神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
第1話 入らなかった家
駅前の明かりから離れるほど、冬木の夜は静かになっていった。
人の声が遠ざかる。
車の音が細くなる。
白い街灯だけが、等間隔に道を照らしている。
桜は歩いていた。
鞄を肩にかけ、片手で紐を軽く押さえながら、住宅街へ続く道を進む。
十年ぶりの冬木は、知らない街のようだった。
新しい建物が増えている。
昔はなかった店の看板がある。
角の自動販売機も変わっていた。
道路の舗装も、記憶の中より少し綺麗に見える。
けれど。
変わらないものもある。
坂道の角度。
夜風の冷たさ。
塀の影が長く伸びる感じ。
地面の奥で、何かがじっと息を潜めているような気配。
この街は、眠っていない。
夜の底で、何かを待っている。
桜には、それが分かった。
昔は分からなかった。
分からないまま、怖かった。
今は違う。
何が怖いのか、少しだけ分かる。
分かるからといって、怖くなくなるわけではない。
むしろ、形が見えたぶん、恐怖は深くなる。
それでも桜は足を止めなかった。
街灯の下を通るたび、自分の影が前へ伸び、後ろへ流れた。
薄く、黒く。
その影の底で、かすかに水面のような揺れが生まれる。
桜は視線を落とした。
影がこちらを見返しているような気がした。
飲み込まれるための黒ではない。
隠すための黒。
守るための黒。
呼ぶための黒。
そう教えられたのは、随分前のことだった。
空っぽじゃない。
空けておける場所があるだけ。
その言葉を思い出すたび、桜は自分の中にある暗さを、少しだけ嫌いにならずに済んだ。
鞄の中で、黒い匣が小さく軋んだ。
きし、と。
桜は歩きながら、そっと鞄に手を添える。
奥で、低い声がした。
『行くのか』
「はい」
返事は小さかった。
けれど、震えてはいなかった。
少なくとも、声だけは。
『道は覚えているのか』
「覚えています」
『忘れていればよかったものを』
桜は少しだけ目を伏せた。
「忘れたかったです」
街灯の光が、睫毛の影を頬に落とす。
「でも、忘れたまま戻ることはできませんでした」
『戻る必要などない』
「そうですね」
『なら、なぜ来た』
問いは鋭い。
責めているのではない。
確かめている。
十年間、何度も聞いた声だった。
嫌なら呼べ。
怖いなら呼べ。
足が止まるなら呼べ。
その声はいつも、桜の答えを待ってくれた。
だから桜も、答えを探すことをやめずに済んだ。
「……逃げたことを、なかったことにしたくないからです」
『逃げたことを恥じるな』
「はい」
『生きるために逃げたのだろう』
「はい」
『なら、それでいい』
影の奥で、鎖がわずかに鳴る。
桜はゆっくり首を横に振った。
「それだけでは、終われませんでした」
声に出すと、胸の奥に沈んでいたものが少しだけ形を持った。
逃げた。
逃げられた。
その事実は、桜を救った。
けれど、逃げた先で日々を重ねるほど、置いてきたものの輪郭も濃くなった。
姉の顔。
遠坂の家。
間桐の名。
冬木の夜。
燃える街。
手を伸ばしてくれた人たち。
そして、自分のために残された道。
戻ってきたのは、誰かに命じられたからではない。
呼ばれたからでもない。
自分で決めた。
それだけは、誰にも渡したくなかった。
『入るつもりか』
ペンテの声が、少し低くなる。
桜は顔を上げた。
坂の先。
住宅街の奥に、古い塀が見えてきた。
高く、暗く、夜に沈むようにそこにある。
その向こうに、屋敷の屋根が見えた。
間桐の家。
桜の足が、ほんのわずかに遅くなった。
胸の奥が冷える。
指先が強張る。
呼吸が浅くなる。
十年。
毎日怯えていたわけではない。
むしろ、穏やかな日も多かった。
朝の光の中で目を覚まし、温かい食事を食べ、魔術の手ほどきを受け、失敗して、怒られて、少しずつ覚えて。
夜には本を読み、眠る前に匣へ声をかける。
そんな日々を積み重ねてきた。
それなのに。
遠くに屋敷が見えただけで、身体は思い出す。
ここへ連れてこられるはずだったこと。
ここで名前ではなく、血筋として見られるはずだったこと。
ここで、自分の意思より先に使い道を決められるはずだったこと。
桜は立ち止まらなかった。
ただ、歩幅が少し狭くなった。
「まだ、分かりません」
『分からぬまま近づくな』
「分からないから、見に来ました」
『見れば済むのか』
「分かりません」
『お前は、そればかりだな』
「はい」
桜は小さく笑った。
笑いと言うには、あまりに薄かった。
それでも、口元はたしかに動いた。
「でも、分からないと言えるようにはなりました」
鞄の奥が、一瞬だけ静かになった。
ペンテはそれ以上、止めなかった。
代わりに、短く告げる。
『なら、足を止めるな』
「はい」
『止まるなら、選んで止まれ』
「はい」
その言葉を胸に、桜は坂を上った。
近づくほど、夜の匂いが変わっていく。
湿った土の匂い。
古い木の匂い。
埃。
閉め切った部屋。
そして、その奥にある、腐った甘さのようなもの。
桜は鼻先に触れる空気に、喉の奥がこわばるのを感じた。
虫の匂い。
はっきりと見えるわけではない。
塀の向こうに何かがいるわけでもない。
それでも、分かる。
この家の影は、ただ暗いだけではない。
動いている。
ざわめいている。
何かが、壁の内側を這っている。
桜の足元の影が、ほんの少し深くなった。
黒い水が、靴底の下に広がるような感覚。
鞄の中の匣が、低く軋む。
ペンテの声がした。
『いるな』
「はい」
『まだ腐っている』
「はい」
『殺すか』
その問いは、あまりに自然だった。
桜は門の前で立ち止まる。
古い鉄の門。
高い塀。
中庭の木々が、暗い窓の前で影を落としている。
屋敷は静かだった。
灯りはほとんど見えない。
けれど、眠っている家ではない。
待っている家だった。
十年前からずっと。
門の向こう側で。
桜が来るのを。
桜は両手をゆっくり下ろした。
鞄の紐を握っていた指を、一本ずつ開く。
手のひらに汗が滲んでいた。
怖い。
喉の奥で、その言葉が形になる。
怖い。
嫌だ。
帰りたい。
けれど、どこへ。
逃げた先は、もう逃げ場所だけではない。
帰る場所になった。
学んだ場所になった。
眠れる場所になった。
だからこそ、ここが自分の帰る場所ではないと、確かめたかった。
「まだです」
桜は答えた。
ペンテの気配がわずかに動く。
『なぜだ』
「復讐しに来たわけではないからです」
『復讐では足りぬ相手もいる』
「知っています」
『なら』
「でも、今日は違います」
桜は門を見上げた。
鉄の隙間から、屋敷の玄関が見える。
暗い扉。
古びた石段。
磨かれているのか、放置されているのか分からない床。
あの扉の向こうに入っていたら、自分はどうなっていたのだろう。
考えたくない。
でも、考えてしまう。
自分の名前が、自分のものではなくなっていたかもしれない。
声を出すことを諦めていたかもしれない。
嫌だと言う前に、嫌だと思うことすらやめていたかもしれない。
桜は目を閉じた。
十年前の断片が、音のない水底から浮かび上がる。
大人たちの声。
難しい話をしていた。
家のこと。
血のこと。
才能のこと。
誰かの都合。
自分の名前が呼ばれているのに、自分に話しかけられてはいなかった。
小さな手。
握られた感触。
行かなければならないのだと思っていた。
誰も、自分に聞かないのだと思っていた。
嫌かどうかも。
怖いかどうかも。
生きたいかどうかも。
そのあと、別の手があった。
強い手。
傷だらけの手。
離さないように、けれど潰さないように握ってくれた手。
逃げたいかと聞いてくれた。
生きたいかと聞いてくれた。
答えていいのだと、教えてくれた。
桜は目を開ける。
門はまだ目の前にある。
桜を待っていた家。
桜を壊すために、口を開けていた場所。
「私は、ここで壊されたわけじゃありません」
声は静かだった。
自分に言い聞かせるための言葉ではない。
この家に向けた言葉だった。
「でも、ここは私を壊すために待っていた場所です」
鞄の中で、匣が強く鳴った。
ペンテは何も言わなかった。
影の奥に、もう一つの気配がある。
深く、遠く、まだ眠りの余韻をまとった気配。
手首が、かすかに温かくなる。
声が届いた。
『……無理は、するな』
途切れそうな声だった。
けれど、桜には分かった。
あの人の声だ。
神代の女王。
自分に道を残してくれた人。
十年前、消えかけながらも手を離さなかった人。
桜は手首に触れた。
「はい」
金色の輪は、袖の奥で見えない。
けれど確かにある。
「でも、今日は逃げるために来たんじゃありません」
沈黙が落ちる。
夜風が塀の上を撫でていく。
屋敷の木々が、微かに揺れた。
桜は一歩、門へ近づいた。
『桜』
ペンテの声が低くなる。
止める声ではない。
構える声だった。
桜は頷く。
「大丈夫です」
『大丈夫でなくなれば、呼べ』
「はい」
『声が出なければ』
「影を叩きます」
『よし』
その返事があまりに短くて、桜は少しだけ息を吐いた。
怖い。
でも、独りではない。
独りではないから、怖くないのではない。
怖いまま、立てる。
桜は右手を伸ばした。
指先が鉄の門に触れる。
冷たい。
その瞬間。
屋敷の内側が、ざわりと動いた。
音ではなかった。
気配だった。
塀の奥。
地面の下。
壁の中。
暗い部屋の隅。
無数の細い脚が、一斉に向きを変えたような感覚。
桜の背筋に冷たいものが走る。
足元の影が、急に深くなった。
黒い水面が広がる。
門の下から屋敷の影と繋がりかける。
桜の手首が熱を持つ。
鞄の中で黒い匣が激しく軋んだ。
きし。
きし、きし。
眠っていた鎖が、引き千切られそうな音。
『下がれ』
ペンテの声が低く響く。
次の瞬間には出る。
桜には分かった。
匣の奥で、休眠していた戦士が身を起こしている。
怒りが、鋭い刃の形を取り始めている。
桜は門に触れたまま、左手を鞄に添えた。
「まだ、呼びません」
『なぜだ』
ペンテの声には苛立ちが混じっていた。
でも、それは桜に向けた怒りではない。
この屋敷へ向けたもの。
この匂いへ向けたもの。
桜を飲み込もうとしたすべてへ向けたもの。
桜は門の冷たさを指先で感じながら、ゆっくり息を吸った。
胸が震える。
膝も震えている。
それでも、手は離さなかった。
「私は、ここに立てると知りたかったんです」
声が、夜に落ちた。
小さい。
けれど、はっきりと。
「ここを見ても、まだ私でいられると」
屋敷の気配が蠢く。
何かが門の向こうから桜を覗いている。
見られている。
値踏みされている。
昔と同じように。
けれど、昔とは違う。
桜はもう、黙って連れて行かれる子どもではない。
手首の内側で、金色の輪が熱を帯びる。
影の底で、ペンテが剣を握る。
さらに深い場所で、女王の気配が薄く息をする。
桜は門に触れたまま、屋敷の奥を見た。
暗い窓。
その向こうにある闇。
自分を待っていたもの。
それに向かって、桜は静かに告げる。
「私は、戻ってきました」
声は震えていた。
震えていたけれど、消えなかった。
「でも、帰ってきたわけではありません」
門の内側で、何かが止まった。
ほんの一瞬。
ざわめきが遠のく。
桜は指先を門から離した。
冷たさが肌に残る。
手のひらは汗で湿っていた。
それでも、もう強く震えてはいなかった。
桜は一歩下がった。
逃げるためではない。
選んで、距離を取るために。
ペンテの気配が、少しだけ緩む。
『終わりか』
「今日は」
『入らぬのか』
「入りません」
『恐れたからか』
桜は少しだけ考えた。
そして、首を横に振る。
「怖いです」
『なら同じだ』
「でも、それだけじゃありません」
桜は門を見た。
そこにあるのは、過去そのものではない。
今も息をしている危険だった。
無理に踏み込めば、何かを取り返せるかもしれない。
でも、それは今ではない。
焦って手を伸ばせば、また誰かの手を離すことになるかもしれない。
十年前、自分は手を取ってもらった。
だから今度は、誰かの手を取れるようになりたい。
そのために必要なのは、怒りに任せて扉を壊すことではなかった。
桜は小さく息を吐いた。
「私は、ここに立てました」
ペンテは黙って聞いている。
「それが、今日ここに来た理由です」
夜風が吹く。
坂の下から、遠く車の音が聞こえた。
冬木の街は何も知らない顔で続いている。
この屋敷の前で何が起きているかも。
十年前、何が起きるはずだったのかも。
誰も知らない。
でも、桜は知っている。
知ったまま、立っている。
それでよかった。
桜はもう一度、門の向こうを見た。
「ここは、私の帰る場所ではありません」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
完全に消えたわけではない。
恐怖も、痛みも、嫌悪も、まだある。
きっと、これからも消えない。
けれど、それらは桜のすべてではない。
この家が桜を定義するわけではない。
間桐という名前が、桜の終わり方を決めるわけではない。
桜は門に背を向けた。
鞄の中の黒い匣は、まだ微かに震えている。
桜はそれを両手で包むように抱えた。
「大丈夫です」
誰に向けた言葉なのか、自分でも少し分からなかった。
ペンテへ。
ヒッポリュテへ。
そして、自分へ。
『強がりか』
「少しだけ」
『少しだけにしておけと言った』
「はい」
桜は歩き出した。
一歩。
もう一歩。
門から離れる。
背中に、屋敷の視線を感じる。
追ってくるような気配。
塀の奥で、ざわめくもの。
けれど桜は振り返らなかった。
振り返らないことも、選べた。
坂道を下る。
街灯の光が、桜の影を前へ伸ばす。
その影は深い。
深いけれど、沈むためだけの場所ではない。
桜は手首に触れた。
熱は少しずつ引いている。
奥で、かすかな声がした。
『……よく、立った』
桜の足が止まりかける。
でも、止まらなかった。
泣かない。
今はまだ。
「ありがとうございます」
返事は、夜に溶けるほど小さかった。
鞄の奥で、ペンテが低く鼻を鳴らした。
『次は呼べ』
「はい」
『必ずだ』
「はい」
『聞く』
その言葉に、桜は目を伏せた。
聞いてくれる人がいる。
それだけで、こんなにも歩ける。
坂の途中まで来たところで、夜風が背中を撫でた。
桜は一度だけ、ほんの少しだけ、視線を横へ向ける。
屋敷はもう、塀の影に隠れかけていた。
桜は振り返らない。
代わりに、前を向く。
会わなければならない人がいる。
確かめなければならないことがある。
この街で、また何かが始まろうとしている。
十年前と同じ名前を持つ儀式。
器を求めるもの。
願いを餌に、人の終わり方を決めようとするもの。
桜はそれを知っている。
知っているから、戻ってきた。
桜の足音が、夜道に小さく響く。
その背後。
間桐の屋敷の奥で。
暗い部屋の空気が、ゆっくりと淀んだ。
灯りのない廊下。
閉じた扉。
床下の闇。
そこを、無数の羽音が満たしていく。
かさり。
かさり。
小さな脚が、古い木材の隙間を這う。
壁の中で、何かが目を覚ます。
そして。
ひどく乾いた声が、闇の底から漏れた。
「……戻ったか」