神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
夜の事務所跡に、地図が広げられていた。
折り目のついた冬木市の地図。
赤い線が三本。
駅へ向かう道。
港へ抜ける道。
郊外道路へ出る道。
そのどれもが、冬木を離れるための道だった。
けれど、そのどれもが、安全には見えなかった。
ヒッポリュテは地図を見下ろしていた。
ペンテシレイアは窓辺に立ち、外を見ている。
桜は毛布を膝にかけたまま、地図の端を見ていた。
雁夜は壁際に座っている。
顔色は悪い。
それでも、眠ろうとはしていなかった。
通信機から、切嗣の声がした。
『候補は三つだ』
淡々とした声。
『駅。一般人に紛れやすい。ただし監視されやすい』
赤い線の一本が、冬木駅へ伸びている。
『港。人目は少ない。だが、逃走経路が限られる。罠を張られれば逃げ場が少ない』
次の線が、海の方へ向かう。
『郊外道路。車で出られる。速度は出せるが、封鎖されれば終わりだ』
三本目。
街を抜け、山側へ向かう道。
ヒッポリュテは目を細めた。
「安全な道はない、か」
『ない。ましな道を選ぶしかない』
「ましな地獄を選べ、ということか」
『戦争中はだいたいそうだ』
嫌な言い方だった。
けれど、間違ってはいない。
ヒッポリュテは地図の赤線を見る。
駅。
港。
道路。
どれも道だ。
人が使う道。
逃げる者が選びやすい道。
そして、追う者が待ちやすい道でもある。
「臓硯は」
『読んでいる』
切嗣は即答した。
『複数のルートに不自然な魔力反応がある。大量ではない。だが、配置が作為的だ』
「虫か」
『おそらく』
桜の指が毛布を握った。
ペンテシレイアの視線が鋭くなる。
切嗣は続ける。
『臓硯は、君たちが出ると読んでいる』
「盗み聞きか」
『違う。読まれた』
その言葉に、部屋の空気が少し重くなる。
会話を聞かれたわけではない。
それでも先回りされている。
逃げるならどこを選ぶか。
どうやって桜を冬木から出すか。
それを、臓硯は読んでいる。
長く生きた魔術師。
蟲を使い、人の行動を待ち、隙間から絡め取る老人。
直接手を伸ばさずとも、道の先に網を張ることができる。
桜は小さく聞いた。
「どこに行っても……いるんですか」
声が震えていた。
駅にも。
港にも。
道にも。
どこを選んでも、虫が待っている。
そう聞こえたのだろう。
ペンテシレイアが即座に答える。
「来たら潰す」
「でも、見えなかったら」
「呼べ」
短い。
迷いのない返事だった。
桜はペンテシレイアを見る。
ペンテシレイアは窓の外を見たまま続けた。
「見えなくても、嫌だと思ったら呼べ。気配がしたら呼べ。分からなくても呼べ」
「……はい」
「遅れるな」
「はい」
桜は頷いた。
けれど、怖さは消えていない。
当たり前だ。
声を出せるようになったからといって、恐怖そのものが消えるわけではない。
ヒッポリュテは地図を見下ろしたまま言った。
「保留だ」
『どのルートを使うか決めないと、準備ができない』
「どのルートも読まれている」
『だから“ましな道”を選ぶと言っている』
「読まれた道の中から選ぶなら、こちらの動きも読まれる」
通信機の向こうで、切嗣が黙った。
ヒッポリュテは続ける。
「駅も港も道路も、魔術師が逃げ道として考える。お前も考えた。臓硯も考えた」
『ならどうする』
「別の道を探す」
『そんなものはない』
ペンテシレイアが言った。
「道がなければ作ると言った」
ヒッポリュテは、そちらを見る。
ペンテシレイアは真顔だった。
冗談ではない。
本気でそう言っている。
ヒッポリュテは少しだけ息を吐く。
「本当に作ることになるかもな」
桜が目を丸くする。
「道を……作るんですか」
「作れるかもしれない、という話だ」
ヒッポリュテは地図から目を離し、床を見る。
この街の下には、霊脈がある。
魔術師たちが利用する流れ。
聖杯戦争のために歪められ、使われ、汚されている道。
そして、この世界には表の道だけではない。
神代にあったものは遠い。
だが、完全に消えたわけではない。
この薄い時代にも、継ぎ目はある。
境界はある。
ただ、人の目に見えなくなっただけだ。
そこを探れるか。
開けるか。
桜を連れて通れるか。
分からない。
それでも、既存の道へ向かうよりはましかもしれない。
雁夜が低く言った。
「俺が別ルートに出る」
全員の視線が向いた。
雁夜は壁にもたれたまま、無理に身体を起こす。
「臓硯が俺を追うなら、その間に桜ちゃんを逃がせる」
ペンテシレイアの目が一気に鋭くなった。
「勝手に死ぬなと言った」
「死ぬ気じゃない」
「死ぬ気じゃない者が一番危ない」
ヒッポリュテが静かに言った。
雁夜は言葉を詰まらせる。
ヒッポリュテは雁夜を見る。
「自分を餌にするつもりだろう」
「餌じゃない。囮だ」
「同じだ」
「違う」
「違わない」
部屋の空気が張り詰める。
雁夜の目には焦りがあった。
何かをしなければならない。
自分が役に立たなければならない。
そうしなければ、桜のそばにいる資格がない。
そんな焦りが、はっきり見えた。
桜は毛布を握ったまま、雁夜を見ていた。
顔色が悪い。
けれど、今度は黙っていなかった。
「行かないでください」
小さな声だった。
それでも、部屋に響いた。
雁夜が止まる。
「桜ちゃん……」
「私のために、いなくならないでください」
雁夜の顔が歪んだ。
桜は続ける。
声は震えている。
けれど、止まらない。
「逃げたいです」
その言葉に、誰も動かなかった。
「ここから離れたいです。あの家にも、虫にも、戻りたくないです」
桜は両手を握る。
「でも、誰かがいなくなるために逃げたいんじゃないです」
雁夜は、何も言えなかった。
桜のためなら、自分が壊れてもいい。
そう思っていた。
けれど、桜はそれを望んでいない。
自分のために誰かが消えることを、桜は怖がっている。
ヒッポリュテは静かに桜を見ていた。
桜が自分の意思で止めた。
誰かの自己犠牲を、受け入れなかった。
それは、小さくない一歩だった。
ペンテシレイアが雁夜へ言う。
「聞こえただろう」
雁夜は顔を伏せた。
「……ああ」
声が掠れている。
「聞こえた」
ヒッポリュテは地図を折りたたんだ。
「駅も港も道路も使わない」
通信機の向こうで、切嗣が言う。
『ならどうする』
「作る」
『具体的には』
「霊脈の薄い場所を探す。表の道ではなく、境界を通る」
『危険だ』
「知っている」
『桜を連れて通れる保証はない』
「だから確かめる」
ヒッポリュテは桜を見る。
「怖ければ言え」
桜は頷く。
「はい」
「嫌だと思ったら言え」
「はい」
「分からなくても言え」
桜は、もう一度頷いた。
「言います」
その返事を聞いて、ヒッポリュテは床に手を触れた。
冷たい床板。
古い建物。
その下にある地面。
さらに下を流れる、細い魔力の筋。
現代の魔力は薄い。
神代とは比べものにならない。
だが、流れはある。
弱く、細く、歪んでいても、確かに。
ヒッポリュテは目を閉じた。
呼吸を落とす。
意識を沈める。
街の下を探る。
駅へ向かう流れ。
港へ落ちる流れ。
郊外へ抜ける流れ。
どこにも、異物がある。
虫の気配。
臓硯の網。
それを避けるように、さらに細い隙間を探す。
人が道と呼ばない場所。
魔術師が使いにくい場所。
安定していないからこそ、待ち伏せしづらい場所。
その時。
桜の影が、揺れた。
部屋の灯りは変わっていない。
窓は塞がれている。
なのに、桜の足元に落ちる影だけが、水面のように沈んだ。
ペンテシレイアがすぐに反応する。
「桜?」
桜自身も驚いていた。
自分の足元を見る。
影は、ただ黒いだけではなかった。
どこか深い。
床にあるのに、底が見えないような黒。
桜は小さく息を呑む。
「分かりません」
声が震える。
「でも……そこ、少し怖いです」
ヒッポリュテは目を開けた。
桜は、こちらが探ろうとした境界の違和感を感じている。
見えているわけではない。
知っているわけでもない。
けれど、怖いと分かる。
自分に近いものだと、感じ取っている。
通信機から切嗣の声がした。
『やはり、適性がある』
ヒッポリュテは即座に睨む。
「言い方を選べ」
短い沈黙。
『……桜にしか見えない道がある、ということだ』
少しだけ、言葉が変わった。
桜は自分の影を見ている。
怖がっている。
でも、目を逸らしてはいない。
ヒッポリュテは静かに言う。
「今は覗くな」
桜が顔を上げる。
「はい」
「その黒は、無理に触るものではない」
「……悪いものですか」
「使い方を間違えれば」
桜の肩が震える。
ヒッポリュテは続けた。
「だが、悪いだけのものではない」
桜は影を見る。
怖い。
でも、そこには道があるのかもしれない。
自分が逃げるための。
いつか戻るための。
そんな道が。
『その手の異常な存在や契約を扱える人間は限られる』
切嗣が言った。
ヒッポリュテは眉を寄せる。
「誰の話だ」
『人形師だ』
「人形師」
『肉体と魂の接続、器の作成、境界の処理に詳しい。協会からも距離を置く厄介者がいる』
「厄介者ばかりだな」
『信用できる者より、扱いにくい者の方が生き残る』
「お前が言うと説得力がある」
『褒め言葉として受け取っておく』
「褒めていない」
切嗣は淡々と続ける。
『今すぐ会わせられる相手じゃない。ただ、桜の契約や君たちの存在が不安定になるなら、いずれ必要になるかもしれない』
ヒッポリュテは自分の手を見る。
神代から落ちた存在。
サーヴァントではない。
人間とも言い切れない。
この身体がどこまで持つか分からない。
ペンテシレイアもまた、桜との契約に依存している。
桜の影が、わずかに揺れた。
いずれ。
今ではない。
だが、その赤い髪の人形師とやらが、桜たちの未来に関わる可能性はある。
ヒッポリュテは息を吐いた。
「今は道だ」
『分かっている』
「人形師の話は後にしろ」
『必要になったら伝える』
通信が切れた。
◇
逃走前の確認は、短かった。
持てる荷物は少ない。
水。
応急処置道具。
切嗣が用意した現金と簡易の身分証。
桜のための上着。
雁夜の薬。
それだけだった。
ペンテシレイアは桜の前に立つ。
「怖くなったら呼べ」
「はい」
「離れても呼べ」
桜は不安そうに顔を上げた。
「離れても……聞こえますか」
「聞く」
「本当に?」
「聞くと決めた」
桜は目を瞬かせた。
理屈ではない。
契約の強さでもない。
ペンテシレイアは、そう決めたと言っている。
だから聞こえる。
その強引さが、なぜか桜を少しだけ安心させた。
「はい」
桜は頷いた。
「呼びます」
「遅れるな」
「はい」
雁夜が壁際で苦しそうに立ち上がる。
ヒッポリュテは彼を見る。
「無理をするな」
「無理しないと歩けない」
「なら、無理の量を減らせ」
雁夜は少しだけ笑った。
「変な言い方だな」
「倒れられると困る」
「分かってる」
雁夜は桜を見る。
「勝手には行かない」
桜は、じっと雁夜を見た。
「約束です」
「ああ」
雁夜は頷く。
「約束する」
その言葉が、どれほど持つかは分からない。
でも今は、口にした。
桜が聞いた。
それだけでも、少し違った。
◇
地下で、臓硯は目を細めた。
虫の一部が、不安定な霊脈の揺れを拾っている。
駅。
港。
道路。
そのどれでもない場所。
細く、歪んだ流れ。
普通なら、逃走路として選ばない。
危険だからだ。
「読まれた道を嫌うか」
臓硯は愉快そうに笑った。
「ならば、読めぬ道を作る者を狙えばよい」
桜だけではない。
あの女。
神代の匂いをまとい、桜を連れて逃げる者。
道を作るなら、そこへ干渉する。
安定しない道は、少し乱せば裂ける。
裂ければ、子どもは落ちる。
虫が、霊脈の要所へ向かう。
臓硯は杖をつき、闇の中で低く笑った。
「逃げるなら逃げよ」
声が湿った地下に沈む。
「逃げ道ごと、こちらへ曲げてやる」
◇
深夜。
事務所跡の扉が、静かに開いた。
外の空気は冷たい。
冬木の夜は、いつも通りを装っている。
だが、ヒッポリュテには分かる。
街の下で、何かが動いている。
遠くで、聖杯戦争そのものも終わりへ向かっている。
もう猶予はない。
ヒッポリュテは全員を見る。
「誰か一人でも勝手に動いたら、そこで終わりだ」
ペンテシレイアが横目で雁夜を見る。
「雁夜に言っているのか」
「全員に言っている」
雁夜は苦笑した。
「信用ないな」
「あると思うか」
「ないな」
短いやり取り。
桜が少しだけ息を吐いた。
笑ったわけではない。
でも、張り詰めていた肩がほんの少しだけ下がった。
出発しようとした時、桜が立ち止まった。
ヒッポリュテが振り返る。
「桜?」
桜は、両手を握っていた。
震えている。
でも、逃げてはいない。
自分で言葉を探している。
「逃げたいです」
声は小さかった。
けれど、夜に落ちた。
「ここから離れたいです」
桜は続ける。
「あの家にも、虫にも、戻りたくないです」
ペンテシレイアが、静かに桜を見た。
雁夜は唇を噛んだ。
桜はさらに言う。
「でも、逃げたままで終わりたくないです」
手が震えている。
それでも言う。
「いつか、戻ってきたいです」
その言葉は、桜自身を驚かせたようだった。
戻る。
冬木へ。
姉のいる場所へ。
自分が運ばれそうになった場所へ。
怖い場所へ。
それでも、いつか。
自分の足で。
ヒッポリュテは頷いた。
「聞いた」
ペンテシレイアも言う。
「なら行く」
雁夜は、目を細める。
「うん。行こう」
桜は頷いた。
その頷きは、まだ弱い。
でも、誰かに動かされたものではなかった。
自分で動かしたものだった。
◇
路地へ出る。
夜は静かだった。
遠くに車の音。
どこかの家の換気扇の音。
電線が風に小さく鳴る音。
その下に、かすかな気配があった。
ちり、と。
とても小さな音。
虫の脚が、石の隙間を擦るような音。
ペンテシレイアが即座に前へ出る。
ヒッポリュテも足を止めた。
雁夜の表情が硬くなる。
桜は息を呑んだ。
怖い。
今すぐ足がすくみそうになる。
それでも、今度は黙らなかった。
「……嫌です」
声は震えていた。
けれど、確かに出た。
ペンテシレイアの鉤爪が、闇の中で音もなく現れる。
「聞いた」
短く答え、彼女は桜の前に立った。
ヒッポリュテは夜の奥を見る。
冬木の道は、どこも暗く口を開けていた。
だが、もう戻らない。
逃げるために。
生きるために。
いつか戻るために。
四人は、静かな路地へ踏み出した。