神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
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プロローグ 戻ってきました
冬木の空気は、思っていたよりも冷たかった。
電車の扉が開いた瞬間、夜の匂いが流れ込んでくる。
金属の匂い。
乾いた風。
遠くで鳴る踏切の音。
ホームに降りる人たちの靴音。
どれも、知らないもののようで。
それでも、桜の足は一瞬だけ止まった。
知っている。
この街を、身体が覚えている。
十年という時間は、思っていたほど、何も消してはくれなかった。
間桐桜は、ホームに降りた。
夜の冬木駅は、あの頃よりも少し明るく見えた。
案内板の光。
自動改札の電子音。
足早に通り過ぎていく人の波。
誰も桜を見ない。
誰も、十年前にこの街から逃げた子どもが、いま戻ってきたのだとは知らない。
それでよかった。
知られたいわけではなかった。
ただ。
桜は胸元に片手を添えた。
呼吸が少し浅い。
大丈夫。
大丈夫です。
そう心の中で呟いて、指先を手首へ滑らせる。
袖の下。
そこには何もないように見える。
けれど、桜の指が触れた瞬間、肌の奥でかすかな熱が灯った。
薄い金色。
輪のようなものが、ほんの一瞬だけ浮かんで、すぐに沈む。
誰にも見えない。
桜だけが知っている。
これは、命令ではない。
縛るものではない。
呼ぶための道。
あの夜、最後に残してもらったもの。
桜は目を伏せ、ゆっくり息を吐いた。
ホームの端に、夜風が吹き抜ける。
髪が頬に触れた。
もう、あの頃の長さではない。
制服も違う。
背も伸びた。
声も、手も、歩幅も、何もかも変わった。
けれど、この街の影だけは変わらない。
ホームの足元。
人の流れの下。
蛍光灯が作る薄い影の奥に、黒い水底のような気配があった。
沈んでいる。
何かが、まだ。
桜はそれを見下ろした。
見える、というよりも。
分かる。
この十年で覚えた感覚だった。
影には深さがある。
空白には形がある。
何もない場所には、何かを隠しておけるだけの広さがある。
昔は、その黒が怖かった。
自分を飲み込むものだと思っていた。
いまも、怖くないわけではない。
ただ、怖いものを怖いまま見られるようになった。
桜は顔を上げる。
改札へ向かう人の流れに、ゆっくり足を踏み出した。
昔なら、ここで誰かの手を待っていた。
連れていってくれる手。
守ってくれる手。
引いてくれる手。
いまも、その手がいらないわけではない。
けれど。
最初の一歩は、自分で出せる。
切符を通す。
改札を抜ける。
冬木の夜が、そこにあった。
駅前の街灯が白く光っている。
タクシー乗り場には数台の車が並び、コンビニの明かりが道の向こうに滲んでいた。
知らない店が増えている。
覚えていた看板は、もういくつか見当たらない。
十年。
街にとっては、それだけの時間。
桜にとっては、短くも長くもない。
ただ、毎朝目を覚まして、毎晩目を閉じるには十分な長さだった。
誰かに怯えずに眠る夜を知った。
痛みが来ない朝を知った。
名前を呼ばれても、身構えなくていい日々を知った。
そして、知ったからこそ。
戻ってこられた。
逃げたままでは、ここには立てなかった。
鞄の中で、何かが小さく鳴った。
桜は足を止めない。
駅前の人混みを抜けながら、肩にかけた鞄へ軽く手を添える。
底に入れてある黒い匣。
木でも、金属でもない。
石のようで、骨のようで、影をそのまま固めたような匣。
外から見れば、ただの古びた小箱にしか見えない。
けれど、その中には空白がある。
眠りを置いておくための場所。
声を失わないための場所。
壊れやすいものを、壊れないように沈めておく場所。
もう一度、匣が軋んだ。
きし、と。
眠っていた鎖が、奥で少しだけ動いたような音だった。
桜は小さく目を伏せる。
「……起きていますか」
声は、風に紛れるくらい小さかった。
返事はすぐには来なかった。
けれど、桜は待った。
人の波から少し離れ、街路樹の影に入る。
夜風が葉を揺らす。
その葉の影が、地面の上で細かく震えた。
その奥。
もっと深い場所で。
低い声がした。
『戻ったのか』
桜の表情が、少しだけ緩む。
「はい」
『ここが、冬木か』
「はい」
『臭い街だ』
その言い方があまりに変わらなくて、桜はほんの少しだけ笑った。
笑えた自分に、少し驚く。
「そうですね」
『笑うところか』
「懐かしくて」
『理解できん』
「そうですか」
『だが、戻ったのだな』
桜は駅前の道を見た。
夜の車道。
信号の赤。
横断歩道の白。
遠くに伸びる坂道。
その先に、かつて自分が暮らすはずだった家がある。
その先に、かつて自分が失った名前がある。
その先に、姉がいるかもしれない。
桜は喉の奥に残った震えを、ゆっくり飲み込んだ。
「戻ってきました」
『怖いか』
問いは短かった。
慰める響きではなかった。
優しい言葉でもなかった。
ただ、聞いている。
それだけだった。
桜は答える前に、手首に触れた。
金色はまだ沈んでいる。
けれど、そこにある。
あの夜、渡されたもの。
今は、ペンテの手を取れ。
離すんじゃない。
繋ぎ替える。
あの声が、まだ耳の奥に残っている。
「怖いです」
嘘はつかなかった。
この街が怖い。
間桐の家が怖い。
姉に会うことも怖い。
自分が何を思うのかも、相手が何を思うのかも分からない。
怖い。
でも。
「でも、来ました」
影の奥の声は、少し黙った。
やがて、低く告げる。
『なら、呼べ』
「はい」
『嫌なら呼べ。足が止まるなら呼べ。声が出ぬなら、影を叩け』
「はい」
『私は聞く』
桜は目を閉じた。
その言葉は、十年前と同じで。
十年前とは、まるで違っていた。
あの頃の桜は、呼ぶことすら怖かった。
嫌だと言えば壊れると思っていた。
助けてと言えば、もっとひどいことになると思っていた。
声は、自分のために使ってはいけないものだと思っていた。
でも、違うと教えられた。
呼んでいい。
嫌だと言っていい。
逃げたいと言っていい。
生きたいと言っていい。
そのたびに、誰かが聞いてくれた。
だから、いまの桜は答えられる。
「まだ、大丈夫です」
『強がりか』
「少しだけ」
『なら、少しだけにしておけ』
「はい」
桜は歩き出した。
横断歩道の信号が青に変わる。
周囲の人たちが一斉に動き出し、その中に桜も混ざる。
普通の人のように。
ただの帰郷のように。
けれど、一歩進むごとに、足元の影が深くなっていく気がした。
冬木の霊脈がざわついている。
まだ始まってはいない。
けれど、もう近い。
街の底で何かが脈を打っている。
古い傷口の下で、熱が膿むように。
十年前に終わったはずのものが、また形を取り始めている。
桜は歩きながら、夜空を見上げた。
月は薄い雲に隠れている。
星は少ない。
それでも、空の奥に張り詰めたものがある。
魔術師でなかった頃の桜なら、きっと分からなかった。
でも今は分かる。
この街は、また人を呼んでいる。
器を。
供物を。
願いを。
命を。
十年前と同じ名前を持つ儀式が、近づいている。
桜は指先を握った。
爪が手のひらに触れる。
痛いほどではない。
でも、自分がここにいると分かるくらいの感覚。
逃げたことを、後悔しているわけではない。
あの日、逃げなければ、今の自分はいなかった。
ペンテも、きっとここまで変われなかった。
あの人も、最後にあの道を残すことはできなかった。
だから、逃げたことは間違いではない。
ただ。
逃げたままで終わりたくなかった。
姉さんに会わなければならない。
何を言えるのかは分からない。
責めたいのか、謝りたいのか、ただ顔を見たいだけなのかも、まだ分からない。
けれど、会わないままでは進めない。
間桐の家を見なければならない。
そこにまだ、十年前の影が残っているのなら。
あの老人がまだ、自分を探しているのなら。
もう、目を伏せたまま通り過ぎることはできない。
そして。
もし、この街がまた誰かを器にしようとしているのなら。
誰かの終わり方を、勝手に決めようとしているのなら。
桜は、そこから目を逸らしたくなかった。
自分が救われたから。
だから今度は、誰かに手を伸ばせるかもしれない。
その誰かが誰なのか、まだ桜は知らない。
けれど、冬木の影の底にあるものが、じっと息を潜めているのは分かった。
まるで、泣き声を飲み込んでいる子どものように。
桜は立ち止まった。
駅前の喧騒が、少し遠くなる。
道の端。
街灯の光が届くぎりぎりの場所。
そこに落ちた自分の影が、ふっと揺れた。
黒い。
深い。
その奥で、また鎖が鳴る。
今度は先ほどよりもはっきりと。
鞄の中の黒い匣が、低く軋んだ。
桜は反射的に鞄を抱えた。
「……ペンテさん?」
返事がない。
いや、違う。
声が届かないのではない。
ペンテが、奥を見ている。
桜にも、それが分かった。
虚数の底。
匣のさらに奥。
眠りを何重にも沈めた場所。
そこに、十年間ほとんど動かなかった気配がある。
重い。
古い。
けれど、冷たくはない。
火の消えた炉の奥に、まだ赤い芯が残っているような気配。
手首が熱を持った。
桜は息を呑む。
袖の下で、薄い金色の輪が浮かんだ。
今度は、はっきりと。
肌の上ではない。
もっと内側。
血の流れと、魔力の流れと、影の道が重なる場所。
そこから、細い光が虚数の奥へ伸びていく。
繋がっている。
まだ。
十年経っても。
あの夜の道は、切れていない。
ペンテの声が、低く震えた。
『……姉上』
その一言で、桜の胸が締めつけられる。
夜の音が遠ざかった。
車の走る音も。
人の話し声も。
信号の電子音も。
すべてが、水の向こう側へ沈んでいく。
桜は立っている。
冬木の道の端で。
けれど意識だけが、影の底へ引かれていく。
黒い匣の奥。
鎖がほどける。
ひとつ。
また、ひとつ。
誰かが深い眠りの中で、ゆっくりと瞼を上げる。
桜はその姿を見たわけではない。
それでも分かった。
女王が、目を開ける。
神代の風が、ほんの一瞬だけ夜に混じった。
冬木の空気には似合わない、乾いた大地の匂い。
血と鉄と太陽の匂い。
そして、誰かの手を離してしまった夜の痛み。
桜の唇が震えた。
「ヒッポリュテさん……?」
返事はすぐにはなかった。
長い沈黙。
深い闇の底で、眠りから戻ってきた意識が、ゆっくりとこの街を測っている。
やがて。
かすれた声が届いた。
『……冬木か』
桜は目を閉じた。
泣きそうになったわけではない。
ただ、胸の奥が熱かった。
十年前。
あの人は消えかけながら、自分に道を残した。
命令ではなく、呼ぶための道を。
遠くても。
眠っていても。
呼ぶなら届くように。
その言葉は嘘ではなかった。
届いた。
いま、ここに。
桜は鞄を抱える手に力を込めた。
「はい」
『戻ったのだな』
桜は冬木の夜を見上げる。
十年前、逃げた街。
十年前、燃えていた街。
十年前、誰かの手を離さずに済んだ街。
そして今、自分の足で戻ってきた街。
怖い。
今でも怖い。
それでも、足は動く。
声も出る。
呼ぶ道もある。
聞いてくれる人もいる。
だから。
桜は小さく息を吸った。
「戻ってきました」
手首の奥で、薄い金色が熱を持つ。
鞄の中で、黒い匣が静かに鳴った。
虚数の底で、鎖がほどける。
その声に応えるように。
深い、深い闇の底で。
女王が、目を開けた。