神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す   作:あかちゅきぼちゃん

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29話 王の宴への招待

 

 

 朝と呼ぶには、あまりにも薄い光だった。

 

 黒い布で塞がれた窓の隙間から、わずかに白が差し込んでいる。古い事務所跡の空気は冷たく、夜の湿気がまだ床に沈んでいた。

 

 桜は目を覚ますと、最初に床を見た。

 

 古びた床板。

 

 埃。

 

 机の脚。

 

 壁際の影。

 

 虫はいない。

 

 いないはずだった。

 

 それでも、見てしまう。

 

 床の隙間に黒いものがないか。

 

 壁の割れ目から何かが這い出してこないか。

 

 机の下に、小さな影が動いていないか。

 

「……見てしまいます」

 

 桜は小さく言った。

 

 隣にいたヒッポリュテが視線を向ける。

 

「いないって、分かってても」

 

 桜の声は、どこか申し訳なさそうだった。

 

 怖がることすら、悪いことのように思っている顔。

 

 ヒッポリュテは首を横に振る。

 

「見ていい」

 

 桜が顔を上げた。

 

「確かめることは、悪いことじゃない」

 

「でも……」

 

「怖いものを、見ないふりする方が危ない」

 

 そう言うと、桜はもう一度床を見た。

 

 今度は、少しだけゆっくりと。

 

 逃げるためではなく、確かめるために。

 

 ペンテシレイアは窓辺に立っていた。

 

 一晩中、まともに眠っていない。

 

 それでも、疲労を顔には出していなかった。

 

 彼女は水の容器を一つ手に取り、桜の前へ差し出す。

 

「飲め」

 

「ありがとうございます」

 

「礼はいらない」

 

 ペンテシレイアは即座に言った。

 

「次に虫を見たら、先に呼べ」

 

 桜は水を受け取りながら、小さく頷く。

 

「はい」

 

「見てからでは遅い時もある。嫌だと思ったら呼べ」

 

「……はい」

 

「小さくてもいい」

 

 ペンテシレイアの声は硬い。

 

 けれど、桜に向けられているものは以前とは違った。

 

 命令ではない。

 

 守るための確認だった。

 

 桜は両手で水を持ち、少しずつ飲んだ。

 

 雁夜は壁際で横になっていた。

 

 眠っているのか、意識を落としているだけなのか分からない。顔色は悪く、呼吸も浅い。

 

 それでも、時折桜の方へ視線を向けている。

 

 誰も休めていない。

 

 けれど、誰も完全には倒れていなかった。

 

 その時、通信機が鳴った。

 

 ペンテシレイアの視線が鋭くなる。

 

 桜の手が水の容器を握る。

 

 ヒッポリュテは通信機を取った。

 

『間桐の虫の活動は一時的に引いている』

 

 衛宮切嗣の声だった。

 

『ただし、位置が完全に隠せているわけじゃない。臓硯は次に、もっと大きな手を打つ可能性が高い』

 

「だろうな」

 

『遠坂側も桜の状況を再確認しようとしている。アーチャーの接触以降、各陣営の動きが不安定になっている』

 

「それをわざわざ伝える理由は」

 

『今夜、別の接触があるかもしれない』

 

 ペンテシレイアが眉を寄せる。

 

「間桐か」

 

『違う』

 

 切嗣の声は、少しだけ間を置いた。

 

『もっと騒がしい相手だ』

 

 ヒッポリュテは目を細めた。

 

 騒がしい相手。

 

 この戦争で、その言葉が似合うサーヴァントは限られる。

 

 通信はそれ以上多くを語らなかった。

 

『不用意に動かないで。接触があった場合、応じるかどうかは状況次第だ』

 

「ずいぶん曖昧だな」

 

『相手が曖昧を嫌うタイプじゃないからね』

 

「面倒だ」

 

『同感だ』

 

 通信が切れる。

 

 部屋に沈黙が戻った。

 

 ペンテシレイアが不快そうに言う。

 

「どいつもこいつも勝手に来る」

 

「聖杯戦争だからな」

 

「客が多すぎる」

 

「歓迎はしていない」

 

 桜は二人の会話を聞きながら、水を握っていた。

 

 また誰かが来る。

 

 その言葉だけで、身体が緊張する。

 

 けれど、今度は床だけを見るのではなく、ペンテシレイアの方を一度見た。

 

 呼べ。

 

 小さくてもいい。

 

 その言葉を、確かめるように。

 

     ◇

 

 冬木の夜を待たず、ライダーはすでに動いていた。

 

 いや、正確には、動く前から騒がしかった。

 

「お前、何する気だよ!」

 

 ウェイバーの声が、路地裏に響く。

 

 目の前には、酒瓶と酒樽。

 

 どこから持ってきたのか、聞くのも怖い量だった。

 

 ライダーはそれらを満足げに眺め、腕を組んでいる。

 

「王を集める」

 

「意味が分からない!」

 

「意味は杯の中にある」

 

「ない! 絶対ない!」

 

 ウェイバーは頭を抱えた。

 

 このサーヴァントは、戦術や作戦を考えていないわけではない。

 

 ただ、それ以上に自分のやりたいことを優先する。

 

 そして、そのやりたいことの規模が大きすぎる。

 

 ライダーは街の方を見た。

 

 大きな目が、楽しげに細められる。

 

「セイバーは硬い。金ぴかは眩しすぎる。だが、あの女王は妙だ」

 

「女王って……あの桜って子のところにいるやつか?」

 

「うむ」

 

 ライダーは頷いた。

 

「王の匂いがする。だが、国を背負う匂いではない。玉座に座る者というより、誰かの手を握ったまま走っている者の顔をしておる」

 

「それ、王なのか?」

 

「だからこそ見たいのだ」

 

 ライダーは豪快に笑った。

 

「王の形は一つではない。ならば、杯の前で並べてみるのが一番早い」

 

「早くないだろ……どう考えても戦闘になるだろ……」

 

「戦闘になるなら、それはそれでよい」

 

「よくない!」

 

 ウェイバーの悲鳴に、ライダーはますます愉快そうに笑った。

 

     ◇

 

 最初の招待は、セイバーへ届いた。

 

 アインツベルンの拠点周辺。

 

 警戒に立っていたセイバーの前へ、ライダーは堂々と姿を現した。

 

 隠れる気はない。

 

 殺気もない。

 

 しかし、その存在感だけで空気が揺れる。

 

「セイバーよ」

 

 ライダーは腕を広げた。

 

「今宵、王の宴を開く」

 

 セイバーは眉を寄せる。

 

「宴、ですか。この戦いの最中に」

 

「戦いの最中だからこそだ。剣を交える前に、王の器を量る。酒はそのためにある」

 

「私は遊興のために剣を取っているのではありません」

 

「誰が遊興と言った」

 

 ライダーは笑う。

 

「王が王を問うのだ。これもまた戦よ」

 

 アイリスフィールは少しだけ目を瞬かせ、それから興味深そうにライダーを見た。

 

 セイバーは答えない。

 

 その耳元に、切嗣からの通信が届く。

 

『応じる必要はない』

 

 短い声。

 

 予想通りの声だった。

 

 セイバーはわずかに目を伏せる。

 

「必要があるかどうかは、私が見極めます」

 

『セイバー』

 

「彼は戦いに来たのではありません」

 

『それも罠かもしれない』

 

「その可能性も含めて、見極めます」

 

 通信の向こうで、切嗣が沈黙する。

 

 アイリスフィールは静かにセイバーを見守っていた。

 

 セイバーはライダーへ向き直る。

 

「そこに誰が来るのです」

 

「我と貴様。金ぴか。そして、あの妙な女王だ」

 

 セイバーの表情がわずかに変わる。

 

 ヒッポリュテ。

 

 あの女王。

 

 一人を守れない者が、多くを守れるとは思わない。

 

 その言葉が、まだ胸の中に残っている。

 

「……分かりました」

 

 セイバーは言った。

 

「ただし、無辜の者を巻き込む場ならば、私は退きません」

 

「よい!」

 

 ライダーは満足そうに笑った。

 

「堅いが、それもまた貴様よ」

 

     ◇

 

 遠坂邸。

 

 金色のサーヴァントは、退屈そうに杯を傾けていた。

 

 その目が、不意に細くなる。

 

 遠くから届いた気配。

 

 挑発というには豪快で、招待というには無遠慮。

 

 王を呼ぶ声。

 

「宴だと?」

 

 口元がわずかに上がる。

 

 時臣はすぐに察した。

 

「王よ、軽率な外出は――」

 

「王が招かれた宴に出ぬ理由があるか」

 

 遮られる。

 

 時臣は沈黙した。

 

 止めることはできない。

 

 令呪を使うほどのことではない。

 

 そして、使ったところで、この王の不興を買うだけだ。

 

 金色のサーヴァントは立ち上がる。

 

「あの半端な王冠も来るなら、少しは酒が進む」

 

 時臣がわずかに顔を上げる。

 

「あの女も来ると?」

 

「来るかどうかを見に行くのも、また一興よ」

 

 彼は笑った。

 

 遠坂邸の空気が、一瞬で王の気配に塗り替えられる。

 

 時臣は深く頭を下げるしかなかった。

 

     ◇

 

 その日の夜。

 

 声は、退避先のすぐ外からではなかった。

 

 少し離れた大通りの方角。

 

 それでも、サーヴァントの声は夜気を割り、古い事務所跡の中まで届いた。

 

「隠れておる女王よ!」

 

 ビルの窓が震えたように感じた。

 

「酒の誘いに耳を塞ぐほど、臆病ではあるまいな!」

 

 ペンテシレイアが即座に立ち上がる。

 

「殺すか」

 

「待て」

 

 ヒッポリュテも立っていた。

 

「たぶん戦いに来たわけじゃない」

 

「なぜ、どいつもこいつも勝手に来る」

 

「私も知りたい」

 

 桜は毛布を握っていた。

 

 またサーヴァントの気配。

 

 けれど、金色のサーヴァントの時とは違う。

 

 あの時は、空気そのものが上から押し潰された。

 

 今回は違う。

 

 大きい。

 

 熱い。

 

 騒がしい。

 

 怖くないわけではない。

 

 でも、凍るような恐怖ではなかった。

 

 ヒッポリュテは外へ出た。

 

 ペンテシレイアは桜の前に立ったまま動かない。

 

 雁夜も壁に手をつきながら、様子をうかがっている。

 

 ビルから少し離れた大通り。

 

 そこに、ライダーが立っていた。

 

 横には、青ざめた顔の少年。

 

 ウェイバー。

 

 退避先そのものへ踏み込む気はないのだろう。

 

 だが、こちらがいる方角を分かっていると言わんばかりに、堂々と夜道の真ん中に立っていた。

 

 ライダーはヒッポリュテを見るなり、満足そうに頷いた。

 

「ふむ。やはり王の気配はある。だが、妙だな」

 

「何がだ」

 

「貴様は玉座よりも、逃げる子の背を見ている顔をしておる」

 

 ヒッポリュテは黙った。

 

 ライダーは続ける。

 

「だが、それもまた王の顔かもしれん」

 

 セイバーとは違う。

 

 アーチャーとも違う。

 

 この王は、断じる前に面白がる。

 

 その器の大きさが、厄介だった。

 

「用件は」

 

「今宵、王たちで杯を交わす」

 

 ライダーは笑う。

 

「セイバー、金ぴか、そして貴様だ」

 

「桜を置いて行く気はない」

 

 即答だった。

 

 ライダーの視線が、ヒッポリュテの背後へ向く。

 

 ヒッポリュテが半歩前に出る。

 

 その動きを見て、ライダーは愉快そうに目を細めた。

 

「抱え込むな、女王」

 

「何?」

 

「王が一人で抱えていては、配下は育たん」

 

 その言葉に、ヒッポリュテの表情がわずかに止まる。

 

 ペンテシレイアにも聞こえたのだろう。

 

 建物の奥で、気配が少し動いた。

 

「守りを置け。信じて預けろ。それができぬ王は、いずれ誰も前に進ませられん」

 

「勝手なことを言う」

 

「勝手でなければ王などやっておれん」

 

 ライダーは堂々と言い切った。

 

 ウェイバーが後ろで小さく呻く。

 

「それはたぶん違う……」

 

 ヒッポリュテはライダーを見た。

 

 この男は戦いに来たわけではない。

 

 だが、ただ酒を飲みに来たわけでもない。

 

 王を量りに来ている。

 

 こちらが何を背負い、何を捨て、何を願うのか。

 

 それを見に来ている。

 

「場所は」

 

 ヒッポリュテが聞くと、ライダーはにやりと笑った。

 

「来る気になったか」

 

「聞いただけだ」

 

「今宵、城の庭で待つ。酒は持っていく。逃げてもよいが、その場合は臆したと見る」

 

「安い挑発だ」

 

「乗れば十分よ」

 

 ライダーは豪快に笑い、背を向けた。

 

「ではな、妙なる女王よ。今宵は王を問う夜になるぞ」

 

 彼の気配が遠ざかる。

 

 騒がしさだけが、しばらく夜に残った。

 

     ◇

 

 通信機が鳴ったのは、その直後だった。

 

 予想通りだった。

 

 ヒッポリュテは通信機を取る。

 

『行った方がいい』

 

 切嗣の声。

 

「桜を置いて宴に出ろと」

 

『情報が取れる。セイバー、アーチャー、ライダーが同席する機会はそうない』

 

「お前は本当に腹立たしいな」

 

『よく言われる』

 

「反省は」

 

『必要ならする』

 

「していないな」

 

『今はそれより、行くかどうかだ』

 

 切嗣の声は冷静だった。

 

『ライダーの目的、アーチャーの反応、セイバーへの影響、そして君自身の願い。全部を見られる場になる』

 

「私を観察するためでもあるわけだ」

 

『当然』

 

「隠せ」

 

『隠す意味がない』

 

 ヒッポリュテは深く息を吐いた。

 

 腹が立つ。

 

 だが、切嗣の判断が間違っているわけではない。

 

 王たちが集まる。

 

 そこには情報がある。

 

 危険もある。

 

 そして、自分が避け続けてきた問いもある。

 

 聖杯に何を願うのか。

 

 自分は王なのか。

 

 ペンテシレイアの手を、願いで取り戻したいのか。

 

 その願いは、今ここで桜の手を取った自分を否定しないのか。

 

 答えは出ていない。

 

 だからこそ、行く意味があるのかもしれない。

 

『桜の護衛はバーサーカーがいる』

 

「ペンテを都合よく数えるな」

 

『戦力として数えるのは当然だ』

 

「……もう切るぞ」

 

『判断は早めに』

 

 通信が切れる。

 

 ヒッポリュテはしばらく通信機を見ていた。

 

     ◇

 

 部屋へ戻ると、全員がこちらを見ていた。

 

 桜は不安そうに。

 

 ペンテシレイアは険しい顔で。

 

 雁夜は疲れた目で。

 

 ヒッポリュテは口を開くまで少し時間を置いた。

 

「行くべきだと、言われた」

 

 ペンテシレイアが眉を寄せる。

 

「誰に」

 

「切嗣に」

 

「なら行くな」

 

「気持ちは分かる」

 

「姉上」

 

 ペンテシレイアの声が少し強くなる。

 

「桜を置いていくのか」

 

 その言葉で、胸の奥が軋んだ。

 

 置いていく。

 

 その響きは重い。

 

 ペンテシレイアの手を失った時の感触が蘇る。

 

 握っていたはずなのに、離れた手。

 

 痛いと言いかけた声。

 

 白く弾けた視界。

 

 置いていくわけではない。

 

 そう言いたい。

 

 だが、残される側にとって、その違いは届くのか。

 

 ヒッポリュテは答えられなかった。

 

 その時、桜が口を開いた。

 

「行っても、大丈夫です」

 

 小さな声。

 

 けれど、確かに自分から出した声だった。

 

 ヒッポリュテは桜を見る。

 

 桜は怖そうだった。

 

 でも、言葉を続けた。

 

「ペンテさんが、います」

 

 ペンテシレイアが少しだけ目を見開く。

 

 桜はペンテシレイアを見る。

 

「怖くなったら、呼びます」

 

 それは、これまでの夜から繋がった小さな答えだった。

 

 呼ぶ。

 

 頼る。

 

 嫌だと思ったら声にする。

 

 その相手として、桜はペンテシレイアの名を選んだ。

 

 ペンテシレイアはしばらく桜を見ていた。

 

 やがて、ヒッポリュテへ向き直る。

 

「行け」

 

 短い言葉。

 

「桜は私が守る」

 

 ヒッポリュテは動けなかった。

 

 その言葉は、ただの留守番ではなかった。

 

 以前なら、ペンテシレイアは必ず自分も行くと言った。

 

 置いていくなと怒った。

 

 姉の隣に立とうとした。

 

 けれど今は、桜のそばに残ると言っている。

 

 任されることを、受け入れている。

 

「置いていくわけじゃない」

 

 ヒッポリュテは言った。

 

 自分に言い聞かせるように。

 

 ペンテシレイアはすぐに返す。

 

「分かっている」

 

 そして、少しだけ不満そうに付け加えた。

 

「任せるんだろう」

 

 その言葉で、ヒッポリュテはようやく息を吐いた。

 

「ああ」

 

「なら行け」

 

 ペンテシレイアは桜の前に立った。

 

「その間、桜には虫一匹近づけない」

 

 桜は小さく頷く。

 

 雁夜が壁際から言った。

 

「俺も……ここにいる」

 

 声は弱い。

 

 それでも、目は逃げていなかった。

 

 ヒッポリュテは三人を見た。

 

 桜。

 

 ペンテシレイア。

 

 雁夜。

 

 不安は消えない。

 

 消えるはずがない。

 

 けれど、任せるしかない。

 

 抱え込むことと、守ることは同じではない。

 

 ライダーの言葉が、腹立たしいほどに残っていた。

 

 ヒッポリュテは桜の前に膝をつく。

 

「怖くなったら呼べ」

 

「はい」

 

「嫌だと思っただけでもいい」

 

 桜は少しだけ頷く。

 

「ペンテさんを呼びます」

 

 ペンテシレイアが横から言う。

 

「すぐ呼べ」

 

「はい」

 

 ヒッポリュテは桜の頭に手を置きかけて、止めた。

 

 触れていいか迷う。

 

 桜はそれに気づいたのか、小さくこちらを見た。

 

 そして、ほんの少しだけ頭を下げた。

 

 触れていい、というように。

 

 ヒッポリュテは、そっと桜の髪に触れた。

 

「すぐ戻る」

 

 桜は小さく頷いた。

 

     ◇

 

 宴の場所へ向かう道すがら、ヒッポリュテは一人だった。

 

 夜風が冷たい。

 

 現代の空気は相変わらず薄い。

 

 だが、今夜はそこに別の濃さが混じっている。

 

 王たちの気配。

 

 聖杯戦争の中心にいる者たちが、一つの場所へ集まろうとしている。

 

 王。

 

 その言葉が、胸の中で重く響く。

 

 自分は、まだ王なのか。

 

 国はない。

 

 民もいない。

 

 神代は遠い。

 

 あるのは、離れた妹の手の記憶と、今守ろうとしている少女の温度だけ。

 

 聖杯に願うものはある。

 

 あるはずだ。

 

 ペンテシレイアの手を取り戻したい。

 

 あの瞬間へ戻りたい。

 

 離れたことを、なかったことにしたい。

 

 でも。

 

 願いで取り戻した手は、本当にあの子の手なのか。

 

 願いで消した後悔は、本当に許しなのか。

 

 もし、あの夜をやり直すことが、今ここで掴んだ桜の手を否定することになるなら。

 

 ヒッポリュテは足を止めなかった。

 

 答えは出ていない。

 

 だから、王たちの前へ行く。

 

 逃げてばかりでは、問いは消えない。

 

     ◇

 

 城の庭には、すでにライダーがいた。

 

 大きな酒樽。

 

 杯。

 

 そして、堂々とした笑み。

 

 セイバーも来ていた。

 

 隣にはアイリスフィールがいる。

 

 セイバーはヒッポリュテを見ると、静かに視線を向けた。

 

 その目には、前に交わした問いの続きがあった。

 

 少し遅れて、黄金の気配が現れる。

 

 アーチャー。

 

 金色のサーヴァントは退屈そうに歩み寄り、ヒッポリュテを見るなり笑った。

 

「来たか、半端な王冠」

 

「酒の席でまでそれか」

 

「酒の席だからこそだ。退屈な相手なら、酒も不味くなる」

 

 ヒッポリュテはため息を飲み込む。

 

 ライダーが豪快に笑った。

 

「よい! 王が揃えば、多少の毒も肴よ!」

 

 セイバーは静かに言う。

 

「これは宴であると同時に、問答の場なのでしょう」

 

「その通りだ、セイバー」

 

 ライダーは杯を掲げた。

 

「セイバー。金ぴか。妙なる女王。そして、この征服王」

 

 彼の声が、夜の庭に響く。

 

「ならば始めよう」

 

 酒が杯に注がれる。

 

 夜が、一瞬だけ静かになった。

 

 ライダーは笑みを深める。

 

「今宵は、王を問う夜だ」

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