神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す   作:あかちゅきぼちゃん

36 / 44
34話 道なき道

 

 

 路地の奥で、かすかな音がした。

 

 ちり、と。

 

 石の隙間を、小さな脚が擦るような音。

 

 桜は息を呑んだ。

 

 夜は静かだった。

 

 遠くで車が走る音がして、どこかの家の室外機が低く唸っている。電線が風に揺れ、街灯の白い光が路地の端を照らしている。

 

 それだけなら、ただの夜だった。

 

 けれど、その下にいる。

 

 目に見えない場所から。

 

 石の隙間から。

 

 塀の下から。

 

 側溝の奥から。

 

 何かがこちらを見ている。

 

「……嫌です」

 

 桜は声を出した。

 

 小さく、震えた声。

 

 けれど、確かに届いた。

 

 ペンテシレイアの両腕に、黒い手甲が現れる。

 

 指先の鉤爪が夜気を裂くように伸びた。

 

「聞いた」

 

 彼女は短く答え、桜の前に立った。

 

 次の瞬間、路地の影が動いた。

 

 一匹。

 

 二匹。

 

 側溝の格子の隙間から、黒い虫が這い出てくる。塀の根元からも、小さな影が滲む。電柱の根元で何かが蠢き、街灯の光を避けるように広がっていく。

 

 多くはない。

 

 けれど、配置が悪い。

 

 正面を塞ぐ虫。

 

 背後を探る虫。

 

 右の路地へ向かう道を狭める虫。

 

 左の細道だけが、妙に空いている。

 

 ペンテシレイアが低く言った。

 

「数は少ない。だが、位置が嫌らしい」

 

 ヒッポリュテは目を細める。

 

 確かに、殺しに来ている動きではない。

 

 足を止めるため。

 

 逃げ道を選ばせるため。

 

 行かせたい方向へ、こちらの恐怖と焦りを押し流すため。

 

 虫は道を塞いでいるようで、実際には一方向だけ薄くしている。

 

 通れそうに見える道。

 

 だからこそ、危ない。

 

「通れそうに見える道ほど、行くな」

 

 ヒッポリュテが言う。

 

 ペンテシレイアが横目で見る。

 

「罠か」

 

「罠に見えないように作った罠だ」

 

 桜は毛布代わりに羽織っていた上着を握った。

 

 怖い。

 

 ただ虫がいることだけではない。

 

 自分が怖がることまで、読まれている気がした。

 

 怖がって逃げる方向。

 

 誰かの背中に隠れて進む方向。

 

 その全部を、暗い地下の老人が笑いながら待っている。

 

 そんな気がした。

 

 通信機が短く鳴る。

 

 ヒッポリュテは視線を周囲から外さずに応答した。

 

『移動を確認した』

 

 切嗣の声。

 

 小さくノイズが混じっている。

 

『他陣営の動きが加速している。ライダー脱落後、均衡が崩れた。セイバー周辺も動いている。アーチャーの動きは読みにくい』

 

「今それを聞いて、私たちに何か得があるのか」

 

『街全体の霊脈が乱れ始めている。長くは隠せない。移動を急いで』

 

「急がせるな。急いだ足から罠にかかる」

 

『なら、急ぎながら慎重に』

 

「無茶を言う」

 

『戦争中はだいたいそうだ』

 

 前にも聞いた言い方だった。

 

 ヒッポリュテは小さく息を吐く。

 

「こちらは既存の道を使わない」

 

『場所は』

 

「探している」

 

『誘導に乗るな』

 

「言われるまでもない」

 

 通信は短く切れた。

 

 ヒッポリュテは路地の奥を見た。

 

 虫が薄い道。

 

 そこへは行かない。

 

 なら、どこへ行くか。

 

 駅でもない。

 

 港でもない。

 

 郊外道路でもない。

 

 人が逃げ道として選ぶ場所ではなく、臓硯が待ちやすい場所でもない道。

 

 ヒッポリュテは、足元へ意識を沈めた。

 

 冬木の街は、見える道だけでできているわけではない。

 

 家々の間。

 

 地面の下。

 

 古い水路。

 

 塞がれた流れ。

 

 人が忘れた道。

 

 水が覚えている道。

 

 神代ほど濃くはない。

 

 それでも、地の底には流れが残っている。

 

 ヒッポリュテは路地の奥ではなく、右手にある古い塀へ目を向けた。

 

 その向こうに、小さな暗渠がある。

 

 かつて水が通っていた跡。

 

 今は蓋をされ、地図にも道としては記されない場所。

 

 だが、完全に死んではいない。

 

「こっちだ」

 

 ヒッポリュテが言う。

 

 桜が不安そうに顔を上げた。

 

「そっちは……道じゃないです」

 

「人の道じゃない」

 

「じゃあ、どこの道ですか」

 

「水が通っていた道だ」

 

 桜は、その言葉をうまく飲み込めないまま、ヒッポリュテの後を追った。

 

 ペンテシレイアが前に出る。

 

 鉤爪で虫を裂きながら進む。

 

 虫たちは真正面から襲ってこない。

 

 足元に回る。

 

 壁を這う。

 

 桜の視界の端をかすめるように動く。

 

 見せるために。

 

 怖がらせるために。

 

 進ませたい方向へ押すために。

 

 だが、ペンテシレイアは一匹ずつ潰した。

 

 腕を振るう動きは小さい。

 

 必要な分だけ。

 

 桜の近くに来たものだけを、正確に裂く。

 

 狭い路地の上から、別の虫が飛びかかった。

 

 ペンテシレイアの手甲が揺らぐ。

 

 一瞬、両手に短い双剣が現れた。

 

 黒い刃が交差し、飛び込んできた虫を空中で断つ。

 

 次の瞬間には、また鉤爪に戻っている。

 

 桜は目を奪われそうになった。

 

「桜、後ろを見るな」

 

 ペンテシレイアが言う。

 

「でも――」

 

「前を見ろ。逃げる時は、前を見る」

 

 桜は唇を噛んだ。

 

 怖いものは後ろから来る。

 

 見ていないと、もっと怖い。

 

 けれど、前を見なければ進めない。

 

 桜は震えながら前を向いた。

 

 ヒッポリュテは古い塀の前で立ち止まる。

 

 塀の下には、細い水路跡があった。

 

 ほとんど塞がれている。

 

 子ども一人が入るにも狭い。

 

 普通なら、とても逃走経路にはならない。

 

 だが、その奥からわずかに冷たい気配が漏れていた。

 

 桜の影が、また揺れた。

 

 街灯の位置は変わっていない。

 

 誰も動いていない。

 

 それなのに、桜の足元に落ちた影が、水面のように沈んだ。

 

 深く。

 

 黒く。

 

 床でも地面でもない場所へ、影だけが落ちていく。

 

 桜は小さく息を吸う。

 

「また、沈みます」

 

 ヒッポリュテが振り返る。

 

「見えるか」

 

 桜は首を横に振った。

 

「見えるというより……分かります」

 

 桜は暗渠の奥を見た。

 

 目で見えているのは、ただの闇だ。

 

 でも、違う。

 

 その下に何かがある。

 

 水でもない。

 

 土でもない。

 

 空っぽなのに、底がある。

 

「ここ、下があります」

 

 ヒッポリュテは頷いた。

 

「それが、お前に近い道だ」

 

 桜は肩を震わせる。

 

「近い……?」

 

「無理に触るな。今は感じるだけでいい」

 

 桜は影から目を逸らしかけて、止めた。

 

 怖い。

 

 でも、怖いだけではない。

 

 その黒は、自分を呑み込もうとしているようにも見える。

 

 けれど同時に、自分だけが知っている隠れ場所のようにも見えた。

 

 雁夜が咳き込んだ。

 

 壁に手をつく。

 

 顔色がさらに悪い。

 

 虫の気配が近づくたび、彼の身体の中の何かが反応している。

 

 胸を押さえ、息を荒げる。

 

「……まずい」

 

 雁夜が声を絞り出した。

 

「俺に寄ってきてる」

 

 ヒッポリュテが即座に見る。

 

 雁夜の足元。

 

 影が揺れている。

 

 蟲が、雁夜に反応している。

 

 臓硯に繋がるもの。

 

 間桐の匂い。

 

 それを辿って、虫が寄ってくる。

 

「言えたなら十分だ」

 

 ヒッポリュテは言った。

 

 雁夜は苦しそうに笑う。

 

「褒めるところかよ」

 

「黙って倒れられるより、ずっといい」

 

 桜が雁夜へ近づこうとする。

 

 ヒッポリュテが片手で止めた。

 

「近づくな」

 

「でも」

 

「心配と接近は同じじゃない」

 

 桜は止まった。

 

 苦しんでいる人がいる。

 

 近づきたい。

 

 支えたい。

 

 でも、自分が近づくことで、もっと危険になることもある。

 

 桜は手を握った。

 

「じゃあ……どうしたら」

 

「声をかけろ。呼べ。今できる場所から支えろ」

 

 桜は雁夜を見る。

 

「雁夜おじさん」

 

 雁夜が顔を上げた。

 

「聞こえています」

 

 その言葉に、雁夜の表情が少しだけ変わった。

 

 近づかなくても、届くものがある。

 

 雁夜は歯を食いしばり、体勢を立て直した。

 

「……ああ」

 

 その時、桜の背筋が冷えた。

 

 見えていない。

 

 でも、分かった。

 

 右。

 

 雁夜の影から、何かが抜ける。

 

 桜の方へ。

 

 桜は考えるより先に声を出した。

 

「ペンテさん、右です」

 

 ペンテシレイアは疑わなかった。

 

 即座に右手を振るう。

 

 鉤爪が何もない闇を裂いたように見えた。

 

 だが、次の瞬間、潰れた虫が石畳に落ちる。

 

 黒い体液が滲んだ。

 

 ペンテシレイアが桜を見た。

 

「合っていた」

 

 桜は息を呑む。

 

「……はい」

 

「次も言え」

 

「はい」

 

 怖いままだった。

 

 でも、怖いだけではなかった。

 

 自分の“嫌”が、誰かを守る声になった。

 

 そのことが、桜の中で小さく熱を持った。

 

 ヒッポリュテは暗渠の入口へ手を伸ばした。

 

 冷たい石。

 

 塞がれた水路。

 

 その奥に残る、流れの記憶。

 

 かつて水が通った。

 

 人が作り、使い、忘れた。

 

 けれど、通ったものは完全には消えない。

 

 道は、そこに残る。

 

 ヒッポリュテは目を閉じた。

 

 神代の力を大きく使うわけにはいかない。

 

 ここで無理に空間を割れば、桜も雁夜も巻き込む。

 

 だから、壊さない。

 

 こじ開けない。

 

 呼び起こす。

 

 通った記憶を。

 

 水が流れた道を。

 

 境界が薄くなっていた場所を。

 

「道は、初めからあるものだけじゃない」

 

 ヒッポリュテの声が、静かに路地に落ちる。

 

「通ったものが、道になる」

 

 空気が重くなった。

 

 現代の薄い魔力に、一瞬だけ神代の濃度が混じる。

 

 路地の音が遠ざかる。

 

 車の音も、室外機の唸りも、電線の軋みも、薄い膜の向こうへ沈んでいく。

 

 暗渠の奥の闇が、わずかに開いた。

 

 桜の影が、それに応えるように深くなる。

 

 黒い影と古い水路の闇が繋がり、一筋の道のように伸びる。

 

 だが、その瞬間。

 

 桜が顔を歪めた。

 

「違います」

 

 ヒッポリュテが目を開ける。

 

「桜」

 

「そっちは、嫌です」

 

 桜は震えていた。

 

 目には何も映っていない。

 

 それでも、分かっている。

 

 開きかけた道の先に、別の何かが混じった。

 

 冷たく、湿った、虫の気配。

 

 ただの道ではない。

 

 間桐の方へ曲げられている。

 

「見えるか」

 

「見えません」

 

 桜は首を振る。

 

 けれど、声ははっきりしていた。

 

「でも……そっちは、戻されます」

 

 ヒッポリュテの目が冷える。

 

 臓硯。

 

 道そのものに干渉している。

 

 逃走路を塞ぐだけではない。

 

 開いた道を、自分の網へ曲げようとしている。

 

 ペンテシレイアが低く唸る。

 

「どこまで腐っている」

 

 虫が増える。

 

 壁から。

 

 側溝から。

 

 暗渠の奥から。

 

 ペンテシレイアは鉤爪を構えた。

 

 ヒッポリュテは道を押さえる。

 

 だが、桜が一歩前へ出た。

 

「桜」

 

 ヒッポリュテが呼ぶ。

 

 桜は床へ膝をついた。

 

 震える手を、足元の影へ重ねる。

 

 冷たい。

 

 深い。

 

 怖い。

 

 でも、その黒は自分を待っている。

 

 臓硯が曲げようとする道。

 

 戻される道。

 

 それを嫌だと思った。

 

 だから、言う。

 

「戻りません」

 

 小さな声。

 

 けれど、はっきりした声だった。

 

 声は路地に落ちた。

 

 桜の影が、ふっと揺れる。

 

 曲がりかけていた黒が止まった。

 

 暗渠の闇と桜の影が、別の形に結び直される。

 

 臓硯の湿った気配が、少しだけ押し返された。

 

 ヒッポリュテは息を呑む。

 

 ペンテシレイアも、桜を見た。

 

 桜自身も、自分が何をしたのか分かっていない。

 

 ただ、戻りたくなかった。

 

 それだけだった。

 

 だが、その意思が道を変えた。

 

 一瞬だけ、正しい抜け道が開く。

 

 同時に、虫が殺到した。

 

 暗渠の口へ。

 

 桜の影へ。

 

 開いた道へ。

 

 ペンテシレイアが前へ出る。

 

 鉤爪が消えた。

 

 代わりに、鎖が鳴る。

 

 棘付きの鎖鉄球。

 

 狭い路地に不釣り合いな武器。

 

 だが、ペンテシレイアは全力で振り回さない。

 

 短く。

 

 鋭く。

 

 必要な範囲だけ。

 

 鎖が唸り、石畳の上を這う虫をまとめて砕いた。

 

 棘が壁をかすめ、闇に潜む虫を引きずり出す。

 

 黒い影が弾ける。

 

「この道は、桜が選んだ」

 

 ペンテシレイアの声が低く響く。

 

「触るな」

 

 鎖鉄球がもう一度振るわれた。

 

 虫の群れが砕ける。

 

 雁夜が壁を見た。

 

 苦しそうにしながら、目だけは必死に動いている。

 

「床下じゃない」

 

 雁夜が言った。

 

「壁だ」

 

 ペンテシレイアが一瞬だけ視線を向ける。

 

 雁夜は続ける。

 

「あいつは、下から来ると思わせて……横から入れる」

 

 ペンテシレイアは迷わなかった。

 

 鎖を引き戻し、右の壁へ叩きつける。

 

 古い塀が割れた。

 

 中から、黒い虫がばらばらと落ちる。

 

 桜が息を呑む。

 

 ペンテシレイアはそれらを踏み潰した。

 

 雁夜は荒い息を吐く。

 

「……まだ、立ってる」

 

 自分に言い聞かせるような声だった。

 

 桜は雁夜を見た。

 

「はい」

 

 雁夜は少しだけ笑った。

 

 本当に少しだけ。

 

 だが、その笑みは先ほどよりも生きていた。

 

「行くぞ」

 

 ヒッポリュテが言う。

 

 開いた道は長く保たない。

 

 臓硯の干渉も、聖杯戦争の乱れも、すぐに押し寄せる。

 

 ヒッポリュテは桜の手を取った。

 

 桜は握り返す。

 

 ペンテシレイアが前へ。

 

 雁夜が後ろへ。

 

 四人は、暗渠の口へ踏み込んだ。

 

     ◇

 

 中は、水路ではなかった。

 

 足元に水はない。

 

 けれど、水の音がする。

 

 遠くで流れる音。

 

 壁の向こうから、冬木の街の気配が聞こえる。

 

 車。

 

 人の声。

 

 電気の唸り。

 

 それらが、深い水の底から聞こえるように歪んでいた。

 

 足元は黒い。

 

 桜の影に似ている。

 

 踏むたびに、わずかに沈む。

 

 でも、落ちない。

 

 ヒッポリュテの神代の気配と、桜の虚数の黒が、細い道を作っている。

 

 神代の濃い風と、現代の薄い風が混ざる。

 

 息がしづらい。

 

 それでも進む。

 

 桜は怖かった。

 

 足元の黒が、自分を知っているように感じる。

 

 自分の中へ続いているように感じる。

 

 でも、ペンテシレイアが前にいる。

 

 ヒッポリュテが手を握っている。

 

 雁夜が後ろにいる。

 

 だから進めた。

 

 途中で、道が何度も揺れた。

 

 壁の向こうから虫の気配が触れる。

 

 臓硯が曲げようとしている。

 

 だが、そのたびに桜は小さく言った。

 

「そっちは、嫌です」

 

 ペンテシレイアが虫を裂く。

 

 ヒッポリュテが道を支える。

 

 雁夜が蟲の癖を読む。

 

「そこ、下じゃない。上から来る」

 

「次は左だ。音がわざと遅い」

 

「止まるな。止まった場所に集まる」

 

 雁夜は戦えない。

 

 それでも、知っていることがある。

 

 臓硯のやり方。

 

 虫の嫌らしさ。

 

 人を追い詰める癖。

 

 それを言葉にする。

 

 死に道ではなく、逃げ道のために。

 

 桜はその声を聞いていた。

 

 雁夜は一緒に来ている。

 

 勝手に消えていない。

 

 約束を、まだ守っている。

 

 それだけで、桜は少しだけ呼吸ができた。

 

 やがて、前方に薄い光が見えた。

 

 出口。

 

 ヒッポリュテは足を速めようとして、止まった。

 

 空気が変わった。

 

 臓硯ではない。

 

 虫でもない。

 

 もっと大きい。

 

 街そのものの底が、軋むような感覚。

 

 霊脈が、大きく揺れた。

 

 ヒッポリュテの背筋に冷たいものが走る。

 

「まずい」

 

 桜も足を止めた。

 

 顔色が変わる。

 

「道が……沈みます」

 

 足元の黒が深くなる。

 

 開いていた抜け道が、下から引かれる。

 

 臓硯の干渉ではない。

 

 もっと大きな歪み。

 

 聖杯。

 

 その言葉が、ヒッポリュテの中に浮かんだ。

 

 まだ見えていない。

 

 まだ起きていない。

 

 だが、近づいている。

 

 この街の底にあるものが、崩れ始めている。

 

「走る」

 

 ヒッポリュテは言った。

 

 ペンテシレイアが即座に前へ出る。

 

 桜の手を強く握る。

 

 雁夜が息を荒げながらもついてくる。

 

 出口の光が揺れる。

 

 黒い道が沈む。

 

 壁の向こうで、水の音が叫びのように歪む。

 

「走れ!」

 

 ヒッポリュテの声で、全員が飛び出した。

 

     ◇

 

 抜けた先は、冬木の外ではなかった。

 

 郊外に近い場所。

 

 住宅街の端。

 

 遠くに山の影が見える。

 

 街の中心からは離れた。

 

 だが、市境にはまだ届いていない。

 

 空が、赤く揺れていた。

 

 炎ではない。

 

 まだ、街は燃えていない。

 

 けれど、夜空の奥に、赤い揺らぎが滲んでいる。

 

 遠くで、何かが壊れたような音がした。

 

 地面が微かに震える。

 

 通信機が鳴る。

 

 ヒッポリュテが取ると、切嗣の声に激しいノイズが混じっていた。

 

『……退避を……急げ……霊脈が……』

 

「切嗣」

 

『……中心部へ……近づくな……』

 

 通信が途切れた。

 

 ヒッポリュテは空を見る。

 

 脳裏に何度もちらついた炎。

 

 黒い泥。

 

 叫び。

 

 知らないはずなのに、知っている光景。

 

 それが、目の前の赤と重なり始めている。

 

 桜は空を見上げ、震えた。

 

「何が……」

 

「走るぞ」

 

 ヒッポリュテが言った。

 

 答えている時間はない。

 

 ペンテシレイアが桜の前に立つ。

 

 雁夜が後ろを振り返る。

 

 暗渠の出口近く。

 

 地面の隙間から、黒い虫が一匹這い出していた。

 

 一匹。

 

 その後ろに、また一匹。

 

 臓硯も諦めていない。

 

 街の底が崩れようとしている中でも、桜を追ってくる。

 

 桜は息を吸った。

 

 怖い。

 

 嫌だ。

 

 でも、もう黙らない。

 

「……嫌です」

 

 ペンテシレイアが鎖を鳴らした。

 

「聞いた」

 

 ヒッポリュテは赤く揺れる空を睨む。

 

 冬木の夜が、歪み始めている。

 

 逃げ道はまだ遠い。

 

 それでも進むしかない。

 

「走るぞ」

 

 今度は、全員が頷いた。

 

 赤い空の下、四人は郊外へ向かって走り出した。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。