神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す   作:あかちゅきぼちゃん

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31話 願わない理由

 

 

 戻った時、部屋の中は静かだった。

 

 古い事務所跡。

 

 黒い布で塞がれた窓。

 

 白い床の埃。

 

 隅に置かれた水と毛布。

 

 何一つ温かいものはない場所なのに、扉を開けた瞬間、ヒッポリュテはわずかに息を吐いた。

 

 桜がいる。

 

 ペンテシレイアがいる。

 

 雁夜もいる。

 

 ただそれだけで、さっきまでいた城の庭とは違う重さが胸に落ちた。

 

 王たちが杯を交わした夜。

 

 願いを問われた夜。

 

 死してなお王に従う軍勢を見た夜。

 

 そのどれもが、まだ身体の奥に残っている。

 

 だが、今はそれよりも先に、ここへ戻ってきた事実の方が強かった。

 

 ペンテシレイアは窓辺に立っていた。

 

 ヒッポリュテが入ると同時に振り返る。

 

 その手には武器こそない。

 

 けれど、いつでも出せる気配があった。

 

「何もなかったか」

 

 問いは短い。

 

 だが、その奥にあるものは分かる。

 

 怪我はないか。

 

 襲われなかったか。

 

 また消えたりしなかったか。

 

 そういう言葉を、ペンテシレイアはまとめて飲み込んでいる。

 

 ヒッポリュテは少し考えた。

 

「何もなかった、とは言いにくい」

 

 ペンテシレイアの眉が動く。

 

「何があった」

 

「問答の後に、アサシンが出た」

 

「やはり私も行くべきだった」

 

「お前が残ったから、桜はここにいられた」

 

 ペンテシレイアは口を閉じた。

 

 反論しようとしたのだろう。

 

 けれど、できなかった。

 

 視線が、部屋の隅へ向く。

 

 そこに桜がいた。

 

 毛布を膝にかけて座っている。

 

 眠ってはいなかった。

 

 目の下には薄い影があり、手元の毛布を両手で握っている。

 

 けれど、ヒッポリュテを見ると、少しだけ表情が緩んだ。

 

「おかえりなさい」

 

 その言葉に、ヒッポリュテは一瞬止まった。

 

 おかえり。

 

 帰る場所がある者へ向ける言葉。

 

 神代を失い、国を失い、手を失い、この薄い時代に落ちた自分へ向けられるには、あまりにも柔らかい言葉だった。

 

 胸の奥が、少しだけ痛む。

 

 それでも、ヒッポリュテは答えた。

 

「戻った」

 

 桜は小さく頷いた。

 

 たったそれだけのやり取りだった。

 

 だが、ペンテシレイアの目がわずかに細くなる。

 

 彼女もまた、その言葉の重さを感じ取ったのだろう。

 

 雁夜は壁際で眠っていた。

 

 眠っているというより、体力が尽きて意識を落としているだけに近い。

 

 呼吸は浅い。

 

 だが、先ほどより乱れてはいなかった。

 

 ヒッポリュテは部屋の中を見回した。

 

 虫の気配はない。

 

 使い魔の気配も、今のところはない。

 

 切嗣の監視だけが、遠くから薄く張られている。

 

 腹立たしいほどに、丁寧な距離だった。

 

 桜が、少し迷うように口を開いた。

 

「あの」

 

「なんだ」

 

「聖杯には……願わないんですか」

 

 ヒッポリュテは黙った。

 

 ペンテシレイアの気配も変わった。

 

 桜は、こちらを見ている。

 

 怖がっているわけではない。

 

 責めているわけでもない。

 

 ただ、分からないことを聞いている。

 

「願えば、戻れるんじゃないんですか」

 

 桜の声は小さかった。

 

「ペンテさんと……離れなかったことに、できるんじゃないんですか」

 

 その言葉は、あまりにもまっすぐだった。

 

 子どもだからこそ、遠慮なく核心へ触れる。

 

 悪意がないからこそ、逃げ場がない。

 

 ペンテシレイアは動かなかった。

 

 窓辺に立ったまま、ただヒッポリュテを見ている。

 

 けれど、その目は揺れていた。

 

 桜の問いは、ペンテシレイア自身の問いでもあったのだ。

 

 姉は、本当に願わないのか。

 

 自分と離れた夜を、なかったことにしたくないのか。

 

 自分のもとへ戻りたいと思っていないのか。

 

 ペンテシレイアが、低く言う。

 

「姉上は」

 

 言葉が一度止まる。

 

 それから、絞り出すように続いた。

 

「本当に、何も願わないのか」

 

 ヒッポリュテは二人を見る。

 

 桜。

 

 ペンテシレイア。

 

 どちらにも嘘はつけなかった。

 

「願いたい」

 

 短く答えた。

 

 ペンテシレイアの目が大きくなる。

 

 桜も息を呑む。

 

 ヒッポリュテは続けた。

 

「あの手を離さずに済むなら」

 

 脳裏に浮かぶ。

 

 温かかった手。

 

 強く握り返してきた指。

 

 痛い、と言いかけた声。

 

 白く弾けた視界。

 

「お前が、痛いと言う前に戻れるなら」

 

 ペンテシレイアの唇が震えた。

 

「私はきっと、何度でも願いたくなる」

 

 沈黙が落ちる。

 

 桜は何も言えない。

 

 ペンテシレイアも、何も言えない。

 

 その静けさの中で、ヒッポリュテは自分の掌を見た。

 

 空っぽの手。

 

 それでも、そこにはまだ温度が残っている。

 

「だが、願いで戻った先にいるお前が、本当に今のお前なのか分からない」

 

 ペンテシレイアの眉が寄る。

 

「どういう意味だ」

 

「願いで過去を変えたとして、そこにいるお前は、今ここで桜を守ると言ったお前なのか」

 

「……」

 

「私を待ち、怒り、ここまで来て、桜に呼べと言ったお前なのか」

 

 ペンテシレイアは答えられなかった。

 

 ヒッポリュテは続ける。

 

「願いで消せる痛みと、消してはいけない痛みがある」

 

 自分にも言い聞かせるような声だった。

 

「消せば楽になる。けれど、その痛みの中に、今の私たちを作ったものが混じっていたら、何を失ったのか分からなくなる」

 

 桜は毛布を握る。

 

「でも……痛いのは、嫌です」

 

「ああ」

 

 ヒッポリュテは頷いた。

 

「嫌だ」

 

 その答えに、桜は少し驚いた顔をした。

 

 ヒッポリュテは静かに言う。

 

「痛みを大事にしろと言いたいわけじゃない。痛みを美しいものにしたいわけでもない。ただ、願いで何かを消す時、消えるのは痛みだけとは限らない」

 

 ペンテシレイアが一歩近づいた。

 

「なら、私はどうなる」

 

 声が震えていた。

 

 怒りではない。

 

 不安だった。

 

「姉上が戻らないと決めた時間の中で、私は何になる」

 

 ヒッポリュテは息を止めた。

 

 その問いには、すぐに答えられなかった。

 

 ペンテシレイアは続ける。

 

「私は、姉上に置いていかれた。手を握っていたのに、消えた。ようやく見つけたと思ったら、姉上は願わないと言う」

 

 赤い目が、まっすぐこちらを射抜く。

 

「それは、あの夜をそのままにするということではないのか」

 

「置いていくんじゃない」

 

「なら、何だ」

 

 ヒッポリュテはペンテシレイアを見た。

 

 子どもの頃の面影がある。

 

 でも、今目の前にいるのは、ただ守られる妹ではない。

 

 桜の前に立ち、虫を裂き、怒りを飲み込み、呼べと言えるようになったペンテシレイアだ。

 

 だから、言葉を選ばなければならなかった。

 

 守るための嘘ではなく。

 

 今の彼女に渡せる言葉を。

 

「今度は、任せたい」

 

 ペンテシレイアが止まった。

 

「任せる……?」

 

「ああ」

 

「それは、置いていくのと何が違う」

 

 痛い問いだった。

 

 ヒッポリュテはすぐには答えない。

 

 桜が、そっとペンテシレイアの袖を握った。

 

 ペンテシレイアが視線を下げる。

 

 桜は何も言わなかった。

 

 けれど、その小さな手は、確かにそこにあった。

 

 守られるだけではない。

 

 呼ぶことを覚えた手。

 

 ペンテシレイアを選んだ手。

 

 ペンテシレイアの表情が、わずかに揺れる。

 

 ヒッポリュテは言った。

 

「置いていくのは、相手を見ずに離れることだ」

 

 ペンテシレイアは黙って聞く。

 

「任せるのは、相手を見て、信じて離れることだ」

 

 それが完全な答えではないことは分かっている。

 

 ペンテシレイアがすぐ納得できないことも。

 

 けれど、今のヒッポリュテが言えるのはそこまでだった。

 

 ペンテシレイアは視線を逸らした。

 

「……分からない」

 

「ああ」

 

「でも、桜は離さない」

 

 桜の袖を握る手に、ペンテシレイアの指がそっと触れた。

 

「それは分かる」

 

 桜は小さく頷いた。

 

 ヒッポリュテは、その二人を見ていた。

 

 胸の痛みは消えない。

 

 だが、少しだけ形が変わった気がした。

 

     ◇

 

 桜が、ぽつりと聞いた。

 

「私も、願わない方がいいんですか」

 

 ヒッポリュテは首を横に振った。

 

「願うな、とは言わない」

 

 桜が顔を上げる。

 

「願いがあることは悪いことじゃない」

 

「でも……」

 

「ただ、誰かに願い方を決めさせるな」

 

 その言葉に、桜は黙った。

 

 願い方。

 

 何を望むか。

 

 どこへ行くか。

 

 誰といるか。

 

 それをずっと、大人たちが決めようとしていた。

 

 遠坂。

 

 間桐。

 

 臓硯。

 

 時臣。

 

 そして、聖杯戦争という仕組みそのもの。

 

 ヒッポリュテは桜を見る。

 

「逃げることも選ぶことだ」

 

 桜の瞳が揺れる。

 

「力をつけることも選ぶことだ」

 

「力……」

 

「戻ってくることも、いつか選べる」

 

 桜は驚いたように目を開いた。

 

「戻って……くる?」

 

「ああ」

 

 ヒッポリュテは頷いた。

 

「今すぐではない。今の冬木は危険だ。間桐も遠坂も、聖杯も、お前を放っておかない」

 

 桜の指が毛布を握る。

 

「だが、ただ逃げるだけで終わらなくていい」

 

 その言葉は、桜の中にゆっくり落ちた。

 

 逃げる。

 

 それは、怖いことだと思っていた。

 

 悪いことだと思っていた。

 

 自分だけが、何かから離れていくことだと思っていた。

 

 でも、違うのかもしれない。

 

 戻るために離れる。

 

 力をつけるために逃げる。

 

 そんな選び方もあるのだと、初めて知った。

 

 通信機が鳴った。

 

 ヒッポリュテは目を伏せる。

 

 タイミングが良すぎる。

 

 いや、切嗣なら聞いていた可能性もある。

 

 不快だが、今は取るしかない。

 

『桜を冬木外へ出す準備をする』

 

 通信機から、切嗣の声がした。

 

 桜の身体が強張る。

 

 ペンテシレイアの視線が鋭くなる。

 

 雁夜も壁際で目を開けた。

 

 眠っていたはずの彼が、上体を起こそうとする。

 

 ヒッポリュテは通信機へ向けて言った。

 

「どこへ」

 

『魔術協会の表側ではない。時計塔からも距離がある。特殊な属性を扱った記録のある、古い家系が候補にある』

 

 特殊な属性。

 

 その言葉に、桜は小さく瞬きをした。

 

 意味は分からない。

 

 だが、自分に関係する言葉だということだけは感じ取ったようだった。

 

 切嗣は続ける。

 

『遠坂にも間桐にも近すぎない。協会本流にも深くない。隠すには、そういう場所の方がいい』

 

「信用できるのか」

 

『完全には』

 

「正直すぎるな」

 

『完全に信用できる魔術師なんていない』

 

「それは同意する」

 

 ペンテシレイアが不機嫌そうに言う。

 

「なら連れていくな」

 

 切嗣の声は淡々としていた。

 

『ここに残れば、臓硯が来る。遠坂も動く。聖杯戦争は終盤に入る。冬木にいる方が危険だ』

 

 雁夜が掠れた声で言う。

 

「桜ちゃんを、またどこかの家に渡すのかよ」

 

『保護先を選ぶだけだ』

 

「同じだろ……!」

 

「違う」

 

 ヒッポリュテが言った。

 

 雁夜がこちらを見る。

 

 ヒッポリュテは通信機ではなく、桜を見る。

 

「桜が選ぶなら違う」

 

 切嗣が少し黙った。

 

 ヒッポリュテは続ける。

 

「才能だから行け、という話ではない」

 

 桜の肩が微かに揺れる。

 

 才能。

 

 時臣に言われた言葉。

 

 私、才能じゃないです。

 

 あの言葉が、まだ桜の中に残っている。

 

「どんな適性があろうと、桜を運ぶ理由にするな」

 

『でも、その適性は守る力にもなる』

 

「それを決めるのも桜だ」

 

『時間はあまりない』

 

「それでもだ」

 

 沈黙が落ちた。

 

 切嗣は、しばらく何も言わなかった。

 

 やがて、低く答える。

 

『分かった。候補を調べる。移動手段も用意する。ただし、決断は早くして』

 

「急かすな」

 

『急かしているんじゃない。終盤になれば、冬木そのものが戦場になる』

 

 その言葉に、ヒッポリュテの目が細くなる。

 

 冬木そのものが戦場になる。

 

 切嗣は、ただ可能性を言っただけなのだろう。

 

 この戦争の終盤に、各陣営が市街地を巻き込む危険がある。

 

 それだけの意味で言ったはずだ。

 

 だが、ヒッポリュテの脳裏には、何度もちらついた赤い炎が浮かんでいた。

 

 燃える街。

 

 黒い泥。

 

 叫び。

 

 瓦礫。

 

 知っているはずの、まだ起きていない光景。

 

 避けきれるのか。

 

 分からない。

 

 だが、桜をその中に置いておくわけにはいかない。

 

 切嗣の声が、少しだけ低くなった。

 

『僕にも、帰れない場所がある』

 

 唐突な言葉だった。

 

 ヒッポリュテは黙る。

 

『助けられなかった子がいる』

 

 その声は、いつもの切嗣らしくなかった。

 

 ほんの少しだけ、人間の奥が見えた。

 

 だが、すぐに戻る。

 

『だから、助けられる可能性があるなら、先に動く』

 

「……それは善意か」

 

『後始末だよ』

 

「本当に腹立たしいな」

 

『よく言われる』

 

 通信が切れた。

 

 部屋の空気は、少し変わっていた。

 

 冬木を出る。

 

 知らない場所へ行く。

 

 遠坂から離れる。

 

 間桐から離れる。

 

 凛からも、離れる。

 

 桜は両手を見下ろした。

 

「逃げるだけ、ですか」

 

 小さな声だった。

 

 不安。

 

 迷い。

 

 でも、そこには少しだけ別のものも混じっていた。

 

 ただ受け入れるだけではない問い。

 

 ヒッポリュテは答える。

 

「違う」

 

 桜が顔を上げる。

 

「力をつけるために離れる」

 

「力を……」

 

「ああ。誰かを傷つけるための力じゃない。自分が自分でいるための力だ」

 

 桜は息を呑む。

 

 その言葉は、今まで聞いたどの“才能”とも違った。

 

 持っているから使われるものではない。

 

 あるから奪われるものでもない。

 

 自分で立つための力。

 

「戻ってきても、いいんですか」

 

 桜が聞いた。

 

 声は震えていた。

 

「お前が戻りたいなら」

 

 ヒッポリュテは答える。

 

 ペンテシレイアが続けた。

 

「その時は、私が一緒に来る」

 

 桜がペンテシレイアを見る。

 

 ペンテシレイアは当然のような顔をしていた。

 

「桜が戻るなら、私も戻る」

 

 その言葉に、桜の瞳が揺れる。

 

 雁夜が壁際で顔を伏せた。

 

 安心したのか、苦しくなったのか、分からない。

 

 ただ、彼もまた、桜が未来を選ぶ話を聞いていた。

 

     ◇

 

 ヒッポリュテは自分の手を見た。

 

 空っぽの手。

 

 けれど、これから離れるなら、残さなければならない。

 

 桜が冬木を出る。

 

 自分がずっとそばにいられるとは限らない。

 

 ペンテシレイアはいる。

 

 だが、それだけでは足りない時が来るかもしれない。

 

 呼ばれた時に届くもの。

 

 離れても、桜の中に残るもの。

 

 置いていくのではない。

 

 任せるのなら、届くものを残す必要がある。

 

 ヒッポリュテはまだ、それを言葉にしなかった。

 

 だが、決め始めていた。

 

 いざという時、この子が自分の足で立てるように。

 

 神代から持ち込んだ、この歪んだ力の一部を。

 

 ただの力ではなく、誓いとして。

 

 手を離さない。

 

 置いていかない。

 

 呼ばれたら、応える。

 

 その形を。

 

     ◇

 

 別の場所。

 

 セイバーは、アイリスフィールと共に夜の廊下を歩いていた。

 

 聖杯問答の言葉が、まだ耳に残っている。

 

 王が己の治世を否定するな。

 

 願いで救いたいものが、本当に救われるのかは考えろ。

 

 どちらの言葉も、違う方向からセイバーの胸を打っていた。

 

「願いで救いたいものが、本当に救われるのか」

 

 セイバーは呟いた。

 

 アイリスフィールが横を見る。

 

「それを考え始めたのね」

 

「私は、考えていなかったのでしょうか」

 

 セイバーの声には、わずかな揺れがあった。

 

「国を救いたい。その思いに偽りはありません。けれど、私は……救われた後の民の顔を、本当に見ていたのでしょうか」

 

 アイリスフィールはすぐには答えなかった。

 

 ただ、セイバーの隣を歩く。

 

「答えを急がなくてもいいと思うわ」

 

「しかし、戦いは待ってくれません」

 

「だからこそ、考えることをやめないで」

 

 セイバーは小さく頷いた。

 

 その顔はまだ硬い。

 

 だが、何かが確かに揺らぎ始めていた。

 

     ◇

 

 さらに別の場所。

 

 ウェイバーは、ライダーの背中を見ていた。

 

 聖杯問答の後だというのに、ライダーは妙に満足げだった。

 

「お前さ……本当に楽しかったのかよ、あれ」

 

「うむ」

 

 ライダーは豪快に頷く。

 

「王を問うた。ならば次は、王として戦うだけよ」

 

 ウェイバーの喉が鳴る。

 

「戦うって……金ぴかと?」

 

「いずれな」

 

「勝てるのかよ」

 

 ライダーは振り返った。

 

 その顔には、恐れはなかった。

 

「勝つために戦う。それだけだ」

 

「それだけって……」

 

「心配するな、小僧」

 

 ライダーは大きな手でウェイバーの頭を乱暴に撫でた。

 

「王の背を見るなら、最後まで見ろ」

 

 ウェイバーは言葉を失う。

 

 ライダーは夜空を見る。

 

「願わぬ女王も、いずれ己の欲を知るだろう」

 

「なんでそんなに楽しそうなんだよ」

 

「王は皆、面倒だからだ」

 

 ライダーは笑った。

 

 その笑い声は、夜の中でやけに明るかった。

 

     ◇

 

 地下では、虫が集まっていた。

 

 壁の隙間から。

 

 床下から。

 

 湿った土の中から。

 

 間桐臓硯は、それらを眺めて笑う。

 

「逃げるつもりか」

 

 声は低い。

 

 だが、怒りは薄い。

 

 桜をこのまま冬木に留めるつもりがないことくらいは読める。

 

 遠坂にも間桐にも近いこの街で、いつまでも隠し通せるはずがない。

 

「あるいは、冬木の外へ出すことも考えておるか」

 

 ならば、逃げ道ごと囲えばよい。

 

「遠坂の血。虚数の器。令呪らしき刻み。妙な英霊との縁」

 

 臓硯の口元が歪む。

 

「まだ何も仕込んでおらぬというのに、随分と育つ芽が多い」

 

 虫が蠢く。

 

「傷をつけすぎるな」

 

 その声に、虫たちが反応した。

 

「器は、壊す前に形を見ねばならぬ」

 

 逃走路。

 

 監視。

 

 回収。

 

 逃げる先が街の中であれ、外であれ、追えばよい。

 

 冬木の地下で、見えない網が少しずつ張られていく。

 

     ◇

 

 事務所跡の部屋に戻る。

 

 桜はまだ答えを出せていなかった。

 

 冬木を出る。

 

 知らない場所へ行く。

 

 力をつける。

 

 いつか戻ってくる。

 

 どれも、桜には大きすぎる言葉だった。

 

 でも、ただ怖いだけではなかった。

 

 自分の未来が、誰かに運ばれるものではなく、自分で選ぶものなのかもしれない。

 

 その可能性が、少しだけ見えた。

 

「今は、怖いです」

 

 桜は言った。

 

 ヒッポリュテは頷く。

 

「ああ」

 

「でも……逃げるだけで終わりたくないです」

 

 ペンテシレイアが桜を見る。

 

 雁夜も顔を上げた。

 

 ヒッポリュテは、静かに答える。

 

「なら、そのために逃げる」

 

 桜は小さく頷いた。

 

 まだ弱い頷きだった。

 

 けれど、確かに自分で動かしたものだった。

 

 ペンテシレイアが短く言う。

 

「私も行く」

 

 ヒッポリュテが見る。

 

 ペンテシレイアは桜の隣に立った。

 

「桜が戻るなら、私も戻る」

 

 桜の手が、そっとペンテシレイアの袖を掴む。

 

 ペンテシレイアは、それを振り払わなかった。

 

 ヒッポリュテはその光景を見ていた。

 

 願いで取り戻せるものではない。

 

 いま、ここで結ばれたもの。

 

 それを守るために、逃げる。

 

 それを育てるために、離れる。

 

 夜はまだ終わらない。

 

 けれど、桜は初めて、逃げた先に道があることを知った。

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