神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す   作:あかちゅきぼちゃん

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間話 奪われた夜の、その先

 

 

 報告は、簡潔だった。

 

「……消えました」

 

 遠坂邸の空気が、わずかに揺れた。

 

 夜は深い。

 

 屋敷の灯りは落とされている。

 

 だが、執務室だけは静かに明るかった。

 

 遠坂時臣は、しばらく何も言わなかった。

 

 机の上に置かれた宝石。

 

 整えられた書類。

 

 乱れのない室内。

 

 そのすべてが、報告の異常さを際立たせている。

 

 やがて、時臣は目を閉じた。

 

「……いつだ」

 

「本日、夜半。護衛が一名、意識不明の状態で発見されました」

 

「傷は」

 

「致命傷ではありません。ただし、しばらくは動けないかと」

 

「痕跡は」

 

 問う声に、怒りはなかった。

 

 焦りもない。

 

 ただ、思考だけがあった。

 

 報告者は一瞬だけ言葉を選ぶ。

 

「……極めて少なく。術式の残滓も確認できません」

 

「そうか」

 

 時臣は短く返した。

 

 桜が消えた。

 

 受け渡しの前に。

 

 遠坂から間桐へと移される、その流れの途中で。

 

 護衛は倒され、少女は消えた。

 

 魔術師の仕業か。

 

 だが、違和感がある。

 

 痕跡が少なすぎる。

 

 術式で隠蔽したのなら、そこには隠蔽したという痕が残る。

 

 完全な無痕跡など、簡単ではない。

 

 まるで、最初からそこにいなかったかのように。

 

 まるで、世界の継ぎ目から抜き取られたかのように。

 

 時臣は静かに息を吐く。

 

「監視を強めろ」

 

「は」

 

「間桐への連絡も最小限に留める。こちらの失態として処理される前に、状況を確認する必要がある」

 

「桜様の捜索は」

 

「当然だ」

 

 時臣は目を開けた。

 

「聖杯戦争が近い。余計なノイズは排除する」

 

 余計なノイズ。

 

 言葉は冷たく整っていた。

 

 それが娘に関わる異常であっても。

 

 遠坂時臣の声は、最後まで乱れなかった。

 

 報告者が下がる。

 

 扉が閉じる。

 

 その外側で、小さな影が動けずにいた。

 

 遠坂凛。

 

 眠れずに廊下へ出た彼女は、偶然その会話を聞いてしまっていた。

 

 内容は分からない。

 

 聖杯戦争も、間桐も、受け渡しも、まだ凛には遠い言葉だった。

 

 けれど、一つだけ聞き取れた。

 

 桜。

 

 その名前だけが、胸に残った。

 

(……桜?)

 

 何が起きたのかは分からない。

 

 父に聞けばいいのかもしれない。

 

 でも、今聞いてはいけない気がした。

 

 扉の向こうの父の声は、いつも通りだった。

 

 いつも通り、正しくて、静かで、遠かった。

 

 なのに、胸の奥に小さな違和感が刺さっている。

 

 桜。

 

 その名前だけが、離れない。

 

 理由は分からない。

 

 けれど、忘れてはいけない気がした。

 

     ◇

 

 場所は変わる。

 

 地下。

 

 湿った空気。

 

 石と土と、古い血のような匂い。

 

 闇の中を這っていた音が、不意に止まった。

 

「……途切れたか」

 

 間桐臓硯が、わずかに目を細める。

 

 受け渡しの経路へ忍ばせていた蟲。

 

 遠くから感じていた気配。

 

 それが、消えた。

 

 乱れたのではない。

 

 薄れたのでもない。

 

 断たれた。

 

 完全に。

 

「ほう……」

 

 口元が歪む。

 

 そこにあったのは怒りではなかった。

 

 喪失でもない。

 

 興味。

 

 長く淀んだ生の中で、久しく退屈を誤魔化す程度の刺激。

 

「“あれ”を奪うか」

 

 誰にともなく呟く。

 

 素材。

 

 器。

 

 遠坂の血を引き、間桐の器として作り替えられるはずだったもの。

 

 それが消えた。

 

 誰かが手を出した。

 

 しかも、虫の目を断ち、気配を掴ませないまま。

 

「よい」

 

 臓硯の声が、地下に落ちる。

 

「ならば、取り返すだけだ」

 

 闇の奥で、虫が動き出した。

 

 一匹。

 

 二匹。

 

 壁の隙間から、床下から、湿った土の中から。

 

 ゆっくりと。

 

 確実に。

 

 逃げたものを追うために。

 

     ◇

 

 別の場所。

 

 夜の街。

 

 誰もいない公園のベンチに、男が座っていた。

 

 間桐雁夜。

 

 手が震えている。

 

 寒さのせいではない。

 

「……いない?」

 

 彼は呟いた。

 

 何度も。

 

「……いない、って……どういうことだよ……」

 

 理解が追いつかない。

 

 桜を助ける。

 

 そのために戻った。

 

 自分が捨てた家に戻り、嫌悪していた血と名に縋り、あの子を助けるためなら何でもすると決めた。

 

 なのに。

 

 いない。

 

 渡されるはずの桜が消えた。

 

 間桐に来る前に。

 

 どこかへ。

 

 誰かの手で。

 

「……誰が」

 

 拳が握られる。

 

 救ったのか。

 

 それとも、奪ったのか。

 

 分からない。

 

 分からないことが、焦りを怒りに変えていく。

 

 救ったのなら。

 

 なぜ自分ではない。

 

 奪ったのなら。

 

 絶対に許さない。

 

 どちらにせよ、会わなければならない。

 

 桜に。

 

 そして、桜を連れていった誰かに。

 

「……会わせろ」

 

 低く、吐き出す。

 

「そいつに」

 

 夜の公園に、返事はない。

 

 だが、雁夜の中で何かが濁っていく。

 

 怒りではない。

 

 焦りでもない。

 

 もっと重く、もっと粘つくもの。

 

 執着。

 

 救うはずだった少女を失った男の、醜くも切実な執着だった。

 

     ◇

 

 そして、逃げる側。

 

 夜は冷たい。

 

 だが、風はなかった。

 

 使われていない建物の屋根の下。

 

 古い倉庫とも、物置ともつかない場所。

 

 壁はひび割れ、床には埃が積もっている。

 

 雨をしのげるだけの空間。

 

 休むには足りない。

 

 眠るには危うい。

 

 それでも、今はそこしかなかった。

 

 ヒッポリュテは壁にもたれ、座っていた。

 

 隣には、小さな影がある。

 

 間桐桜。

 

 眠っていた。

 

 いや、眠っていると言うにはあまりに浅い。

 

 呼吸は細く、時折肩が震える。

 

 身体は丸まり、借り物の上着を両手で握りしめている。

 

 安心しきってはいない。

 

 当然だ。

 

 目を閉じるだけでも、精一杯なのだろう。

 

 ヒッポリュテは視線を外し、外を見た。

 

 気配はない。

 

 いや。

 

 ないようにしている。

 

 追手が来ていないわけではない。

 

 まだ見つけられていないだけだ。

 

 遅い。

 

 本来なら、もっと早いはずだった。

 

 追跡。

 

 包囲。

 

 回収。

 

 魔術師の家が、奪われたものを放置するはずがない。

 

 まして聖杯戦争が近い冬木なら、異物の動きはすぐに拾われる。

 

 それなのに、まだ静かだ。

 

 違和感。

 

 だが、その理由にも心当たりはあった。

 

 自分が普通ではない。

 

 神代から弾かれ、この時代に落ち、サーヴァントでも魔術師でも人間でもない曖昧なまま存在している。

 

 その歪みが、追跡を濁らせているのかもしれない。

 

 便利だと思うには、あまりにも不気味だった。

 

 桜が、わずかに動いた。

 

「……ごめんなさい」

 

 寝言だった。

 

 ヒッポリュテは反射的に視線を向ける。

 

 桜の顔は穏やかではない。

 

 眉が寄り、唇が震えている。

 

 夢の中でも、謝っている。

 

「……何にだ」

 

 小さく返す。

 

 答えはない。

 

 当然だ。

 

 眠っているのだから。

 

 けれど、分かる。

 

 謝る癖。

 遠慮。

 委縮。

 それは、あの家で刻まれたものではない。

 もっと前から、大人の都合に運ばれる中で、少しずつ身につけてしまったものなのだろう。

 いや、あの場所に行く前から始まっていたのかもしれない。

 

 家に従い、父に従い、大人の都合の中で運ばれていくうちに、桜は少しずつ自分の声をしまい込んでいったのだろう。

 

 ヒッポリュテは目を伏せる。

 

 助けた。

 

 そう判断した。

 

 間違いなく、あのまま戻せば壊される。

 

 だから連れてきた。

 

 だが。

 

 これは、本当に助けたと言えるのか。

 

 知らない女が、夜の街で子どもを連れ去った。

 

 その事実だけを見れば、奪ったのと何が違う。

 

 桜は頷いた。

 

 こちらへ来ると選んだ。

 

 それでも、その選択はあまりに小さく、あまりに追い詰められた中でのものだった。

 

 沈黙が落ちる。

 

 結論は出ない。

 

「……分からないな」

 

 ヒッポリュテは正直に呟いた。

 

 王としてなら、もっと迷わず決めるべきなのかもしれない。

 

 姉としてなら、抱えて逃げればよかったと言えるのかもしれない。

 

 だが、今の自分はどちらでもあり、どちらでもない。

 

 分からない。

 

 それでも、選んだ。

 

 手を伸ばし、連れてきた。

 

 なら、進むしかない。

 

 この選択を、ただの誘拐で終わらせないために。

 

 この子がいつか、自分で選べるようになるまで。

 

 その時だった。

 

 空気が、わずかに揺れた。

 

 ほんのわずか。

 

 普通の人間なら気づかないほどの変化。

 

 だが、確実に。

 

 ヒッポリュテは立ち上がった。

 

 桜を起こさないように、ゆっくりと。

 

 外を見る。

 

 何もない。

 

 暗い道。

 

 閉じた建物。

 

 白い街灯。

 

 だが、いる。

 

 気配がある。

 

 人ではない。

 

 魔術師だけでもない。

 

 もっと濃いもの。

 

 先ほど感じた異物の残り香に近い。

 

「……来たか」

 

 小さく呟く。

 

 逃げるだけの時間は終わった。

 

 誰にも見つからず、ただ遠ざかるだけの夜は、もう終わる。

 

 ここから先は、追われる。

 

 奪ったものを、奪い返そうとする者たちが来る。

 

 そして。

 

 その中には、人ではないものも混じる。

 

 ヒッポリュテは桜の前に立った。

 

 眠る少女の浅い呼吸を背に感じる。

 

 空っぽだった手を、ゆっくり握る。

 

 今度は、離さない。

 

 離れたとしても、もう一度掴みに行く。

 

 外の闇が、わずかに濃くなった。

 

 時間は終わった。

 

 ここから先は、戦いになる。

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