神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す 作:あかちゅきぼちゃん
倉庫の中に、静けさが戻っていた。
いや、戻ったように見えただけだ。
床は割れている。壁は抉れている。積まれていた木箱は砕け、鉄骨の一部は曲がり、夜の冷たい空気の中に、濃い魔力の残滓が漂っている。
ここはもう、ただの倉庫ではなかった。
召喚が行われた場所。
英霊が現れ、狂気が笑い、血と魔力が混ざった場所。
そして。
ヒッポリュテが、もう一度妹と出会った場所だった。
「……痛い」
小さな声がした。
桜が、自分の右手を押さえている。
その手の甲には、赤い模様が浮かんでいた。
令呪。
聖杯戦争において、マスターである証。
本来なら、魔術師が望んで得るもの。
けれど桜は違う。
望んでいない。
理解もしていない。
ただ、巻き込まれた。
ヒッポリュテは息を止めたまま、その赤い痕を見ていた。
熱を持っているのだろう。桜の指先が小さく震えている。
「……私、何かしましたか?」
桜が問う。
その声は怯えていた。
目の前で化け物のようなものが現れた。
知らない女が現れた。
自分の手に見たことのない痣が浮かんだ。
その全部が分からなくて、分からないからこそ、いつものように自分へ向けている。
自分が悪いのか。
自分のせいなのか。
ヒッポリュテは、即座に言った。
「違う」
強く。
迷わせないために。
だが、声が少しだけ硬かった。
その硬さを、ペンテシレイアは見逃さなかった。
倉庫の中央に立つバーサーカーは、まだ荒い魔力を纏っている。
黒く濁った気配。
戦いの熱。
怒り。
それでも、その瞳だけはまっすぐにヒッポリュテを見ていた。
「違う。お前のせいではない」
ペンテシレイアが桜に言う。
桜が、少しだけ顔を上げる。
その瞬間。
ペンテシレイアは視線をヒッポリュテへ移した。
「姉上のせいだ」
空気が落ちた。
桜が息を呑む。
ヒッポリュテは、反論しなかった。
できなかった。
ペンテシレイアの言葉は、乱暴だった。
だが、間違ってはいなかった。
桜を連れ出したのは自分だ。
龍之介のいる場所へ踏み込んだのも自分だ。
ジル・ド・レェを退けたのも自分だ。
そして、ペンテシレイアをこの時代へ引き寄せてしまったのも、きっと自分だ。
守ろうとした。
助けようとした。
だが、結果として桜に令呪を刻ませた。
聖杯戦争の中へ、押し出した。
「……そうだ」
ヒッポリュテは、低く言った。
桜が驚いたようにこちらを見る。
ペンテシレイアの眉がわずかに動いた。
「私が選んだ。桜を連れ出した。あの男を止めた。お前を呼んだ」
「呼んだ?」
ペンテシレイアの声が低くなる。
「私を?」
「……意図してではない」
「なら、またそう言うのか」
ペンテシレイアが一歩近づく。
床の破片が、足元で砕けた。
「仕方なかった、と」
「違う」
「戻れなかった、と」
ヒッポリュテは、そこで言葉を失った。
ペンテシレイアの瞳が揺れている。
怒りだけではない。
そこには、もっと古い傷があった。
神代の空。
差し出された手。
握り返した温度。
そして、消えた感触。
ヒッポリュテにとっては、一瞬だった。
世界が弾かれ、視界が白く潰れ、次に目覚めた時には冬木にいた。
だが、ペンテシレイアにとっては違う。
残された。
手を伸ばしたまま、何も掴めなかった。
姉が消えた場所で、理由も分からず立ち尽くした。
「どこにいた」
ペンテシレイアが言う。
声は抑えられている。
だが、抑えられているからこそ重かった。
「なぜ戻らなかった」
「……戻れなかった」
「戻らなかったの間違いだ」
即座に返ってきた。
刃のような言葉だった。
ヒッポリュテは黙る。
違う、と言える。
第二魔法の干渉。
神代からの消失。
世界の位相のズレ。
戻る術がなかったこと。
説明しようと思えば、いくらでも言える。
だが、そのどれも、ペンテシレイアには届かない気がした。
届いたところで、彼女が過ごした時間は消えない。
残された痛みは消えない。
ヒッポリュテは、静かに息を吐いた。
「……すまなかった」
ペンテシレイアの顔が歪む。
その言葉を待っていたのか。
それとも、聞きたくなかったのか。
分からない。
「謝ればいいと思っているのか」
「思っていない」
「では、何をする」
問いは、真っ直ぐだった。
昔からそうだった。
ペンテシレイアは、いつも答えを欲しがった。
守ると言えば、なぜと聞いた。
待てと言えば、なぜ私だけと怒った。
小さな身体で、姉の隣に立とうとした。
その子が今、英霊として、バーサーカーとして、こちらを責めている。
ヒッポリュテは、手を握る。
「責任を取る」
ペンテシレイアの目が細くなる。
「責任?」
「ああ」
「姉上は、昔からそうだ」
ペンテシレイアが低く笑った。
笑いではない。
怒りを形にした音だった。
「背負う。守る。責任を取る。そう言って、いつも勝手に決める」
「……」
「私に選ばせなかった」
その言葉に、ヒッポリュテの胸が痛んだ。
桜が小さく震える。
自分に向けられた言葉ではない。
けれど、分かってしまったのだろう。
選ばされない痛みを。
自分の人生を、誰かの決定で動かされる怖さを。
「桜」
ヒッポリュテは振り返る。
「お前のせいではない」
「……でも」
「違う」
言い切る。
「これは私の選択だ」
桜の目が揺れた。
「でも……私がいなければ」
「それは違う」
ペンテシレイアが、今度は桜へ向けて言った。
桜がびくりと肩を揺らす。
ペンテシレイアは、少しだけ視線を下げた。
「お前が悪いわけではない。弱いからでもない。何も知らなかったからでもない」
「……」
「悪いのは、選ばせなかった者だ」
その言葉は、桜へ向けられていた。
同時に、ヒッポリュテへ突き刺さっていた。
桜は唇を噛んだ。
泣きそうなのに、泣かない。
ここで泣いてはいけないと、どこかで思っている顔だった。
「……この人は」
桜が、ペンテシレイアを見る。
「私の、何なんですか」
当然の問いだった。
ヒッポリュテは答えようとして、少しだけ遅れた。
ペンテシレイアが先に言う。
「バーサーカーだ」
「ばーさーかー……?」
「サーヴァント。聖杯戦争の駒」
ペンテシレイアはそう言った後、苦々しげに続けた。
「そして今は、お前に繋がっている」
桜が自分の手を見る。
令呪は、まだ赤く光っている。
「私が……マスター……?」
「そうなってしまった」
ヒッポリュテが答える。
その言い方が、また痛かった。
なってしまった。
望んでいないのに。
選んでいないのに。
結果だけが、彼女へ押しつけられている。
「どうしたらいいんですか」
桜が問う。
ヒッポリュテは、口を開いた。
そして。
「……分からない」
正直に答えた。
桜の目が大きくなる。
ペンテシレイアが、冷たい視線を向けた。
「分からないまま、子供を連れて逃げたのか」
「ああ」
「分からないまま、私を呼んだのか」
「ああ」
「分からないまま、守ると言うのか」
ヒッポリュテは、ペンテシレイアを見る。
「そうだ」
沈黙。
ペンテシレイアは、まるで信じられないものを見るようにこちらを見た。
やがて、小さく吐き捨てる。
「……変わっていない」
その声には、怒りと安堵が混ざっていた。
変わっていない。
勝手に守る姉。
背負うと言って、相手を後ろに置く姉。
それでも、確かにそこにいる姉。
ペンテシレイアにとって、それはきっと腹立たしいほど懐かしいものだった。
ヒッポリュテは、目を伏せる。
「……かもしれないな」
ペンテシレイアが舌打ちした。
「認めるな」
「事実なら認める」
「そういうところだ」
二人のやり取りに、桜が小さく瞬いた。
ほんの少しだけ、張り詰めていた空気が緩む。
だが、その緩みは長く続かなかった。
ヒッポリュテは倉庫の外へ視線を向ける。
魔力の残滓が濃い。
召喚の痕跡も残りすぎている。
ジルは逃げた。
龍之介も生きている。
この場所に留まる理由はない。
むしろ、一秒でも早く離れるべきだった。
「ここを離れる」
ヒッポリュテが言う。
ペンテシレイアが眉を寄せた。
「逃げるのか」
「桜がいる」
その一言で、ペンテシレイアは黙った。
視線が桜へ向く。
桜は二人の会話を邪魔しないように、小さくなって立っていた。
令呪のある手を、もう片方の手で押さえている。
怖いはずだ。
痛いはずだ。
分からないはずだ。
それでも、邪魔にならないようにしている。
その姿を見て、ペンテシレイアの表情がわずかに変わった。
遠い過去を見るような顔だった。
「歩けるか」
ペンテシレイアが桜に聞く。
声音は硬い。
優しくはない。
だが、敵意もなかった。
「……はい」
「倒れる前に言え」
「……はい」
「我慢しても意味はない。足を止めるだけだ」
桜が、少しだけ戸惑う。
叱られているのか、気遣われているのか、分からない顔だった。
ヒッポリュテは、その横顔を見ていた。
昔のペンテシレイアも、こんなふうだった。
優しくしたいのに、言葉が強くなる。
守りたいのに、命令になる。
自分と同じだ。
そう思った瞬間、胸がまた痛んだ。
「行くぞ」
ヒッポリュテが先に歩き出す。
桜がその後ろへ続く。
ペンテシレイアは自然に最後尾についた。
隊列ができる。
前にヒッポリュテ。
中央に桜。
後ろにペンテシレイア。
守る形。
あまりにも自然で、あまりにも懐かしい。
倉庫を出ると、夜風が頬を撫でた。
空気は薄い。
現代の空気。
けれど、今はそこに神代の気配が混じっている。
ペンテシレイアがいるからだ。
振り返る。
ペンテシレイアと目が合った。
彼女はすぐに視線を逸らした。
許していない。
そう告げるように。
だが、離れない。
それもまた、昔と同じだった。
桜が小さく尋ねる。
「どこへ行くんですか」
「安全な場所だ」
ヒッポリュテは答えた。
ペンテシレイアが後ろで鼻を鳴らす。
「あるのか、そんなものが」
「探す」
「行き当たりばったりだな」
「今はそれしかない」
「やはり変わっていない」
呆れたような声。
けれど、少しだけ熱があった。
怒り続けるには、再会が近すぎる。
喜ぶには、傷が深すぎる。
だから言葉だけが尖る。
三人は夜の道を進む。
街灯の光が、順番に足元を照らしていく。
桜の歩幅は小さい。
ヒッポリュテは少しだけ速度を落とした。
ペンテシレイアがそれに気づく。
何も言わない。
ただ、後ろから桜の歩調に合わせた。
それだけで、隊列が整う。
守る者が二人。
守られる少女が一人。
だが、守られている少女の手には令呪がある。
聖杯戦争は、もう彼女を見つけていた。
遠くで、犬が吠えた。
それに混じって、別の気配が動く。
虫。
細い、湿った気配。
ヒッポリュテは足を止めなかった。
気づいている。
ペンテシレイアも気づいている。
だが、今ここで追うべきではない。
桜を中央に入れたまま、三人は闇の中を抜けていく。
逃亡は、もうただの逃亡ではなくなっていた。
守るために逃げる。
逃げるために戦う。
そして戦うほど、守るべきものが増えていく。
ヒッポリュテは、前を向いたまま小さく息を吐いた。
答えはない。
それでも進むしかない。
それが王の在り方なのか。
それとも、ただの逃避なのか。
まだ分からなかった。
◇
地下で、虫が蠢いていた。
濡れた音。
擦れる音。
土の匂いと腐った魔力が混じる場所で、間桐臓硯は静かに目を細めた。
「ほう」
その声には、怒りがない。
むしろ愉悦に近いものがあった。
「令呪が出たか」
虫がざわめく。
遠く離れた場所で起きた歪みを、彼は正確に掴んでいた。
桜が消えた。
器が奪われた。
だが、その器は別の形で聖杯戦争へ繋がった。
臓硯は口元を歪める。
「逃げたつもりか」
笑う。
湿った笑いだった。
「よい。よいぞ」
虫たちが壁を這う。
「聖杯が始まれば、いずれ戻ってくる」
彼は暗闇の奥へ視線を向けた。
そこには何もない。
だが、彼の目には見えている。
少女。
令呪。
狂戦士。
そして、神代の匂いを纏う異物。
「器が、器を得たか」
臓硯は低く呟いた。
「ならば、使い道も増えるというもの」
地下の闇が、ゆっくりと深くなる。
逃亡は終わった。
ここから先は、選ばされる時間だった。