神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
間桐の家から離れても、桜の手にはまだ門の冷たさが残っていた。
指先に染みついた鉄の感触。
肌の奥に残る、腐ったような魔力の匂い。
坂を下りる夜風は冷たいはずなのに、手のひらだけが妙に熱い。
桜は一度、足を止めた。
振り返らない。
そう決めていた。
けれど、背中にはまだ屋敷の視線が絡みついている。
塀の奥。
窓の向こう。
床下の闇。
そこから、何かがこちらを見ていた。
十年前から、ずっと待っていたもの。
桜は鞄を抱える手に力を込める。
黒い匣は、もう大きくは鳴っていない。
ただ、底の方で小さく息をしている。
眠っているようで、眠っていない。
その奥から、低い声がした。
『次はどこへ行く』
桜はすぐには答えなかった。
坂の下へ続く道を見る。
住宅街の灯り。
曲がり角。
遠くの街灯。
知らない家の窓に映る、温かな明かり。
十年ぶりの街なのに、足は道を覚えている。
あるいは、覚えているのは足ではなく、もっと奥の何かなのかもしれない。
帰れなかった場所。
忘れたくても、忘れられなかった場所。
桜は小さく息を吸った。
「……姉さんのところへ」
声に出した瞬間、胸の奥が痛んだ。
間桐邸の前で感じた痛みとは違う。
あれは恐怖だった。
冷たく、湿って、足元から這い上がってくるもの。
今の痛みは、もっと熱い。
喉に詰まり、息を狭くして、目の奥に滲むもの。
『会いたいのか』
ペンテの問いは短い。
桜は答えようとして、できなかった。
会いたい。
それは、嘘ではない。
でも、それだけでもない。
会うのが怖い。
それも、嘘ではない。
姉に何を言えばいいのか分からない。
姉が何を言うのかも分からない。
自分がどんな顔をするのかも、分からない。
責めたいわけではない。
けれど、何もなかったように笑えるほど、遠くに置いてきたわけでもない。
桜は自分の手首に触れた。
袖の下にある、見えない金色。
そこはまだ少し温かい。
「会わないままでは、戻ってきたことにならない気がします」
『会えば済むのか』
「分かりません」
『またそれか』
「はい」
桜は少しだけ苦笑した。
「でも、分からないままでも、会いに行きます」
しばらく、返事はなかった。
鞄の奥で、鎖がわずかに沈む。
そのさらに深い場所で、薄い気配が動いた。
『血の痛みは、刃より遅く残る』
かすれた声だった。
眠りから完全には戻りきっていない声。
それでも桜は、足を止めた。
「……はい」
その意味を、すべて理解できたわけではない。
でも、胸にある痛みが、それを知っていた。
刃で切られた傷なら、どこが痛むのか分かる。
血が出て、肉が裂けて、傷口がある。
けれど、家族の痛みは違う。
どこを押さえればいいのか分からない。
何を言えば止まるのかも分からない。
それなのに、ふとした声で、景色で、名前で、何度でも疼く。
桜は夜道を進んだ。
間桐の家へ向かう道とは違う。
こちらの道は、静かだった。
嫌な匂いはない。
蟲の気配もない。
ただ、整いすぎた沈黙がある。
遠坂の家は、夜の中でも凛として立っていた。
塀は古びているが、汚れてはいない。
門も、庭も、窓も、どこか気品を保っている。
人を拒むようでいて、崩れてはいない。
間桐の屋敷が、暗い水底のような場所なら。
ここは、閉じられた宝石箱のようだった。
美しい。
だから、苦しい。
桜は門の少し手前で立ち止まった。
遠坂邸。
かつて、自分がいた家。
姉がいた家。
父がいて、母がいて、自分の名前がまだ違う意味を持っていた場所。
記憶はもう、はっきりとはしていない。
赤い服。
姉の声。
廊下を走る足音。
何かを教えてもらおうとして、うまくできなくて、姉が少し得意そうに笑った顔。
温かな部屋の灯り。
自分を呼ぶ声。
桜。
そう呼ばれた記憶。
そして、離された日の空気。
大人たちの表情。
決まってしまったことを、子どもには変えられないのだと知らされた日の重さ。
桜は胸元を押さえた。
ここは、怖い家ではない。
自分を壊すために待っていた場所でもない。
けれど。
ここは、帰れなかった家だ。
忘れたかった家ではない。
忘れられなかった家だ。
鞄の奥で、ペンテが低く言う。
『ここも敵か』
「……分かりません」
『またか』
「でも、間桐とは違います」
『違うなら痛まぬのか』
桜は答えられなかった。
違うから痛むのだ。
そう言葉にするには、まだ胸がいっぱいだった。
門の向こう。
屋敷の一部に、淡い明かりがある。
誰かが起きている。
桜はその明かりを見つめた。
姉さん。
心の中で呼ぶ。
声にはしない。
まだ、できない。
その時だった。
門柱のあたりに刻まれた見えない線が、かすかに震えた。
桜の足元の影に、遠坂の結界が触れる。
探るように。
警戒するように。
桜は動かなかった。
ただ、影の底を少しだけ開ける。
触れたものを飲み込むのではなく、受け止める。
けれど、その瞬間。
屋敷の中の気配が変わった。
明かりのある部屋で、誰かが顔を上げたのが分かった。
◇
遠坂凛は、机の上に並べた宝石を見下ろしていた。
深夜の屋敷は静かだった。
古い時計の針の音。
暖房の低い唸り。
地下から微かに上がってくる魔力の流れ。
いつも通り。
そう思いたかった。
けれど、胸の奥は落ち着かない。
もうすぐ始まる。
第五次聖杯戦争。
父が遺したもの。
遠坂の家が背負うもの。
自分が勝ち取らなければならないもの。
凛は指先で宝石のひとつを押さえた。
大丈夫。
準備はしてきた。
失敗しない。
遠坂の当主として、やれる。
そう自分に言い聞かせた、その時。
屋敷の結界が、細く鳴った。
凛の顔が変わる。
猫が耳を立てるように、意識が外へ向いた。
侵入ではない。
まだ敷地の外。
けれど、触れている。
門の近く。
魔力反応。
遠坂のものではない。
間桐のものとも違う。
沈むような、影のような、底の見えない魔力。
凛は椅子から立ち上がった。
机の上の宝石を素早く拾う。
指の間に挟む。
呼吸は乱さない。
心臓だけが、少し速い。
「こんな時期に……」
外部の魔術師。
聖杯戦争の参加者か、斥候か。
可能性はいくつもある。
凛は部屋を出た。
廊下を進み、玄関へ向かう。
遠坂の屋敷に足を踏み入れようとするなら、容赦はしない。
そう決めて扉を開けた。
夜気が入り込む。
冷たい。
庭を抜け、門へ向かう。
結界の反応はまだ消えていない。
凛は門の内側に立ち、外を見た。
街灯の下。
ひとりの少女が立っている。
長い黒髪。
夜の光を受けて、わずかに艶を帯びている。
落ち着いた立ち姿。
肩にかけた鞄。
静かにこちらを見る、青みを帯びた瞳。
夜の中で、影だけが妙に深い。
凛は眉を寄せた。
知らない魔術師。
そう判断しかけた。
けれど、胸の奥が引っかかった。
黒い髪。
目元。
輪郭。
その少女には、遠坂の面影があった。
凛自身に似ているわけではない。
けれど、遠い昔、同じ家の中にあった色が、そこに残っている。
記憶の底で、小さな足音がした。
後ろをついてくる子どもの気配。
自分の名前を呼ぶ声。
凛はそれを振り払うように、宝石を握った。
「誰?」
声は鋭く出た。
遠坂の当主として。
この土地を管理する魔術師として。
「遠坂の敷地に何の用?」
少女はすぐには答えなかった。
ただ、凛を見ていた。
その目が、少しだけ揺れる。
怯えではない。
懐かしさだけでもない。
痛みを飲み込むような揺れだった。
凛の胸が、妙にざわついた。
「名乗りなさい。ここがどういう場所か、知って来たんでしょうね」
少女の唇が、わずかに開いた。
けれど、声は出ない。
その沈黙が、凛を苛立たせる。
同時に、なぜか怖くもあった。
やめて。
何を。
自分でも分からない言葉が、胸の奥で浮かんで消える。
少女は一度、目を伏せた。
それから、静かに息を整える。
そして。
「お久しぶりです、姉さん」
凛の世界が、止まった。
宝石を握る指が固まる。
夜風の音が遠ざかる。
目の前の少女が、急に十年前の記憶と重なった。
小さな手。
後ろをついてくる足音。
名前を呼ぶ声。
黒い髪。
青い瞳。
こちらを見上げる目。
ありえない。
そんなはずがない。
だって、桜は。
桜は、遠坂の家からいなくなったはずだった。
「……桜?」
自分の声が、ひどく頼りなく聞こえた。
少女は微かに笑った。
笑った、というより、泣かないように口元を整えたように見えた。
「はい」
凛は門に手をかけた。
開けようとして、止まる。
駆け寄ればいい。
そう思った。
でも、足が動かなかった。
目の前にいる桜は、記憶の中の妹ではなかった。
背が伸びている。
顔立ちも大人びている。
けれど、髪の色も、瞳の色も、遠坂の家にいた頃の面影を残している。
失ったはずの妹が、失った日の色を残したまま、十年分だけ遠くなって立っている。
それが、凛の胸をひどく揺さぶった。
魔力を纏っている。
影が深い。
何より、その足で立っている。
助けを待つ子どもではない。
凛の知らない十年を生きてきた少女が、そこにいる。
「あんた……本当に、桜なの?」
「はい」
「どうして……今までどこにいたのよ」
言ってから、凛は自分の声が強すぎたことに気づいた。
責めたいわけではない。
けれど、言葉が勝手に尖る。
「生きてたなら、どうして……」
どうして連絡しなかったの。
どうして戻ってこなかったの。
どうして私は知らなかったの。
どうして。
どうして。
凛の喉で、言葉が詰まる。
桜は静かに凛を見ていた。
責める目ではなかった。
でも、甘える目でもなかった。
「逃げていました」
凛は息を止めた。
「生きるために」
桜の声は穏やかだった。
穏やかだからこそ、重かった。
「そして、戻ってきました」
凛の手の中で、宝石がかすかに軋む。
握りしめすぎていることに、遅れて気づいた。
「私は……」
謝らなければ。
何に。
全部に。
そう思うのに、何から言えばいいのか分からない。
ごめん。
その一言で足りるはずがない。
でも、他に言葉が見つからない。
凛が口を開きかけた時、桜が静かに首を横に振った。
「責めに来たわけではありません」
凛の胸に、ほんの一瞬だけ安堵が差しかけた。
けれど、それはすぐに消えた。
「でも、何もなかったことにはできません」
夜気が、急に冷たくなった気がした。
凛は桜を見つめる。
責められた方が、まだ楽だったかもしれない。
泣かれて、怒鳴られて、どうして助けてくれなかったのと叫ばれた方が、返せるものがあったかもしれない。
桜は叫ばない。
責めない。
ただ、距離を置いて立っている。
その距離が、十年の長さそのものだった。
「……そうよね」
凛はかろうじて、それだけ言った。
声が掠れていた。
桜は目を伏せる。
「あの時、私たちは子どもでした」
凛の肩が小さく震えた。
「でも、子どもだったから傷つかなかったわけではありません」
言葉は静かだった。
刃のようではなかった。
だからこそ、深く入った。
凛は何も言えなかった。
遠坂の当主としてなら、いくらでも言葉はある。
状況を確認する。
事情を聞く。
身元を確かめる。
危険性を測る。
でも、姉としての言葉が出てこない。
姉。
その言葉が、胸の奥でひどく重い。
凛は桜の足元を見た。
街灯の下に落ちる影。
おかしい。
光の向きと合っていない。
影が、桜の足元だけ深い。
凛の目が、魔術師のものに戻る。
「桜、あなた……魔術を使えるの?」
桜は少しだけ間を置いた。
「学びました」
「誰に」
問いが鋭くなる。
妹に向けた声ではなく、未知の魔術師に向けた声だった。
凛はそれを自覚して、唇を噛んだ。
それでも、聞かずにはいられない。
桜は怒らなかった。
ただ、静かに答えた。
「私を道具として見なかった人たちに」
凛は言葉を失った。
遠坂の家は、魔術の家だ。
血を残す。
才能を残す。
系譜を残す。
そのために、桜は手放された。
凛は子どもだった。
何も知らなかった。
何もできなかった。
それは事実だ。
でも、事実だからといって、痛みが消えるわけではない。
「それは……」
凛の声は続かなかった。
桜の鞄が、かすかに鳴る。
凛の意識がそこへ向いた。
何かいる。
使い魔ではない。
普通の霊でもない。
サーヴァントに近い。
けれど、聖杯の枠に収まる気配とも違う。
桜の影の奥。
深い場所から、戦意だけが薄く滲んでいる。
凛は反射的に宝石を構えた。
「桜、その影の中に何がいるの」
桜は鞄に手を添えた。
「私を守ってくれる人です」
「人?」
「はい」
「人の気配じゃないわ」
その瞬間、桜の影がわずかに揺れた。
凛には声までは聞こえない。
けれど、何かが桜の内側で目を開けたのが分かった。
桜の表情が少しだけ変わる。
誰かの声を聞いている顔だった。
「大丈夫です」
桜が小さく言う。
凛に向けてではない。
影の奥へ向けた言葉。
凛の指に力が入る。
「大丈夫って、何が」
「姉さんは敵ではありません」
凛は息を呑んだ。
姉さん。
その呼び方が、嬉しいのか痛いのか分からない。
桜は少しだけ目を伏せる。
その顔に、影が落ちた。
「でも……すぐに味方と言えるほど、私はまだ強くありません」
凛の胸が締めつけられた。
敵ではない。
でも、味方でもない。
妹にそう言わせる十年を、自分は知らずに過ごしてきた。
「桜」
呼んでも、次の言葉が出なかった。
その時、遠坂邸の結界が再び反応した。
桜の影を異物と判断したのだろう。
門柱の術式が薄く光り、火花のような魔力が弾ける。
凛が制御を入れるより早く、桜の足元の影が動いた。
音もなく。
水面に墨を落としたように黒が広がる。
結界の反応が、その黒に触れた瞬間、ふっと沈んだ。
消えたわけではない。
壊されたわけでもない。
ただ、見えない場所へ隠された。
凛は目を見開く。
「今の、あなたが?」
桜は首を横に振る。
「攻撃ではありません」
「結界に干渉したのよ」
「触れられたので、隠しただけです」
「隠した、だけ……?」
凛は思わず呟いた。
それが簡単なことではないと、魔術師として分かる。
遠坂の結界は甘くない。
それを壊すのでも、突破するのでもなく、反応そのものを沈める。
虚数。
その言葉が凛の頭をよぎった。
知識としては知っている。
けれど、目の前で見るそれは、知識よりずっと静かで、ずっと不気味だった。
そして、綺麗だった。
凛は桜を見る。
この子は、誰に教わったのだろう。
どこで、何を見て、何を乗り越えてきたのだろう。
知らない。
何も知らない。
姉なのに。
そう思った瞬間、凛は門を開けていた。
「中に入りなさい」
桜が顔を上げる。
「話を聞かせて。今までどこにいたのか、何があったのか、その影のことも、その鞄の中身も」
言葉が早くなる。
凛自身、止められなかった。
「あと、これからどうするつもりなのかも。こんな時期に戻ってくるなんて、危険だって分かってるんでしょう? 聖杯戦争が――」
「姉さん」
静かな声だった。
凛の言葉が止まる。
桜は開いた門を見た。
その向こうにある庭。
屋敷の灯り。
かつて帰れなかった家。
凛は少しだけ息を呑んだ。
桜が入ってくる。
そう思った。
入ってきてくれれば、話ができる。
お茶でも淹れて、暖かい部屋で、落ち着いて。
何から話せばいいか分からなくても、時間だけは作れる。
でも、桜は動かなかった。
「今日は、ここまでで」
凛は思わず眉を上げた。
「ここまでって……十年ぶりに会って、それだけ?」
「それだけではありません」
「じゃあ、どうして」
「全部を今夜話せるほど、私はまだ強くありません」
凛は返す言葉を失った。
桜は強くなっている。
魔術も使える。
得体の知れない守護者もいる。
凛の知らない目をしている。
それでも、桜は自分を強いと言わない。
できないことを、できないと言う。
無理をしない。
それが、凛にはひどく遠く見えた。
凛は門の内側で立ち尽くす。
桜は門の外にいる。
たった数歩。
けれど、その距離を、凛は勝手に詰められなかった。
「私は……」
凛は唇を噛んだ。
「あんたに、何を言えばいいの」
それは、ほとんど独り言だった。
遠坂の当主としてではなく。
姉としてでも、まだうまく言えない。
ただ、ひとりの少女としてこぼれた言葉。
桜は少しだけ困ったように目を伏せた。
「分かりません」
「分からないって……」
「でも、分からないまま会いに来ました」
桜はそこで、ほんの少しだけ表情を緩めた。
幼い頃の面影が、一瞬だけ戻る。
「姉さんに、会いたかったから」
凛は息を吸えなかった。
胸の奥が熱くなる。
目の奥が痛い。
泣くな。
そう思った。
今泣いたら、桜に許しを求めているみたいになる。
泣いて楽になっていいのは、自分ではない。
凛は歯を食いしばった。
宝石を握る手が震える。
桜はそれを見ていた。
何も言わずに。
その沈黙が、少しだけ優しかった。
けれど、夜は優しいままではいなかった。
遠坂邸の地下で、何かが軋む。
凛の手の甲が、熱を持った。
「っ……」
令呪。
まだ完全ではないが、反応が強くなっている。
地下の召喚陣が、微かに魔力を吸い始めているのが分かった。
冬木の霊脈が揺れている。
桜も空を見上げた。
青い瞳が、夜の影を受けて、ほんの一瞬だけ暗く沈む。
凛は手の甲を押さえながら、桜を見る。
「あなた、まさか……聖杯戦争のために戻ってきたの?」
桜はすぐには答えなかった。
夜空を見ている。
雲の向こうに月がある。
そのさらに下。
街の底に、見えない器が口を開けようとしている。
「それだけではありません」
「じゃあ、何のために」
桜は凛へ視線を戻した。
その目は、十年前に置いていった妹のものではなかった。
恐怖を知っている目。
逃げることを知っている目。
そして、逃げた後に戻ることを選んだ目。
「この街で、また誰かが器にされるなら」
凛の表情が変わる。
「器……?」
桜はそれ以上、説明しなかった。
まだ言葉にできないのか。
それとも、凛にはまだ言えないのか。
「今度は、見ないふりをしたくありません」
凛はその言葉の意味を測ろうとした。
でも、分からない。
ただ、軽い言葉ではないことだけは分かった。
桜は一歩、後ろへ下がった。
「今日は行きます」
「桜」
凛の声が少し強くなる。
引き止めたい。
事情を聞きたい。
危険だから泊まっていけと言いたい。
でも、それを言う資格が自分にあるのか分からない。
桜は門から離れる。
凛は思わず、その名を呼んだ。
「桜!」
桜が振り返る。
街灯の光を背に受けて、黒い髪が夜の中で揺れる。
その影の奥に、何かが静かに沈んでいる。
凛は口を開いた。
ごめん。
どこにいたの。
生きていてよかった。
置いていってごめん。
戻ってきてくれてありがとう。
何も言えなかった私を、どうか。
言葉は、どれも喉の奥で絡まった。
凛は唇を噛む。
そして、ようやく絞り出した。
「……また来なさい」
命令みたいだった。
遠坂の当主としての言い方が抜けなかった。
でも、その中に混じった願いを、桜は聞き逃さなかった。
桜は少しだけ目を細める。
「はい」
凛の胸が、わずかに緩む。
桜は丁寧に頭を下げた。
「おやすみなさい、姉さん」
そう言って、桜は夜道へ歩き出した。
凛は門の前に立ち尽くしたまま、その背中を見送った。
追いかけることはできた。
腕を掴むこともできた。
問い詰めることも、家に入れることも、魔術師として拘束することだって、不可能ではなかった。
でも、できなかった。
してはいけないと思った。
桜は帰ってきた。
けれど、連れ戻されたわけではない。
自分の足で、戻ってきた。
その足を、今度は自分が止めるのか。
凛には、できなかった。
夜道の向こうへ、桜の姿が小さくなっていく。
黒い髪が、街灯の下で一度だけ揺れた。
凛の記憶の中にある妹と、今の桜が重なる。
けれど、重なりきらない。
小さな妹は、もういない。
そこにいたのは、十年を生き延びて、自分の意思で冬木へ戻ってきた少女だった。
凛の手の甲が、また熱を持った。
地下で召喚陣が淡く軋む。
聖杯戦争が近づいている。
遠坂の当主として、やるべきことがある。
分かっている。
分かっているのに、凛はしばらく動けなかった。
言えなかった言葉が、喉の奥にいくつも残っている。
謝罪も。
怒りも。
安堵も。
問いも。
全部。
夜風が門を抜ける。
冷たい風に髪が揺れた。
凛は、桜の消えた道を見つめ続ける。
妹は帰ってきた。
遠坂の色を残したまま。
けれど。
もう、自分の知っている桜ではなかった。