神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す   作:あかちゅきぼちゃん

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2話 現代という異物

 

 

 軽い。

 

 最初に感じたのは、それだった。

 

 空気が軽い。

 

 肺に入ってくるはずのものが、どこか頼りない。息を吸っているのに、胸の奥まで届かない。満たされない。世界そのものが、ひどく薄くなったようだった。

 

「……薄いな」

 

 思わず、声が漏れた。

 

 目を開ける。

 

 暗い。

 

 だが、闇ではない。

 

 白い光がある。

 

 月明かりでも、篝火でも、星の光でもない。均一で、冷たく、どこまでも人工的な光。

 

 神代の夜にはなかった光だ。

 

 視線をずらす。

 

 建物が並んでいた。

 

 直線で構成された箱。

 

 均一な壁。

 

 同じ間隔で並ぶ窓。

 

 人の手が作ったものだと、一目で分かる。けれど、神殿でも砦でもない。王の居城でも、兵の詰め所でもない。

 

 もっと無機質で、もっと無駄がなく、どこか息苦しい。

 

 人の巣。

 

 そう思った。

 

 ゆっくりと身体を起こす。

 

 背中に触れていたのは、土ではなかった。草でもない。平らで硬い、冷たい地面。

 

 石に似ている。

 

 だが、自然の石ではない。

 

 人が敷き詰め、人が均し、人が歩くためだけに作った道。

 

 ヒッポリュテは片膝を立て、手を握った。

 

 開く。

 

 握る。

 

 腕を上げる。

 

 肩を回す。

 

 身体は動く。

 

 神代から引き剥がされた直後だというのに、骨は折れていない。筋も切れていない。視界の揺れも、呼吸の乱れも、致命的なものではなかった。

 

 けれど、違和感はある。

 

 肉体ではない。

 

 世界に対する違和感。

 

 肌の上にあるものが足りない。

 

 神代の空気はもっと重かった。

 

 魔力が、世界に満ちていた。

 

 水にも、土にも、風にも、木々の葉先にも、獣の吐息にも、当然のように神秘が宿っていた。

 

 それがここにはない。

 

 いや、ないわけではない。

 

 薄い。

 

 削がれている。

 

 世界そのものが、長い時間をかけて余分なものを削ぎ落とされ、乾いた骨だけになったような感覚。

 

 息を吸う。

 

 やはり軽い。

 

 軽すぎる。

 

「……現代か」

 

 言葉にすると、妙に冷たく響いた。

 

 その瞬間、視界が揺れた。

 

 火。

 

 知らない炎。

 

 夜を舐める赤。

 

 鉄の音。

 

 悲鳴。

 

 崩れる建物。

 

 黒い泥のようなもの。

 

 誰かの声。

 

 誰かの泣き声。

 

 そして、血の匂い。

 

「……っ」

 

 瞬き一つで、それは消えた。

 

 残ったのは、白い街灯と、四角い建物と、軽すぎる空気だけ。

 

 ヒッポリュテは額に手を当てる。

 

 今の光景は何だ。

 

 自分の記憶ではない。

 

 ヒッポリュテの記憶でもない。

 

 だが、まったく知らないとも言い切れない。

 

 現代人だった頃に見た物語の断片。

 

 知識。

 

 映像。

 

 記憶になりきらない記憶。

 

 それらが、神代から弾かれた衝撃で混ざっている。

 

 考えるべきことは多い。

 

 だが、今はそれより先に確かめることがあった。

 

 手を見る。

 

 何もない。

 

 空白。

 

 つい先ほどまで、そこにあった温度がない。

 

 小さな手。

 

 強く握り返してきた指。

 

 痛い、と言いかけた声。

 

 それらが、何もない掌の中にだけ残っている。

 

「……ペンテ」

 

 呼ぶ。

 

 返事はない。

 

 当然だ。

 

 ここにはいない。

 

 分かっている。

 

 分かってしまっている。

 

 あの瞬間、感触が消えた。

 

 握っていたはずの手が、そこにあったはずのものが、音もなく消えた。

 

「……離れた、か」

 

 呟く。

 

 違う。

 

 離したわけではない。

 

 自分は握っていた。

 

 離すまいとしていた。

 

 それでも、世界が裂けた。

 

 神代と、この薄い時代の間で、手が引き剥がされた。

 

 離したのではない。

 

 離れた。

 

 その差は小さい。

 

 けれど、残された側には届かない差だ。

 

 ペンテシレイアはどう思っただろう。

 

 姉が、手を握ったまま消えた。

 

 痛いと言いかけた瞬間に。

 

 目の前からいなくなった。

 

 置いていかれたと、思うのではないか。

 

 胸の奥が軋む。

 

 言い訳をしたかった。

 

 違う、と。

 

 離したのではない、と。

 

 戻るつもりだった、と。

 

 だが、その言葉を聞く相手はここにいない。

 

 ヒッポリュテは掌を強く握った。

 

 爪が食い込む。

 

 痛みがある。

 

 なら、まだ立てる。

 

 立ち上がる。

 

 足元は硬い。

 

 地面から返ってくる感触も、神代の土とは違う。命の匂いがしない。冷たく、平らで、無言だ。

 

 周囲を見回す。

 

 道。

 

 建物。

 

 灯り。

 

 電線。

 

 見慣れているはずなのに、ひどく異質なものに見えた。

 

 かつて現代人だった自分なら、これを普通の街として見ていたはずだ。

 

 だが、神代を知った身体は違う。

 

 この街は静かすぎる。

 

 整いすぎている。

 

 神の気配も、獣の息も、人が生きる荒さも、表面から削り取られているように見える。

 

 その時、視界の端に看板が入った。

 

 青い板。

 

 白い文字。

 

 ヒッポリュテは、ゆっくりそれを読んだ。

 

「……冬木市」

 

 思考が止まった。

 

 冬木。

 

 その二文字が、頭の奥に沈んでいた知識を一気に引きずり上げる。

 

 聖杯戦争。

 

 魔術師。

 

 遠坂。

 

 間桐。

 

 衛宮。

 

 教会。

 

 サーヴァント。

 

 そして。

 

「……桜」

 

 息が止まった。

 

 間桐桜。

 

 その名が浮かんだ瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちた。

 

 知っている。

 

 彼女がどこへ行くのかを。

 

 何をされるのかを。

 

 どんな場所に落とされるのかを。

 

 暗い地下。

 

 湿った石壁。

 

 蠢く虫。

 

 幼い身体。

 

 声にならない声。

 

 あれは救いではない。

 

 教育でもない。

 

 才能を伸ばすための場所でもない。

 

 ただ、人を壊す場所だ。

 

 胃の奥が重くなる。

 

 なぜ、ここに来た。

 

 なぜ、この時代なのか。

 

 なぜ、冬木なのか。

 

 考えようとした瞬間、また視界の奥で火が揺れた。

 

 知らない炎。

 

 いや、知っている炎。

 

 この街は燃える。

 

 この街は呪われる。

 

 多くの者が願いを持ち寄り、その願いの形に潰されていく。

 

 自分はそれを知っている。

 

 知ってしまっている。

 

「……間に合うか」

 

 呟いた。

 

 答えはない。

 

 今がいつなのか分からない。

 

 桜がまだ遠坂にいるのか。

 

 もう間桐へ渡されたのか。

 

 聖杯戦争は始まっているのか。

 

 始まる前なのか。

 

 何も確定していない。

 

 この身体がどこまで力を出せるのかも分からない。

 

 神代の武器を呼べるのか。

 

 神秘の薄いこの時代で、自分の力がどこまで通るのか。

 

 そもそも、自分は生身なのか。

 

 この世界に正しく存在しているのか。

 

 分からない。

 

 分からないことだらけだ。

 

 だが、一つだけ分かる。

 

 知っているのに、動かない理由にはならない。

 

 ペンテシレイアの手を失ったばかりだ。

 

 あの温度を取り戻す方法すら分からない。

 

 それでも。

 

 今、この街のどこかで、もう一人の少女が暗い場所へ落ちようとしているのなら。

 

 知ってしまっている自分が、何もしないまま立っていることはできない。

 

 ヒッポリュテは一歩踏み出した。

 

 夜の街へ。

 

 軽い空気を吸いながら。

 

 薄い世界の中へ。

 

 ここは神代ではない。

 

 自分の国でもない。

 

 守るべき民がいるわけでもない。

 

 それでも、足は止まらなかった。

 

 理由は簡単だった。

 

 この先にあるものを、知っているからだ。

 

 そして、知っている者には、知っている者の責任がある。

 

「……行くか」

 

 誰に言うでもなく呟く。

 

 返事はない。

 

 けれど、足は前へ出た。

 

 遠くで車の音がした。

 

 街灯が白く道を照らしている。

 

 空は静かだった。

 

 あまりにも。

 

 静かすぎた。

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