神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
車は、夜の道を走っていた。
冬木の街から離れていく。
窓の向こうでは、遠くの空が赤く揺れていた。火の粉が風に流され、夜の端をちらちらと焦がしている。街の中心部はもう、普通の夜ではなかった。
悲鳴は、ここまでは届かない。
けれど、桜には聞こえる気がした。
燃える音。
壊れる音。
何かが底から溢れてくる音。
そして、自分を呼ぶような黒い気配。
桜は、自分の手首を握った。
そこには何も見えない。
金色の輪も、光の糸も、今は浮かんでいない。
けれど、ある。
確かに。
呼ぶための道。
沈むためではなく。
戻されるためでもなく。
自分で声を出すための道。
隣では、ペンテシレイアが黙っていた。
桜のすぐそばに座り、片手をいつでも伸ばせる位置に置いている。窓の外は見ない。後ろも見ない。ただ、桜の呼吸と、車の外の気配だけを見張っている。
向かい側には雁夜がいた。
顔色は悪い。
何度も咳を飲み込み、膝の上で拳を握っている。
その隣で、ヒッポリュテは深く座っていた。
目は開いている。
けれど、その輪郭が時折、火の揺らぎのように薄くなる。
桜は、それを見るたびに胸が苦しくなった。
「ヒッポリュテさん」
呼ぶ。
ヒッポリュテがこちらを見る。
「消えないですよね」
言ってから、桜は唇を噛んだ。
聞いてはいけないことだったかもしれない。
でも、聞かずにはいられなかった。
橋の上で、ヒッポリュテの身体が薄くなった。
神代の力が膨れ上がるたび、どこか遠くへ行ってしまうように見えた。
もう一度、手が消えるのではないか。
もう一度、誰かがいなくなるのではないか。
その恐怖が、桜の中に残っている。
ヒッポリュテはすぐには答えなかった。
消えない、と言ってほしかった。
でも、その沈黙で分かってしまった。
簡単に言えることではないのだ。
やがて、ヒッポリュテは静かに言った。
「消えないための道を探す」
桜は目を伏せる。
それは、安心できる答えではなかった。
でも、嘘ではなかった。
だから、桜は頷いた。
「はい」
ペンテシレイアが桜の手首を見る。
「痛むか」
「痛くないです」
桜は手首に触れた。
「でも……呼べる気がします」
「呼べ」
ペンテシレイアが即答する。
桜は驚いた。
「今ですか?」
「練習だ」
あまりにも真面目な顔で言われて、桜は少しだけ困ったように瞬きをした。
けれど、ペンテシレイアは本気だった。
桜は小さく息を吸う。
「ペンテさん」
「聞こえた」
返事はすぐだった。
早すぎるくらいだった。
桜の胸に、少しだけ温かいものが落ちる。
次に、桜は手首を握った。
目には見えない道を意識する。
橋の上で刻まれた、命令ではないもの。
自分で呼ぶためのもの。
「ヒッポリュテさん」
今度は、返事が少し遅れた。
桜の胸がひやりとする。
だが、ヒッポリュテは目を細め、かすかに笑った。
「聞こえた」
その瞬間、手首の奥がほんの少しだけ熱を持った。
桜は泣きそうになった。
「聞こえました……」
「ああ」
「ちゃんと、届きました」
「届いた」
ヒッポリュテはそう言った。
ペンテシレイアは横を向いたまま、低く言う。
「なら、次も呼べ」
「はい」
「何度でも呼べ」
「はい」
「聞く」
桜は頷いた。
泣かないように。
でも、少しだけ涙がこぼれた。
◇
車が止まったのは、冬木の外れに近い暗い道だった。
もう一台、別の車が停まっている。
運転席には誰もいないように見えた。
だが、すでに手配されているのだろう。
衛宮切嗣のやり方だった。
通信機が鳴る。
ヒッポリュテが取ると、ノイズ混じりの声が届いた。
『そこで雁夜を別の車に乗せる』
桜が顔を上げた。
「え……?」
雁夜は、驚かなかった。
どこかで分かっていたように、ゆっくりと目を伏せる。
切嗣の声が続く。
『彼を連れていけば、桜の位置が割れる可能性がある。間桐との接続が残っている以上、同じ経路では逃がせない』
「それは分かっている」
ヒッポリュテが言う。
桜は雁夜を見た。
「雁夜おじさん」
雁夜は笑おうとした。
今度は、少しだけ笑えた。
「俺は、一緒には行けない」
桜の目が揺れる。
「また、いなくなるんですか」
雁夜の顔が苦しそうに歪んだ。
その問いは痛かった。
でも、逃げてはいけない問いだった。
「いなくならないようにする」
雁夜は言った。
「でも、この身体じゃ、君の隣にはいられない。臓硯にも、まだ辿られる」
「でも……」
「だから、追跡を切る方へ回る」
ヒッポリュテの目が冷える。
「死にに行くなら止める」
「違う」
雁夜は首を横に振った。
「死ぬためじゃない」
もう一度、言った。
「生きて、臓硯の目を逸らす。そのために離れる」
その言葉に、ヒッポリュテは沈黙した。
桜も黙った。
逃げることも選ぶこと。
力をつけることも選ぶこと。
戻ってくることも、いつか選べる。
ヒッポリュテが言った言葉と、雁夜の言葉が重なる。
雁夜は続けた。
「前なら、たぶん勝手に行ってた。桜ちゃんのためだって言って、何も言わずに」
声が掠れる。
「でも、それは嫌だって言われたから」
桜の瞳に涙が溜まる。
「だから、ちゃんと別れる」
雁夜はゆっくりと桜を見る。
「今度は、勝手に消えない」
「約束……ですか」
「ああ」
雁夜は頷いた。
「約束する」
桜は泣きながら頷いた。
ペンテシレイアが短く言う。
「破るな」
雁夜は少し驚いた顔をした後、苦笑した。
「怖いな」
「破れば追う」
「……分かった」
ペンテシレイアは桜の前に立ったまま、雁夜を見ていた。
その目には、以前のような単なる不信だけではないものがあった。
桜を泣かせるな。
そういう、守る者としての怒り。
雁夜は別の車へ向かう前に、桜の前で膝をつきかけた。
だが、身体がうまく動かない。
途中で咳き込みそうになり、何とか堪える。
桜が手を伸ばしかける。
雁夜は首を振った。
「大丈夫」
そして、少しだけ頭を下げた。
「桜ちゃん」
「はい」
「逃げて」
桜は涙をこぼしながら頷く。
「はい」
「でも、戻りたくなったら、戻ってきていい」
「はい」
「その時、俺がどこにいるか分からないけど」
雁夜は少しだけ笑った。
「生きてたら、会いに行く」
桜は震えながら言った。
「生きていてください」
「うん」
雁夜は立ち上がる。
「生きるよ」
それは弱い約束だった。
絶対ではない。
この夜の後に何が起こるか、誰にも分からない。
それでも、雁夜は死ぬためではなく、生きるために離れると言った。
桜は、その言葉を握りしめた。
◇
雁夜を乗せた車が、別方向へ走り出す。
桜は窓に手をついた。
車の赤い尾灯が遠ざかる。
やがて、夜の中に消えた。
桜は泣いていた。
でも、声は出さなかった。
ペンテシレイアはその隣に立ち、何も言わずに見守っている。
ヒッポリュテは少し離れた場所で、夜風に身体を揺らしていた。
輪郭が薄い。
ペンテシレイアはそれに気づき、すぐに近づいた。
「姉上」
「まだ立っている」
「聞いていない」
ペンテシレイアの声は硬い。
「姉上は、また私に待てと言う」
ヒッポリュテはペンテシレイアを見る。
その目は怒っている。
だが、怒りの奥にあるのは不安だった。
「待てとは言わない」
「なら、何だ」
「進め」
ペンテシレイアが止まる。
「進め……?」
「ああ」
ヒッポリュテは静かに言う。
「桜を守れ」
ペンテシレイアは黙る。
「桜が学ぶなら、そばにいろ」
桜がこちらを見る。
「桜が戻るなら、一緒に戻れ」
ペンテシレイアの唇が震えた。
「姉上は」
「戻る」
「何度でも言え」
ペンテシレイアの声が低くなる。
命令のようだった。
祈りのようでもあった。
ヒッポリュテは答える。
「戻る」
「もう一度」
「戻る」
「もう一度」
「戻る」
ペンテシレイアはようやく目を伏せた。
拳が震えている。
怒りを堪えるように。
泣く代わりに、歯を食いしばるように。
「置いていくんじゃない」
ヒッポリュテは言った。
「任せる」
ペンテシレイアは桜を見る。
桜は、ペンテシレイアの袖を握っていた。
弱く。
でも、自分から。
ペンテシレイアはその手を見て、深く息を吐いた。
「任される」
そして、ヒッポリュテを見る。
「だから、戻れ」
「ああ」
ヒッポリュテは頷く。
「戻る」
◇
車は、再び走り出した。
今度は、桜とペンテシレイアとヒッポリュテだけを乗せて。
切嗣本人は来ない。
通信越しに、短く指示だけが入る。
『保護先の候補が決まった』
ヒッポリュテは窓の外を見たまま聞く。
『虚数と境界を扱った記録のある古い家系だ。表向きは衰退している。協会本流からも距離がある』
「信用できるのか」
『完全には』
「そればかりだな」
『完全に信用できる場所へは、魔術師は隠れられない』
「屁理屈か」
『現実だよ』
切嗣の声は疲れていた。
だが、まだ動いている。
『ただ、桜の適性を“道具”ではなく“技術”として扱える可能性がある』
桜はその言葉を聞いて、少しだけ顔を上げた。
道具ではなく。
技術。
自分で学ぶもの。
自分で使うもの。
自分が自分でいるための力。
ヒッポリュテは言う。
「その家が桜を道具として見れば、潰す」
『分かった』
「本当に分かっているのか」
『少なくとも、君が本気なのは分かっている』
ヒッポリュテは小さく鼻を鳴らした。
『それと、君の状態については別の専門家が必要になる』
「人形師か」
『赤い髪の、厄介な女だ』
「また厄介者か」
『君が言う?』
「言う」
『彼女なら、肉体と魂、器と接続について手が打てるかもしれない。ただし、善意で動くとは限らない』
「善意で動く魔術師など、今さら期待していない」
『なら話は早い』
通信の向こうで、何かが崩れる音がした。
切嗣の呼吸が一瞬乱れる。
「切嗣」
『問題ない』
「嘘が下手だな」
『……これで、そちらへの手配は終わりだ』
「お前は」
少しだけ間があった。
『僕は、まだ探すものがある』
それ以上は言わなかった。
ヒッポリュテも聞かなかった。
燃える街の中。
切嗣は、これから誰かの手を取るのだろう。
すべては救えなくても。
それでも、目の前の手を。
◇
燃える街の中で、衛宮切嗣は歩いていた。
熱。
煙。
崩れた壁。
折れた鉄。
倒れた人影。
何もかもが赤く、黒く、歪んでいる。
聖杯は救いではなかった。
願いは壊れた。
積み上げたものは、また炎の中へ沈んだ。
切嗣は、それでも歩く。
もう、何かを救えると思っていたわけではない。
ただ、足が止まらなかった。
その時。
瓦礫の奥で、小さな気配があった。
少年。
まだ息がある。
切嗣は膝をついた。
血と煤に汚れた小さな体。
消えかけの命。
手を伸ばす。
すべては救えなかった。
救えなかった子がいる。
帰れない白い城がある。
待っているはずの少女がいる。
名前を呼ぶこともできない、遠い場所。
もう一人、手を伸ばせなかった子がいる。
それでも。
この手だけは、離せなかった。
切嗣は少年を抱き上げた。
燃える街の中で、もう一つの未来が拾い上げられた。
◇
車内で、ヒッポリュテの呼吸が浅くなっていた。
桜は何度も手首を握る。
ペンテシレイアは黙ってヒッポリュテの隣に座った。
今にも掴みかかりそうなほど近くに。
桜が小さく聞いた。
「しばらく……会えなくなるんですか」
ヒッポリュテは桜を見る。
「しばらく、遠くなるかもしれない」
「消えるんですか」
「呼べるようにした」
「それは、消えないってことですか」
ヒッポリュテは少しだけ笑った。
「お前が呼ぶなら、道はある」
桜は手首を握った。
目に見えない道。
でも、確かにあるもの。
「呼びます」
「ああ」
「何度でも」
「聞く」
ヒッポリュテの声が少しだけ弱くなる。
ペンテシレイアが鋭く言う。
「弱るな」
「無茶を言う」
「戻ると言った」
「ああ」
「なら弱るな」
「努力する」
「足りない」
ペンテシレイアの目に、涙はない。
けれど、その声には泣きそうなものが混じっていた。
ヒッポリュテは桜へ手を伸ばした。
桜はすぐに頭を下げる。
ヒッポリュテの手が、桜の髪に触れた。
「学べ」
静かな声。
「力をつけろ」
桜は涙をこらえながら聞く。
「誰かに決められるな」
「はい」
「怖ければ呼べ」
「はい」
「戻りたければ、戻れ」
桜は小さく頷いた。
「はい」
ペンテシレイアが言う。
「私はそばにいる」
ヒッポリュテはそちらを見る。
「頼む」
「任された」
ペンテシレイアは短く返した。
それだけだった。
でも、その一言で十分だった。
◇
車が市境を越えた。
冬木が遠ざかる。
桜は窓の外を見た。
赤い空。
燃える街。
そこには、姉がいるかもしれない。
父がいる。
遠坂の家がある。
間桐の家がある。
怖い場所がある。
自分が運ばれそうになった過去がある。
でも、いつか戻る場所でもある。
桜は泣いていた。
けれど、ただ泣いているだけではなかった。
「逃げます」
小さく言う。
ペンテシレイアが聞いていた。
ヒッポリュテも目を開ける。
「でも、戻ってきます」
桜は窓の向こうの冬木を見つめた。
「いつか、戻ります」
ヒッポリュテは頷いた。
「聞いた」
ペンテシレイアも言う。
「私も聞いた」
桜は手首を握る。
呼べる道。
離れないための道。
そして、いつか帰るための道。
車は夜の中を進んでいく。
冬木の赤い空が、少しずつ小さくなっていった。
◇
それから。
少女は冬木を離れた。
逃げるために。
生きるために。
そして、いつか戻るために。
彼女は、虚数と境界を扱う古い家に預けられた。
そこで、空っぽではない黒を知る。
沈めるだけではない影を知る。
隠すこと。
守ること。
呼ぶこと。
繋ぐこと。
そのための魔術を、少しずつ学んでいく。
傍らには、眠るように寄り添う戦士がいた。
ペンテシレイア。
普段は深く、影の奥で休む。
けれど、呼ばれれば聞く。
聞くと決めたから。
そして、もっと深い場所に。
まだ形を保てない女王がいた。
神代から落ち、現代に削られ、それでも消えなかった者。
まだ、器はなかった。
黒い匣もない。
ただ、消えかけた女王を留めるには、いつか形が必要になる。
桜はまだ、それを知らない。
けれど手首の奥には、呼べば届く細い道だけが残っていた。
◇
長い時間が過ぎた。
少女は、手首に触れた。
かつて震えるだけだった指は、もう逃げ道を探すだけではない。
呼ぶために。
守るために。
戻るために。
静かに、夜の向こうを見据えていた。
冬木の夜に、再び聖杯の気配が満ちる。
黒い匣が、微かに軋んだ。
虚数の奥で、鎖が鳴る。
眠っていた戦士が、目を開ける。
そして、さらに深い場所で。
女王もまた、目を開けた。
ZERO編はひとまず、これにておしまい。成長した彼女がどうなるのか、次の舞台に移ります。