「セイバーとの会話も聞いた。君は神代を、まるで記憶のように語った。遠坂のアーチャーを前にした反応も同じだ。君の知識は、過去の経験だけでは説明がつかない」
正しい。
だからこそ、ヒッポリュテはすぐには答えなかった。
下手に否定すれば、さらに詰められる。
肯定すれば、もっと悪い。
沈黙は、時に一番ましな盾になる。
「知っていたとして、何が変わる」
ヒッポリュテは言った。
切嗣は少しだけ目を細める。
「僕の判断が変わる」
「なら、変えない方がいい」
「君が隠している情報で、こちらのサーヴァントが死ぬ可能性がある」
セイバー。
剣のサーヴァント。
未遠川で道を繋いだ王。
公園で、王とは何かを話した相手。
切嗣はそこを突いてきた。
「君は剣のサーヴァントと話した」
切嗣は言う。
「彼女には礼を尽くした。王としての言葉も交わした。なら、彼女が死ぬと分かっていて黙るのか」
嫌な問いだった。
脅しではない。
責めでもない。
ただ、使えるものを使っている。
ヒッポリュテの内側に残ったわずかな敬意を、梃子にしている。
「死ぬ可能性なら全員にある」
「答えになっていない」
「答えられることと、答えるべきことは違う」
切嗣は黙った。
煙草を取り出しかけ、火をつけずに戻す。
狭い車内で、わずかな動きだけが音になる。
「君は未来を知っているのか」
問いが落ちた。
車内の空気が、さらに重くなる。
ヒッポリュテは切嗣を見た。
その目は冗談を許さない。
疑念ではなく、ほとんど確信に近い場所から投げられた問い。
未来。
知っているのか。
ヒッポリュテは答えるまで、少し時間を置いた。
知っている。
だが、知らない。
かつて画面の向こうで見た物語はある。
だが、今ここにいる桜は、画面の向こうの少女ではない。
ペンテシレイアも、雁夜も、時臣も、切嗣も。
すでに、ずれている。
未来と呼べるほど確かなものは、もう手元にない。
「未来を知っている者なら、もっと上手くやっている」
切嗣は表情を変えなかった。
「否定はしないんだね」
「肯定もしていない」
「便利な答えだ」
「お前向きだろう」
切嗣の目が少しだけ冷える。
ヒッポリュテは続けた。
「お前は、知っていれば救えると思っているのか」
切嗣の動きが止まった。
ほんのわずかに。
だが、止まった。
「知っていても、間に合わないものはある」
ヒッポリュテは静かに言う。
「選んでも、失うものはある。捨てるものを選んだつもりで、残ったものまで壊れることもある」
切嗣は何も言わない。
「それを知っている顔をしている」
沈黙。
車内に、遠くの車の音だけが薄く届く。
切嗣の顔は変わらない。
だが、空気がわずかに変わった。
今度はヒッポリュテが、切嗣の奥へ触れた。
多くを救うために、少数を切る。
そういう考えをする者の匂いがする。
その選択で何かを失ってきた者の目をしている。
「僕の話ではない」
切嗣は言った。
「今はね」
ヒッポリュテはそれ以上踏み込まなかった。
踏み込めば、この場は壊れる。
切嗣も同じ判断をしたのだろう。
彼は話を戻した。
「君が知っていることを全て話すとは思っていない」
「賢明だな」
「だが、桜やセイバーの生存に直接関わる情報を隠した場合、取引は破棄する」
「桜の生存に関わるなら話す」
「セイバーは」
ヒッポリュテは少しだけ目を伏せた。
「必要なら話す」
「必要かどうかを判断するのは誰だ」
「私だ」
切嗣の目が冷える。
「こちらとしては不十分だ」
「だろうな」
「それでも、今はこれ以上引き出せない」
「分かっているなら早い」
切嗣はヒッポリュテを見る。
敵意はない。
信用もない。
ただ、判断だけがある。
「君の知識は武器だ」
切嗣は言った。
「問題は、誰のために使うかだ」
「今さら聞くのか」
「確認だ」
「桜だ」
即答だった。
切嗣はわずかに目を細める。
「今はね」
ヒッポリュテはその言葉を否定しなかった。
未来を否定できない。
人は変わる。
状況も変わる。
守るものが増えれば、選択も歪む。
ただ、今は。
今だけは、桜だ。
◇
隠れ家では、桜とペンテシレイアが二人で残っていた。
雁夜は別室で横になっている。
眠っているわけではない。
けれど、身体を起こす力が尽きている。
ペンテシレイアは窓辺に立っている。
桜は布団の上で右手を見ていた。
しばらくして、桜が口を開いた。
「あの」
「何だ」
「ペンテさんは、選ぶのは怖くないんですか」
ペンテシレイアは少しだけ桜を見る。
すぐには答えなかった。
怖いかどうか。
そんな基準で考えたことは、あまりなかった。
戦場では選ぶ。
前へ出るか、退くか。
殺すか、殺されるか。
守るか、捨てるか。
怖いからやめるという選択肢は、少なくとも自分にはなかった。
「怖いかどうかで選んだことはない」
桜は目を丸くする。
「すごいです」
「すごくはない」
ペンテシレイアは窓の外を見た。
「後悔しないわけではない」
桜は黙った。
ペンテシレイアの声が、少しだけ低くなる。
「選べなかったことの方が、いつまでも残る」
姉の手。
届かなかった距離。
置いていかれた日の空。
怒りになって、鎧になって、今も身体に残っている。
桜はその全部を知っているわけではない。
でも、ペンテシレイアの声に何かがあることは分かった。
「選べなかったこと……」
「だから、選べるなら選べ」
「間違えたら?」
「間違えたら、次を選ぶ」
「次がなかったら?」
ペンテシレイアは振り返った。
桜は怯えたように自分を見ている。
小さな子ども。
マスター。
守るべき主。
そして、自分の声で自分を止めた子。
「その時は、誰かを呼べ」
「誰か……」
「姉上でもいい。私でもいい。あの虫の男でもいい」
「雁夜おじさんです」
「そうか」
桜は少しだけ口元を緩めた。
ペンテシレイアは視線を戻す。
「呼ぶことも選ぶことだ」
桜はその言葉を、ゆっくり飲み込んだ。
◇
ヒッポリュテが戻ると、桜はすぐに顔を上げた。
「怒られましたか」
「尋問された」
「じんもん……」
桜が少し困った顔をする。
ペンテシレイアは窓辺から動かずに言った。
「殺すか」
「殺すな」
「尋問したのだろう」
「まだ殺す理由には足りない」
「理由が増えたら言え」
「言わない」
桜は二人を見て、少しだけ息を吐いた。
緊張がゆるむ。
ヒッポリュテは桜の前に座る。
「大丈夫か」
「はい」
桜は頷いた。
少し迷ってから、言う。
「呼ぶことも、選ぶことだって」
ヒッポリュテはペンテシレイアを見る。
ペンテシレイアは窓の外を向いたまま、こちらを見ない。
「そうだな」
ヒッポリュテは頷いた。
「それは良い選び方だ」
桜は小さく頷いた。
その時だった。
ペンテシレイアの気配が変わった。
彼女は無言で窓から離れる。
床を見た。
畳の端。
壁際。
わずかな隙間。
そこから、小さな黒いものが這い出していた。
虫。
ただの虫ではない。
魔力を帯びた、湿った気配。
間桐の匂い。
ペンテシレイアの足が、それを踏み潰した。
ぐしゃり、と小さな音がした。
桜の顔が青ざめる。
雁夜が別室から身体を起こす気配がした。
ヒッポリュテは静かに立ち上がる。
「誰が来た」
ペンテシレイアは床を睨んだまま答えた。
「虫だ」
その一言で、隠れ家の空気が再び冷えた。