神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す   作:あかちゅきぼちゃん

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3話 召喚の夜

 

 

 門を閉める音が、やけに大きく響いた。

 

 遠坂凛は、しばらくその場から動けなかった。

 

 夜風が庭木を揺らしている。

 

 つい先ほどまで、門の外に桜がいた。

 

 黒い髪。

 

 青い瞳。

 

 深い影。

 

 遠坂の色を残したまま、遠坂ではないどこかで十年を生きてきた妹。

 

 その姿が、まだ目の奥に焼きついている。

 

「……しっかりしなさいよ、私」

 

 凛は小さく呟いた。

 

 声に出せば、少しは立て直せると思った。

 

 でも、言葉は夜気に溶けるだけで、胸の奥の乱れは消えなかった。

 

 桜は生きていた。

 

 戻ってきた。

 

 それだけなら、喜べたかもしれない。

 

 泣いて、抱きしめて、何も言えなくても、それでもよかったのかもしれない。

 

 けれど、桜はただ帰ってきたわけではなかった。

 

 逃げていた。

 

 生きるために。

 

 そして、戻ってきた。

 

 責めに来たわけではない。

 

 でも、何もなかったことにはできない。

 

 凛は唇を噛んだ。

 

 痛みがある。

 

 けれど、その痛みが何に対するものなのか、まだ整理できない。

 

 桜への罪悪感。

 

 生きていたことへの安堵。

 

 知らされなかったことへの怒り。

 

 自分だけが何も知らずにいたことへの悔しさ。

 

 そして、桜の影の奥にいた何かへの警戒。

 

 全部が混ざって、うまく息ができない。

 

「……今は、そんな場合じゃない」

 

 凛は門に背を向けた。

 

 遠坂の当主としてやるべきことがある。

 

 聖杯戦争は近い。

 

 手の甲の熱は、もう誤魔化せないほどはっきりしている。

 

 召喚の準備も、ほとんど終わっている。

 

 感傷に沈んでいる暇などない。

 

 ないはずだった。

 

 屋敷に戻り、廊下を歩く。

 

 自分の足音が、やけに硬く聞こえる。

 

 部屋へ戻ると、机の上に並べた宝石が、さっきと同じように冷たい光を返していた。

 

 凛は椅子に座り、手を伸ばす。

 

 宝石をひとつ取ろうとして、指先がわずかに震えた。

 

 ころ、と。

 

 赤い宝石が机の上を転がる。

 

 凛は一瞬固まった。

 

 それから、眉を寄せる。

 

「……なに動揺してんのよ」

 

 苛立ちを込めて宝石を拾い上げる。

 

 こんなことは滅多にない。

 

 失敗は嫌いだ。

 

 うっかりは、もっと嫌いだ。

 

 遠坂は常に優雅たれ。

 

 父の声が、記憶の奥で聞こえた気がした。

 

 凛は深く息を吸う。

 

 吐く。

 

 もう一度、宝石を並べ直す。

 

 触媒。

 

 魔力炉。

 

 召喚陣。

 

 時計。

 

 確認するものはいくらでもある。

 

 いつも通りにやればいい。

 

 いつも通りに。

 

 けれど、視線は机の端に置かれた資料へ向いた。

 

 冬木市内の不審な魔力反応と、近頃の転入・滞在情報を簡単に照合したもの。

 

 聖杯戦争前には、外部の魔術師が紛れ込む。

 

 遠坂の管理地である以上、それを確認するのは当然の仕事だった。

 

 凛は迷った末、資料を手に取った。

 

 さっきの反応。

 

 桜の魔力。

 

 遠坂でもない。

 

 間桐でもない。

 

 でも、完全に知らないものでもない。

 

 何かが引っかかっていた。

 

 指先で紙をめくる。

 

 新規滞在者。

 

 短期貸家の利用。

 

 穂群原学園への編入予定者。

 

 そこに、ひとつの名前があった。

 

 凛の指が止まる。

 

 文字は、何の感情もなく並んでいる。

 

 ただの記録。

 

 ただの名前。

 

 けれど、凛の胸を深く刺した。

 

 ――禅城桜。

 

「……禅城」

 

 声が、ひどく小さく落ちた。

 

 遠坂ではない。

 

 間桐でもない。

 

 禅城。

 

 母の旧姓。

 

 凛はしばらく、その名前から目を離せなかった。

 

 桜は、間桐を名乗っていない。

 

 遠坂にも戻っていない。

 

 知らない誰かの名前を借りたわけでもない。

 

 母の名前を選んで、冬木へ戻ってきた。

 

 その事実が、静かに胸を締めつける。

 

「……そう」

 

 凛は紙を机に置いた。

 

 指先に力が入る。

 

「あんた、そう名乗るんだ」

 

 責めるつもりはなかった。

 

 納得できたわけでもなかった。

 

 ただ、その名前が示す距離を、凛は受け止めるしかなかった。

 

 桜は帰ってきた。

 

 けれど、遠坂に帰ってきたわけではない。

 

 桜は、自分で名前を選んで戻ってきた。

 

 そのことが、凛にはたまらなく痛かった。

 

   ◇

 

 桜が借りている家は、駅から少し離れた古い住宅地にあった。

 

 大きな家ではない。

 

 古い木の床。

 

 小さな台所。

 

 低い本棚。

 

 窓の鍵は少し硬く、廊下を歩くと床が小さく鳴る。

 

 けれど、魔術的な処置を施すには悪くない。

 

 人通りは少ない。

 

 周囲の家との距離もほどほどにある。

 

 地下はないが、床下に影を落とす隙間が多い。

 

 桜にとっては、それだけで十分だった。

 

 玄関を閉めると、外の冷たい空気が途切れる。

 

 桜はしばらくその場に立っていた。

 

 遠坂邸の門。

 

 凛の声。

 

 また来なさい。

 

 命令みたいで、願いみたいな言葉。

 

 桜は胸元に手を添える。

 

 まだ、熱が残っている。

 

「……ただいま戻りました」

 

 誰に向けたものでもないようで。

 

 それでも、ひとりではない部屋に向けた言葉。

 

 桜は靴を脱ぎ、奥の部屋へ入った。

 

 机の上には、白い布が敷いてある。

 

 その上に、鞄から取り出した黒い匣をそっと置いた。

 

 きし、と。

 

 匣が小さく鳴る。

 

 まるで、眠っていたものが寝返りを打つような音。

 

 桜はその前に座った。

 

 しばらく黙っていると、匣の奥から低い声がした。

 

『あの女は泣かなかったな』

 

 桜は目を伏せる。

 

「姉さんは、泣かない人です」

 

『泣けばよい』

 

「そう簡単には、できないと思います」

 

『なぜだ』

 

「泣いたら、崩れてしまうと思っているのかもしれません」

 

 匣の奥が、少しだけ静かになった。

 

 ペンテはすぐには答えなかった。

 

 十年前の彼女なら、泣かぬ者を強いと呼んだかもしれない。

 

 弱さを見せぬ者を、戦士として見たかもしれない。

 

 けれど、今のペンテは違う。

 

 桜はそれを知っている。

 

 長い沈黙のあと、低い声が落ちた。

 

『泣けぬ者もいる』

 

「……はい」

 

『強いからではなく、泣き方を失った者もいる』

 

「はい」

 

 桜は遠坂邸の門の内側に立っていた凛を思い出した。

 

 宝石を握る手。

 

 震えていた指。

 

 それでも涙を落とさなかった目。

 

 姉さんは、泣かない人です。

 

 そう言った自分の声が、少しだけ胸に残る。

 

 本当にそうだろうか。

 

 泣かないのではなく、泣けなかったのではないか。

 

 桜には、まだ分からない。

 

 分からないまま、会いに行った。

 

 分からないまま、別れた。

 

 でも、それでよかった。

 

 少なくとも、今日は。

 

 桜は机の上に置かれた書類へ視線を移した。

 

 編入関係の書類。

 

 必要事項はほとんど記入済み。

 

 制服の手配。

 

 登校日。

 

 学年。

 

 校名。

 

 そして、名前。

 

 禅城桜。

 

 穂群原学園 一年。

 

 桜はその文字を、指でなぞらなかった。

 

 ただ、見つめた。

 

 遠坂ではない。

 

 間桐でもない。

 

 それでも、どこにも属さない名前ではない。

 

 母の旧姓。

 

 自分が知らないまま遠くなってしまった血筋。

 

 遠坂と間桐のあいだに埋もれていた、もうひとつの名前。

 

 桜はそれを選んだ。

 

 遠坂を捨てたかったわけではない。

 

 間桐を背負いたかったわけでもない。

 

 ただ、自分を誰かの所有物にしない名前が必要だった。

 

 遠坂の娘としてでもなく。

 

 間桐に渡された子としてでもなく。

 

 自分の足で冬木に戻るための名前。

 

 匣のさらに奥で、薄い気配が揺れた。

 

『名は、鎖にもなる』

 

 ヒッポリュテの声だった。

 

 まだ遠い。

 

 眠りの底から、細い糸を辿って届くような声。

 

 桜は顔を上げる。

 

「はい」

 

『呼ばれれば縛られる。名乗れば背負う。奪われれば、従わされる』

 

「はい」

 

『だが、旗にもなる』

 

 桜は書類の名前を見つめた。

 

 禅城桜。

 

 その四文字は、まだ自分に馴染んでいるとは言えない。

 

 でも、借り物ではない。

 

 誰かに押しつけられたものでもない。

 

 桜は小さく息を吸った。

 

「……なら、これは私の旗です」

 

 匣の奥で、ペンテが低く笑ったような気配がした。

 

『よい』

 

 短い言葉。

 

 けれど、それで十分だった。

 

 桜は書類を丁寧に重ね直した。

 

 学校。

 

 日常。

 

 机。

 

 制服。

 

 授業。

 

 当たり前のようなものが、紙の上に並んでいる。

 

 その夜に、聖杯戦争が始まろうとしている。

 

 桜は窓の外を見た。

 

 冬木の夜は、さっきよりも深くなっている。

 

   ◇

 

 凛は地下へ降りた。

 

 冷たい空気が肌に触れる。

 

 古い石壁。

 

 床に描かれた召喚陣。

 

 準備してきた術式。

 

 父が遺したもの。

 

 手の甲が、熱を持っている。

 

 令呪はまだ完全な形ではない。

 

 けれど、もう逃れられないほど明確に、凛を聖杯戦争へ引き込んでいた。

 

 凛は召喚陣の前に立つ。

 

 大丈夫。

 

 手順は頭に入っている。

 

 魔力の流れも確認済み。

 

 宝石の配置も問題ない。

 

 遠坂凛は、遠坂の当主だ。

 

 今考えるべきは、桜のことではない。

 

 勝つこと。

 

 生き残ること。

 

 聖杯を手に入れること。

 

 この土地を管理する者として、責務を果たすこと。

 

 それだけを考えればいい。

 

 なのに。

 

 私を道具として見なかった人たちに。

 

 桜の声が、頭の奥で響いた。

 

 凛は眉を寄せる。

 

 違う。

 

 今は考えるな。

 

 そう思っても、言葉は離れない。

 

 遠坂は、桜を何として見ていたのか。

 

 妹。

 

 家族。

 

 才能。

 

 血。

 

 魔術師としての価値。

 

 子どもの頃の凛には分からなかった。

 

 大人たちが決めたことだった。

 

 けれど、今なら少し分かってしまう。

 

 魔術師の家にとって、才能は祝福であり、資源であり、鎖でもある。

 

 凛は奥歯を噛んだ。

 

「違う。今は考えるな」

 

 声に出す。

 

 召喚陣へ視線を戻す。

 

 魔術師としての呼吸を整える。

 

 感情を切り離す。

 

 余計なものを捨てる。

 

 そうやって、凛は詠唱を始めた。

 

 地下の空気が変わる。

 

 魔力が渦を巻く。

 

 召喚陣の線が淡く光を帯びる。

 

 手の甲が熱い。

 

 体の奥から魔力が引き出されていく。

 

 凛は詠唱を続けた。

 

 声は乱れていない。

 

 術式も破綻していない。

 

 けれど、胸の奥だけが静かではなかった。

 

 黒い髪。

 

 青い瞳。

 

 深い影。

 

 禅城桜。

 

 その名前が、召喚の光の向こうで一瞬揺れた。

 

 凛は息を呑む。

 

 魔力が跳ねた。

 

「っ――!」

 

 召喚陣が強く輝く。

 

 地下室の空気が爆ぜるように震えた。

 

 光。

 

 風。

 

 衝撃。

 

 棚の上の小物が落ち、床に転がる。

 

 凛は腕で顔を庇った。

 

 成功した。

 

 そう思った瞬間、足元が揺れた。

 

 視界が白く染まる。

 

 轟音。

 

 そして、沈黙。

 

「……っ、げほっ」

 

 凛は咳き込みながら顔を上げた。

 

 地下室はひどい有様だった。

 

 小物は散らばり、埃が舞い、召喚陣の周囲には魔力の残滓がまだ揺れている。

 

 凛はこめかみを押さえた。

 

「……成功、したのよね?」

 

 問いに答える声は、頭上から降ってきた。

 

「それを私に聞くのか」

 

 凛は顔を上げた。

 

 そこに男がいた。

 

 赤い外套。

 

 白髪。

 

 鋭い目。

 

 腕を組み、召喚されたばかりとは思えないほど不遜な態度で、凛を見下ろしている。

 

 凛は一瞬、言葉を失った。

 

 それから、眉をつり上げる。

 

「普通、召喚された側がもう少し協力的に説明するものでしょ」

 

「召喚した側がもう少し整った場所に呼ぶものだと思っていたが」

 

「ここは由緒正しい遠坂の地下室よ」

 

「由緒正しさと整理整頓は別物らしい」

 

「初対面でずいぶん失礼ね、あなた」

 

「互いに第一印象は最悪ということで構わんだろう」

 

 凛は深く息を吸った。

 

 怒鳴りたい。

 

 でも、怒鳴ったら負けな気がした。

 

 それに、間違いなく召喚は成功している。

 

 目の前の男はサーヴァントだ。

 

 アーチャー。

 

 凛の聖杯戦争が、ここから始まる。

 

「私は遠坂凛。あなたのマスターよ」

 

「見れば分かる」

 

「そういう態度、初日からやめてくれる?」

 

「では、初日から無謀な行動を控えてくれれば考えよう」

 

「無謀?」

 

「召喚直前、余計なものを抱えていただろう」

 

 凛の表情が、わずかに固まった。

 

「……何の話」

 

「魔術師にしては、感情が術式に混ざりすぎていた」

 

 凛は目を細める。

 

「関係ないわ」

 

「関係がないなら、なぜ今反応した」

 

「うるさいわね。召喚されたばかりのサーヴァントが、マスターの内面に口を出さないで」

 

「では忠告にしておこう。戦場で余計な感情を抱えた者は、判断を誤る」

 

「余計なお世話よ」

 

「そうか。なら、さらに余計なことを言うが」

 

 アーチャーは凛から視線を外した。

 

 地下室の扉の方を見る。

 

 いや、もっと遠く。

 

 屋敷の外。

 

 門の方。

 

 凛はそれに気づき、表情を変えた。

 

「なに?」

 

「先ほどまで、妙な客がいたようだな」

 

 凛の指が、反射的に宝石へ伸びる。

 

「……どうして分かるの」

 

「この屋敷の結界に、影が残っている」

 

 アーチャーは淡々と言った。

 

「魔術師のものだ。だが、それだけではない」

 

「……」

 

「サーヴァントに近い気配が一つ」

 

 そこで、アーチャーの言葉が止まった。

 

 ほんの一瞬。

 

 本当に、わずかな間だった。

 

 けれど凛は気づいた。

 

 アーチャーの目が、何かを見た。

 

 この地下室ではない。

 

 門の外でもない。

 

 もっと別の場所。

 

 あるいは、別の時間。

 

 彼の顔に浮かんだのは、警戒だけではなかった。

 

 困惑。

 

 違和感。

 

 知っているはずのものが、知っている形をしていない時のような、わずかな乱れ。

 

「……妙だな」

 

 アーチャーが低く呟いた。

 

 凛は眉を寄せる。

 

「何が?」

 

 アーチャーはすぐには答えなかった。

 

 視線を細くし、遠坂邸に残る影の痕跡を測るように沈黙する。

 

「いや」

 

 短く切った。

 

「こちらの話だ」

 

「そういう言い方、一番信用できないんだけど」

 

「なら、信用しなくていい。ただし警戒はしろ」

 

 アーチャーは続ける。

 

「サーヴァントに近い気配が一つ。さらに奥に、もっと古いものがいる」

 

 凛の脳裏に、桜の鞄が浮かんだ。

 

 黒い匣。

 

 深い影。

 

 あの中にいた何か。

 

 桜が「私を守ってくれる人」と言った存在。

 

 アーチャーは、軽く目を細める。

 

「面倒なものを連れている」

 

「桜は敵じゃないわ」

 

 言ってから、凛自身が驚いた。

 

 即答だった。

 

 考えるより早く、口が動いた。

 

 アーチャーはそれを見逃さない。

 

「では味方か」

 

 凛は答えられなかった。

 

 門の外に立っていた桜の声が蘇る。

 

 敵ではありません。

 

 でも、すぐに味方と言えるほど、私はまだ強くありません。

 

 凛の沈黙に、アーチャーは肩をすくめた。

 

「その沈黙は、あまり良い返答ではないな」

 

「……余計なお世話よ」

 

「それも忠告として受け取っておこう」

 

 凛は睨んだ。

 

 アーチャーは涼しい顔をしている。

 

「放置すれば、あの影は戦場の形を変える」

 

「桜が?」

 

「彼女自身か、その奥にいるものかは知らん。だが、聖杯戦争は単純な七騎の争いでは済まなくなるだろう」

 

 凛は唇を引き結んだ。

 

 桜は戻ってきた。

 

 禅城桜として。

 

 聖杯戦争の気配を感じながら。

 

 そして、何かを止めようとしている。

 

 この街で、また誰かが器にされるなら。

 

 桜はそう言った。

 

 凛には、まだ意味が分からない。

 

 けれど、分からないまま放っておける言葉ではなかった。

 

   ◇

 

 同じ頃。

 

 桜の貸家で、黒い匣が強く軋んだ。

 

 桜は椅子から立ち上がる。

 

 窓の外は暗い。

 

 街灯の光が、細く道を照らしているだけ。

 

 けれど、冬木の夜の底で、何かが大きく動いたのが分かった。

 

 匣の奥で鎖が鳴る。

 

 ペンテの気配が鋭くなる。

 

『遠くから殺す者の気配だ』

 

 桜は手首に触れた。

 

「サーヴァントですか」

 

『おそらくな』

 

 ペンテの声には、戦士の警戒が滲んでいた。

 

『弓か、投擲か。近づかずに敵を仕留める者の匂いがする』

 

「姉さんのところですか」

 

『あの屋敷だ』

 

「……そうですか」

 

 凛が召喚した。

 

 聖杯戦争が始まった。

 

 その事実が、胸の奥に重く落ちる。

 

 桜は窓の外を見た。

 

 遠坂邸の方角。

 

 見えるはずもない場所。

 

 けれど、夜の底で強い魔力が生まれたことは分かる。

 

 ペンテの声は低い。

 

『だが、匂いが歪だ』

 

「歪?」

 

『英雄の匂いがする。だが、どこか人間臭い』

 

 桜は少しだけ眉を寄せた。

 

 その意味は分からない。

 

 ただ、ペンテが警戒していることだけは伝わる。

 

 英霊。

 

 英雄。

 

 人の領域を越えた者。

 

 けれど、今生まれた気配は、完全に神話の中へ沈んだものではないのだという。

 

 戦士としてのペンテが、そこに違和感を覚えている。

 

 匣のさらに奥で、別の気配が動いた。

 

『遠くから殺す者、か』

 

『姉上、起きていたのか』

 

『……眠っていたかったがな』

 

 桜は思わず、ほんの少しだけ息を緩めた。

 

 声はまだかすれている。

 

 それでも、ヒッポリュテの意識は先ほどよりはっきりしている。

 

『冬木は騒がしい』

 

 ヒッポリュテが呟く。

 

 ペンテが低く応じる。

 

『戦の匂いだ』

 

『違うな。これは願いに群がる匂いだ』

 

 桜は窓辺へ歩いた。

 

 冷たいガラス越しに、夜の街を見る。

 

 何も変わっていないように見える。

 

 静かな住宅街。

 

 遠い車の音。

 

 眠っている家々。

 

 でも、その下で何かが始まっている。

 

 器を求めるもの。

 

 願いを餌にするもの。

 

 人の終わり方を、勝手に決めようとするもの。

 

「始まったんですね」

 

『ああ』

 

 ペンテが答える。

 

 ヒッポリュテの声が、さらに深い場所から届いた。

 

『なら、これからは選ぶ夜が続く』

 

 桜は机の上を振り返った。

 

 穂群原学園の編入書類。

 

 禅城桜という名前。

 

 明日から始まるはずの日常。

 

 そして、今夜始まった非日常。

 

 その二つが、同じ机の上に置かれている。

 

 桜は静かに目を伏せた。

 

「選びます」

 

 声は小さかった。

 

 けれど、部屋の中にはっきり残った。

 

「今度は、選ばれたままにはしません」

 

 黒い匣が、静かに鳴った。

 

   ◇

 

 遠坂邸の地下では、凛とアーチャーが向かい合っていた。

 

 部屋はまだ散らかっている。

 

 召喚陣の光は消えたが、空気には魔力の残り香が漂っていた。

 

 凛は腕を組み、アーチャーを睨む。

 

「とにかく、契約は成立してる。あなたは私のサーヴァント。クラスはアーチャーで間違いないのね」

 

「そのようだ」

 

「そのようだ、じゃなくて」

 

「弓兵として呼ばれた以上、そう扱えばいい」

 

「扱えばいいって、他人事みたいに言わないでくれる?」

 

「自分のクラスを誇示する趣味はない」

 

「性格悪いわね、あなた」

 

「召喚した者に似るのかもしれんな」

 

「今、なんて?」

 

「何も」

 

 凛は額に手を当てた。

 

 頭が痛い。

 

 召喚には成功した。

 

 おそらく、戦力としても悪くない。

 

 けれど、初日からこの調子で大丈夫なのか。

 

 不安がないと言えば嘘になる。

 

 アーチャーは散らばった床を見下ろし、ふと表情を変えた。

 

「遠坂凛」

 

「なによ」

 

「戦う前に、決めておけ」

 

 凛は顔を上げる。

 

 アーチャーの声から、皮肉が消えていた。

 

「妹をどう扱うのか」

 

 凛の呼吸が止まる。

 

「……それを、あなたが言うの」

 

「戦場に関わるなら必要な判断だ。敵ではないが味方でもない者は、一番判断を誤らせる」

 

「桜は、そんなふうに割り切れる相手じゃない」

 

「なら、なおさらだ」

 

 アーチャーは凛を見る。

 

 鋭いが、冷たいだけの目ではなかった。

 

「割り切れないものほど、剣先を鈍らせる」

 

「あなた、アーチャーでしょ」

 

「言葉の綾だ」

 

「そういうところ、本当に腹立つわね」

 

 凛はそう言いながらも、反論しきれなかった。

 

 桜をどう扱うのか。

 

 敵ではない。

 

 それは言える。

 

 でも、味方なのか。

 

 家族なのか。

 

 守るべき相手なのか。

 

 警戒すべき魔術師なのか。

 

 妹なのか。

 

 禅城桜なのか。

 

 答えはまだ出ない。

 

 凛は手の甲を見た。

 

 令呪が熱を持っている。

 

 遠坂の当主として、聖杯戦争に臨む。

 

 その覚悟はある。

 

 でも、今夜から背負うものは、それだけではなくなった。

 

「……分かってるわよ」

 

 凛は小さく言った。

 

「分かってないから、言われてるんでしょうけど」

 

「自己分析はできるようだ」

 

「ほんっとに可愛げないわね」

 

 アーチャーはわずかに口元を動かした。

 

 笑ったのかもしれない。

 

 凛はそれを見て、余計に腹が立った。

 

 けれど、その苛立ちのおかげで、少しだけ呼吸が戻った。

 

 桜のこと。

 

 聖杯戦争のこと。

 

 アーチャーのこと。

 

 全部を今すぐ整理することはできない。

 

 それでも、夜は待ってくれない。

 

 凛は顔を上げる。

 

「いいわ。まずは状況確認から始める。あなたの能力、戦闘方針、索敵範囲。それから、さっきの桜の影についても詳しく聞かせてもらう」

 

「命令か?」

 

「マスターとしての当然の確認よ」

 

「了解した」

 

「最初からその態度でいなさいよ」

 

「努力しよう」

 

「絶対する気ないでしょ」

 

 地下室の空気が、ほんの少しだけ軽くなる。

 

 けれど、その軽さの下で、冬木の夜は確実に深くなっていた。

 

 アーチャーは、ふと扉の向こうへ視線を向ける。

 

 凛は気づかなかった。

 

 その横顔に、もう一度だけ、かすかな違和感が浮かんだことに。

 

 知っているはずの名。

 

 知っているはずの少女。

 

 けれど、屋敷に残った影は、彼の知るものとはあまりにも違っていた。

 

 間桐ではない。

 

 壊れていない。

 

 怯えて沈むだけの影ではない。

 

 自分の意思で形を持とうとしている影。

 

 アーチャーは目を細める。

 

 こんな枝は知らない。

 

 その言葉は、声にはならなかった。

 

   ◇

 

 衛宮家の土蔵に、古い匂いが満ちていた。

 

 油。

 

 鉄。

 

 木材。

 

 使われなくなった道具。

 

 日常の端に置き去りにされたものたち。

 

 衛宮士郎は、床に座り込んでいた。

 

 額に汗が滲んでいる。

 

 息が少し荒い。

 

 体の奥に、焼けるような痛みが残っていた。

 

 魔術の鍛錬。

 

 そう呼べるほど立派なものではない。

 

 ただ、自分にできることを繰り返しているだけ。

 

 強化。

 

 投影。

 

 うまくいくことは少ない。

 

 失敗の方が多い。

 

 それでも、やめる理由にはならなかった。

 

 士郎は息を吐き、立ち上がろうとした。

 

 その時。

 

 体の奥が、ちり、と痛んだ。

 

「……?」

 

 士郎は顔を上げる。

 

 外は静かだった。

 

 夜の衛宮邸。

 

 いつもと変わらないはずの空気。

 

 けれど、どこか遠くで、弦が張られたような感覚があった。

 

 音がしたわけではない。

 

 何かを見たわけでもない。

 

 それでも、胸の奥がざわつく。

 

 士郎は土蔵の戸を少し開け、外を見た。

 

 庭は暗い。

 

 風が木々を揺らしている。

 

 冬木の夜は、いつもと同じ顔をしている。

 

 でも。

 

「……なんだ、今の」

 

 呟きは、誰にも届かない。

 

 士郎はまだ知らない。

 

 遠坂凛がアーチャーを召喚したことも。

 

 十年前に救われた少女が、冬木へ戻ってきていることも。

 

 その少女が、禅城桜という名前で穂群原学園へ来ることも。

 

 その少女の帰還が、自分の未来にまで影を落とし始めていることも。

 

 何も知らないまま、士郎は夜空を見上げた。

 

 雲の向こうに、月が薄く隠れている。

 

 冬木の夜に、最初の弓が張られた。

 

 その音はまだ、少年の耳には届かない。

 

 けれど、街の底で何かが動き出したことだけは、確かだった。

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