神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
朝と呼ぶには、あまりにも薄い光だった。
黒い布で塞がれた窓の隙間から、わずかに白が差し込んでいる。古い事務所跡の空気は冷たく、夜の湿気がまだ床に沈んでいた。
桜は目を覚ますと、最初に床を見た。
古びた床板。
埃。
机の脚。
壁際の影。
虫はいない。
いないはずだった。
それでも、見てしまう。
床の隙間に黒いものがないか。
壁の割れ目から何かが這い出してこないか。
机の下に、小さな影が動いていないか。
「……見てしまいます」
桜は小さく言った。
隣にいたヒッポリュテが視線を向ける。
「いないって、分かってても」
桜の声は、どこか申し訳なさそうだった。
怖がることすら、悪いことのように思っている顔。
ヒッポリュテは首を横に振る。
「見ていい」
桜が顔を上げた。
「確かめることは、悪いことじゃない」
「でも……」
「怖いものを、見ないふりする方が危ない」
そう言うと、桜はもう一度床を見た。
今度は、少しだけゆっくりと。
逃げるためではなく、確かめるために。
ペンテシレイアは窓辺に立っていた。
一晩中、まともに眠っていない。
それでも、疲労を顔には出していなかった。
彼女は水の容器を一つ手に取り、桜の前へ差し出す。
「飲め」
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
ペンテシレイアは即座に言った。
「次に虫を見たら、先に呼べ」
桜は水を受け取りながら、小さく頷く。
「はい」
「見てからでは遅い時もある。嫌だと思ったら呼べ」
「……はい」
「小さくてもいい」
ペンテシレイアの声は硬い。
けれど、桜に向けられているものは以前とは違った。
命令ではない。
守るための確認だった。
桜は両手で水を持ち、少しずつ飲んだ。
雁夜は壁際で横になっていた。
眠っているのか、意識を落としているだけなのか分からない。顔色は悪く、呼吸も浅い。
それでも、時折桜の方へ視線を向けている。
誰も休めていない。
けれど、誰も完全には倒れていなかった。
その時、通信機が鳴った。
ペンテシレイアの視線が鋭くなる。
桜の手が水の容器を握る。
ヒッポリュテは通信機を取った。
『間桐の虫の活動は一時的に引いている』
衛宮切嗣の声だった。
『ただし、位置が完全に隠せているわけじゃない。臓硯は次に、もっと大きな手を打つ可能性が高い』
「だろうな」
『遠坂側も桜の状況を再確認しようとしている。アーチャーの接触以降、各陣営の動きが不安定になっている』
「それをわざわざ伝える理由は」
『今夜、別の接触があるかもしれない』
ペンテシレイアが眉を寄せる。
「間桐か」
『違う』
切嗣の声は、少しだけ間を置いた。
『もっと騒がしい相手だ』
ヒッポリュテは目を細めた。
騒がしい相手。
この戦争で、その言葉が似合うサーヴァントは限られる。
通信はそれ以上多くを語らなかった。
『不用意に動かないで。接触があった場合、応じるかどうかは状況次第だ』
「ずいぶん曖昧だな」
『相手が曖昧を嫌うタイプじゃないからね』
「面倒だ」
『同感だ』
通信が切れる。
部屋に沈黙が戻った。
ペンテシレイアが不快そうに言う。
「どいつもこいつも勝手に来る」
「聖杯戦争だからな」
「客が多すぎる」
「歓迎はしていない」
桜は二人の会話を聞きながら、水を握っていた。
また誰かが来る。
その言葉だけで、身体が緊張する。
けれど、今度は床だけを見るのではなく、ペンテシレイアの方を一度見た。
呼べ。
小さくてもいい。
その言葉を、確かめるように。
◇
冬木の夜を待たず、ライダーはすでに動いていた。
いや、正確には、動く前から騒がしかった。
「お前、何する気だよ!」
ウェイバーの声が、路地裏に響く。
目の前には、酒瓶と酒樽。
どこから持ってきたのか、聞くのも怖い量だった。
ライダーはそれらを満足げに眺め、腕を組んでいる。
「王を集める」
「意味が分からない!」
「意味は杯の中にある」
「ない! 絶対ない!」
ウェイバーは頭を抱えた。
このサーヴァントは、戦術や作戦を考えていないわけではない。
ただ、それ以上に自分のやりたいことを優先する。
そして、そのやりたいことの規模が大きすぎる。
ライダーは街の方を見た。
大きな目が、楽しげに細められる。
「セイバーは硬い。金ぴかは眩しすぎる。だが、あの女王は妙だ」
「女王って……あの桜って子のところにいるやつか?」
「うむ」
ライダーは頷いた。
「王の匂いがする。だが、国を背負う匂いではない。玉座に座る者というより、誰かの手を握ったまま走っている者の顔をしておる」
「それ、王なのか?」
「だからこそ見たいのだ」
ライダーは豪快に笑った。
「王の形は一つではない。ならば、杯の前で並べてみるのが一番早い」
「早くないだろ……どう考えても戦闘になるだろ……」
「戦闘になるなら、それはそれでよい」
「よくない!」
ウェイバーの悲鳴に、ライダーはますます愉快そうに笑った。
◇
最初の招待は、セイバーへ届いた。
アインツベルンの拠点周辺。
警戒に立っていたセイバーの前へ、ライダーは堂々と姿を現した。
隠れる気はない。
殺気もない。
しかし、その存在感だけで空気が揺れる。
「セイバーよ」
ライダーは腕を広げた。
「今宵、王の宴を開く」
セイバーは眉を寄せる。
「宴、ですか。この戦いの最中に」
「戦いの最中だからこそだ。剣を交える前に、王の器を量る。酒はそのためにある」
「私は遊興のために剣を取っているのではありません」
「誰が遊興と言った」
ライダーは笑う。
「王が王を問うのだ。これもまた戦よ」
アイリスフィールは少しだけ目を瞬かせ、それから興味深そうにライダーを見た。
セイバーは答えない。
その耳元に、切嗣からの通信が届く。
『応じる必要はない』
短い声。
予想通りの声だった。
セイバーはわずかに目を伏せる。
「必要があるかどうかは、私が見極めます」
『セイバー』
「彼は戦いに来たのではありません」
『それも罠かもしれない』
「その可能性も含めて、見極めます」
通信の向こうで、切嗣が沈黙する。
アイリスフィールは静かにセイバーを見守っていた。
セイバーはライダーへ向き直る。
「そこに誰が来るのです」
「我と貴様。金ぴか。そして、あの妙な女王だ」
セイバーの表情がわずかに変わる。
ヒッポリュテ。
あの女王。
一人を守れない者が、多くを守れるとは思わない。
その言葉が、まだ胸の中に残っている。
「……分かりました」
セイバーは言った。
「ただし、無辜の者を巻き込む場ならば、私は退きません」
「よい!」
ライダーは満足そうに笑った。
「堅いが、それもまた貴様よ」
◇
遠坂邸。
金色のサーヴァントは、退屈そうに杯を傾けていた。
その目が、不意に細くなる。
遠くから届いた気配。
挑発というには豪快で、招待というには無遠慮。
王を呼ぶ声。
「宴だと?」
口元がわずかに上がる。
時臣はすぐに察した。
「王よ、軽率な外出は――」
「王が招かれた宴に出ぬ理由があるか」
遮られる。
時臣は沈黙した。
止めることはできない。
令呪を使うほどのことではない。
そして、使ったところで、この王の不興を買うだけだ。
金色のサーヴァントは立ち上がる。
「あの半端な王冠も来るなら、少しは酒が進む」
時臣がわずかに顔を上げる。
「あの女も来ると?」
「来るかどうかを見に行くのも、また一興よ」
彼は笑った。
遠坂邸の空気が、一瞬で王の気配に塗り替えられる。
時臣は深く頭を下げるしかなかった。
◇
その日の夜。
声は、退避先のすぐ外からではなかった。
少し離れた大通りの方角。
それでも、サーヴァントの声は夜気を割り、古い事務所跡の中まで届いた。
「隠れておる女王よ!」
ビルの窓が震えたように感じた。
「酒の誘いに耳を塞ぐほど、臆病ではあるまいな!」
ペンテシレイアが即座に立ち上がる。
「殺すか」
「待て」
ヒッポリュテも立っていた。
「たぶん戦いに来たわけじゃない」
「なぜ、どいつもこいつも勝手に来る」
「私も知りたい」
桜は毛布を握っていた。
またサーヴァントの気配。
けれど、金色のサーヴァントの時とは違う。
あの時は、空気そのものが上から押し潰された。
今回は違う。
大きい。
熱い。
騒がしい。
怖くないわけではない。
でも、凍るような恐怖ではなかった。
ヒッポリュテは外へ出た。
ペンテシレイアは桜の前に立ったまま動かない。
雁夜も壁に手をつきながら、様子をうかがっている。
ビルから少し離れた大通り。
そこに、ライダーが立っていた。
横には、青ざめた顔の少年。
ウェイバー。
退避先そのものへ踏み込む気はないのだろう。
だが、こちらがいる方角を分かっていると言わんばかりに、堂々と夜道の真ん中に立っていた。
ライダーはヒッポリュテを見るなり、満足そうに頷いた。
「ふむ。やはり王の気配はある。だが、妙だな」
「何がだ」
「貴様は玉座よりも、逃げる子の背を見ている顔をしておる」
ヒッポリュテは黙った。
ライダーは続ける。
「だが、それもまた王の顔かもしれん」
セイバーとは違う。
アーチャーとも違う。
この王は、断じる前に面白がる。
その器の大きさが、厄介だった。
「用件は」
「今宵、王たちで杯を交わす」
ライダーは笑う。
「セイバー、金ぴか、そして貴様だ」
「桜を置いて行く気はない」
即答だった。
ライダーの視線が、ヒッポリュテの背後へ向く。
ヒッポリュテが半歩前に出る。
その動きを見て、ライダーは愉快そうに目を細めた。
「抱え込むな、女王」
「何?」
「王が一人で抱えていては、配下は育たん」
その言葉に、ヒッポリュテの表情がわずかに止まる。
ペンテシレイアにも聞こえたのだろう。
建物の奥で、気配が少し動いた。
「守りを置け。信じて預けろ。それができぬ王は、いずれ誰も前に進ませられん」
「勝手なことを言う」
「勝手でなければ王などやっておれん」
ライダーは堂々と言い切った。
ウェイバーが後ろで小さく呻く。
「それはたぶん違う……」
ヒッポリュテはライダーを見た。
この男は戦いに来たわけではない。
だが、ただ酒を飲みに来たわけでもない。
王を量りに来ている。
こちらが何を背負い、何を捨て、何を願うのか。
それを見に来ている。
「場所は」
ヒッポリュテが聞くと、ライダーはにやりと笑った。
「来る気になったか」
「聞いただけだ」
「今宵、城の庭で待つ。酒は持っていく。逃げてもよいが、その場合は臆したと見る」
「安い挑発だ」
「乗れば十分よ」
ライダーは豪快に笑い、背を向けた。
「ではな、妙なる女王よ。今宵は王を問う夜になるぞ」
彼の気配が遠ざかる。
騒がしさだけが、しばらく夜に残った。
◇
通信機が鳴ったのは、その直後だった。
予想通りだった。
ヒッポリュテは通信機を取る。
『行った方がいい』
切嗣の声。
「桜を置いて宴に出ろと」
『情報が取れる。セイバー、アーチャー、ライダーが同席する機会はそうない』
「お前は本当に腹立たしいな」
『よく言われる』
「反省は」
『必要ならする』
「していないな」
『今はそれより、行くかどうかだ』
切嗣の声は冷静だった。
『ライダーの目的、アーチャーの反応、セイバーへの影響、そして君自身の願い。全部を見られる場になる』
「私を観察するためでもあるわけだ」
『当然』
「隠せ」
『隠す意味がない』
ヒッポリュテは深く息を吐いた。
腹が立つ。
だが、切嗣の判断が間違っているわけではない。
王たちが集まる。
そこには情報がある。
危険もある。
そして、自分が避け続けてきた問いもある。
聖杯に何を願うのか。
自分は王なのか。
ペンテシレイアの手を、願いで取り戻したいのか。
その願いは、今ここで桜の手を取った自分を否定しないのか。
答えは出ていない。
だからこそ、行く意味があるのかもしれない。
『桜の護衛はバーサーカーがいる』
「ペンテを都合よく数えるな」
『戦力として数えるのは当然だ』
「……もう切るぞ」
『判断は早めに』
通信が切れる。
ヒッポリュテはしばらく通信機を見ていた。
◇
部屋へ戻ると、全員がこちらを見ていた。
桜は不安そうに。
ペンテシレイアは険しい顔で。
雁夜は疲れた目で。
ヒッポリュテは口を開くまで少し時間を置いた。
「行くべきだと、言われた」
ペンテシレイアが眉を寄せる。
「誰に」
「切嗣に」
「なら行くな」
「気持ちは分かる」
「姉上」
ペンテシレイアの声が少し強くなる。
「桜を置いていくのか」
その言葉で、胸の奥が軋んだ。
置いていく。
その響きは重い。
ペンテシレイアの手を失った時の感触が蘇る。
握っていたはずなのに、離れた手。
痛いと言いかけた声。
白く弾けた視界。
置いていくわけではない。
そう言いたい。
だが、残される側にとって、その違いは届くのか。
ヒッポリュテは答えられなかった。
その時、桜が口を開いた。
「行っても、大丈夫です」
小さな声。
けれど、確かに自分から出した声だった。
ヒッポリュテは桜を見る。
桜は怖そうだった。
でも、言葉を続けた。
「ペンテさんが、います」
ペンテシレイアが少しだけ目を見開く。
桜はペンテシレイアを見る。
「怖くなったら、呼びます」
それは、これまでの夜から繋がった小さな答えだった。
呼ぶ。
頼る。
嫌だと思ったら声にする。
その相手として、桜はペンテシレイアの名を選んだ。
ペンテシレイアはしばらく桜を見ていた。
やがて、ヒッポリュテへ向き直る。
「行け」
短い言葉。
「桜は私が守る」
ヒッポリュテは動けなかった。
その言葉は、ただの留守番ではなかった。
以前なら、ペンテシレイアは必ず自分も行くと言った。
置いていくなと怒った。
姉の隣に立とうとした。
けれど今は、桜のそばに残ると言っている。
任されることを、受け入れている。
「置いていくわけじゃない」
ヒッポリュテは言った。
自分に言い聞かせるように。
ペンテシレイアはすぐに返す。
「分かっている」
そして、少しだけ不満そうに付け加えた。
「任せるんだろう」
その言葉で、ヒッポリュテはようやく息を吐いた。
「ああ」
「なら行け」
ペンテシレイアは桜の前に立った。
「その間、桜には虫一匹近づけない」
桜は小さく頷く。
雁夜が壁際から言った。
「俺も……ここにいる」
声は弱い。
それでも、目は逃げていなかった。
ヒッポリュテは三人を見た。
桜。
ペンテシレイア。
雁夜。
不安は消えない。
消えるはずがない。
けれど、任せるしかない。
抱え込むことと、守ることは同じではない。
ライダーの言葉が、腹立たしいほどに残っていた。
ヒッポリュテは桜の前に膝をつく。
「怖くなったら呼べ」
「はい」
「嫌だと思っただけでもいい」
桜は少しだけ頷く。
「ペンテさんを呼びます」
ペンテシレイアが横から言う。
「すぐ呼べ」
「はい」
ヒッポリュテは桜の頭に手を置きかけて、止めた。
触れていいか迷う。
桜はそれに気づいたのか、小さくこちらを見た。
そして、ほんの少しだけ頭を下げた。
触れていい、というように。
ヒッポリュテは、そっと桜の髪に触れた。
「すぐ戻る」
桜は小さく頷いた。
◇
宴の場所へ向かう道すがら、ヒッポリュテは一人だった。
夜風が冷たい。
現代の空気は相変わらず薄い。
だが、今夜はそこに別の濃さが混じっている。
王たちの気配。
聖杯戦争の中心にいる者たちが、一つの場所へ集まろうとしている。
王。
その言葉が、胸の中で重く響く。
自分は、まだ王なのか。
国はない。
民もいない。
神代は遠い。
あるのは、離れた妹の手の記憶と、今守ろうとしている少女の温度だけ。
聖杯に願うものはある。
あるはずだ。
ペンテシレイアの手を取り戻したい。
あの瞬間へ戻りたい。
離れたことを、なかったことにしたい。
でも。
願いで取り戻した手は、本当にあの子の手なのか。
願いで消した後悔は、本当に許しなのか。
もし、あの夜をやり直すことが、今ここで掴んだ桜の手を否定することになるなら。
ヒッポリュテは足を止めなかった。
答えは出ていない。
だから、王たちの前へ行く。
逃げてばかりでは、問いは消えない。
◇
城の庭には、すでにライダーがいた。
大きな酒樽。
杯。
そして、堂々とした笑み。
セイバーも来ていた。
隣にはアイリスフィールがいる。
セイバーはヒッポリュテを見ると、静かに視線を向けた。
その目には、前に交わした問いの続きがあった。
少し遅れて、黄金の気配が現れる。
アーチャー。
金色のサーヴァントは退屈そうに歩み寄り、ヒッポリュテを見るなり笑った。
「来たか、半端な王冠」
「酒の席でまでそれか」
「酒の席だからこそだ。退屈な相手なら、酒も不味くなる」
ヒッポリュテはため息を飲み込む。
ライダーが豪快に笑った。
「よい! 王が揃えば、多少の毒も肴よ!」
セイバーは静かに言う。
「これは宴であると同時に、問答の場なのでしょう」
「その通りだ、セイバー」
ライダーは杯を掲げた。
「セイバー。金ぴか。妙なる女王。そして、この征服王」
彼の声が、夜の庭に響く。
「ならば始めよう」
酒が杯に注がれる。
夜が、一瞬だけ静かになった。
ライダーは笑みを深める。
「今宵は、王を問う夜だ」