神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す   作:あかちゅきぼちゃん

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32話 王の消える夜

 

 

 夜は、まだ終わっていなかった。

 

 冬木の街は静かに見える。

 

 街灯は変わらず道を照らし、遠くでは車の音が薄く流れている。誰かの家には明かりがあり、誰かは眠り、誰かは明日のことを考えている。

 

 その下で、戦争だけが進んでいた。

 

 誰にも見えない場所で。

 

 誰にも知られない形で。

 

 王が、最後の戦場へ向かおうとしていた。

 

     ◇

 

「なあ……本当に行くのかよ」

 

 ウェイバーの声は、夜風に少し震えていた。

 

 寒さのせいではない。

 

 目の前の男が、止まる気など欠片もない顔をしていたからだ。

 

 ライダーは、いつも通り大きかった。

 

 ただ立っているだけで、夜の道が狭く見える。肩にかかる外套も、太い腕も、豪快な笑みも、何一つ変わらない。

 

 けれど、ウェイバーには分かった。

 

 今夜のライダーは、いつものように騒がしいだけではない。

 

 何かを決めている。

 

 その背中が、妙に静かだった。

 

「無論だ」

 

 ライダーは振り返りもせずに答えた。

 

「無論って……相手、あの金ぴかだぞ」

 

「だから行くのだ」

 

「だからの意味が分かんないんだよ!」

 

 ウェイバーは叫んだ。

 

 叫んでも、止められないことは分かっている。

 

 分かっているから、余計に腹が立つ。

 

 ライダーは笑った。

 

「王を語った後に背を向ければ、酒が不味くなる」

 

「そんな理由で死にに行くなよ!」

 

「死にに行くのではない。勝ちに行く」

 

 言葉は単純だった。

 

 単純すぎるほどに。

 

 けれど、その声には揺らぎがなかった。

 

 ウェイバーは拳を握る。

 

「勝てるのかよ」

 

 ライダーはようやく振り返った。

 

 その目には、恐怖がなかった。

 

 勝算だけを見ている目でもない。

 

 ただ、戦場へ向かう王の目だった。

 

「勝てるかではない」

 

 ライダーは言った。

 

「勝つために戦う。それだけだ」

 

 ウェイバーは唇を噛んだ。

 

 言い返したかった。

 

 そんなものは無茶だと言いたかった。

 

 でも、言えなかった。

 

 聖杯問答の夜。

 

 あの男は王だった。

 

 言葉だけではなく、背に軍勢を従え、王として立っていた。

 

 その背中を見た。

 

 見てしまった。

 

 だから、もう分かっている。

 

 この男は止まらない。

 

「小僧」

 

 大きな手が、ウェイバーの頭に乱暴に置かれた。

 

「王の背を見るなら、最後まで見ろ」

 

「……っ」

 

 ウェイバーは何か言おうとして、言えなかった。

 

 ライダーは笑う。

 

 いつものように、豪快に。

 

 けれど、その笑い声は、夜に少しだけ遠く響いた。

 

     ◇

 

 古い事務所跡では、逃げ道の話が続いていた。

 

 切嗣から届いた情報は、まだ不確かだった。

 

 冬木外へ出る経路。

 

 受け入れ先の候補。

 

 時計塔本流から距離を置いた、古い家系。

 

 五大元素とは違う特殊な適性を扱った記録。

 

 そのどれもが、桜にとっては遠すぎる言葉だった。

 

 知らない場所。

 

 知らない人。

 

 知らない未来。

 

 今いる部屋さえ、安心できる場所ではないのに。

 

 そこからさらに遠くへ行く。

 

 桜は、毛布の端を握った。

 

「遠くへ行ったら」

 

 小さな声だった。

 

「戻れなくなりませんか」

 

 ヒッポリュテは桜を見る。

 

 ペンテシレイアも、窓辺から視線を向けた。

 

 雁夜は壁際に座ったまま、何かを言いかけて止めた。

 

 桜は続ける。

 

「ここから離れたら……お姉ちゃんにも、会えなくなりますか」

 

 凛のことだ。

 

 その名前は出さない。

 

 出したら、もっと寂しくなるから。

 

 ヒッポリュテはすぐには答えなかった。

 

 簡単に「会える」とは言えない。

 

 この戦争がどう終わるか分からない。

 

 遠坂がどう動くかも分からない。

 

 冬木に何が残るかも分からない。

 

 だから、言えることだけを言う。

 

「戻る道を作るために行く」

 

「道……」

 

 桜が小さく繰り返す。

 

 ペンテシレイアが短く言った。

 

「道がなければ作る」

 

 あまりにも当然のような声だった。

 

 桜は少しだけ目を丸くする。

 

 ヒッポリュテは思わず苦笑しそうになった。

 

 ペンテシレイアらしい。

 

 壁があれば壊す。

 

 道がなければ作る。

 

 その単純さは、時に乱暴で、時に救いだった。

 

「そうだな」

 

 ヒッポリュテは言う。

 

「道がないなら作ればいい」

 

 桜は、すぐには頷けなかった。

 

 けれど、その言葉を捨てもしなかった。

 

 小さな胸の中に、そっとしまい込むように黙る。

 

 通信機の向こうで、切嗣が言った。

 

『受け入れ先はまだ確定していない。だが、逃走経路は先に作る』

 

「桜をまた誰かに渡すだけなら、私は認めない」

 

 ヒッポリュテの声は冷たかった。

 

『渡すんじゃない。隠す』

 

「言葉を変えただけに聞こえる」

 

『だから、桜本人に選ばせる』

 

 ヒッポリュテは少し黙った。

 

 切嗣の声は相変わらず淡々としている。

 

 だが、以前より言葉を選んでいる。

 

 それが善意なのか、計算なのかは分からない。

 

 おそらく両方だろう。

 

 切嗣はそういう男だ。

 

「候補を絞ったら伝えろ」

 

『そうする』

 

「それと」

 

『何?』

 

「監視を増やすなら、先に言え」

 

 通信の向こうで、わずかに沈黙があった。

 

『気づいていたのか』

 

「気づかないと思うな」

 

『分かった。必要最低限にする』

 

「必要かどうかもこちらで決める」

 

『君は本当に扱いにくい』

 

「お互い様だ」

 

 通信が切れる。

 

 ペンテシレイアが窓の外を見たまま言う。

 

「信用できない」

 

「できないな」

 

 ヒッポリュテは即答した。

 

 桜が少し不安そうに顔を上げる。

 

 ヒッポリュテは続けた。

 

「だが、使えるものは使う」

 

「姉上らしくない」

 

「そうか?」

 

「昔なら、気に入らないものは斬っていた」

 

 ヒッポリュテは一瞬黙った。

 

 それが、この身体の本来のヒッポリュテのことなのか。

 

 それとも、ペンテシレイアが見てきた姉のことなのか。

 

 どちらにせよ、今の自分はそのままではいられない。

 

「桜を連れている」

 

 ヒッポリュテは言った。

 

「使えるものを選ばなければ、守れない」

 

 ペンテシレイアは、何も言わなかった。

 

     ◇

 

 少し時間が経った後、ペンテシレイアはヒッポリュテに近づいた。

 

 桜は毛布に包まっている。

 

 雁夜は浅く目を閉じている。

 

 だから、声を落とした。

 

「姉上」

 

「なんだ」

 

「桜を逃がした後、姉上はどうする」

 

 ヒッポリュテは答えられなかった。

 

 その問いは、避けていたものだった。

 

 桜を冬木外へ出す。

 

 ペンテシレイアがついていく。

 

 桜が力をつけて、いつか戻る道を作る。

 

 そこまでは考えた。

 

 では、自分は。

 

 聖杯戦争を放っておけるのか。

 

 臓硯を放っておけるのか。

 

 冬木に起こるかもしれない災厄を、見過ごせるのか。

 

 そもそも、自分の存在はそこまで保つのか。

 

 神代から弾かれ、現代に落ちたこの身体は、どこまでこの時代にいられるのか。

 

 分からないことばかりだった。

 

「分からない」

 

 正直に答える。

 

 ペンテシレイアの目が鋭くなる。

 

「またそれか」

 

「ああ」

 

「姉上は、いつも肝心なところで分からないと言う」

 

「分からないものを、分かったとは言えない」

 

「それでまた消えたらどうする」

 

 その声には、怒りよりも恐怖があった。

 

 ヒッポリュテは、胸の奥が痛むのを感じた。

 

 ペンテシレイアは、まだ恐れている。

 

 手を握っていたのに消えたあの夜を。

 

 任せると言われても、また置いていかれるのではないかと。

 

 ヒッポリュテは言う。

 

「分からないから、今決められることを決める」

 

「それで足りるのか」

 

「足りない」

 

 ペンテシレイアが黙る。

 

「それでも、決めるしかない」

 

 ヒッポリュテはペンテシレイアを見る。

 

「桜を逃がす。お前は桜と行く。これは決める」

 

「姉上は」

 

「私は、できる限り戻る」

 

「できる限り、では足りない」

 

「そうだな」

 

「姉上」

 

 ペンテシレイアの声がわずかに震えた。

 

「私は、また待つのか」

 

 ヒッポリュテは、すぐには答えられなかった。

 

 答えれば嘘になる気がした。

 

 絶対に戻ると言いたい。

 

 でも、この戦争の終わりを知っている。

 

 完全に同じとは限らない。

 

 それでも、破滅の気配は近い。

 

 だから、軽い約束はできなかった。

 

 その沈黙を、ペンテシレイアはどう受け取ったのか。

 

 彼女は顔を逸らした。

 

「……桜は私が連れていく」

 

「ああ」

 

「だが、姉上も戻れ」

 

「戻る」

 

 今度は、そう言った。

 

 絶対ではない。

 

 でも、願いではなく意思として。

 

 ペンテシレイアはしばらくこちらを見ていた。

 

 やがて、小さく頷いた。

 

     ◇

 

 雁夜は、二人の会話を聞いていた。

 

 目を閉じていたが、眠ってはいなかった。

 

 桜を逃がす。

 

 ペンテシレイアがついていく。

 

 ヒッポリュテは残るかもしれない。

 

 では、自分は。

 

 雁夜は自分の手を見る。

 

 震えている。

 

 痩せた手。

 

 血管が浮き、指先の感覚も時折怪しい。

 

 虫が中にいる。

 

 臓硯の影が、身体の奥に残っている。

 

 こんな身体で、桜と一緒に逃げられるのか。

 

 逃げた先で、桜を危険にしないと言えるのか。

 

「俺は……」

 

 声が漏れた。

 

 桜が顔を上げる。

 

「雁夜おじさん?」

 

 雁夜は笑おうとした。

 

 できなかった。

 

「俺は、一緒に行かない方がいいのかもしれない」

 

 桜の目が揺れた。

 

「どうして」

 

「俺が近くにいると、臓硯に見つかりやすくなるかもしれない。あいつは俺を使える。俺の身体は、もう……」

 

「そんなこと」

 

 桜は言いかけて、止まった。

 

 言えなかった。

 

 雁夜が苦しんでいるのは、桜にも分かる。

 

 無理に大丈夫と言えば、それも違う気がした。

 

 雁夜は震える手を握る。

 

「大丈夫。逃げる道を作るくらいは、まだできる」

 

 ヒッポリュテが目を細める。

 

「一人で動くな」

 

「分かってる」

 

 雁夜は答えた。

 

 だが、その声は危うかった。

 

 分かっている。

 

 けれど、何かをする気でいる。

 

 自分が桜と一緒に未来へ行けないなら。

 

 せめて、桜が行くための道になる。

 

 そんな危うい決意が見えた。

 

 ペンテシレイアが低く言う。

 

「勝手に死ぬな」

 

 雁夜は少し驚いた顔をした。

 

「死ねば桜が泣く」

 

 それだけ言って、ペンテシレイアは視線を逸らす。

 

 雁夜は目を伏せた。

 

「……そうだな」

 

 その声は、少しだけ柔らかかった。

 

     ◇

 

 アインツベルンの拠点では、セイバーと切嗣の間に沈黙があった。

 

 聖杯問答の後。

 

 セイバーは、ずっと問いを抱えている。

 

 ライダーの言葉。

 

 ヒッポリュテの言葉。

 

 願いで救いたいものが、本当に救われるのか。

 

 王の道を否定するとは、何を否定することなのか。

 

 だが、切嗣は違う。

 

 彼の視線はすでに次の戦いへ向いている。

 

 勝つための手順。

 

 切るべき札。

 

 捨てるもの。

 

 守るもの。

 

 その計算の中に、王の悩みは入っていない。

 

「あなたは」

 

 セイバーが口を開いた。

 

 切嗣は振り返らない。

 

「聖杯に何を願うのですか」

 

 切嗣の手が一瞬だけ止まった。

 

 それから、また動く。

 

「戦争を終わらせる」

 

「それは願いですか」

 

「目的だ」

 

「そのために、何を捨てるのですか」

 

 切嗣は答えなかった。

 

 沈黙。

 

 セイバーは、その背中を見る。

 

 この男は、剣を振るわない。

 

 だが、確かに戦っている。

 

 そして、切る。

 

 必要なら、何でも。

 

 セイバーは続ける。

 

「願いで救いたいものが、本当に救われるのか。そう問われました」

 

「君はまだ、あの問答に囚われているのか」

 

「囚われているのではありません。考えています」

 

「戦場で考えすぎれば死ぬ」

 

「考えずに勝って、何が残るのです」

 

 切嗣はようやく振り返った。

 

 その目は冷たい。

 

 だが、わずかに疲れているようにも見えた。

 

「残すために勝つんだ」

 

「では、あなたは何を残すのですか」

 

 切嗣は答えなかった。

 

 今度の沈黙は、少し長かった。

 

     ◇

 

 夜の別の場所で、王と王が向かい合っていた。

 

 黄金の光。

 

 雷の残滓。

 

 戦車の轍。

 

 空気そのものを裂くような異質な圧。

 

 ウェイバーは、息をするのも忘れそうになっていた。

 

 ライダーは笑っていた。

 

 楽しそうに。

 

 恐ろしいほどに、堂々と。

 

 アーチャーは、その笑みを退屈そうに受け止めている。

 

 けれど、その瞳にはわずかな興味があった。

 

 王が王へ挑む。

 

 それだけの場だった。

 

「行くぞ、坊主」

 

 ライダーが言った。

 

 ウェイバーは声が出ない。

 

 ただ、頷いた。

 

 戦車が駆ける。

 

 夜が裂ける。

 

 黄金の輝きが降る。

 

 それは戦いだった。

 

 だが、ウェイバーには、ただの殺し合いには見えなかった。

 

 ライダーは逃げていない。

 

 退いていない。

 

 王として、前へ進んでいる。

 

 たとえ相手が、届かないほどの王だとしても。

 

 それでも、前へ。

 

 やがて。

 

 世界が歪んだ。

 

 王の軍勢の熱が、別の何かに裂かれる。

 

 見たことのない剣。

 

 剣でありながら、剣ではないもの。

 

 空間そのものが悲鳴を上げるような気配。

 

 ウェイバーには理解できなかった。

 

 理解できないまま、身体が震えた。

 

 ライダーは、それでも笑っていた。

 

 最後まで。

 

 王の背は、前を向いていた。

 

     ◇

 

 古い事務所跡で、ヒッポリュテがふと顔を上げた。

 

 話の途中だった。

 

 桜の逃走経路。

 

 臓硯の監視。

 

 切嗣からの追加連絡。

 

 それらを考えていた時、遠くで巨大な火が消えたような感覚があった。

 

 音はない。

 

 光も見えない。

 

 けれど、分かった。

 

 夜のどこかで、大きな王の気配が燃え尽きた。

 

 ペンテシレイアも気づいたのか、ヒッポリュテを見る。

 

「姉上?」

 

 ヒッポリュテは少しだけ目を閉じた。

 

 聖杯問答の夜。

 

 豪快に笑い、杯を掲げた王。

 

 臣下と共にある王。

 

 願わぬなら、なおさら己の欲を見失うな。

 

 その声が蘇る。

 

「王が一つ、落ちた」

 

 桜には意味が分からなかった。

 

 けれど、ヒッポリュテの顔を見て、それが大きなことなのだと分かった。

 

「宴にいた王か」

 

 ペンテシレイアが問う。

 

「ああ」

 

 ヒッポリュテは答えた。

 

 その声は静かだった。

 

 悲しみとも違う。

 

 敬意に近いものがあった。

 

 通信機が短く鳴る。

 

 切嗣だった。

 

『ライダーが脱落した』

 

「マスターは」

 

『生きている』

 

 ヒッポリュテは目を伏せた。

 

 ライダーは、最後にマスターを残した。

 

 王の背を見せ、そして残した。

 

 それが救いかどうかは分からない。

 

 だが、あの少年は生きている。

 

 その事実だけで、少しだけ息がしやすくなった。

 

『これで戦争はさらに終盤へ近づく』

 

「分かっている」

 

『桜を出すなら急いだ方がいい』

 

「ああ」

 

 通信が切れる。

 

 桜が小さく聞いた。

 

「その人も、逃げなかったんですか」

 

 ヒッポリュテは桜を見る。

 

「逃げなかった」

 

「逃げない方が、強いんですか」

 

 その問いには、まだ怯えが混じっていた。

 

 桜は逃げる。

 

 冬木から離れる。

 

 それが弱いことなのではないかと、まだどこかで思っている。

 

 ヒッポリュテは首を横に振った。

 

「違う」

 

 桜が顔を上げる。

 

「逃げないことが強さの時もある」

 

 ライダーの背が浮かぶ。

 

 最後まで前へ進んだ王の背。

 

「逃げることが強さの時もある」

 

 桜の手が、毛布を握る。

 

「その人は、逃げないことを選んだ。お前は、逃げることを選ぶ」

 

「どっちも……強いんですか」

 

「選んだならな」

 

 桜は黙った。

 

 その言葉を、何度も心の中で確かめているようだった。

 

     ◇

 

 地下では、虫が動いていた。

 

 間桐臓硯は、冬木の地図を眺める。

 

 駅。

 

 港。

 

 郊外へ抜ける道路。

 

 古い霊脈の抜け道。

 

 魔術師が使いそうな裏道。

 

 一般人に紛れられる場所。

 

 そのすべてへ、細い虫の糸が伸びていく。

 

「逃げるなら、道を選ぶ」

 

 臓硯は呟く。

 

「道を選べば、癖が出る」

 

 捕まえる必要は、まだない。

 

 今すぐ力ずくで奪えば、器を傷つける。

 

 それに、桜の周囲には厄介な者がいる。

 

 バーサーカー。

 

 神代の匂いを持つ女。

 

 間桐から外れた雁夜。

 

 ならば、まずは道を見る。

 

 どこへ逃げるか。

 

 誰を頼るか。

 

 どこで足を止めるか。

 

 逃げ道を見れば、その者の考えが見える。

 

「さて」

 

 臓硯の口元が歪む。

 

「どの道を選ぶかのう」

 

 虫たちが、静かに冬木の夜へ散っていった。

 

     ◇

 

 ヒッポリュテは決めた。

 

「明日までに出る」

 

 その言葉に、全員が反応した。

 

 ペンテシレイアが言う。

 

「早いな」

 

「遅いくらいだ」

 

 ヒッポリュテは答える。

 

「ライダーが落ちた。戦争は加速する。臓硯も動く。ここに留まる理由がない」

 

 雁夜がゆっくり立ち上がろうとする。

 

「俺が道を探す」

 

「一人で動くな」

 

「一人じゃない」

 

 雁夜は、苦しそうに笑った。

 

「臓硯が俺を追うなら、それを逆に使う」

 

 ヒッポリュテの目が冷える。

 

「自分を餌にする気か」

 

「他に使い道があるなら教えてくれよ」

 

 桜が立ち上がりかける。

 

「雁夜おじさん」

 

 雁夜は桜を見た。

 

 その顔は優しかった。

 

 痛いほどに。

 

「大丈夫だよ。まだ何も決めてない」

 

「嘘です」

 

 桜の声は震えていた。

 

「今、少し嘘をつきました」

 

 雁夜は言葉を失った。

 

 ペンテシレイアが雁夜を睨む。

 

「勝手に決めるな」

 

 雁夜は、苦笑しようとして失敗した。

 

「……悪い」

 

 ヒッポリュテは低く言う。

 

「桜を逃がすために、誰かが勝手に死ぬなら意味がない」

 

「でも」

 

「でも、ではない」

 

 桜が何度も言われてきた言葉を、今度は雁夜へ向ける。

 

「逃げる道は作る。だが、死に道は作らせない」

 

 雁夜は黙った。

 

 完全に納得してはいない。

 

 それでも、今は引いた。

 

 ヒッポリュテは桜へ向き直る。

 

「逃げるぞ、桜」

 

 桜は息を呑む。

 

 怖い。

 

 知らない場所へ行く。

 

 この街から離れる。

 

 姉とも、父とも、これまで知っていたすべてとも離れる。

 

 それでも。

 

 逃げるだけで終わりたくない。

 

 その言葉を、自分で言った。

 

 だから、桜は頷いた。

 

「はい」

 

 ヒッポリュテは続ける。

 

「逃げて、生きて、戻るために」

 

 ペンテシレイアが桜の隣に立つ。

 

「道がなければ作る」

 

 雁夜が小さく笑った。

 

 今度は、少しだけ本当に笑えていた。

 

     ◇

 

 夜のどこかで、少年は一人になっていた。

 

 王の背は、もうない。

 

 豪快な笑い声もない。

 

 乱暴に頭を撫でる手もない。

 

 ただ、夜風だけがある。

 

 ウェイバーは立ち尽くしていた。

 

 泣いているのか、自分でも分からなかった。

 

 涙は出ている。

 

 でも、胸の奥にあるものは、悲しみだけではなかった。

 

 王の背を、最後まで見た。

 

 それだけが、はっきりと残っている。

 

 同じ夜空の下。

 

 ヒッポリュテは、窓のない部屋で静かに目を伏せた。

 

 願わぬなら、なおさら己の欲を見失うな。

 

 その言葉は、まだ消えない。

 

 王は一つ消えた。

 

 けれど、その背が見せたものは、消えていない。

 

 ヒッポリュテは桜を見る。

 

 ペンテシレイアを見る。

 

 雁夜を見る。

 

 そして、自分の空っぽの手を握った。

 

 逃げる。

 

 それは敗北ではない。

 

 今は、生きて戻るための道だ。

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