神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
路地の奥で、かすかな音がした。
ちり、と。
石の隙間を、小さな脚が擦るような音。
桜は息を呑んだ。
夜は静かだった。
遠くで車が走る音がして、どこかの家の室外機が低く唸っている。電線が風に揺れ、街灯の白い光が路地の端を照らしている。
それだけなら、ただの夜だった。
けれど、その下にいる。
目に見えない場所から。
石の隙間から。
塀の下から。
側溝の奥から。
何かがこちらを見ている。
「……嫌です」
桜は声を出した。
小さく、震えた声。
けれど、確かに届いた。
ペンテシレイアの両腕に、黒い手甲が現れる。
指先の鉤爪が夜気を裂くように伸びた。
「聞いた」
彼女は短く答え、桜の前に立った。
次の瞬間、路地の影が動いた。
一匹。
二匹。
側溝の格子の隙間から、黒い虫が這い出てくる。塀の根元からも、小さな影が滲む。電柱の根元で何かが蠢き、街灯の光を避けるように広がっていく。
多くはない。
けれど、配置が悪い。
正面を塞ぐ虫。
背後を探る虫。
右の路地へ向かう道を狭める虫。
左の細道だけが、妙に空いている。
ペンテシレイアが低く言った。
「数は少ない。だが、位置が嫌らしい」
ヒッポリュテは目を細める。
確かに、殺しに来ている動きではない。
足を止めるため。
逃げ道を選ばせるため。
行かせたい方向へ、こちらの恐怖と焦りを押し流すため。
虫は道を塞いでいるようで、実際には一方向だけ薄くしている。
通れそうに見える道。
だからこそ、危ない。
「通れそうに見える道ほど、行くな」
ヒッポリュテが言う。
ペンテシレイアが横目で見る。
「罠か」
「罠に見えないように作った罠だ」
桜は毛布代わりに羽織っていた上着を握った。
怖い。
ただ虫がいることだけではない。
自分が怖がることまで、読まれている気がした。
怖がって逃げる方向。
誰かの背中に隠れて進む方向。
その全部を、暗い地下の老人が笑いながら待っている。
そんな気がした。
通信機が短く鳴る。
ヒッポリュテは視線を周囲から外さずに応答した。
『移動を確認した』
切嗣の声。
小さくノイズが混じっている。
『他陣営の動きが加速している。ライダー脱落後、均衡が崩れた。セイバー周辺も動いている。アーチャーの動きは読みにくい』
「今それを聞いて、私たちに何か得があるのか」
『街全体の霊脈が乱れ始めている。長くは隠せない。移動を急いで』
「急がせるな。急いだ足から罠にかかる」
『なら、急ぎながら慎重に』
「無茶を言う」
『戦争中はだいたいそうだ』
前にも聞いた言い方だった。
ヒッポリュテは小さく息を吐く。
「こちらは既存の道を使わない」
『場所は』
「探している」
『誘導に乗るな』
「言われるまでもない」
通信は短く切れた。
ヒッポリュテは路地の奥を見た。
虫が薄い道。
そこへは行かない。
なら、どこへ行くか。
駅でもない。
港でもない。
郊外道路でもない。
人が逃げ道として選ぶ場所ではなく、臓硯が待ちやすい場所でもない道。
ヒッポリュテは、足元へ意識を沈めた。
冬木の街は、見える道だけでできているわけではない。
家々の間。
地面の下。
古い水路。
塞がれた流れ。
人が忘れた道。
水が覚えている道。
神代ほど濃くはない。
それでも、地の底には流れが残っている。
ヒッポリュテは路地の奥ではなく、右手にある古い塀へ目を向けた。
その向こうに、小さな暗渠がある。
かつて水が通っていた跡。
今は蓋をされ、地図にも道としては記されない場所。
だが、完全に死んではいない。
「こっちだ」
ヒッポリュテが言う。
桜が不安そうに顔を上げた。
「そっちは……道じゃないです」
「人の道じゃない」
「じゃあ、どこの道ですか」
「水が通っていた道だ」
桜は、その言葉をうまく飲み込めないまま、ヒッポリュテの後を追った。
ペンテシレイアが前に出る。
鉤爪で虫を裂きながら進む。
虫たちは真正面から襲ってこない。
足元に回る。
壁を這う。
桜の視界の端をかすめるように動く。
見せるために。
怖がらせるために。
進ませたい方向へ押すために。
だが、ペンテシレイアは一匹ずつ潰した。
腕を振るう動きは小さい。
必要な分だけ。
桜の近くに来たものだけを、正確に裂く。
狭い路地の上から、別の虫が飛びかかった。
ペンテシレイアの手甲が揺らぐ。
一瞬、両手に短い双剣が現れた。
黒い刃が交差し、飛び込んできた虫を空中で断つ。
次の瞬間には、また鉤爪に戻っている。
桜は目を奪われそうになった。
「桜、後ろを見るな」
ペンテシレイアが言う。
「でも――」
「前を見ろ。逃げる時は、前を見る」
桜は唇を噛んだ。
怖いものは後ろから来る。
見ていないと、もっと怖い。
けれど、前を見なければ進めない。
桜は震えながら前を向いた。
ヒッポリュテは古い塀の前で立ち止まる。
塀の下には、細い水路跡があった。
ほとんど塞がれている。
子ども一人が入るにも狭い。
普通なら、とても逃走経路にはならない。
だが、その奥からわずかに冷たい気配が漏れていた。
桜の影が、また揺れた。
街灯の位置は変わっていない。
誰も動いていない。
それなのに、桜の足元に落ちた影が、水面のように沈んだ。
深く。
黒く。
床でも地面でもない場所へ、影だけが落ちていく。
桜は小さく息を吸う。
「また、沈みます」
ヒッポリュテが振り返る。
「見えるか」
桜は首を横に振った。
「見えるというより……分かります」
桜は暗渠の奥を見た。
目で見えているのは、ただの闇だ。
でも、違う。
その下に何かがある。
水でもない。
土でもない。
空っぽなのに、底がある。
「ここ、下があります」
ヒッポリュテは頷いた。
「それが、お前に近い道だ」
桜は肩を震わせる。
「近い……?」
「無理に触るな。今は感じるだけでいい」
桜は影から目を逸らしかけて、止めた。
怖い。
でも、怖いだけではない。
その黒は、自分を呑み込もうとしているようにも見える。
けれど同時に、自分だけが知っている隠れ場所のようにも見えた。
雁夜が咳き込んだ。
壁に手をつく。
顔色がさらに悪い。
虫の気配が近づくたび、彼の身体の中の何かが反応している。
胸を押さえ、息を荒げる。
「……まずい」
雁夜が声を絞り出した。
「俺に寄ってきてる」
ヒッポリュテが即座に見る。
雁夜の足元。
影が揺れている。
蟲が、雁夜に反応している。
臓硯に繋がるもの。
間桐の匂い。
それを辿って、虫が寄ってくる。
「言えたなら十分だ」
ヒッポリュテは言った。
雁夜は苦しそうに笑う。
「褒めるところかよ」
「黙って倒れられるより、ずっといい」
桜が雁夜へ近づこうとする。
ヒッポリュテが片手で止めた。
「近づくな」
「でも」
「心配と接近は同じじゃない」
桜は止まった。
苦しんでいる人がいる。
近づきたい。
支えたい。
でも、自分が近づくことで、もっと危険になることもある。
桜は手を握った。
「じゃあ……どうしたら」
「声をかけろ。呼べ。今できる場所から支えろ」
桜は雁夜を見る。
「雁夜おじさん」
雁夜が顔を上げた。
「聞こえています」
その言葉に、雁夜の表情が少しだけ変わった。
近づかなくても、届くものがある。
雁夜は歯を食いしばり、体勢を立て直した。
「……ああ」
その時、桜の背筋が冷えた。
見えていない。
でも、分かった。
右。
雁夜の影から、何かが抜ける。
桜の方へ。
桜は考えるより先に声を出した。
「ペンテさん、右です」
ペンテシレイアは疑わなかった。
即座に右手を振るう。
鉤爪が何もない闇を裂いたように見えた。
だが、次の瞬間、潰れた虫が石畳に落ちる。
黒い体液が滲んだ。
ペンテシレイアが桜を見た。
「合っていた」
桜は息を呑む。
「……はい」
「次も言え」
「はい」
怖いままだった。
でも、怖いだけではなかった。
自分の“嫌”が、誰かを守る声になった。
そのことが、桜の中で小さく熱を持った。
ヒッポリュテは暗渠の入口へ手を伸ばした。
冷たい石。
塞がれた水路。
その奥に残る、流れの記憶。
かつて水が通った。
人が作り、使い、忘れた。
けれど、通ったものは完全には消えない。
道は、そこに残る。
ヒッポリュテは目を閉じた。
神代の力を大きく使うわけにはいかない。
ここで無理に空間を割れば、桜も雁夜も巻き込む。
だから、壊さない。
こじ開けない。
呼び起こす。
通った記憶を。
水が流れた道を。
境界が薄くなっていた場所を。
「道は、初めからあるものだけじゃない」
ヒッポリュテの声が、静かに路地に落ちる。
「通ったものが、道になる」
空気が重くなった。
現代の薄い魔力に、一瞬だけ神代の濃度が混じる。
路地の音が遠ざかる。
車の音も、室外機の唸りも、電線の軋みも、薄い膜の向こうへ沈んでいく。
暗渠の奥の闇が、わずかに開いた。
桜の影が、それに応えるように深くなる。
黒い影と古い水路の闇が繋がり、一筋の道のように伸びる。
だが、その瞬間。
桜が顔を歪めた。
「違います」
ヒッポリュテが目を開ける。
「桜」
「そっちは、嫌です」
桜は震えていた。
目には何も映っていない。
それでも、分かっている。
開きかけた道の先に、別の何かが混じった。
冷たく、湿った、虫の気配。
ただの道ではない。
間桐の方へ曲げられている。
「見えるか」
「見えません」
桜は首を振る。
けれど、声ははっきりしていた。
「でも……そっちは、戻されます」
ヒッポリュテの目が冷える。
臓硯。
道そのものに干渉している。
逃走路を塞ぐだけではない。
開いた道を、自分の網へ曲げようとしている。
ペンテシレイアが低く唸る。
「どこまで腐っている」
虫が増える。
壁から。
側溝から。
暗渠の奥から。
ペンテシレイアは鉤爪を構えた。
ヒッポリュテは道を押さえる。
だが、桜が一歩前へ出た。
「桜」
ヒッポリュテが呼ぶ。
桜は床へ膝をついた。
震える手を、足元の影へ重ねる。
冷たい。
深い。
怖い。
でも、その黒は自分を待っている。
臓硯が曲げようとする道。
戻される道。
それを嫌だと思った。
だから、言う。
「戻りません」
小さな声。
けれど、はっきりした声だった。
声は路地に落ちた。
桜の影が、ふっと揺れる。
曲がりかけていた黒が止まった。
暗渠の闇と桜の影が、別の形に結び直される。
臓硯の湿った気配が、少しだけ押し返された。
ヒッポリュテは息を呑む。
ペンテシレイアも、桜を見た。
桜自身も、自分が何をしたのか分かっていない。
ただ、戻りたくなかった。
それだけだった。
だが、その意思が道を変えた。
一瞬だけ、正しい抜け道が開く。
同時に、虫が殺到した。
暗渠の口へ。
桜の影へ。
開いた道へ。
ペンテシレイアが前へ出る。
鉤爪が消えた。
代わりに、鎖が鳴る。
棘付きの鎖鉄球。
狭い路地に不釣り合いな武器。
だが、ペンテシレイアは全力で振り回さない。
短く。
鋭く。
必要な範囲だけ。
鎖が唸り、石畳の上を這う虫をまとめて砕いた。
棘が壁をかすめ、闇に潜む虫を引きずり出す。
黒い影が弾ける。
「この道は、桜が選んだ」
ペンテシレイアの声が低く響く。
「触るな」
鎖鉄球がもう一度振るわれた。
虫の群れが砕ける。
雁夜が壁を見た。
苦しそうにしながら、目だけは必死に動いている。
「床下じゃない」
雁夜が言った。
「壁だ」
ペンテシレイアが一瞬だけ視線を向ける。
雁夜は続ける。
「あいつは、下から来ると思わせて……横から入れる」
ペンテシレイアは迷わなかった。
鎖を引き戻し、右の壁へ叩きつける。
古い塀が割れた。
中から、黒い虫がばらばらと落ちる。
桜が息を呑む。
ペンテシレイアはそれらを踏み潰した。
雁夜は荒い息を吐く。
「……まだ、立ってる」
自分に言い聞かせるような声だった。
桜は雁夜を見た。
「はい」
雁夜は少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
だが、その笑みは先ほどよりも生きていた。
「行くぞ」
ヒッポリュテが言う。
開いた道は長く保たない。
臓硯の干渉も、聖杯戦争の乱れも、すぐに押し寄せる。
ヒッポリュテは桜の手を取った。
桜は握り返す。
ペンテシレイアが前へ。
雁夜が後ろへ。
四人は、暗渠の口へ踏み込んだ。
◇
中は、水路ではなかった。
足元に水はない。
けれど、水の音がする。
遠くで流れる音。
壁の向こうから、冬木の街の気配が聞こえる。
車。
人の声。
電気の唸り。
それらが、深い水の底から聞こえるように歪んでいた。
足元は黒い。
桜の影に似ている。
踏むたびに、わずかに沈む。
でも、落ちない。
ヒッポリュテの神代の気配と、桜の虚数の黒が、細い道を作っている。
神代の濃い風と、現代の薄い風が混ざる。
息がしづらい。
それでも進む。
桜は怖かった。
足元の黒が、自分を知っているように感じる。
自分の中へ続いているように感じる。
でも、ペンテシレイアが前にいる。
ヒッポリュテが手を握っている。
雁夜が後ろにいる。
だから進めた。
途中で、道が何度も揺れた。
壁の向こうから虫の気配が触れる。
臓硯が曲げようとしている。
だが、そのたびに桜は小さく言った。
「そっちは、嫌です」
ペンテシレイアが虫を裂く。
ヒッポリュテが道を支える。
雁夜が蟲の癖を読む。
「そこ、下じゃない。上から来る」
「次は左だ。音がわざと遅い」
「止まるな。止まった場所に集まる」
雁夜は戦えない。
それでも、知っていることがある。
臓硯のやり方。
虫の嫌らしさ。
人を追い詰める癖。
それを言葉にする。
死に道ではなく、逃げ道のために。
桜はその声を聞いていた。
雁夜は一緒に来ている。
勝手に消えていない。
約束を、まだ守っている。
それだけで、桜は少しだけ呼吸ができた。
やがて、前方に薄い光が見えた。
出口。
ヒッポリュテは足を速めようとして、止まった。
空気が変わった。
臓硯ではない。
虫でもない。
もっと大きい。
街そのものの底が、軋むような感覚。
霊脈が、大きく揺れた。
ヒッポリュテの背筋に冷たいものが走る。
「まずい」
桜も足を止めた。
顔色が変わる。
「道が……沈みます」
足元の黒が深くなる。
開いていた抜け道が、下から引かれる。
臓硯の干渉ではない。
もっと大きな歪み。
聖杯。
その言葉が、ヒッポリュテの中に浮かんだ。
まだ見えていない。
まだ起きていない。
だが、近づいている。
この街の底にあるものが、崩れ始めている。
「走る」
ヒッポリュテは言った。
ペンテシレイアが即座に前へ出る。
桜の手を強く握る。
雁夜が息を荒げながらもついてくる。
出口の光が揺れる。
黒い道が沈む。
壁の向こうで、水の音が叫びのように歪む。
「走れ!」
ヒッポリュテの声で、全員が飛び出した。
◇
抜けた先は、冬木の外ではなかった。
郊外に近い場所。
住宅街の端。
遠くに山の影が見える。
街の中心からは離れた。
だが、市境にはまだ届いていない。
空が、赤く揺れていた。
炎ではない。
まだ、街は燃えていない。
けれど、夜空の奥に、赤い揺らぎが滲んでいる。
遠くで、何かが壊れたような音がした。
地面が微かに震える。
通信機が鳴る。
ヒッポリュテが取ると、切嗣の声に激しいノイズが混じっていた。
『……退避を……急げ……霊脈が……』
「切嗣」
『……中心部へ……近づくな……』
通信が途切れた。
ヒッポリュテは空を見る。
脳裏に何度もちらついた炎。
黒い泥。
叫び。
知らないはずなのに、知っている光景。
それが、目の前の赤と重なり始めている。
桜は空を見上げ、震えた。
「何が……」
「走るぞ」
ヒッポリュテが言った。
答えている時間はない。
ペンテシレイアが桜の前に立つ。
雁夜が後ろを振り返る。
暗渠の出口近く。
地面の隙間から、黒い虫が一匹這い出していた。
一匹。
その後ろに、また一匹。
臓硯も諦めていない。
街の底が崩れようとしている中でも、桜を追ってくる。
桜は息を吸った。
怖い。
嫌だ。
でも、もう黙らない。
「……嫌です」
ペンテシレイアが鎖を鳴らした。
「聞いた」
ヒッポリュテは赤く揺れる空を睨む。
冬木の夜が、歪み始めている。
逃げ道はまだ遠い。
それでも進むしかない。
「走るぞ」
今度は、全員が頷いた。
赤い空の下、四人は郊外へ向かって走り出した。