神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
軽い。
最初に感じたのは、それだった。
空気が軽い。
肺に入ってくるはずのものが、どこか頼りない。息を吸っているのに、胸の奥まで届かない。満たされない。世界そのものが、ひどく薄くなったようだった。
「……薄いな」
思わず、声が漏れた。
目を開ける。
暗い。
だが、闇ではない。
白い光がある。
月明かりでも、篝火でも、星の光でもない。均一で、冷たく、どこまでも人工的な光。
神代の夜にはなかった光だ。
視線をずらす。
建物が並んでいた。
直線で構成された箱。
均一な壁。
同じ間隔で並ぶ窓。
人の手が作ったものだと、一目で分かる。けれど、神殿でも砦でもない。王の居城でも、兵の詰め所でもない。
もっと無機質で、もっと無駄がなく、どこか息苦しい。
人の巣。
そう思った。
ゆっくりと身体を起こす。
背中に触れていたのは、土ではなかった。草でもない。平らで硬い、冷たい地面。
石に似ている。
だが、自然の石ではない。
人が敷き詰め、人が均し、人が歩くためだけに作った道。
ヒッポリュテは片膝を立て、手を握った。
開く。
握る。
腕を上げる。
肩を回す。
身体は動く。
神代から引き剥がされた直後だというのに、骨は折れていない。筋も切れていない。視界の揺れも、呼吸の乱れも、致命的なものではなかった。
けれど、違和感はある。
肉体ではない。
世界に対する違和感。
肌の上にあるものが足りない。
神代の空気はもっと重かった。
魔力が、世界に満ちていた。
水にも、土にも、風にも、木々の葉先にも、獣の吐息にも、当然のように神秘が宿っていた。
それがここにはない。
いや、ないわけではない。
薄い。
削がれている。
世界そのものが、長い時間をかけて余分なものを削ぎ落とされ、乾いた骨だけになったような感覚。
息を吸う。
やはり軽い。
軽すぎる。
「……現代か」
言葉にすると、妙に冷たく響いた。
その瞬間、視界が揺れた。
火。
知らない炎。
夜を舐める赤。
鉄の音。
悲鳴。
崩れる建物。
黒い泥のようなもの。
誰かの声。
誰かの泣き声。
そして、血の匂い。
「……っ」
瞬き一つで、それは消えた。
残ったのは、白い街灯と、四角い建物と、軽すぎる空気だけ。
ヒッポリュテは額に手を当てる。
今の光景は何だ。
自分の記憶ではない。
ヒッポリュテの記憶でもない。
だが、まったく知らないとも言い切れない。
現代人だった頃に見た物語の断片。
知識。
映像。
記憶になりきらない記憶。
それらが、神代から弾かれた衝撃で混ざっている。
考えるべきことは多い。
だが、今はそれより先に確かめることがあった。
手を見る。
何もない。
空白。
つい先ほどまで、そこにあった温度がない。
小さな手。
強く握り返してきた指。
痛い、と言いかけた声。
それらが、何もない掌の中にだけ残っている。
「……ペンテ」
呼ぶ。
返事はない。
当然だ。
ここにはいない。
分かっている。
分かってしまっている。
あの瞬間、感触が消えた。
握っていたはずの手が、そこにあったはずのものが、音もなく消えた。
「……離れた、か」
呟く。
違う。
離したわけではない。
自分は握っていた。
離すまいとしていた。
それでも、世界が裂けた。
神代と、この薄い時代の間で、手が引き剥がされた。
離したのではない。
離れた。
その差は小さい。
けれど、残された側には届かない差だ。
ペンテシレイアはどう思っただろう。
姉が、手を握ったまま消えた。
痛いと言いかけた瞬間に。
目の前からいなくなった。
置いていかれたと、思うのではないか。
胸の奥が軋む。
言い訳をしたかった。
違う、と。
離したのではない、と。
戻るつもりだった、と。
だが、その言葉を聞く相手はここにいない。
ヒッポリュテは掌を強く握った。
爪が食い込む。
痛みがある。
なら、まだ立てる。
立ち上がる。
足元は硬い。
地面から返ってくる感触も、神代の土とは違う。命の匂いがしない。冷たく、平らで、無言だ。
周囲を見回す。
道。
建物。
灯り。
電線。
見慣れているはずなのに、ひどく異質なものに見えた。
かつて現代人だった自分なら、これを普通の街として見ていたはずだ。
だが、神代を知った身体は違う。
この街は静かすぎる。
整いすぎている。
神の気配も、獣の息も、人が生きる荒さも、表面から削り取られているように見える。
その時、視界の端に看板が入った。
青い板。
白い文字。
ヒッポリュテは、ゆっくりそれを読んだ。
「……冬木市」
思考が止まった。
冬木。
その二文字が、頭の奥に沈んでいた知識を一気に引きずり上げる。
聖杯戦争。
魔術師。
遠坂。
間桐。
衛宮。
教会。
サーヴァント。
そして。
「……桜」
息が止まった。
間桐桜。
その名が浮かんだ瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちた。
知っている。
彼女がどこへ行くのかを。
何をされるのかを。
どんな場所に落とされるのかを。
暗い地下。
湿った石壁。
蠢く虫。
幼い身体。
声にならない声。
あれは救いではない。
教育でもない。
才能を伸ばすための場所でもない。
ただ、人を壊す場所だ。
胃の奥が重くなる。
なぜ、ここに来た。
なぜ、この時代なのか。
なぜ、冬木なのか。
考えようとした瞬間、また視界の奥で火が揺れた。
知らない炎。
いや、知っている炎。
この街は燃える。
この街は呪われる。
多くの者が願いを持ち寄り、その願いの形に潰されていく。
自分はそれを知っている。
知ってしまっている。
「……間に合うか」
呟いた。
答えはない。
今がいつなのか分からない。
桜がまだ遠坂にいるのか。
もう間桐へ渡されたのか。
聖杯戦争は始まっているのか。
始まる前なのか。
何も確定していない。
この身体がどこまで力を出せるのかも分からない。
神代の武器を呼べるのか。
神秘の薄いこの時代で、自分の力がどこまで通るのか。
そもそも、自分は生身なのか。
この世界に正しく存在しているのか。
分からない。
分からないことだらけだ。
だが、一つだけ分かる。
知っているのに、動かない理由にはならない。
ペンテシレイアの手を失ったばかりだ。
あの温度を取り戻す方法すら分からない。
それでも。
今、この街のどこかで、もう一人の少女が暗い場所へ落ちようとしているのなら。
知ってしまっている自分が、何もしないまま立っていることはできない。
ヒッポリュテは一歩踏み出した。
夜の街へ。
軽い空気を吸いながら。
薄い世界の中へ。
ここは神代ではない。
自分の国でもない。
守るべき民がいるわけでもない。
それでも、足は止まらなかった。
理由は簡単だった。
この先にあるものを、知っているからだ。
そして、知っている者には、知っている者の責任がある。
「……行くか」
誰に言うでもなく呟く。
返事はない。
けれど、足は前へ出た。
遠くで車の音がした。
街灯が白く道を照らしている。
空は静かだった。
あまりにも。
静かすぎた。