神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
酒の匂いが、夜の庭に広がった。
戦場に似合わない匂いだった。
鉄でもない。
血でもない。
焼けた魔力でもない。
濃く、熱く、喉を焼くための匂い。
ライダーは大きな酒樽の封を切ると、まるでそれが王の儀式であるかのように、堂々と杯へ注いだ。
セイバーは警戒を解かないまま、それを見ていた。
アーチャーは当然のように一段高い位置へ座り、退屈そうに顎を上げている。
ヒッポリュテは少し離れた場所に立っていた。
近すぎず。
遠すぎず。
すぐに動ける距離。
逃げるためではない。
斬り込むためでもない。
ただ、何が起きても見落とさないための距離だった。
ライダーが杯を差し出す。
「受け取れ、女王」
ヒッポリュテはそれを見た。
「毒が入っている可能性もある」
ライダーが豪快に笑った。
「毒を恐れて王が語れるか」
アーチャーも口元を歪める。
「毒ごときで死ぬ王なら、席につく価値もない」
「面倒な席だな」
ヒッポリュテは杯を受け取った。
香りが濃い。
神代の酒とは違う。
けれど、人が酔うために作ったものだということだけは分かる。
軽く口をつける。
喉が熱くなる。
身体の奥に、薄い現代の空気とは違う重さが落ちた。
ライダーは満足そうに頷く。
「よし。これで席は整った」
セイバーは杯を手にしたまま、静かに言う。
「問答の場と言いましたね」
「うむ」
ライダーは杯を掲げた。
「まずは問おう。貴様らは聖杯に何を望む」
その問いが、夜に落ちた。
風が少しだけ止まる。
聖杯。
万能の願望器。
そのために英雄たちは呼ばれ、魔術師たちは殺し合い、冬木の夜は歪んでいく。
この場にいる者たちは、それぞれの願いを持っているはずだった。
願いを持たぬ者など、そもそもこの戦争にいるべきではない。
少なくとも、そういう理屈になっている。
ライダーの視線が、まずセイバーへ向いた。
「セイバー。貴様は何を願う」
セイバーは杯を見下ろした。
その横顔は硬い。
騎士として。
王として。
誰よりも正しくあろうとする者の顔。
「私は、自らの王の選定を正したい」
静かな声だった。
しかし、その言葉は庭の空気を一段冷やした。
ヒッポリュテはセイバーを見る。
セイバーは続けた。
「私は、ブリテンの王として剣を取りました。選定の剣を抜き、国を守るために戦い、王としての責務を果たそうとした」
ブリテン。
選定の剣。
その言葉で、この場にいる者たちは十分に理解したはずだった。
彼女が何者であるか。
何を背負っているか。
それでも、ヒッポリュテは口にしない。
知っていても、呼ばない。
それは彼女自身が語るべき名であり、こちらが先に奪うものではない。
「ですが、私の国は滅びた。私の選択が、私の在り方が、民を救えなかったのなら」
セイバーの指が、杯を握る。
「私は、王の選定をやり直したい。私よりも相応しい王がいたのなら、その者へ王位を譲るべきだった」
沈黙。
ライダーの顔から笑みが消えた。
アーチャーはつまらなさそうに目を細める。
ヒッポリュテは、胸の奥に痛みを感じていた。
やり直したい。
その言葉は、あまりにも近かった。
ペンテシレイアの手。
痛い、と言いかけた声。
白く弾けた視界。
あの瞬間へ戻れるなら。
あの手を離れさせずに済むなら。
そう思わなかったと言えば、嘘になる。
ライダーが重く息を吐いた。
「それが貴様の願いか」
「はい」
「己の治世を否定するのか」
「否定ではありません。国を救うための選択です」
「違う」
ライダーの声が低くなった。
先ほどまでの豪快さとは違う。
王として、王へ向ける声だった。
「王が己の歩いた道をなかったことにしてどうする。王が背を向けた道に、誰が夢を見る」
セイバーの目が鋭くなる。
「民が滅びる夢に、何の価値がありますか」
「王とは、民に夢を見せる者だ」
ライダーは杯を握ったまま言う。
「勝利も敗北も、栄光も滅びも、そのすべてを背負ってなお前へ行く。その背に民が夢を見る。貴様が己の王道を悔い、別の誰かに渡すというなら、貴様について来た者たちは何だったのだ」
セイバーは反論しようとして、言葉を詰まらせた。
ライダーの視線が、一瞬だけヒッポリュテにも向いた。
「過去をやり直したい王など、臣下はついて来ぬ」
その言葉は、セイバーへ向けられたものだった。
だが、ヒッポリュテの胸にも刺さった。
過去をやり直したい。
そう思っている。
けれど、やり直した自分に、今のペンテシレイアはついて来るのか。
今ここで桜の手を取った自分は、どこへ消えるのか。
ライダーは酒を飲み干し、今度はアーチャーへ向いた。
「金ぴか。貴様はどうだ」
アーチャーは笑った。
「問うまでもない。聖杯は元より我の所有物だ」
セイバーの眉が動く。
ライダーはにやりと笑う。
「所有物か」
「世界の財は、すべて王の蔵へ収まるものよ。聖杯も例外ではない。盗人どもが勝手に奪い合っているだけだ」
あまりに当然のような声だった。
傲慢。
けれど、その傲慢に揺らぎがない。
アーチャーにとって、王とは所有する者なのだろう。
国も、財も、宝も、世界さえも。
すべては己の前にあるべきもの。
彼の視線が、ヒッポリュテへ向いた。
「半端な王冠よ。貴様は何を所有している」
夜の空気が少しだけ張り詰めた。
ヒッポリュテは杯を手にしたまま、静かに答える。
「何も」
アーチャーの口元が歪む。
「ならば王ではない」
「所有しなければ王ではないなら、私は王ではないのだろうな」
挑発に対する返答としては、あまりに淡かった。
アーチャーの目が細くなる。
ライダーは興味深そうにヒッポリュテを見た。
セイバーも同じだった。
ヒッポリュテは酒の水面を見下ろす。
揺れる酒に、夜の光が映っている。
王冠。
玉座。
国。
民。
そんなものは、今ここにはない。
神代に置いてきた。
いや、置いてきたというより、引き剥がされた。
自分の意思で手放したものではない。
それでも、今は持っていない。
ライダーが問う。
「では、女王よ」
その声には、先ほどまでとは違う重みがあった。
「貴様は聖杯に何を願う」
庭が静まった。
セイバーの視線。
アーチャーの視線。
ライダーの視線。
すべてが、ヒッポリュテに集まる。
ヒッポリュテはすぐには答えなかった。
神代の空が浮かぶ。
温かい風。
小さな手。
ペンテシレイアの声。
姉上、と呼ぶ声。
痛い、と言いかけた声。
それから、現代の夜。
桜の震える手。
戻りません、と言った小さな声。
ペンテシレイアが、桜は私が守ると言った姿。
自分は、何を願う。
戻りたい。
取り戻したい。
あの瞬間をなかったことにしたい。
そう思っている。
思っているのに。
「願わない」
言葉は、静かに落ちた。
セイバーが目を見開く。
ライダーは眉を上げる。
アーチャーは、愉快そうに笑った。
「願わない、だと?」
ライダーが聞き返す。
「ああ」
「聖杯を前にしてか」
「そうだ」
アーチャーが鼻で笑う。
「欲のない王ほど退屈なものはない」
「欲がないわけじゃない」
ヒッポリュテは答えた。
その声は、自分でも思ったより低かった。
「欲しいものはある。取り戻したいものもある」
杯を握る手に、力が入る。
「失った手がある」
セイバーの表情が変わる。
ライダーの笑みが消える。
アーチャーも、ほんの少しだけ黙った。
「私はその手を握っていた。離すまいとしていた。それでも、離れた」
夜の庭に、風が通る。
神代の風ではない。
現代の薄い風。
けれど、その中にあの時の温度が蘇る。
「私は手を離した。いや、離れた」
ヒッポリュテは言う。
「その違いを、願いで消すことはできない」
誰も口を挟まなかった。
「願いで取り戻した手は、本当にあの子の手なのか分からない」
声が少しだけ掠れた。
それでも、言葉は止めない。
「やり直した先で笑うその子は、私が置いてきた子なのか。願いで消した後悔は、私が背負うべきものを消しただけではないのか。分からない」
セイバーは、じっとヒッポリュテを見ていた。
自分と同じではない。
だが、近い。
過去を悔い、やり直したいと願い、その願いの意味に立ち止まっている者。
ヒッポリュテは続ける。
「願って救えるものと、願った瞬間に否定するものがある」
「否定?」
セイバーが問う。
「今ここで選んだものだ」
桜の名は出さない。
ペンテシレイアの詳細も語らない。
それでも、ヒッポリュテの中にあるものは、言葉の隙間から滲んでいた。
「私は今ここで、別の手を取った。その手を取った自分が、過去を願いで消すことを選んだなら、その手は何になる」
セイバーは何も言えなかった。
ライダーが大きく息を吸い、それから笑った。
豪快に。
心底面白そうに。
「願わぬ王か! 欲がないのではなく、欲を抱えたまま杯を拒むとは、また面倒な女王よ!」
「褒めているのか」
「分からんか? 面白いと言っておる!」
ライダーは杯を掲げる。
「だがな、女王よ。王が欲を隠し続ければ、臣下も道を見失うぞ」
その言葉に、ヒッポリュテは黙った。
ペンテシレイアの顔が浮かぶ。
あの子に、自分はどこまで話している。
何を望み、何を恐れ、何を背負っているのか。
隠している。
守るために。
傷つけないために。
だが、それが本当に守ることなのか。
アーチャーがゆっくりと杯を傾けた。
「願わぬ王など、つまらぬと思ったが」
金色の瞳が、ヒッポリュテを見る。
「その半端さだけは退屈せぬ」
「それは評価か」
「我が退屈せぬと言ったのだ。雑種にとっては過分な誉れよ」
「ありがたくないな」
「貴様は王冠を捨てたつもりで、まだ頭に乗せている」
アーチャーの声は、からかうようでいて鋭かった。
「見苦しい。だが、滑稽ではない」
ヒッポリュテは返さなかった。
返せなかった。
セイバーが口を開く。
「それでも、救えるものがあるなら願うべきではないのですか」
その声には、迷いが混じっていた。
だが、折れてはいない。
セイバーはセイバーのまま問いを投げている。
「願いによって滅びを避けられるのなら。民を救えるのなら。己の後悔よりも、その救いを優先すべきではないのですか」
ヒッポリュテはセイバーを見た。
真っ直ぐな目。
痛いほど真っ直ぐな王。
「お前の願いが間違いかどうかは、私には決められない」
セイバーがわずかに目を見開く。
ライダーも黙る。
ヒッポリュテは続けた。
「だが、その願いで救いたいものが、本当に救われるのかは考えろ」
「本当に……」
「願いは便利だ。だから怖い」
ヒッポリュテは杯を置いた。
「叶った形だけが残って、そこへ至るまでの痛みが消える。消えた痛みの中に、本当に守りたかったものが混じっていたら、もう分からない」
セイバーは言葉を失った。
ライダーは低く笑う。
「やはり面倒な女王だ」
「何度も言うな」
「何度でも言う。貴様は面倒だ」
その時だった。
空気が変わった。
酒の匂い。
夜風。
王たちの気配。
その隙間に、薄い殺気が混じる。
ヒッポリュテは視線を動かした。
木々の影。
庭の縁。
屋根の上。
気配が一つではない。
複数。
いや、もっと多い。
アサシン。
セイバーも気づいた。
アーチャーは最初から分かっていたように、興味なさげに杯を傾けている。
ライダーは、ゆっくりと立ち上がった。
「宴を覗き見とは、礼儀を知らぬ連中だ」
影が現れる。
一人。
二人。
さらにその後ろ。
幾人ものアサシンが、闇の中から滲み出るように姿を見せた。
セイバーが剣に手をかける。
ヒッポリュテも重心を落とした。
手元には武器がない。
あるのは杯。
酒。
庭石。
木の枝。
それでも、戦うなら使うだけだ。
アサシンの一体が、背後へ回る。
音もなく迫る刃。
ヒッポリュテは振り返らず、手にしていた杯を投げた。
杯は回転しながらアサシンの手首へ当たり、刃の軌道をずらす。
続けて、足元の石を蹴り上げた。
石が影の膝へ当たる。
動きが一瞬止まる。
ヒッポリュテはその隙に身を沈め、敵の懐をすり抜けた。
アーチャーが笑う。
「戦場でも酒器を武器にするか」
「手にあるものを使うだけだ」
ヒッポリュテは短く返す。
しかし、それ以上は動かなかった。
この場は、自分の戦場ではない。
この宴を開いた王の場だ。
ライダーが一歩前へ出る。
「よかろう」
その声が、夜を震わせた。
「王の道を問うた直後だ。ならば、我の王道も見せねばなるまい」
空気が変わる。
庭が消える。
夜が剥がれる。
世界が開く。
熱砂。
空。
果ての見えない大地。
現代の薄い空気ではない。
神代とも違う。
だが、濃い。
夢と誓いと戦場の熱が、空間そのものに焼きついている。
ヒッポリュテは息を呑んだ。
周囲に、兵がいた。
無数の影。
いや、影ではない。
男たちが、そこに立っている。
王と共に駆けた者たち。
死してなお、王の夢を覚えている者たち。
ライダーの背後に、軍勢が広がっていた。
王は一人ではなかった。
この男の王冠は、彼一人の頭に乗っているのではない。
その背に並ぶ無数の兵が、王を王にしている。
ヒッポリュテの胸が、強く痛んだ。
アマゾネスの戦士たちを思い出す。
神代の広場。
槍を掲げる女たち。
ペンテシレイアの小さな背。
自分にも、かつて背後に立つ者たちがいた。
今はいない。
いないと思っていた。
だが、本当にそうなのか。
ペンテシレイアは今、桜の前に立っている。
桜はペンテシレイアを呼ぶと言った。
雁夜は立つと言った。
それは軍勢ではない。
国でもない。
けれど、背後に誰もいないわけではない。
ライダーが剣を掲げる。
アサシンたちが動く。
だが、数が違った。
質が違った。
王と共にある軍勢が、影を呑み込む。
それは戦闘というより、蹂躙だった。
セイバーはその光景を見て、動けずにいた。
アーチャーは愉快そうに眺めている。
ヒッポリュテは、ただ見ていた。
王道が、言葉だけではないと証明される瞬間を。
アサシンの影は、砂と叫びの中へ消えていった。
◇
再び、夜の庭が戻った。
酒樽。
杯。
城の庭。
何も変わっていないようで、何もかもが変わっていた。
セイバーは深く揺れていた。
ライダーの王道。
臣下と共にある王。
己の道を悔いず、死してなお臣下に夢を見せる王。
それは、セイバーが抱える理想と、あまりにも違っていた。
ライダーは酒を飲み干し、満足げに笑う。
「宴はここまでだな」
アーチャーも立ち上がる。
「多少は退屈しのぎになった」
彼はヒッポリュテを見る。
「次に会う時までに、その半端な王冠の重さくらいは量っておけ」
「余計なお世話だ」
「王の忠告だ。ありがたく聞け」
金色のサーヴァントは笑い、夜へ消えていく。
ライダーはヒッポリュテへ向き直った。
「女王よ」
「何だ」
「願わぬなら、なおさら己の欲を見失うな」
ヒッポリュテは答えなかった。
ライダーはそれで十分だと言うように笑った。
「ではな。次は戦場で会うかもしれんな」
ウェイバーの悲鳴混じりの声と共に、ライダーも去っていく。
庭に残ったのは、セイバーとアイリスフィール。
そして、ヒッポリュテだった。
セイバーはしばらく黙っていた。
やがて、静かに問う。
「あなたは、後悔をどう背負うのですか」
ヒッポリュテはセイバーを見る。
正直な問いだった。
セイバーはまだ揺れている。
それでも、逃げてはいない。
ヒッポリュテは少しだけ目を伏せる。
「まだ分からない」
答えは、それしかなかった。
「だが、願いで消すつもりはない」
セイバーは何も言わない。
その言葉を、自分の中で何度も確かめているようだった。
ヒッポリュテは背を向ける。
桜のもとへ戻らなければならない。
ペンテシレイアが待っている。
雁夜もいる。
自分が置いてきたものではなく、任せたもののもとへ。
夜の庭を離れながら、ヒッポリュテは掌を握った。
失った手の温度は、まだ戻らない。
だが、願いで消えない痛みとして、確かにそこに残っていた。