神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
潰れた虫の音は、小さかった。
けれど、その場にいた誰の耳にも、はっきりと残った。
畳の端。
壁際の影。
そこに、黒く湿ったものが潰れている。
ただの虫ではない。
小さな身体の奥に、魔力の糸が通っていた。
ペンテシレイアは足を離さない。
踏み潰したまま、低く言った。
「虫だ」
桜の顔から血の気が引いた。
何かを思い出したわけではない。
まだ、桜は知らない。
暗い地下も。
蠢く蟲の群れも。
身体の内側を奪われる感覚も。
まだ何も知らない。
それでも、分かってしまった。
その虫は、自分を探している。
自分を連れ戻そうとしている。
そのために、床の下から、壁の隙間から、見えないところを這ってきた。
桜は息を吸おうとして、うまく吸えなかった。
右手を押さえる。
令呪のある手。
ペンテシレイアと繋がっている手。
自分が戦争に数えられている証。
その手を隠すように、胸元へ寄せる。
「……いや」
声にならない声が漏れた。
ヒッポリュテはすぐに桜の前へ出た。
怒りはあった。
だが、声には出さない。
怒鳴れば、桜がさらに縮こまる。
だから、静かに息を落とす。
冷静に。
目の前のものを見誤らないように。
畳の隙間から、もう一匹が出てきた。
次に、壁の割れ目。
柱の陰。
床下から、かすかな音が広がっていく。
大量ではない。
だが、一匹ではない。
部屋を満たすほどではなく、探るように、測るように、少しずつ姿を見せる。
「探っているな」
ヒッポリュテが言う。
「なら潰す」
ペンテシレイアの声は短かった。
「潰せ。ただし、桜に近づけるな」
「言われるまでもない」
ペンテシレイアの両腕に、黒い手甲が現れた。
金属とも骨ともつかない質感。
指先から伸びる鉤爪が、室内の薄暗さの中で鈍く光る。
双剣ではない。
鎖でもない。
ここで大きく振るえば、建物ごと壊す。
桜のそばで戦うなら、近くを裂く爪が一番いい。
ペンテシレイアは床を蹴らない。
大きく動かない。
ただ、桜の周囲に線を引くように立ち、そこへ入ろうとする黒い影だけを正確に裂いた。
畳を這った虫が、鉤爪で二つに割れる。
壁を伝った虫が、指先の一振りで潰れる。
小さな音。
湿った音。
そのたびに、桜の肩が震えた。
別室から物音がした。
雁夜が起き上がってくる。
顔色は悪い。
汗が額に浮いている。
それでも、部屋に現れた虫を見た瞬間、彼の目が変わった。
「臓硯……!」
怒りと恐怖が混ざった声だった。
雁夜の身体は、すぐに動ける状態ではない。
それでも、桜の方へ行こうとする。
足がふらつく。
壁に手をつく。
その足元へ、一匹の虫が這った。
桜ではなく、雁夜へ。
まるで、そこにも馴染んだ匂いがあると分かっているように。
雁夜の顔が歪む。
ヒッポリュテが踏み込むより早く、ペンテシレイアの爪がそれを裂いた。
「邪魔だ」
短い一言。
雁夜は唇を噛む。
自分の身体に何が巣食っているかを、誰よりも知っている顔だった。
桜はそれを見て、さらに身体を小さくした。
虫が怖い。
でも、それ以上に怖い。
雁夜までもが、あの家と繋がっているように見えてしまうことが。
その時、潰れた虫の一部が、かすかに震えた。
音がした。
声だった。
湿った、古い、底から滲み出すような声。
「そこにおったか、桜」
桜の身体が完全に固まった。
知らない声のはずだった。
少なくとも、親しい声ではない。
けれど、その声は自分の名前を知っている。
自分を探している。
床下から来た虫を通して、呼んでいる。
ヒッポリュテは桜を背に隠した。
「桜に話しかけるな」
虫の死骸が、別の場所で震えた。
声はそこから続く。
「ほう。拾った者が所有を主張するか」
笑いを含んだ声だった。
ヒッポリュテの目が細くなる。
「所有ではない」
「では何じゃ」
「この子が戻らないと言った」
小さな沈黙。
そして、老人の笑い声。
「子どもの言葉を真に受けるとは、若いのう」
ペンテシレイアの鉤爪が畳を削った。
桜は震えている。
その声に従わなければならない気がしてしまう。
戻らなければならない気がしてしまう。
まだ何もされていない。
まだ知らない。
それでも、戻ったら二度と戻れない気がした。
口が勝手に動きかける。
「ごめんなさ――」
「謝るな」
ヒッポリュテの声が重なった。
怒鳴らない。
けれど、はっきりと止める声だった。
桜は息を止める。
ヒッポリュテは振り返らない。
臓硯の声を睨みながら、それでも桜へ届くように言う。
「お前は悪くない」
桜の喉が震えた。
悪くない。
その言葉を聞き取るだけで、力が必要だった。
床下から、別の虫が這い出す。
今度は桜の右側。
令呪のある手へ向かっている。
見るからに小さい。
けれど、その動きは明確だった。
桜の位置を知るためではない。
桜の魔力を測るため。
令呪の反応を探るため。
ペンテシレイアとの接続に触れるため。
ペンテシレイアの目が燃える。
「触れるな」
鉤爪が虫を裂いた。
だが、その陰からもう一匹が抜ける。
小さな虫が、畳の模様に紛れて桜の足元へ滑り込む。
桜は動けなかった。
足がすくんでいる。
声も出ない。
ペンテシレイアが反応する。
だが、別方向の虫を潰した直後で、わずかに遅れる。
その一瞬。
桜は、右手を押さえたまま、必死に声を出した。
「ペンテさん」
小さな声だった。
助けて、とも言えなかった。
ただ、名前を呼んだだけ。
けれど、それで十分だった。
ペンテシレイアが跳んだ。
鉤爪が床をかすめ、桜の足元に迫っていた虫を正確に潰す。
湿った音。
黒い体液が畳に滲む。
ペンテシレイアは桜の前に戻る。
「呼ぶのが遅い」
声は鋭い。
だが、怒っているのではない。
桜は震えながら頷いた。
「……はい」
虫の声が笑った。
「ほう。器が、獣を繋いでおるのか」
「誰が獣だ」
ペンテシレイアの声が低くなる。
臓硯は構わず続ける。
「まだ何も仕込んでおらぬというのに、随分と面白い縁を結んだものよ。桜、よいものを得たのう」
桜は何も言えない。
得た。
縁。
器。
その言葉の全部が、自分を物として見ているように聞こえた。
「ならば、それごと間桐に戻すとしよう」
ペンテシレイアの殺気が跳ねる。
雁夜が耐えきれず前へ出た。
「臓硯……桜ちゃんに触るな……!」
虫の声が、今度は雁夜へ向いた。
「雁夜か。まだ生きておったか」
それだけで、雁夜の顔が青ざめた。
人を見る言葉ではなかった。
道具の状態を確認する声だった。
「お前も戻れ。役目はまだ残っておる」
雁夜の身体が震える。
怒りで。
恐怖で。
自分があの家に戻ればどうなるかを知っているから。
それでも、桜の前で膝をつきたくなかった。
雁夜は壁を掴み、歯を食いしばる。
言葉は出ない。
だが、桜を見る。
桜がそれに気づく。
雁夜も怖いのだ。
怖いのに、立っている。
ヒッポリュテは一瞬だけ雁夜を見た。
それから、部屋全体の気配を読む。
虫は増えている。
だが、まだ本隊ではない。
探りだ。
観察だ。
位置を掴み、桜の反応を見て、ペンテシレイアとの関係を測っている。
ここで全て潰しても、臓硯本体には届かない。
建物の下を這うものを相手に、ここで粘れば桜が削られる。
雁夜も限界。
ペンテシレイアは怒りで燃えている。
正面から叩き潰したい気持ちは、ヒッポリュテにもあった。
だが、今は違う。
「ここを捨てる」
ヒッポリュテは言った。
ペンテシレイアが振り返る。
「逃げるのか」
「桜を連れている」
その一言で、ペンテシレイアは黙った。
悔しそうに唇を噛む。
だが、反論はしない。
今は勝つことではない。
桜をここから出すことだ。
「前を開け」
「分かった」
ペンテシレイアが先に動いた。
黒い手甲の鉤爪が、入口周辺に集まり始めた虫を切り裂く。
虫は小さい。
だが、魔力を帯びたそれらは、普通の虫よりずっと執拗だった。
踏み潰されても、裂かれても、別の一匹が隙間から出てくる。
床下。
壁。
柱。
建物そのものが、少しずつあの家に浸食されていくようだった。
ヒッポリュテは桜の肩を支える。
「歩けるか」
桜は震えながら頷いた。
「はい」
「怖いなら言え」
「……怖いです」
「分かった」
それでいい。
言えたなら、動ける。
雁夜が後ろでふらつく。
足元に虫が寄る。
ヒッポリュテが拾った木片でそれを叩き潰す。
神代の斧は呼ばない。
ここで出すには重すぎる。
建物ごと裂いて、桜まで巻き込む。
相手は本体ではない。
切り札を使う場ではない。
代わりに、床に落ちていた折れた木片、割れた金具、壁から剥がれた板を手に取り、近づく虫だけを潰す。
武器でなくてもいい。
手に馴染むものなら、使える。
雁夜が膝をつきかけた。
「雁夜おじさん」
桜の声が飛ぶ。
小さい。
それでも、雁夜に届いた。
雁夜は顔を上げる。
そして、歯を食いしばって立ち直った。
「……大丈夫だ」
大丈夫ではない。
だが、今だけはそう言うしかない。
出口が近づく。
その時、床下から臓硯の声がまた響いた。
「桜。戻れ」
桜の足が止まりかける。
ヒッポリュテは支える。
ペンテシレイアは振り返らない。
爪で虫を裂きながら、待つ。
雁夜も息を止める。
桜は、上着の袖を握った。
ヒッポリュテの服も、少しだけ掴む。
震えている。
それでも、声を出した。
「戻りません」
弱い声。
だが、はっきりしていた。
虫の声が笑う。
「それをお前が決めるのか」
桜の身体がまた震える。
だが、今度はヒッポリュテが言う。
「決めた」
ペンテシレイアも、爪で最後の虫を裂きながら続けた。
「聞こえただろう」
短い沈黙。
それから、臓硯の声が低く笑った。
「よい。今宵はそれでよい」
虫たちの動きが、わずかに鈍る。
去るのではない。
引いたのでもない。
観察を終えただけ。
それが分かるからこそ、嫌な汗が背を伝った。
「逃げよ、桜」
臓硯の声が、床下から滲む。
「逃げた先で、自分が何に選ばれたのか、よく知るがよい」
最後の虫が、ペンテシレイアの爪に裂かれた。
声は途切れた。
だが、消えたわけではない。
見えなくなっただけだ。
ヒッポリュテは桜を連れて外へ出る。
夜風が肌に触れた。
空気は冷たい。
建物の中に溜まっていた湿った気配よりは、ずっとましだった。
その瞬間、通信機が鳴った。
ヒッポリュテは舌打ちを飲み込む。
切嗣の声が届いた。
『場所を変える』
「見ていたなら早く言え」
『君たちの対応を見る必要があった』
ペンテシレイアの鉤爪が鳴る。
「殺す」
「今はやめろ」
ヒッポリュテの声にも怒りはあった。
だが、今は桜がいる。
怒りを優先する場ではない。
『新しい場所を指定する。そこまで移動して』
「罠でない保証は」
『臓硯の虫よりはましだ』
「最悪の比較だな」
『今は選べない』
その通りだった。
腹立たしいほどに。
ヒッポリュテは桜を見た。
桜は疲れ切っている。
顔色は悪く、足元も頼りない。
雁夜も限界に近い。
ペンテシレイアは戦えるが、怒りが強すぎる。
ここでさらに追手が来れば、持たない。
「場所を言え」
◇
移動中、桜はヒッポリュテの服を掴んでいた。
先ほどより強く。
離れないように。
置いていかれないように。
ヒッポリュテは歩幅を落とす。
ペンテシレイアは前を警戒している。
雁夜は後ろで息を荒げながらついてくる。
誰も万全ではなかった。
それでも、全員が歩いていた。
桜が小さく言った。
「戻りませんって、言えました」
ヒッポリュテは前を見たまま答える。
「聞こえた」
「でも、怖かったです」
「怖いまま言えたなら、それでいい」
桜は少しだけ頷いた。
ペンテシレイアが横目で見る。
「次はもっと早く呼べ」
桜は顔を上げる。
ペンテシレイアは前を向いたまま言った。
「虫が近づく前に呼べ。足元でも、後ろでも、声が出せるなら呼べ」
「……はい」
「小さくても聞く」
桜はその言葉に、少しだけ目を見開いた。
そして、上着の袖を握り直す。
「はい」
返事はまだ小さい。
けれど、確かに前よりも少しだけ強かった。
◇
地下。
闇の中で、虫が戻ってくる。
一匹は潰れかけ、別の一匹は半分だけ残り、別のものは魔力の糸だけを届ける。
間桐臓硯は、それらを受け取りながら笑った。
「戻らぬ、か」
怒りはない。
むしろ、愉快そうだった。
桜はまだ何も仕込まれていない。
蟲蔵にも落としていない。
身体も、魔術回路も、まだ間桐の形には変えていない。
それなのに、すでにサーヴァントと繋がり、見知らぬ女に守られ、自分の口で戻らないと言った。
「器になる前から意思を持つか」
臓硯の口元が歪む。
「ならば、折る前に形を見ておくのも一興よ」
闇の奥で、虫がまた動き出す。
ゆっくりと。
確実に。
逃げたものの足跡を、次の夜へ繋ぐために。