神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
冷たい。
夜の空気が、少しだけ重くなっていた。
神代の空気とは違う。
あの時代の重さは、濃さだった。土にも風にも水にも、世界の内側から滲むような魔力が満ちていて、息を吸うだけで身体の奥まで何かが入り込んできた。
だが、今感じる重さは違う。
薄い空気の中に、別のものが沈んでいる。
冷たく、湿っていて、隠されている。
人の気配。
魔術の気配。
そして、痛みの気配。
「……近いな」
理由は分からない。
だが、分かる。
ここではない何かが近い。
この街に馴染まないもの。
表の住宅街に沈められ、見えないように蓋をされたもの。
ヒッポリュテは足を止めた。
視線の先には、住宅街が広がっている。
灯りの消えた家。
整った塀。
静かな道路。
窓の向こうに眠る人々の気配。
どこにでもある夜の景色。
だが、整いすぎていた。
静かすぎる。
自然に沈んだ静寂ではない。
誰かがそう見えるように整えた静けさ。
ここに異常はない。
ここには何もない。
そう言い聞かせるための、薄い膜のようなものが張られている。
「……違う」
これは静かなのではない。
隠されている。
気配を殺す。
足音を消す。
呼吸を落とす。
身体が自然にそう動いた。
意識するより先に、影へ入り、壁の線に沿い、灯りの届かない場所を選ぶ。
いつから、こんなことができるようになったのか。
一瞬だけ思考が引っかかる。
現代人だった頃の自分には、できるはずがない。
神代の女王としての身体が覚えているのか。
それとも、戦場の記憶が染みついているのか。
分からない。
だが、今は考える必要がない。
奥へ進む。
静かな家々の間を抜ける。
白い街灯の光が道を照らしている。
それを避けるように歩く。
靴音はほとんどしない。
やがて、細い気配が触れた。
弱い。
あまりにも弱い。
けれど、確かにある。
人の気配。
魔術の気配。
恐怖の気配。
ヒッポリュテは足を止めた。
暗がりの中に、小さな影があった。
子どもだ。
塀のそばに立ち、動かずにいる。
夜の住宅街に、一人。
その姿だけで、何かが間違っていた。
距離を詰める。
警戒はされていない。
当然だ。
こちらが隠している。
だが、近づいた瞬間、小さな肩がわずかに震えた。
気づいたのか。
いや、違う。
見られたからではない。
聞こえたからでもない。
感じている。
自分の身体へ近づく、何か異質な気配を。
ヒッポリュテは足を止めた。
そのまま、声を低く落とす。
「……一人か」
びくり、と肩が揺れた。
少女が振り向く。
幼い顔。
まだ小さい。
細い首。
肩に落ちる髪。
夜の中で、紫がかった瞳がこちらを見る。
怯えすぎている目だった。
子どもの目ではない。
いや、子どもだからこそ、そうなってしまった目だ。
助けを求めることを諦めかけている。
でも、完全には諦めきれていない。
逃げたい。
でも、どこへ逃げればいいのか分からない。
そんな目だった。
間桐桜。
名前は、理解より先に浮かんだ。
「……あ」
声が漏れる。
思考が追いつかない。
けれど、口は先に動いていた。
「……桜」
自分でも驚くほど自然に、その名を呼んでいた。
少女の身体が固まる。
怯えが、さらに濃くなる。
「……なんで」
小さな声だった。
「どうして、知ってるの……?」
当然の問いだった。
初対面のはずの相手が、自分の名前を知っている。
夜の街で、突然現れた知らない女が。
警戒しない方がおかしい。
ああ、そうだ。
知っている。
だが、なぜ知っている。
現代人だった頃の記憶がある。
神代の記憶がある。
ヒッポリュテとしての身体がある。
それらが混ざり合って、何が自分なのか分からなくなる。
目の前の少女は、物語の登場人物ではない。
こうして震えている。
息をしている。
名前を呼ばれて怯えている。
その事実だけが、すべてを押し流した。
関係ない。
今ここにいる。
それで十分だった。
「……気にするな」
短く返す。
桜はさらに困惑した顔をした。
当然だ。
気にするなで済むわけがない。
だが、今ここで説明できる言葉はなかった。
知らない相手。
夜。
一人。
名前を知っている女。
逃げてもおかしくない。
だが、桜は逃げなかった。
その理由は、すぐに分かった。
逃げる先がないのだ。
帰る場所が、あそこだから。
視線が自然と落ちる。
小さな手。
指先がわずかに震えている。
その手は、まだ何にも守られていない。
まだ間に合う。
そう思った。
今なら。
今、この瞬間なら。
しかし、足が止まる。
連れていくか。
置いていくか。
答えは簡単なはずだった。
この先に何があるかを知っている。
だから、連れていくべきだ。
そうしなければならない。
だが、それは本当に救いなのか。
知らない女が、夜道で、幼い子どもに手を差し出す。
それは救出か。
それとも誘拐か。
自分の知識だけを理由に、この子の人生をまた誰かが決めることにならないか。
父が決めた。
家が決めた。
魔術師たちが決めた。
その結果、この子はここにいる。
なら、自分は同じことをしてはいけない。
どれほど危険でも。
どれほど急ぐ必要があっても。
せめて、この一歩だけは、桜のものにしなければならない。
「……来るか」
言葉が先に出た。
桜が顔を上げる。
「……え?」
「ここにいる理由はない」
嘘ではない。
だが、全部でもない。
桜は迷っている。
当然だ。
ヒッポリュテは続けない。
急かせば、それは命令になる。
しばらくして、桜の視線が揺れた。
家の方へ。
暗い塀の向こう。
灯りの消えた窓。
帰るべき場所として与えられた家。
けれど、休める場所ではない家。
「……でも」
声が震える。
ヒッポリュテは静かに問う。
「帰る場所か」
桜は小さく頷いた。
その動きが、胸に引っかかった。
帰りたいから戻るのではない。
戻らなければならないから戻る。
その違い。
小さな手が脳裏に浮かぶ。
つい先ほど失った手。
握っていたのに離れた温度。
ペンテシレイア。
ヒッポリュテは息を止める。
今は違う。
目の前だ。
過去に引かれるな。
桜を見る。
小さな身体。
怯えた目。
それでも、こちらから視線を逸らしきれずにいる。
「選べ」
ヒッポリュテは言った。
桜が固まる。
「ここに戻るか」
暗い家の方へ視線を向ける。
「それとも、来るか」
静かに言う。
強制はしない。
手を引くこともしない。
ただ、選択だけを置く。
桜は動けない。
当たり前だった。
こんなもの、幼い子どもが選べるはずがない。
見知らぬ女についていくか。
怖い家へ戻るか。
どちらも正しい選択ではない。
どちらも怖い。
それでも、桜の前に初めて置かれた選択だった。
ヒッポリュテは待った。
一秒。
二秒。
夜の音だけが、遠くを流れていく。
やがて、桜の喉が小さく動いた。
声にはならなかった。
けれど、首がほんの少し動いた。
家の方ではなく。
こちらへ。
ヒッポリュテは息を吐いた。
「……そうか」
それだけ言った。
手を伸ばす。
桜は、その手を見つめた。
すぐには取らない。
当然だ。
知らない女の手だ。
けれど、桜はゆっくりと自分の手を持ち上げた。
震える指先が、ヒッポリュテの掌に触れる。
温かい。
柔らかい。
小さな手だった。
一瞬、握る力が強くなった。
失った手の感触が、胸の奥から蘇る。
ペンテシレイアの手。
痛いと言いかけた声。
白く弾けた視界。
離れた温度。
強く握ってはいけない。
この手は、ペンテシレイアの手ではない。
桜の手だ。
逃がさないために握るものではない。
引きずるためのものでもない。
歩けるように、少しだけ支えるためのものだ。
ヒッポリュテは力を緩めた。
「行くぞ」
振り返らずに言う。
桜は小さく頷いた。
二人は歩き出す。
夜の住宅街を抜ける。
桜の足音は小さい。
少し遅れて、けれど離れない。
ヒッポリュテは歩幅を落とした。
先に行きすぎないように。
手を引きすぎないように。
それでも、止まらないように。
風が吹く。
静かな風だった。
街は眠っている。
何も起きていないかのように、窓は閉じ、道は白く照らされ、遠くで車の音だけが聞こえる。
けれど、ヒッポリュテには分かっていた。
この静けさは、終わりではない。
嵐の前だ。
背後に、桜が戻るはずだった家が遠ざかっていく。
手の中には、新しい温度がある。
触れてはいけないほど弱く、けれど離してはいけない温度が。
ヒッポリュテはその手を握り直さない。
ただ、逃がさないのではなく、離れないように歩く。
その違いを、今度こそ間違えないために。