神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
新しい退避先は、古い事務所跡だった。
住宅街から離れた、小さな雑居ビルの三階。
階段は狭く、壁にはひびがあり、床には古い埃が薄く積もっている。窓には内側から黒い布が貼られ、外から明かりが漏れないようにされていた。
部屋の中にあるのは、折り畳まれた毛布、水、保存食、簡易の医療品。
前の隠れ家にあったような、かろうじて家と呼べる温度はない。
ただ、逃げるために用意された場所。
隠れるために整えられた箱。
切嗣らしい場所だった。
桜は部屋に入ると、すぐに足を止めた。
視線が床を滑る。
壁の隙間。
机の下。
窓際。
何もいない。
虫はいない。
それでも、確かめずにはいられないのだろう。
ペンテシレイアは真っ先に部屋の四隅を確認した。窓。扉。天井。床。気配を探り、壁を軽く爪で叩き、何もないと分かってから、ようやく桜のそばへ戻る。
雁夜は部屋の入口近くで息を荒げていた。
階段を上るだけでも、今の身体には重すぎたのだろう。額には汗が浮かび、片手で壁を支えている。
ヒッポリュテは最後に扉を閉めた。
鍵をかける。
さらに、切嗣から渡された簡易の防犯具を取りつける。
金属の音が、部屋に小さく響いた。
安全。
そう呼ぶには、あまりに冷たい。
だが、今はここしかなかった。
「座れ」
ヒッポリュテが言うと、桜は小さく頷いた。
部屋の隅に敷かれた毛布の上へ座る。
けれど、身体は休む形にならない。
膝を抱え、右手を隠すように胸元へ寄せている。
ペンテシレイアがその隣に立った。
雁夜は壁際へ腰を落とす。
全員が座っても、空気は落ち着かなかった。
前の場所を失った。
その事実が、部屋の中に沈んでいる。
桜がぽつりと言った。
「私がいたから……」
小さな声だった。
けれど、ヒッポリュテには聞こえた。
ペンテシレイアも、雁夜も顔を上げる。
桜はさらに身体を小さくした。
「私がいたから、虫が来て……また、場所がなくなって……」
「違う」
ヒッポリュテはすぐに言った。
声は荒くしない。
だが、曖昧にはしなかった。
桜がびくりと肩を揺らす。
ヒッポリュテは、少しだけ声を落とした。
「お前がいるから危険なのではない」
桜は顔を上げない。
ヒッポリュテは続ける。
「お前を物のように扱う者がいるから危険なんだ」
部屋が静まる。
その言葉は、桜だけではなく、雁夜にも刺さったようだった。
間桐の家。
遠坂の家。
魔術師の家。
どこも、桜を一人の子どもとして見ていない。
血。
才能。
器。
契約。
そういう言葉で包み、運び、奪おうとする。
危険なのは桜ではない。
桜を奪おうとする者たちだ。
桜は唇を噛んだ。
「でも……」
「でも、ではない」
ペンテシレイアが言った。
桜がそちらを見る。
ペンテシレイアは腕を組み、壁にもたれている。
顔は険しい。
だが、声は桜を責めていない。
「虫が来たのは桜のせいではない。あの声のせいだ」
あの声。
臓硯。
その名前を出さないまま、部屋の温度が下がる。
ペンテシレイアの指がかすかに動いた。
手甲は出していない。
だが、いつでも出せる。
「あの声を生かしておく理由がない」
低い声だった。
雁夜が顔を上げる。
同じ怒りが、そこにあった。
いや、雁夜の怒りはもっと濁っていた。
恐怖。
後悔。
自責。
そして、長く染みついた憎悪。
「あいつを殺せば終わるだろ」
雁夜が言った。
掠れた声。
しかし、言葉だけは強い。
「あの虫爺を殺せば……桜ちゃんはもう追われない。間桐だって、あいつがいなきゃ――」
「終わらない」
ヒッポリュテは遮った。
雁夜の目が鋭くなる。
「なんでだよ」
「終わらないからだ」
「殺してもか」
「殺してもだ」
雁夜が壁を殴った。
鈍い音がした。
桜の肩が跳ねる。
雁夜はそれに気づき、拳を止めた。
だが、怒りは止まらない。
「じゃあ何もしないのかよ!」
「違う」
ヒッポリュテは雁夜を見た。
「怒りで決めないだけだ」
「怒らないでいられるかよ……!」
「怒っている」
その返答に、雁夜は言葉を詰まらせた。
ヒッポリュテの声は静かだった。
けれど、その奥にあるものは冷たく燃えていた。
「あの声を聞いた時、私も殺しに行きたかった。桜に近づく虫を見た時、あの家ごと砕きたかった」
桜が顔を上げる。
ペンテシレイアも、少しだけ視線を向けた。
「だが、怒りで間桐へ向かえば、桜を連れて敵の腹の中へ入ることになる」
雁夜は歯を食いしばる。
「俺が行く」
「お前一人でか」
「……」
「戻れば、お前も使われる」
雁夜の顔が歪む。
分かっている。
分かっているからこそ、言われるのが痛い。
ヒッポリュテは続けた。
「あの家は、人が死んでも仕組みが残る」
静かな言葉だった。
「蟲。術式。土地。血。契約。家の中に積み重なったもの。あの老人一人を殺せば消えるほど、軽いものではない」
雁夜は何も言えなかった。
ペンテシレイアが苛立ったように舌打ちする。
「なら、本体も仕組みも全部壊せばいい」
「壊し方を知らずに踏み込めば、こちらが呑まれる」
「姉上はいつも止める」
「桜を連れている」
その一言で、ペンテシレイアは黙った。
桜が、小さく息を呑む。
ペンテシレイアは悔しそうに視線を逸らす。
それは逃げではなかった。
桜を置いていけない。
桜を危険に晒せない。
その事実が、ペンテシレイアの怒りを押さえつけている。
彼女自身が、それを認め始めている。
通信機が鳴った。
部屋の中の全員が反応する。
ヒッポリュテは少しだけ眉を寄せ、通信機を取った。
『落ち着いた?』
切嗣の声だった。
「落ち着いて見えるか」
『見えない』
「なら聞くな」
短い沈黙。
切嗣は気にした様子もなく続けた。
『前の隠れ家は破棄する。臓硯は桜の位置と、バーサーカーとの接続状態をある程度把握したと見ていい』
「見ていたなら、最初からそう言え」
『君たちの対応を見る必要があった』
ペンテシレイアの気配が鋭くなる。
「殺す」
ヒッポリュテが片手で制した。
「今はやめろ」
『間桐邸への強襲は勧めない』
切嗣の声は冷たい。
『臓硯の本体位置、蟲の配置、邸内の術式構造、どれも不明だ。向こうの領域に入れば、君たちは敵の腹の中に入ることになる』
雁夜が通信機へ向かって言う。
「それでも、桜ちゃんを狙われ続けるよりは――」
『桜を連れて行くのか』
雁夜の声が止まった。
切嗣は続ける。
『置いていくなら、誰が守る。連れて行くなら、誰が逃がす。バーサーカーを突入させれば、その間、桜はどうする。君が守るのか、間桐雁夜』
雁夜は、顔を伏せた。
答えられない。
自分が弱いことを、誰よりも分かっている。
それでも守りたい。
その矛盾が、喉を塞いでいる。
ヒッポリュテは通信機を握り直した。
「情報が必要か」
『そうだ』
「それを取りに行く手段は」
『こちらで探る。君たちは動くな』
「命令か」
『助言だよ。命令にしてもいいけど』
「不愉快だな」
『お互い様だ』
通信の向こうで、紙をめくる音がした。
『臓硯は今日の接触で満足していない。次はもっと深く来る。場所の変更だけでは不十分だ。桜の魔力反応を抑える方法も考える必要がある』
桜が右手を握った。
ヒッポリュテはそれを見て、声を低くする。
「桜を道具のように扱う言い方をするな」
『事実を話している』
「なら、言葉を選べ」
少しの沈黙。
『……分かった』
切嗣にしては、珍しく引いた。
ヒッポリュテは続ける。
「今は攻めない」
ペンテシレイアがこちらを見る。
雁夜も顔を上げる。
ヒッポリュテは二人に向けて言った。
「桜を理由に諦めるんじゃない」
桜の肩が震える。
「桜を守るために、順番を選ぶ」
その言葉に、桜は俯いた。
足手まとい。
きっと、そう思いかけていたのだろう。
だが、その言葉は違うと伝えるために出したものだった。
守るために順番を選ぶ。
諦めるのではない。
怒りに任せて走らないだけだ。
ペンテシレイアは唇を噛んだ。
「……分かった」
小さな声だった。
だが、確かに引いた。
雁夜も、壁にもたれたまま何も言わなかった。
通信機の向こうで、切嗣が続ける。
『しばらくはそこを使って。必要物資は追加で入れる。虫の侵入経路は塞ぐが、完全には信用しない方がいい』
「最初から信用していない」
『ならいい』
通信が切れた。
部屋に静けさが戻る。
けれど、それは落ち着いた静けさではない。
熱を押し殺した静けさだった。
◇
しばらくして、ペンテシレイアは桜の前にしゃがんだ。
桜は少し驚いた顔をする。
ペンテシレイアは真剣な目で言った。
「次は、虫を見る前に呼べ」
「見る前……ですか」
「ああ」
「でも、見えなかったら……」
「嫌だと思ったら呼べ」
桜は目を丸くした。
「嫌だと思っただけで……?」
「十分だ」
即答だった。
桜は困ったように手元を見る。
「でも、間違いだったら」
「間違いなら、それでいい」
「迷惑じゃ……」
「迷惑ではない」
ペンテシレイアの声は少し強くなった。
桜が肩を揺らすと、彼女は少しだけ言葉を整えるように息を吐いた。
「虫が来てから呼ぶよりいい。怖くなってから固まるよりいい。嫌だと思ったなら、先に呼べ」
桜は、ゆっくり頷いた。
「……はい」
「小さくても聞く」
その言葉に、桜の目がわずかに揺れた。
誰かが聞く。
小さな声でも。
理由がはっきりしなくても。
嫌だと思っただけでも。
呼んでいい。
そのことが、桜の中に少しずつ沈んでいく。
ヒッポリュテは黙って二人を見ていた。
ペンテシレイアは不器用だ。
言葉も強い。
けれど、桜に必要なことを、まっすぐ伝えている。
それはきっと、ヒッポリュテだけでは届かない言葉だった。
◇
雁夜は、いつの間にか部屋の外へ出ようとしていた。
扉の前で、ヒッポリュテが声をかける。
「どこへ行く」
雁夜の肩が止まる。
「……少し、頭を冷やすだけだ」
「一人で行くな」
「俺がいても役に立たない」
吐き捨てるような声だった。
雁夜は振り返らない。
「虫を見ただけで、身体が動かなくなる。あいつの声を聞いただけで、震える。桜ちゃんを守るって言って、結局、また守られてる」
拳が握られる。
「俺は何のために戻ってきたんだよ」
ヒッポリュテは少しだけ黙った。
それから言う。
「桜が呼んだ時、お前は立った」
雁夜の背中が揺れる。
「何もできてない」
「立った」
「それだけだ」
「それで十分な時もある」
雁夜は黙った。
背中が小さく震えている。
泣いているのか、怒っているのか、分からない。
ヒッポリュテは続けた。
「桜が名前を呼んだ。お前は倒れずに立った。それを桜は見ていた」
「……そんなの」
「そんなの、ではない」
雁夜はゆっくり振り返った。
目の下に濃い影がある。
顔色は悪い。
けれど、先ほどより少しだけ呼吸が整っていた。
「俺は……臓硯を殺したい」
「知っている」
「桜ちゃんをあの家から遠ざけたい」
「それも知っている」
「でも、怖い」
小さな声だった。
雁夜自身が、それを認めるのに力を使っているようだった。
ヒッポリュテは頷いた。
「怖いなら、一人で行くな」
雁夜は何も言わなかった。
しばらくして、扉から手を離す。
そして、部屋の中へ戻った。
桜はその様子を見ていた。
何も言わない。
ただ、少しだけ毛布を握る手の力が緩んだ。
◇
別の場所。
セイバーは夜の空を見ていた。
冬木の街に、また違う気配が広がっている。
剣で斬れる敵とは違う。
地の底を這い、隙間を伝い、目に見えない場所から人を絡め取るような気配。
不快だった。
アイリスフィールが隣へ来る。
「気になるのね」
セイバーは少しだけ頷いた。
「はい」
彼女は遠くを見る。
あの女王。
ヒッポリュテ。
一人を守れない者が、多くを守れるとは思わない。
その言葉は、まだセイバーの中に残っている。
「彼女は、また誰かを守るために戦うのでしょう」
アイリスフィールは柔らかく聞く。
「あなたもそうでしょう?」
セイバーはすぐには答えなかった。
民を守る。
国を守る。
誓いを守る。
それは、これまで迷わなかった言葉だ。
だが、今は少しだけ違う問いとして胸に残る。
誰を守るのか。
何のために守るのか。
その中に、自分自身はいるのか。
セイバーは目を伏せる。
「私は、守るために剣を取りました」
「ええ」
「ですが……守るものの顔を、私はどこまで見ていたのでしょうか」
アイリスフィールは何も言わなかった。
ただ、そばに立っていた。
◇
さらに別の場所。
ウェイバーは、夜風に身を縮めながらライダーの背中を見ていた。
「なあ、もう帰ろうぜ。こんな夜中に何見てるんだよ」
ライダーは腕を組み、冬木の街を見渡している。
その顔には、妙に楽しそうな笑みが浮かんでいた。
「王が多い夜だ」
「は?」
「剣の王。金色の王。そして、妙な女王」
「妙な女王って何だよ……」
「それに、地の底から這う蛇のような気配もある。いや、虫か。どちらにせよ、酒の肴には困らぬ」
ウェイバーは顔を引きつらせた。
「お前、また何かする気だろ」
「決まっておろう」
ライダーは豪快に笑った。
「王が増えたなら、杯を交わす」
「なんでそうなるんだよ!」
「王とは、互いに量らねばならんものだ。剣を交えるもよし、酒を交えるもよし。今宵の冬木は、少々陰気が過ぎる」
ライダーは空を見上げる。
その目は、戦場を見る王の目だった。
ただの興味ではない。
王として、王を見たい。
その欲望が、はっきりと宿っている。
「ならば、明るくしてやらねばな」
ウェイバーは頭を抱えた。
「絶対ろくなことにならない……」
「ろくなことになる宴など、つまらん」
ライダーは笑った。
その笑い声は、冬木の薄い夜を少しだけ揺らした。
◇
新しい退避先では、ようやく全員が少しだけ座り直していた。
休めてはいない。
だが、走り続けるよりはましだった。
桜は毛布の端を握りながら、ヒッポリュテを見た。
「あの」
「なんだ」
「私は、ここにいてもいいんですか」
ヒッポリュテは桜を見る。
その問いは、前にも聞いたものに似ていた。
けれど、意味は違った。
ここが安全な場所なのかを聞いているのではない。
自分がいるせいで危険が来るのに、それでもいていいのか。
そう聞いている。
「いい」
ヒッポリュテは答えた。
桜は続ける。
「虫が、また来ても?」
「来たら潰す」
ペンテシレイアが横から言う。
「呼べ」
雁夜も、壁にもたれたまま顔を上げた。
「俺も、立つ」
桜は三人を見た。
ヒッポリュテ。
ペンテシレイア。
雁夜。
誰も万全ではない。
誰も絶対ではない。
それでも、そこにいる。
桜のために、そこにいる。
桜は目を伏せた。
「……はい」
ヒッポリュテは静かに言った。
「ここにいることを、謝るな」
桜の指が、毛布を握る。
少しだけ強く。
けれど、さっきよりも震えは小さかった。
外の夜は、まだ静かだった。
だが、その静けさの向こうで、何かが動き始めている。
王が杯を思い、魔術師が策を練り、虫が地の底で蠢いている。
それでも今だけは、誰も動かなかった。
この冷たい部屋の中で、桜は初めて、謝らずに息を吸おうとしていた。