神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
夜は、均一だった。
街灯が等間隔に並び、白い光で道を区切っている。
影さえも整えられていた。
どこまでが明るく、どこからが暗いのか。
人が決めた線の中に、街全体が収まっている。
神代の夜とは違う。
あの時代の夜は、もっと荒かった。獣の気配も、土の熱も、遠くの火も、どこかに神の視線すら混じっていた。
だが、この街の夜は違う。
静かで、薄く、作り物のように整っている。
ヒッポリュテは、その道を歩いていた。
足音は二つ。
一つは自分のもの。
もう一つは、少し後ろからついてくる小さな音。
軽い。
遅い。
それでも、離れないように必死についてきている。
「……寒いか」
振り返らずに聞いた。
後ろの足音が、一瞬だけ乱れる。
「……ううん」
否定。
けれど、その前に間があった。
息も、少し震えている。
嘘だ。
ヒッポリュテは足を止めた。
振り返る。
桜は目を逸らした。
小さな身体が、夜気の中で縮こまっている。先ほど渡した上着はない。薄い服のまま、両手を胸の前で握っている。
寒いと言えないのだ。
欲しいと言えない。
苦しいとも、怖いとも、助けてとも。
口に出す前に飲み込む癖が、もう身体に染みついている。
ヒッポリュテは無言で上着を脱いだ。
差し出す。
「着ろ」
桜は戸惑ったように見上げる。
「……でも」
「いい」
短く切る。
迷う時間を与えれば、この子はきっと断る。
自分が受け取っていいのかを考えてしまう。
考えた末に、要らないと言う。
寒いくせに。
震えているくせに。
桜は少しだけ躊躇ってから、上着を受け取った。
袖に腕を通す動きはぎこちない。
布に包まれることに慣れていないわけではないだろう。
けれど、誰かから自分のために与えられることには、慣れていない。
小さな手が、袖口を握る。
上着は大きすぎた。
肩から少し落ちそうになっている。
それでも、桜は小さく頭を下げた。
「……ありがとう、ございます」
「ああ」
ヒッポリュテは歩き出した。
再び、足音が二つになる。
白い街灯の下を抜けるたび、桜の影が伸びたり縮んだりした。
少し後ろ。
でも、さっきより近い。
「……あの」
「なんだ」
「どこ、行くの」
当然の問いだった。
答えは、まだない。
安全な場所。
休める場所。
誰にも見つからない場所。
そんな都合のいいものを、この街に来たばかりのヒッポリュテが知っているはずもない。
それでも、答える。
「ここではない場所だ」
曖昧だ。
だが、嘘ではない。
桜はしばらく黙っていた。
それから、小さく聞いた。
「……帰らなくていいの?」
足が、わずかに鈍る。
帰る。
その言葉が意味する場所は、一つではない。
遠坂か。
間桐か。
それとも、まだこの子自身にも分からないどこかなのか。
今の桜が言う帰る場所は、おそらくあそこだ。
暗い家。
閉じた空間。
地下へ続く道。
虫の気配。
ヒッポリュテは、静かに言った。
「……あそこは、家ではない」
桜は何も言わなかった。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ、足音だけが少し小さくなる。
理解しているのだ。
だからこそ、聞いたのだ。
帰るべき場所だと教えられている。
けれど、帰りたい場所ではない。
その違いを、幼い身体で抱えている。
ヒッポリュテは歩調を少しだけ上げた。
時間がない。
知っている。
この先にあるものを。
この子がどこへ渡されるのかを。
何のために使われるのかを。
どんな暗闇に落とされるのかを。
渡される前に止める。
連れていく。
それだけだ。
たとえそれが、誰かから見れば誘拐だとしても。
この子が小さく頷いた。
それだけで、十分だった。
角を曲がる。
その瞬間、ヒッポリュテは足を止めた。
気配がある。
意図的に消されている。
だが、消しきれていない。
神代の戦場で磨かれた感覚が、夜の静けさの奥に沈む異物を捉える。
視線を向ける。
そこに、男が立っていた。
街に溶け込む服装。
年齢は読みにくい。
姿だけなら、夜道にいる普通の男にも見える。
だが、立ち方が違う。
重心が後ろにある。
逃げるためではない。
待つため。
こちらが近づくことを想定し、必要ならいつでも術式を起こせる位置取り。
男は桜を見た。
その目に感情はない。
驚きも、安堵も、怒りもない。
ただ、確認しただけの目。
道具を見る目だった。
「……やはりな」
男が口を開く。
「手間をかけさせる」
桜の足音が止まった。
上着の袖を握る指が強くなる。
ヒッポリュテは半歩、桜の前に出た。
理解する。
間桐側。
監視。
回収役。
この子が自分の意思で外へ出たかどうかなど、彼らには関係ない。
戻す。
ただそれだけ。
「その子を返してもらおう」
男は短く言った。
命令口調だった。
選択肢を提示していない。
桜の意思を聞く気もない。
ならば、こちらも言葉を重ねる必要はなかった。
ヒッポリュテは踏み込んだ。
男の瞳がわずかに揺れる。
遅い。
間合いを詰める。
懐へ入る。
拳を打ち込む。
鈍い音がした。
骨を通して、肉と内臓を揺らす手応えが伝わる。
男の身体が折れた。
息が詰まり、膝が崩れる。
そのまま地面へ落ちた。
終わり。
普通の相手なら。
だが、ヒッポリュテは視線を外さなかった。
男の意識は完全には落ちていない。
身体強化か、魔術的な耐性か。
痛みに対する訓練もある。
やはり、ただの使い走りではない。
それでも、今すぐ追える状態ではない。
「……行くぞ」
ヒッポリュテは振り返る。
桜は固まっていた。
当然だ。
目の前で人が倒された。
しかも、ヒッポリュテは隠さなかった。
優しい言葉も、説明も、何も挟まなかった。
この子にとって、それは恐怖だっただろう。
けれど、立ち止まる時間はなかった。
ヒッポリュテは桜の手を取った。
今度は、抵抗はなかった。
小さな手は冷えている。
震えている。
それでも、握り返してきた。
引く。
歩く。
先ほどより速く。
桜の歩幅に合わせながら、それでもできるだけ早く。
背後で、わずかに気配が動いた。
男が起き上がろうとしている。
追えはしない。
だが、連絡はできるかもしれない。
時間は稼いだ。
しかし、足りない。
もっと離れる必要がある。
もっと遠くへ。
間桐の目から。
遠坂の手から。
この街の見えない網から。
その時だった。
空気が変わった。
薄かったはずの世界に、濃度が戻る。
神代のような濃さではない。
だが、先ほどまでの軽い現代の空気とは明らかに違う。
圧がある。
質量がある。
魔力が、形を持って近づいてくる。
あり得ない。
いや、この街ならあり得る。
ここは冬木だ。
聖杯戦争の街。
サーヴァントが呼ばれる土地。
背筋に冷たいものが走る。
これは人ではない。
魔術師でもない。
もっと別のもの。
あちら側。
霊基を持つ存在。
人の形を借りた神秘。
ヒッポリュテは、ゆっくり振り向いた。
桜を背に隠す。
手は離さない。
夜の道の先に、一つの影が立っていた。
人の形をしている。
だが、人ではない。
空気の重さが違う。
存在の密度が違う。
そこに立っているだけで、薄い現代の夜が軋んでいる。
異物。
いや。
この時代においては、こちらもまた異物なのだろう。
ヒッポリュテは息を落とす。
逃げるか。
戦うか。
桜の手が、自分の掌の中で震えている。
その温度だけが、判断を急がせた。
目の前の異物が、静かにこちらを見た。
夜は、ようやく牙を見せ始めていた。