神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
空が、赤く揺れていた。
炎ではない。
まだ、燃えてはいない。
けれど、夜の奥で何かが壊れ、その熱だけが先に空へ滲み出しているようだった。
ヒッポリュテは桜の手を握ったまま、郊外へ続く道を走っていた。
前にはペンテシレイア。
後ろには雁夜。
四人の足音が、人気のない住宅街にばらばらと響く。
遠くで、何かが爆ぜた。
遅れて、地面が微かに震える。
桜の手が強くなる。
「……っ」
「止まるな」
ヒッポリュテは振り返らずに言った。
桜は頷く。
息が上がっている。
足も遅い。
それでも、止まらない。
逃げたい。
そう言った。
生きるために、戻るために、逃げると決めた。
だから、今は走るしかない。
通信機が鳴った。
ノイズがひどい。
ヒッポリュテは走りながら応答する。
『……中心部へ……近づくな……』
切嗣の声だった。
いつもの冷たさが、わずかに崩れている。
焦り。
いや、焦りを押し殺した声。
『聖杯が……異常を……』
「何が起きている」
『……近づくな。中心部は……もう……』
声が途切れる。
激しいノイズ。
次の瞬間、通信は切れた。
ヒッポリュテは舌打ちを飲み込む。
中心部へ近づくな。
聖杯が異常。
それだけで十分だった。
やはり、始まっている。
知っているはずの、まだ起きていなかった光景が。
桜が小さく声を漏らした。
「下が……黒いです」
ヒッポリュテは足を止めかけた。
だが、止めない。
「見るな」
「でも、来ます」
桜の声が震える。
足元。
道路の下。
側溝の奥。
排水路。
そこから、黒い気配が滲んでいた。
まだ見えない。
だが、桜には分かっている。
底から何かが上がってくる。
水ではない。
泥でもない。
もっと重く、もっと冷たく、触れたものを奥へ引きずり込む何か。
ペンテシレイアが前方で足を止めた。
「姉上」
道路脇の側溝。
蓋の隙間から、黒いものが滲み出していた。
粘ついた泥のように見える。
けれど、生き物ではない。
虫でもない。
なのに、そこにあるだけで空気が腐る。
ペンテシレイアが双剣を出しかけた。
「触れるな」
ヒッポリュテの声が飛ぶ。
ペンテシレイアの動きが止まる。
「それは斬るものじゃない」
「なら何だ」
「分からない」
嘘ではなかった。
知識としては知っている。
けれど、目の前で見るそれは、ただの言葉では収まらなかった。
黒い泥。
聖杯の底から流れ出るもの。
呪い。
悪意。
願いの果てに溜まった、どうしようもないもの。
側溝の中で、それはゆっくりと膨らんでいた。
虫が一匹、塀の下から現れる。
臓硯の虫。
その虫は黒泥の方へ近づきかけ、直前で方向を変えた。
避けた。
ペンテシレイアが目を細める。
「虫も、あれを避けている」
「なら、あれは敵味方を選ばない」
ヒッポリュテは桜の手を引く。
「迂回する」
走る。
黒泥はまだ少量だ。
中心部から離れているためか、こちらへ押し寄せるほどではない。
だが、地面の底に広がっている。
街の下に、黒い水脈が生まれたようだった。
桜は呼吸を乱す。
「声がします」
ヒッポリュテが振り返る。
「聞くな」
「声じゃないです。でも……」
桜は片手で胸元を押さえた。
右手の令呪がある場所。
その奥。
身体の底。
もっと深いところが、ざわついている。
「沈めって」
ヒッポリュテの表情が冷える。
「桜」
「分かってます。行きません」
桜は震えながら言った。
「でも、下から……呼ばれるみたいで」
「呼ばれても返事をするな」
「はい」
桜は頷く。
怖い。
けれど、分かっている。
あれは自分の道ではない。
あれは沈めるものだ。
隠すものではない。
守るものでもない。
ただ、すべてを底へ落とそうとしている。
ペンテシレイアが歯を噛みしめた。
「全部、邪魔だ」
虫。
泥。
火の予兆。
臓硯。
聖杯。
桜へ近づくものすべてが、ペンテシレイアの怒りを煽る。
だが、彼女は飛び出さない。
壊しに行かない。
ヒッポリュテが言う前に、ペンテシレイアは双剣を構え直した。
「壊すな。道を開け」
「分かっている」
その返事に、ヒッポリュテは一瞬だけ目を向けた。
ペンテシレイアは、もう怒りだけでは動いていない。
桜の前に立つ。
進む道にいる虫だけを斬る。
泥には触れず、火の方へも向かわず、ただ逃げ道を切り開く。
双剣が夜を裂いた。
塀を這っていた虫が落ちる。
側溝の縁にいた虫が、泥へ落ちる前に叩き潰される。
ペンテシレイアは振り返らない。
「桜、前を見ろ」
「はい」
「下を見るな」
「はい」
「声がしたら言え」
「……はい」
桜は必死に前を見る。
ペンテシレイアの背中。
ヒッポリュテの手。
雁夜の荒い息。
それだけを頼りに走る。
後ろで、雁夜が咳き込んだ。
湿った音。
ヒッポリュテは足を緩める。
雁夜は片手で口元を押さえていた。
指の隙間から、赤が滲む。
桜が振り返りかける。
「見るな」
雁夜が言った。
声は掠れている。
それでも、強かった。
「前を見ろ」
ペンテシレイアの言葉を、雁夜が使った。
桜の目に涙が浮かぶ。
「でも」
「いいから」
雁夜は無理に笑おうとした。
失敗した。
「……長くは走れない」
ヒッポリュテは頷く。
「言えたなら、まだ連れていける」
「またそれかよ」
「黙って倒れるよりいい」
「……そうだったな」
雁夜は息を整えようとする。
できていない。
けれど、言葉にした。
自分の限界を。
危険を。
それは、勝手に死にに行くよりずっとましだった。
桜は泣きそうになりながら、それでも前を向いた。
雁夜が言ったから。
ペンテシレイアが言ったから。
ヒッポリュテが手を握っているから。
前を見た。
◇
冬木の中心部では、別の夜が終わろうとしていた。
衛宮切嗣は、目の前のものを見ていた。
聖杯。
願望器。
そのはずだったもの。
だが、そこにあったのは救いではなかった。
黒い泥。
底のない悪意。
世界を救うどころか、世界そのものを汚すもの。
こんなものは違う。
これは、願いではない。
救いではない。
切嗣の喉が乾く。
指先が冷える。
自分が求めたもの。
自分が殺してきたもの。
積み重ねたもの。
その果てにあったものが、これなのか。
通信機からノイズが走る。
どこかで誰かが叫んでいる。
遠くで、街の音が変わっていく。
壊れる音。
燃え始める音。
切嗣は奥歯を噛んだ。
「……こんなものは」
救いではない。
なら、壊すしかない。
たとえ、それがまた誰かを傷つけるとしても。
それでも、これを残すことだけはできない。
◇
衝撃は、少し遅れて郊外にも届いた。
空が、赤く裂けた。
遠くで轟音。
建物の窓が一斉に震える。
遅れて、熱が来る。
火の粉が風に乗って舞い始めた。
桜が肩を震わせる。
ヒッポリュテの脳裏に、何度も見てきた炎が重なる。
燃える街。
鉄の音。
血。
叫び。
知らないはずの光景。
知っていたはずの災厄。
止められなかった。
胸の奥で、その言葉が浮かぶ。
知っていた。
いや、知っていたはずなのに。
でも、沈む暇はなかった。
桜の手がある。
今、握っている手がある。
ヒッポリュテはその手を握り直した。
「走る」
声を低く落とす。
「川沿いへ出る」
ペンテシレイアが頷く。
道を変える。
住宅街の細い道を抜け、川の方へ。
水のある場所。
火から少しでも離れられる場所。
郊外へ抜けるには、川を越えなければならない。
橋を渡れば、市境に近づく。
そこまで行けば、冬木の外へ手が届く。
そう思った瞬間、前方に黒いものが見えた。
橋。
古い橋の欄干。
その下に、虫がいた。
待っていた。
橋の手前、橋の上、橋の下。
数は多くない。
だが、いやらしい。
橋を渡ろうとすれば、確実に足を止められる。
そして、橋の下。
川の暗がりから、黒泥が滲んでいた。
水面に落ちても、溶けない。
流れに乗らない。
ただ、黒く広がっている。
進むにも危険。
戻るにも危険。
火は背後から来る。
虫は前で待つ。
泥は下から滲む。
桜の息が浅くなる。
ペンテシレイアが双剣を構える。
その時、虫の一匹が震えた。
声がした。
「随分と騒がしい夜になったのう」
臓硯の声。
湿った、底から滲むような声。
桜の身体が固まる。
ヒッポリュテは桜を背に隠す。
「お前の仕業ではないな」
臓硯は笑った。
「さて。利用できるものは、誰の仕業であれ利用するものよ」
虫が橋の欄干を這う。
黒泥はその下で蠢いている。
臓硯の虫も、泥には近づきすぎない。
恐れている。
いや、警戒している。
それでも、混乱を使う気でいる。
「桜」
臓硯の声が、桜へ向く。
「戻れば、火からは守ってやれるぞ」
桜の喉が震えた。
火。
泥。
虫。
逃げ道のない橋。
その中で、戻れば守ると言う。
それが嘘だと分かっていても、怖さは揺れる。
戻れば。
従えば。
自分で選ばなければ。
考えなくて済むのかもしれない。
一瞬だけ、そんな弱い考えが胸をかすめた。
でも。
桜はペンテシレイアの背中を見た。
雁夜の荒い息を聞いた。
ヒッポリュテの手の温度を感じた。
そして、自分が言った言葉を思い出す。
逃げたい。
逃げたままで終わりたくない。
いつか戻ってきたい。
桜は震えながら、声を出した。
「戻りません」
臓硯の笑いが深くなる。
「強情になったものじゃ」
「戻りません」
もう一度。
今度は少しだけ強く。
臓硯の声は愉快そうだった。
「よい。ならば、どこまで逃げられるか見せてみよ」
虫が動き出す。
同時に、橋の下の黒泥がゆっくりと広がった。
ペンテシレイアが踏み込む。
双剣で虫を斬る。
しかし、橋の上では動きが制限される。
泥に近づきすぎれば危険。
火は背後から熱を増す。
雁夜が咳き込み、膝をつきかける。
ヒッポリュテは桜を見る。
桜は動けなくなっていた。
火。
泥。
虫。
臓硯の声。
全部が、桜を縛っている。
ここで強く引けば、体は動くかもしれない。
でも、それではまた、桜自身の選択を奪う。
ヒッポリュテは桜の名を呼んだ。
「桜」
桜が顔を上げる。
涙が溜まっている。
声が震えている。
それでも、ヒッポリュテを見る。
「逃げたいです」
桜は言った。
前にも言った言葉。
けれど、今はもっと切実だった。
「ここから、逃げたいです」
火が迫る。
虫が迫る。
泥が呼ぶ。
それでも、桜は言う。
「生きたいです」
その言葉が、夜の中で確かに響いた。
ヒッポリュテの中で、何かが決まった。
逃げたい。
生きたい。
それは、誰かに運ばれるための言葉ではない。
桜自身が、選んだ言葉だ。
ヒッポリュテは桜の手を握り直す。
「なら、離すな」
桜は泣きながら頷いた。
「はい」
「何があっても、離すな」
「はい」
ペンテシレイアが虫を斬りながら振り返る。
「姉上、何をする」
ヒッポリュテは橋の向こうを見る。
火。
泥。
虫。
そのすべてを越える道。
今度は細い境界を探る余裕はない。
水の記憶を呼び起こすだけでは足りない。
力で開くしかない。
「道を作る」
「またか」
「今度は、力ずくだ」
ヒッポリュテの周囲の空気が変わった。
薄い現代の夜に、神代の重さが降りる。
風が止まる。
川の水面が震える。
黒泥が、一瞬だけ動きを鈍らせた。
虫たちが怯む。
ペンテシレイアの目が見開かれる。
「姉上――」
「桜を頼む」
「まだ言うな」
ペンテシレイアの声が低くなる。
「まだ、任せるとか言うな」
ヒッポリュテは返事をしなかった。
言えば、ペンテシレイアは分かってしまう。
この力が、代償なしに使えるものではないと。
橋の下の泥が蠢いた。
ヒッポリュテが力を集めた瞬間、その黒が反応する。
桜へ。
まるで、開いた神代の隙間と桜の影を目印にしたかのように。
黒泥が細く伸びた。
同時に、臓硯の虫が動く。
黒泥を避けながら、桜の足元へ。
最悪のタイミング。
泥。
虫。
火。
すべてが同時に迫る。
ペンテシレイアが割り込む。
「桜!」
雁夜が叫ぶ。
「下だ!」
桜の手が震える。
それでも、離さない。
ヒッポリュテは桜の手を、壊れるほど強く握った。
あの夜。
手の感触が消えた。
音もなく。
感触もなく。
そこにあったものが、消えた。
今度は違う。
今度は。
「今度は、離さない」
神代の力が、赤い空の下で膨れ上がった。