神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す   作:あかちゅきぼちゃん

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36話 離さなかった手

 

 

 黒が伸びた。

 

 橋の下から。

 

 川の暗がりから。

 

 炎に照らされた夜の底から。

 

 それは水ではなかった。

 

 泥でもなかった。

 

 ただ、触れたものを沈めるためだけに形を持ったような黒だった。

 

 同時に、虫が動く。

 

 欄干の下。

 

 橋板の隙間。

 

 桜の足元へ。

 

 黒泥を避けながら、しかし確実に近づいてくる。

 

 火の粉が舞った。

 

 遠くの街が、赤く燃え始めている。

 

 桜は動けなかった。

 

 けれど、手だけは離さなかった。

 

 ヒッポリュテの手を、震えながら握っていた。

 

「今度は、離さない」

 

 ヒッポリュテの声が落ちた。

 

 その瞬間、空気が変わった。

 

 薄い現代の夜が、押し潰されるように重くなる。

 

 川の水面が震えた。

 

 橋の欄干が軋む。

 

 街灯の光が、わずかに鈍る。

 

 黒泥が、一瞬だけ動きを止めた。

 

 虫たちも止まる。

 

 まるで、そこに本来あるはずのない時代が、無理やり差し込まれたかのように。

 

 神代。

 

 遠いはずの空気。

 

 濃く、重く、世界そのものに神秘が満ちていた時代の残響。

 

 それが、ヒッポリュテの身体を中心に広がっていく。

 

 だが、その力は美しくはなかった。

 

 ただ強いだけでもなかった。

 

 ヒッポリュテの腕に、細い光の筋が走る。

 

 ひびのように。

 

 身体そのものが、内側から軋んでいるように。

 

 ペンテシレイアが目を見開いた。

 

「姉上、それは駄目だ」

 

 ヒッポリュテは振り返らない。

 

「道を作る」

 

「それは道じゃない」

 

 ペンテシレイアの声が鋭くなる。

 

「姉上を削っている」

 

 桜の手が震えた。

 

 ヒッポリュテの手は、まだそこにある。

 

 けれど、ほんの一瞬、遠く感じた。

 

 握っているのに。

 

 触れているのに。

 

 そこから少しずつ何かが削れていくような感覚。

 

 桜の胸が冷たくなる。

 

「ヒッポリュテさん……?」

 

「止めれば、桜が沈む」

 

 ヒッポリュテは言った。

 

 ペンテシレイアは言葉を詰まらせる。

 

 止めたい。

 

 姉を削らせたくない。

 

 けれど、止めれば桜が黒に呑まれる。

 

 その事実が、ペンテシレイアの足を縫い止めた。

 

 黒泥がまた動き出す。

 

 橋の下から、細い舌のように伸びる。

 

 桜の影へ。

 

 令呪のある手へ。

 

 底へ引きずり込もうとするように。

 

 桜は泣きそうになりながら、それでもヒッポリュテの手を握り返した。

 

「離しません」

 

 声は小さい。

 

 けれど、確かに出た。

 

 ヒッポリュテの指が、一瞬だけ動きを止める。

 

 桜は続けた。

 

「私も、離しません」

 

 涙が頬を伝う。

 

 火の熱が近い。

 

 黒いものが怖い。

 

 虫も怖い。

 

 臓硯の声も、まだ耳の奥に残っている。

 

 でも、もう運ばれるだけでは嫌だった。

 

 沈められるのも、戻されるのも、誰かが消えることで助かるのも嫌だった。

 

 だから、握った。

 

 自分から。

 

 ヒッポリュテは、ゆっくりと桜を見た。

 

 その目に、一瞬だけ神代の空が映ったように見えた。

 

 遠い空。

 

 離れた手。

 

 戻らない時間。

 

 それから、今ここにある小さな手。

 

「……そうか」

 

 ヒッポリュテは低く呟いた。

 

「なら、残す」

 

「残す……?」

 

「道だ」

 

 ヒッポリュテは桜の手首へ視線を落とした。

 

 令呪とは別の場所。

 

 細い手首。

 

 まだ何も刻まれていない、桜自身の手。

 

 ヒッポリュテの指が、そこへそっと触れた。

 

 桜の影が深くなる。

 

 黒い影の中へ、金色の光が一筋落ちた。

 

 光は沈まなかった。

 

 黒の中で消えず、細い輪のように桜の手首へ巡っていく。

 

 刻印ではない。

 

 命令でもない。

 

 誰かが桜の身体へ仕込むものではない。

 

 桜が呼ぶための道。

 

 桜が自分の意思で手を伸ばすための、細い光。

 

「これは命令ではない」

 

 ヒッポリュテは言った。

 

「お前が呼ぶための道だ」

 

 桜は手首を見る。

 

 光は熱くない。

 

 痛くもない。

 

 けれど、確かにそこにある。

 

 自分の影の奥へ、何かが繋がった感覚がした。

 

「呼べ」

 

 ヒッポリュテの声が、炎の中でもはっきり届く。

 

「私が遠くても、ペンテが眠っていても、お前が呼ぶ道を残す」

 

「道……」

 

「そうだ」

 

 ヒッポリュテの指が、手首から離れる。

 

 金色の輪は薄くなり、皮膚の奥へ溶けるように消えた。

 

 でも、消えたわけではない。

 

 桜には分かった。

 

 そこにある。

 

 自分が呼ぶためのものとして。

 

 ペンテシレイアが歯を食いしばる。

 

「姉上」

 

 ヒッポリュテはそちらを見た。

 

「ペンテ」

 

「言うな」

 

「桜を頼む」

 

 その言葉に、ペンテシレイアの目が燃えた。

 

「それは、また置いていく言葉だ」

 

「違う」

 

「何が違う!」

 

 ペンテシレイアの声が橋の上に響いた。

 

 火の粉が舞う。

 

 虫が蠢く。

 

 黒泥が橋脚を舐める。

 

 それでも、彼女の声は揺れなかった。

 

「任せると言った」

 

 ヒッポリュテは静かに返す。

 

「置いていくのではない」

 

「なら、戻れ」

 

 ペンテシレイアが一歩踏み出す。

 

「任せるなら、戻ってこい」

 

 ヒッポリュテは、ほんの少しだけ目を細めた。

 

 その言葉は、命令ではなかった。

 

 願いでもなかった。

 

 ペンテシレイアの、今度こそ手を離さないための言葉だった。

 

「戻る」

 

 ヒッポリュテは言った。

 

 確かな未来ではない。

 

 保証でもない。

 

 けれど、意思だった。

 

 ペンテシレイアは、その言葉を受け取った。

 

 歯を食いしばり、震える怒りを飲み込む。

 

「……なら、任される」

 

 短く言った。

 

 その声は、強かった。

 

 ヒッポリュテは桜の手を見た。

 

 そして、ペンテシレイアへ差し出す。

 

「桜」

 

「はい」

 

「今は、ペンテの手を取れ」

 

 桜の目が揺れる。

 

「でも」

 

「離すんじゃない」

 

 ヒッポリュテは、桜の手を少しだけ持ち上げる。

 

「繋ぎ替える」

 

 桜は息を止めた。

 

 離すのではない。

 

 置いていくのでもない。

 

 ヒッポリュテの手から、ペンテシレイアの手へ。

 

 道を繋ぐ。

 

 ペンテシレイアが手を差し出した。

 

 いつも武器を握る手。

 

 虫を裂き、敵を砕き、桜の前に立ってきた手。

 

 桜は震えながら、その手を取った。

 

 ペンテシレイアの手は、思っていたより熱かった。

 

 強い。

 

 けれど、桜を壊す強さではない。

 

 ヒッポリュテは、その二人の手の上から自分の手を重ねた。

 

 三人の手が、一瞬だけ重なる。

 

 炎の熱。

 

 黒泥の冷たさ。

 

 神代の重さ。

 

 現代の薄い夜。

 

 その全部の中で、手だけが確かだった。

 

「行け」

 

 ヒッポリュテが言う。

 

 ペンテシレイアは桜を抱き上げた。

 

 桜が驚いて小さく声を漏らす。

 

 ペンテシレイアは不器用に言った。

 

「重い」

 

「ご、ごめんなさい」

 

「謝るな」

 

 ペンテシレイアは橋の先を見る。

 

「命が軽い方が困る」

 

 桜は目を見開いた。

 

 それから、泣きそうな顔のまま、ペンテシレイアの肩にしがみついた。

 

     ◇

 

 橋の上に虫が広がる。

 

 橋板の隙間。

 

 欄干の裏。

 

 歩く者の足元を狙う位置。

 

 雁夜が荒い息をしながら、橋を見た。

 

「右の欄干、下にいる」

 

 ペンテシレイアは即座に反応した。

 

 鉤爪が欄干の下を裂く。

 

 黒い虫が潰れて落ちる。

 

「橋板の隙間だ。踏むな」

 

 ペンテシレイアは足をずらす。

 

 次の瞬間、足を置くはずだった場所から虫が這い出た。

 

 鎖鉄球が短く振るわれ、虫を砕く。

 

「臓硯は、一番焦った足元を狙う」

 

 雁夜の声は掠れている。

 

 だが、届く。

 

 彼は戦えない。

 

 走る力もほとんど残っていない。

 

 それでも、知っている。

 

 あの家の嫌らしさを。

 

 臓硯の癖を。

 

 虫がどこから来るかを。

 

 ペンテシレイアはその言葉を疑わなかった。

 

 桜を抱えたまま、前へ進む。

 

 黒泥が橋の下から伸びる。

 

 それには触れない。

 

 触れずに進む。

 

 虫は砕く。

 

 泥は避ける。

 

 火は背後から迫る。

 

 雁夜も橋へ足を踏み出す。

 

 膝が揺れる。

 

 それでも、倒れない。

 

 桜がペンテシレイアの肩越しに叫ぶ。

 

「雁夜おじさん!」

 

「大丈夫だ!」

 

 大丈夫ではない。

 

 それでも、今はそう言った。

 

「まだ、立ってる!」

 

 雁夜は歯を食いしばり、橋の上へ出た。

 

     ◇

 

 ヒッポリュテは橋の手前に立っていた。

 

 黒泥が伸びるたび、神代の力で押し返す。

 

 そのたびに、身体が軋む。

 

 現代の世界が拒んでいる。

 

 神代は遠い。

 

 遠いものを、無理やりここへ引き寄せている。

 

 だから、削れる。

 

 腕に走った光のひびが、肩へ伸びた。

 

 視界の端が白く揺れる。

 

 足元の感覚が、少しずつ薄くなる。

 

 それでも、ヒッポリュテは止まらなかった。

 

「通れ」

 

 低く言う。

 

 黒泥が押し返される。

 

 虫が近づく。

 

 それをペンテシレイアが砕く。

 

「姉上!」

 

 ペンテシレイアが叫ぶ。

 

 ヒッポリュテは叫び返した。

 

「前を見ろ!」

 

 ペンテシレイアの顔が歪む。

 

 その言葉は、さっき自分が桜へ言ったものだった。

 

 逃げる時は、前を見る。

 

 でも今、前を見ることは、姉から目を逸らすことだった。

 

 ペンテシレイアは歯を食いしばる。

 

 桜を抱える腕に力を込める。

 

 戻りたい。

 

 だが、桜を落とせない。

 

 ヒッポリュテが任せた。

 

 なら、守る。

 

 ペンテシレイアは前を向いた。

 

     ◇

 

 橋の半ばで、桜はヒッポリュテが遠くなるのを感じた。

 

 距離だけではない。

 

 手を離したからでもない。

 

 もっと深いところで、ヒッポリュテの気配が薄くなっていく。

 

 怖い。

 

 また消えてしまう。

 

 ペンテシレイアの肩にしがみつきながら、桜は手首を見た。

 

 そこには何も見えない。

 

 けれど、ある。

 

 呼ぶための道。

 

 命令ではない。

 

 自分が呼ぶためのもの。

 

 桜は息を吸った。

 

 火の煙で喉が痛い。

 

 涙で前が滲む。

 

 それでも、声を出す。

 

「ヒッポリュテさん!」

 

 声が橋の上を走った。

 

 黒泥の音も、火の音も、虫の音も越えて。

 

 ヒッポリュテへ届いた。

 

 ヒッポリュテの身体の揺らぎが、一瞬だけ止まる。

 

 彼女は顔を上げた。

 

 桜を見た。

 

 遠いのに、はっきりと。

 

 そして、微かに笑った。

 

「聞こえた」

 

 その言葉で、桜の手首が熱を持つ。

 

 ほんの少し。

 

 けれど、確かに繋がった。

 

 桜は泣きながら、ペンテシレイアの肩に額を押しつけた。

 

「聞こえました……」

 

「なら、次も呼べ」

 

 ペンテシレイアが言った。

 

「はい」

 

「私も聞く」

 

「はい」

 

「姉上にも聞かせろ」

 

「はい」

 

 桜は頷いた。

 

     ◇

 

 ペンテシレイアは橋を越えた。

 

 桜を抱えたまま、最後の虫を蹴り潰す。

 

 雁夜も、ほとんど倒れ込むようにして橋を渡りきった。

 

 息が荒い。

 

 身体は限界に近い。

 

 だが、渡った。

 

 桜はすぐに振り返る。

 

 ヒッポリュテはまだ橋の向こう側にいた。

 

 黒泥が、彼女の足元へ絡みつこうとしている。

 

 ペンテシレイアが戻ろうとした。

 

「姉上!」

 

「戻るな!」

 

 ヒッポリュテの声が飛ぶ。

 

「嫌だ!」

 

 ペンテシレイアの声は、ほとんど叫びだった。

 

 怒りではない。

 

 恐怖だった。

 

 また離れる。

 

 また見ているだけになる。

 

 また、手が届かなくなる。

 

 ペンテシレイアは一歩踏み出す。

 

 その袖を、桜が掴んだ。

 

「ペンテさん」

 

 ペンテシレイアが振り返る。

 

 桜は泣いていた。

 

 けれど、その目は逸らしていなかった。

 

「呼びます」

 

 桜は言った。

 

「だから、今は行きます」

 

 ペンテシレイアの顔が歪む。

 

「桜」

 

「ヒッポリュテさんが、道を残してくれました」

 

 桜は手首を握る。

 

「だから、呼びます。何度でも」

 

 戻りたい。

 

 でも、桜を置けない。

 

 任された。

 

 そして桜自身が、行くと言っている。

 

 ペンテシレイアは歯を食いしばった。

 

 血が滲むほどに。

 

 それでも、踏み出した足を止めた。

 

「……姉上!」

 

 橋の向こうで、ヒッポリュテが黒泥を振り払った。

 

 神代の力が、一瞬だけ強く燃える。

 

 黒泥が弾かれる。

 

 ヒッポリュテは橋を蹴った。

 

 人の跳躍ではない。

 

 サーヴァントのそれとも違う。

 

 神代の女王が、現代の薄い夜を無理やり踏み越えるような跳躍だった。

 

 火の粉を裂き、黒泥の伸びる先を越え、橋のこちら側へ。

 

 着地した瞬間、ヒッポリュテは膝をついた。

 

「姉上!」

 

 ペンテシレイアが駆け寄る。

 

 桜も降りようとするが、ペンテシレイアが片腕で支える。

 

 ヒッポリュテの身体が薄く揺れていた。

 

 輪郭が、火の熱の中でかすかにぼやけている。

 

 腕のひびのような光は、まだ消えていない。

 

 それでも、ヒッポリュテは桜の手を見た。

 

 桜の手首。

 

 そこに、薄い金色の光が一瞬だけ浮かぶ。

 

 ヒッポリュテは息を吐いた。

 

「……離さなかった」

 

 その声は小さかった。

 

 けれど、確かに聞こえた。

 

 桜は泣きながら頷く。

 

「はい」

 

 ペンテシレイアはヒッポリュテの腕を掴んだ。

 

「立てるか」

 

「立つ」

 

「答えになっていない」

 

「立つと言った」

 

 ペンテシレイアは怒ったように顔を歪めた。

 

 けれど、支える手は優しかった。

 

     ◇

 

 通信機が鳴った。

 

 ノイズ混じりの切嗣の声。

 

『……橋を越えたか』

 

「ああ」

 

 ヒッポリュテが答える。

 

『その先に車がある。乗れば、一度冬木から出られる』

 

「一度、か」

 

『完全な逃亡は、今日だけでは終わらない』

 

「分かっている」

 

『君の状態も、長くは持たないかもしれない』

 

 ペンテシレイアの目が鋭くなる。

 

 ヒッポリュテは通信機を握った。

 

「今言うことか」

 

『今言うことだ』

 

 切嗣の声は冷たい。

 

 だが、そこにも余裕はなかった。

 

『人形師を探す必要がある。君の存在を留める器が要るかもしれない』

 

「後でいい」

 

『後があるならね』

 

「本当に腹立たしい」

 

『よく言われる』

 

 通信が切れた。

 

 火の粉が降る。

 

 遠くで悲鳴が聞こえた。

 

 冬木の中心部が、燃え始めている。

 

 ヒッポリュテはそちらを見た。

 

 切嗣は、まだあの炎の中にいる。

 

 この後、彼は誰かを見つけるのだろう。

 

 赤い瓦礫の中で。

 

 未来へ繋がる少年を。

 

 だが、今ここでヒッポリュテが戻ることはできない。

 

 桜がいる。

 

 ペンテシレイアがいる。

 

 雁夜が、今にも倒れそうになりながら立っている。

 

 今、守るべき手がここにある。

 

「行くぞ」

 

 ヒッポリュテは言った。

 

 声はまだ弱くない。

 

 だが、ペンテシレイアには分かる。

 

 限界が近い。

 

 桜にも分かった。

 

 だから、桜は自分から手を伸ばした。

 

 ヒッポリュテへ。

 

 そして、ペンテシレイアへ。

 

 二人の間に、自分の手を差し出す。

 

「離さないでください」

 

 ヒッポリュテは、その手を取った。

 

「ああ」

 

 ペンテシレイアも取る。

 

「離さない」

 

 桜は、二人の手を握った。

 

 今度は、自分から。

 

「私も、離しません」

 

 火の粉が降る。

 

 黒泥は橋の向こうで蠢いている。

 

 虫の気配も、完全には消えていない。

 

 冬木の夜は燃え始め、戦争はまだ終わっていない。

 

 それでも。

 

 手は、そこにあった。

 

 あの夜、手は離れた。

 

 この夜、手は離れなかった。

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