神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
逃げる、という行為には限界がある。
足を動かし続ければ遠ざかれる。
追手の目を誤魔化せば時間を稼げる。
夜に紛れれば、少なくとも昼よりは見つかりにくい。
だが、それだけだ。
逃げた先に寝床があるわけではない。
逃げた先に食事があるわけでもない。
逃げた先に、安全が待っているわけでもない。
「……平気か」
問いかけると、隣を歩く少女は小さく頷いた。
「はい。大丈夫です」
即答だった。
その速さが、逆に痛々しい。
大丈夫な者は、そんなふうに大丈夫とは言わない。
寒さに慣れていない足取り。
眠気を押し殺す呼吸。
それでも迷惑をかけまいとする視線。
――子供の顔ではない。
子供が覚えるべきではないものを、すでに覚えている顔だった。
「無理をするな」
「……してません」
「嘘が下手だな」
言うと、桜は困ったように目を伏せた。
責めたつもりはなかった。
だが、彼女は責められたように受け取る。
そういう反応が染みついている。
誰かに言われる前に謝る。
誰かの顔色を読む。
自分の望みを、望む前から諦める。
その小さな癖の一つ一つが、胸の奥に引っかかった。
「……少し休む」
「え?」
「お前が倒れる前にだ」
桜は何か言いかけて、やめた。
反論する体力すら残っていないのだろう。
周囲を見渡す。
冬木の外れ。
住宅街から外れた古い倉庫地帯。
昼間なら、搬入の車や作業員の気配があるのかもしれない。
だが夜の今は、ひどく静かだった。
静かすぎる。
人気がない場所は都合がいい。
同時に、何かが隠れるにも都合がいい。
足を止める。
「……声」
先に言ったのは桜だった。
小さな声。
ほとんど息のような音。
だが、確かに聞こえた。
子供の声だ。
泣いている。
助けを求めている、というより、もう求める力すら薄れかけている声。
桜の指が、服の端を掴んだ。
「……誰か、います」
「ああ」
本来なら、避けるべきだった。
桜を連れている。
追われている。
こちらには安全な拠点もない。
知らない危険に踏み込む理由などない。
それでも。
足が止まったまま、動かない。
知っている。
この街で子供の泣き声が夜に沈む意味を。
知ってしまっている。
だから、見捨てれば楽だと分かっていても、見捨てた後の重さまで分かってしまう。
「ここで待て」
そう言った瞬間、桜の手が強くなった。
「……いやです」
かすかな拒絶。
だが、はっきりした拒絶だった。
桜自身も驚いたように目を見開く。
おそらく、自分で言うつもりはなかったのだろう。
「一人は……いやです」
胸の奥が、ひどく静かに軋んだ。
小さな手。
離れた感触。
こちらを見る、あの子の目。
――姉上。
呼び声が、記憶の奥で揺れる。
握っていたはずの手は、もうない。
あの時、離したわけではない。
離れた。
だが、その違いを言葉にしたところで、残された側には何の慰めにもならない。
「……分かった」
桜の手を取る。
「離れるな」
「はい」
短く返る声。
それだけで、少しだけ足取りが変わった。
倉庫の裏手へ回る。
扉は半開きだった。
錆びた金属が、風もないのにわずかに揺れている。
中から、薄い血の匂いがした。
桜の身体が固まる。
視線だけで後ろへ下がるよう促す。
それでも手は離さない。
薄暗い室内。
割れた窓から月明かりが落ちている。
床には乱雑に置かれた道具。
何かの本。
紙。
意味のない線。
いや、意味がないように見えるだけだ。
線は陣を描いていた。
不完全で、荒く、ところどころ間違っている。
けれど魔術の形をしている。
誰かが理解して使っているのではない。
理解しないまま、なぞっている。
だから余計に気味が悪い。
「ん?」
奥から軽い声がした。
まるで友人にでも気づいたような声音。
振り向いた男は、笑っていた。
若い。
魔術師の気配はない。
訓練された足運びもない。
殺気すら、まともにまとっていない。
なのに、空気が濁っている。
人の形をしているのに、人の輪郭から少し外れている。
「あれ。お客さん?」
男は首を傾げる。
その仕草だけなら、ひどく普通だった。
「こんなところに女の人と子供って、珍しいね。迷子?」
桜が息を呑む。
男の視線が、桜へ向いた。
「あ、その子」
何かを見つけたように、目が細くなる。
「いい顔してるね」
その一言で、判断は済んだ。
桜を背に隠す。
男は笑った。
「お姉さん、怖い顔」
「その奥にいる子供を出せ」
「え?」
「聞こえた」
男は一瞬だけ黙った。
そして、嬉しそうに笑った。
「ああ、聞こえちゃったんだ」
軽い。
あまりにも軽い。
罪悪感がない、というより、罪という概念に触れていない。
自分の行為を悪と思っていないのではない。
善悪の秤に乗せてすらいない。
ただ、面白いものを見つけた子供のように笑っている。
「だめだよ。途中なんだから」
動いた。
殺すつもりなら、一呼吸で足りる。
首を折る。
喉を潰す。
胸を貫く。
できる。
この肉体なら、容易い。
だが、背後に桜がいる。
そして自分の中に、別の躊躇いがある。
人を殺す。
その行為を、必要だからと即座に選べない感覚。
王としては甘い。
戦士としては遅い。
けれど、それは確かに自分の中にあった。
だから、殺さずに制圧した。
踏み込み、腕を取る。
関節を外す寸前で止め、体勢を崩す。
床へ叩きつける。
男の息が詰まった。
「がっ――」
本が跳ねる。
床に落ちる。
男の指先から血が垂れた。
その血が、床の陣へ落ちる。
瞬間。
空気が変わった。
「……っ」
薄かった世界に、濃度が戻る。
いや、違う。
戻ったのではない。
ここだけが、無理やり別の場所に繋がった。
陣が光る。
雑で、不完全で、間違いだらけのはずの線が、血を得て意味を持つ。
男が床に倒れたまま、目を輝かせた。
「え……なにこれ」
笑っている。
自分が何をしたか分かっていない。
だが、起きようとしていることだけは喜んでいる。
「すごい」
魔力が渦を巻く。
桜が小さく悲鳴を漏らした。
抱き寄せる。
視界の先。
陣の中心に、影が立つ。
長身。
異様な眼。
祈りと狂気が混ざったような顔。
それは、ゆっくりとこちらを見た。
「おお……」
声が震えている。
感動している。
歓喜している。
「なんという夜でしょう」
現れた男は、両手を広げた。
「血と、恐怖と、幼き祈り。そして――」
視線がこちらに向く。
その眼が、細められる。
「貴女は……死んでいない」
背筋に冷たいものが走った。
分析ではない。
理解でもない。
ただ、狂気の底で触れてはいけないものに触れている。
「死んで、なお死に損なったもの。いえ、違う。神代の残響か。なんと、なんと歪な奇跡か」
「黙れ」
声が低くなる。
桜を背後へ押しやる。
男――キャスターは笑った。
ジル・ド・レェ。
名を知っている。
知識として。
物語として。
そして今、目の前の現実として。
倒れていた龍之介が、震える声で笑った。
「すごい……すごいよ、旦那。ほんとに出た」
「旦那?」
「うん。なんか、そう呼びたい」
狂人と狂人が、初めて出会った。
その空気だけで、吐き気がする。
ジルの視線が、今度は桜へ移った。
「そして、その子は――穴ですね」
桜の肩が震えた。
「空いた器。注がれるのを待つ杯。ああ、痛ましい。あまりにも痛ましい」
「見るな」
ジルが笑う。
「守るのですか?」
「そうだ」
「救えると?」
答えが、一瞬遅れた。
その遅れを、ジルは歓喜として受け取った。
「おお、その沈黙。素晴らしい。迷いこそ祈り。迷いこそ、神が人に与えた罰」
「違う」
「では、何です」
ジルが一歩踏み出す。
同時に、周囲の影が蠢いた。
魔力で形作られた何か。
触手とも獣ともつかないものが、床を這う。
桜を抱えて下がる。
ここで戦うべきではない。
だが逃げ道は塞がれた。
龍之介が笑っている。
ジルが祈るように両手を広げている。
桜が震えている。
そして、自分の胸の奥が。
痛んだ。
呼ばれている。
誰かが。
遠くから。
いや、違う。
遠くではない。
ずっと近い。
自分の中に残った傷口から、何かがこちらへ手を伸ばしている。
「……まさか」
陣が、再び軋んだ。
ジルが目を見開く。
「おお?」
床の線が歪む。
キャスターを呼び出した陣が、別の意味を帯びる。
聖杯戦争の枠。
召喚の座。
触媒。
縁。
そして桜の魔力。
すべてが、あり得ない形で噛み合っていく。
呼んだのは龍之介ではない。
選んだのは聖杯でもない。
引き寄せたのは――自分だ。
胸の奥で、鎖が切れるような音がした。
空間が裂ける。
黒い風が吹く。
濃密な魔力が、倉庫の床を叩いた。
桜が目を見開く。
ジルが笑う。
龍之介が歓声を上げる。
そして。
そこに、彼女が立っていた。
鋭い眼。
獣のような気配。
戦士として完成された肉体。
神代の熱を帯びた魔力。
バーサーカー。
その名を、知っている。
知っているどころではない。
魂が、先に反応した。
「……ペンテ」
声が、喉に引っかかる。
彼女はゆっくりと顔を上げた。
狂化の影が瞳の奥にある。
だが、それでも。
最初にこぼれた声だけは、幼かった。
「……姉上?」
時間が止まった。
呼吸も。
音も。
ジルの笑い声すら、遠くなる。
その呼び方。
その目。
あの日、手を伸ばしていた少女。
置いてきた妹。
世界から消えた自分を、きっと死んだものとして見送ったはずの子。
それが、目の前にいる。
立っている。
こちらを見ている。
何か言わなければならない。
謝罪か。
説明か。
再会の言葉か。
だが、何一つ出てこなかった。
「美しい」
ジルの声が割り込んだ。
「怒りだ。悲嘆だ。喪失だ。なんと濃く、なんと鮮烈な――」
次の瞬間、ペンテシレイアが動いた。
速い。
音が遅れた。
ジルの前にいた異形がまとめて吹き飛ぶ。
床が割れる。
壁が軋む。
神代の戦士の暴力が、現代の薄い空気を叩き潰す。
「黙れ」
ペンテシレイアの声。
低く、怒りを含んでいる。
「姉上の前で、喋るな」
ジルは吹き飛ばされながらも笑っていた。
「おお、おお! よい! その怒り、その純粋さ!」
異形が再び湧く。
ペンテが踏み込む。
正面から砕く。
攻撃は粗い。
だが圧が違う。
ジルの術式が整う前に、力で踏み潰していく。
こちらも動いた。
桜を壁際に下がらせる。
「目を閉じていろ」
「でも――」
「閉じろ」
桜がぎゅっと目を閉じる。
その前に立つ。
ペンテが正面を割る。
こちらが側面を抑える。
言葉はない。
合図もない。
それでも、動きが噛み合った。
昔からそうだったのか。
それとも、魂が覚えているのか。
分からない。
ただ、ペンテが空けた隙間に身体が入る。
こちらが止めた敵を、ペンテが砕く。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
姉妹だった。
「姉上!」
呼ばれる。
反応する。
ジルの放った影が、桜へ向かっていた。
遅い。
そう思った瞬間、身体が先に動いた。
影を掴む。
魔力が腕を焼く。
無理やり引き千切る。
痛み。
だが、問題ない。
ジルが目を細めた。
「守る。守る。守る。ああ、なんと哀れな祈りか」
ペンテの一撃がジルの胴を薙ぐ。
完全には入らない。
だが十分だった。
ジルの霊基が揺らぐ。
その身体が、黒い靄のように崩れかける。
「龍之介」
「え、もう帰るの?」
「今宵はここまで。奇跡は、追うものです」
ジルが笑う。
龍之介の身体が影に包まれる。
逃がすべきではない。
分かっている。
追えば、殺せるかもしれない。
だが桜がいる。
ペンテがいる。
そして、ペンテの現界が揺らいでいる。
追えない。
ジルは去り際に、こちらへ深く頭を下げた。
「また会いましょう、死に損ないの奇跡よ」
影が消える。
倉庫に静寂が戻った。
いや、戻ったように見えただけだ。
空気はまだ壊れている。
床は割れ、壁は削れ、魔力の残滓が濃く残っている。
そして目の前には、ペンテシレイアがいる。
「……ペンテ」
ようやく声が出た。
彼女がこちらを見る。
その眼には怒りがある。
憎しみではない。
だが、優しさでもない。
触れれば切れるような感情。
会えた喜びより先に、置いていかれた痛みがある。
当然だ。
当然すぎて、何も言えない。
その時、桜が小さく呻いた。
「……痛い」
振り向く。
桜が右手を押さえている。
白い指の甲に、赤い模様が浮かび上がっていた。
令呪。
呼吸が止まる。
ペンテシレイアの現界が安定する。
桜の魔力へ、繋がった。
理解した瞬間、背中に冷たいものが走った。
守るために連れ出した。
間桐に渡さないために奪った。
地獄から遠ざけたつもりだった。
だが今。
桜は聖杯戦争に繋がれた。
自分が、繋いでしまった。
「……私」
桜が震える声で言う。
「何か、しましたか……?」
答えられない。
答えられるはずがない。
ペンテシレイアが、桜を見た。
そして、こちらを見る。
責めるように。
確かめるように。
長い沈黙の後、ペンテが口を開いた。
「姉上」
懐かしい呼び方だった。
けれど、声はもう幼くない。
「遅い」
その一言で。
ようやく、胸の奥に置き去りにしていたものが、音を立てて崩れた。