神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す   作:あかちゅきぼちゃん

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3話 触れてはいけない温度

 

 

 

 冷たい。

 

 夜の空気が、少しだけ重くなっていた。

 

 神代の空気とは違う。

 

 あの時代の重さは、濃さだった。土にも風にも水にも、世界の内側から滲むような魔力が満ちていて、息を吸うだけで身体の奥まで何かが入り込んできた。

 

 だが、今感じる重さは違う。

 

 薄い空気の中に、別のものが沈んでいる。

 

 冷たく、湿っていて、隠されている。

 

 人の気配。

 

 魔術の気配。

 

 そして、痛みの気配。

 

「……近いな」

 

 理由は分からない。

 

 だが、分かる。

 

 ここではない何かが近い。

 

 この街に馴染まないもの。

 

 表の住宅街に沈められ、見えないように蓋をされたもの。

 

 ヒッポリュテは足を止めた。

 

 視線の先には、住宅街が広がっている。

 

 灯りの消えた家。

 

 整った塀。

 

 静かな道路。

 

 窓の向こうに眠る人々の気配。

 

 どこにでもある夜の景色。

 

 だが、整いすぎていた。

 

 静かすぎる。

 

 自然に沈んだ静寂ではない。

 

 誰かがそう見えるように整えた静けさ。

 

 ここに異常はない。

 

 ここには何もない。

 

 そう言い聞かせるための、薄い膜のようなものが張られている。

 

「……違う」

 

 これは静かなのではない。

 

 隠されている。

 

 気配を殺す。

 

 足音を消す。

 

 呼吸を落とす。

 

 身体が自然にそう動いた。

 

 意識するより先に、影へ入り、壁の線に沿い、灯りの届かない場所を選ぶ。

 

 いつから、こんなことができるようになったのか。

 

 一瞬だけ思考が引っかかる。

 

 現代人だった頃の自分には、できるはずがない。

 

 神代の女王としての身体が覚えているのか。

 

 それとも、戦場の記憶が染みついているのか。

 

 分からない。

 

 だが、今は考える必要がない。

 

 奥へ進む。

 

 静かな家々の間を抜ける。

 

 白い街灯の光が道を照らしている。

 

 それを避けるように歩く。

 

 靴音はほとんどしない。

 

 やがて、細い気配が触れた。

 

 弱い。

 

 あまりにも弱い。

 

 けれど、確かにある。

 

 人の気配。

 

 魔術の気配。

 

 恐怖の気配。

 

 ヒッポリュテは足を止めた。

 

 暗がりの中に、小さな影があった。

 

 子どもだ。

 

 塀のそばに立ち、動かずにいる。

 

 夜の住宅街に、一人。

 

 その姿だけで、何かが間違っていた。

 

 距離を詰める。

 

 警戒はされていない。

 

 当然だ。

 

 こちらが隠している。

 

 だが、近づいた瞬間、小さな肩がわずかに震えた。

 

 気づいたのか。

 

 いや、違う。

 

 見られたからではない。

 

 聞こえたからでもない。

 

 感じている。

 

 自分の身体へ近づく、何か異質な気配を。

 

 ヒッポリュテは足を止めた。

 

 そのまま、声を低く落とす。

 

「……一人か」

 

 びくり、と肩が揺れた。

 

 少女が振り向く。

 

 幼い顔。

 

 まだ小さい。

 

 細い首。

 

 肩に落ちる髪。

 

 夜の中で、紫がかった瞳がこちらを見る。

 

 怯えすぎている目だった。

 

 子どもの目ではない。

 

 いや、子どもだからこそ、そうなってしまった目だ。

 

 助けを求めることを諦めかけている。

 

 でも、完全には諦めきれていない。

 

 逃げたい。

 

 でも、どこへ逃げればいいのか分からない。

 

 そんな目だった。

 

 間桐桜。

 

 名前は、理解より先に浮かんだ。

 

「……あ」

 

 声が漏れる。

 

 思考が追いつかない。

 

 けれど、口は先に動いていた。

 

「……桜」

 

 自分でも驚くほど自然に、その名を呼んでいた。

 

 少女の身体が固まる。

 

 怯えが、さらに濃くなる。

 

「……なんで」

 

 小さな声だった。

 

「どうして、知ってるの……?」

 

 当然の問いだった。

 

 初対面のはずの相手が、自分の名前を知っている。

 

 夜の街で、突然現れた知らない女が。

 

 警戒しない方がおかしい。

 

 ああ、そうだ。

 

 知っている。

 

 だが、なぜ知っている。

 

 現代人だった頃の記憶がある。

 

 神代の記憶がある。

 

 ヒッポリュテとしての身体がある。

 

 それらが混ざり合って、何が自分なのか分からなくなる。

 

 目の前の少女は、物語の登場人物ではない。

 

 こうして震えている。

 

 息をしている。

 

 名前を呼ばれて怯えている。

 

 その事実だけが、すべてを押し流した。

 

 関係ない。

 

 今ここにいる。

 

 それで十分だった。

 

「……気にするな」

 

 短く返す。

 

 桜はさらに困惑した顔をした。

 

 当然だ。

 

 気にするなで済むわけがない。

 

 だが、今ここで説明できる言葉はなかった。

 

 知らない相手。

 

 夜。

 

 一人。

 

 名前を知っている女。

 

 逃げてもおかしくない。

 

 だが、桜は逃げなかった。

 

 その理由は、すぐに分かった。

 

 逃げる先がないのだ。

 

 帰る場所が、あそこだから。

 

 視線が自然と落ちる。

 

 小さな手。

 

 指先がわずかに震えている。

 

 その手は、まだ何にも守られていない。

 

 まだ間に合う。

 

 そう思った。

 

 今なら。

 

 今、この瞬間なら。

 

 しかし、足が止まる。

 

 連れていくか。

 

 置いていくか。

 

 答えは簡単なはずだった。

 

 この先に何があるかを知っている。

 

 だから、連れていくべきだ。

 

 そうしなければならない。

 

 だが、それは本当に救いなのか。

 

 知らない女が、夜道で、幼い子どもに手を差し出す。

 

 それは救出か。

 

 それとも誘拐か。

 

 自分の知識だけを理由に、この子の人生をまた誰かが決めることにならないか。

 

 父が決めた。

 

 家が決めた。

 

 魔術師たちが決めた。

 

 その結果、この子はここにいる。

 

 なら、自分は同じことをしてはいけない。

 

 どれほど危険でも。

 

 どれほど急ぐ必要があっても。

 

 せめて、この一歩だけは、桜のものにしなければならない。

 

「……来るか」

 

 言葉が先に出た。

 

 桜が顔を上げる。

 

「……え?」

 

「ここにいる理由はない」

 

 嘘ではない。

 

 だが、全部でもない。

 

 桜は迷っている。

 

 当然だ。

 

 ヒッポリュテは続けない。

 

 急かせば、それは命令になる。

 

 しばらくして、桜の視線が揺れた。

 

 家の方へ。

 

 暗い塀の向こう。

 

 灯りの消えた窓。

 

 帰るべき場所として与えられた家。

 

 けれど、休める場所ではない家。

 

「……でも」

 

 声が震える。

 

 ヒッポリュテは静かに問う。

 

「帰る場所か」

 

 桜は小さく頷いた。

 

 その動きが、胸に引っかかった。

 

 帰りたいから戻るのではない。

 

 戻らなければならないから戻る。

 

 その違い。

 

 小さな手が脳裏に浮かぶ。

 

 つい先ほど失った手。

 

 握っていたのに離れた温度。

 

 ペンテシレイア。

 

 ヒッポリュテは息を止める。

 

 今は違う。

 

 目の前だ。

 

 過去に引かれるな。

 

 桜を見る。

 

 小さな身体。

 

 怯えた目。

 

 それでも、こちらから視線を逸らしきれずにいる。

 

「選べ」

 

 ヒッポリュテは言った。

 

 桜が固まる。

 

「ここに戻るか」

 

 暗い家の方へ視線を向ける。

 

「それとも、来るか」

 

 静かに言う。

 

 強制はしない。

 

 手を引くこともしない。

 

 ただ、選択だけを置く。

 

 桜は動けない。

 

 当たり前だった。

 

 こんなもの、幼い子どもが選べるはずがない。

 

 見知らぬ女についていくか。

 

 怖い家へ戻るか。

 

 どちらも正しい選択ではない。

 

 どちらも怖い。

 

 それでも、桜の前に初めて置かれた選択だった。

 

 ヒッポリュテは待った。

 

 一秒。

 

 二秒。

 

 夜の音だけが、遠くを流れていく。

 

 やがて、桜の喉が小さく動いた。

 

 声にはならなかった。

 

 けれど、首がほんの少し動いた。

 

 家の方ではなく。

 

 こちらへ。

 

 ヒッポリュテは息を吐いた。

 

「……そうか」

 

 それだけ言った。

 

 手を伸ばす。

 

 桜は、その手を見つめた。

 

 すぐには取らない。

 

 当然だ。

 

 知らない女の手だ。

 

 けれど、桜はゆっくりと自分の手を持ち上げた。

 

 震える指先が、ヒッポリュテの掌に触れる。

 

 温かい。

 

 柔らかい。

 

 小さな手だった。

 

 一瞬、握る力が強くなった。

 

 失った手の感触が、胸の奥から蘇る。

 

 ペンテシレイアの手。

 

 痛いと言いかけた声。

 

 白く弾けた視界。

 

 離れた温度。

 

 強く握ってはいけない。

 

 この手は、ペンテシレイアの手ではない。

 

 桜の手だ。

 

 逃がさないために握るものではない。

 

 引きずるためのものでもない。

 

 歩けるように、少しだけ支えるためのものだ。

 

 ヒッポリュテは力を緩めた。

 

「行くぞ」

 

 振り返らずに言う。

 

 桜は小さく頷いた。

 

 二人は歩き出す。

 

 夜の住宅街を抜ける。

 

 桜の足音は小さい。

 

 少し遅れて、けれど離れない。

 

 ヒッポリュテは歩幅を落とした。

 

 先に行きすぎないように。

 

 手を引きすぎないように。

 

 それでも、止まらないように。

 

 風が吹く。

 

 静かな風だった。

 

 街は眠っている。

 

 何も起きていないかのように、窓は閉じ、道は白く照らされ、遠くで車の音だけが聞こえる。

 

 けれど、ヒッポリュテには分かっていた。

 

 この静けさは、終わりではない。

 

 嵐の前だ。

 

 背後に、桜が戻るはずだった家が遠ざかっていく。

 

 手の中には、新しい温度がある。

 

 触れてはいけないほど弱く、けれど離してはいけない温度が。

 

 ヒッポリュテはその手を握り直さない。

 

 ただ、逃がさないのではなく、離れないように歩く。

 

 その違いを、今度こそ間違えないために。

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