滅尽の残響   作:冷蔵庫の奥の方

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第2話 震える歩法

 

 洞窟の閉塞した闇を抜け、視界が唐突に開けた。

 そこは、巨大な結晶が天を突く広場だった。

 

 見上げれば、龍結晶の地の荒々しい天蓋が一部崩落しており、そこから新大陸の鋭い陽光が幾筋もの柱となって降り注いでいる。

 

 外部の暴力的な熱風は、入り組んだ岩壁に遮られてここまでは届かない。

 代わりに、地脈から噴き出す純粋なエネルギーの余韻が、冷ややかな静寂を伴って空間を支配していた。

 結晶の表面に反射した光が、プリズムのように男の視界を白く焼き、一瞬、現実感を奪う。

 

 男はブーツの底で結晶の破片を噛み締めながら、広場の中央へと歩を進めた。

 

 腰のケージからは、相変わらず冷徹な青が溢れ出している。

 陽光の下で見るその光は、まるで死神が振るう鎌の残光のように不吉だった。

 

 岩壁に目を向けると、そこには無残な痕跡が刻まれていた。

 こびりついているのは、粘り気のある、どす黒い体液だ。

 

「……捕食した連中のエネルギーか?だが、色が混じりすぎてやがる」

 

 低く呟いた声が、静寂に吸い込まれる。

 

 ネルギガンテの体液には、捕食した古龍たちから奪った、莫大な地脈の残滓が混じる。

 本来ならそれは、王が己の糧として取り込むべき、純粋な力の源だ。

 だが、岩壁に付着したそれは、本来の鮮烈な輝きを失い、消化不良を起こした澱のように濁りきっていた。

 

 古龍を喰らい、その力を己の再生へと変換する。

 その完璧な循環が、今や狂い始めている。

 

 男は指に付いた体液を凝視した。

 それは、あまりに高純度の炭素を詰め込みすぎ、熱処理のバランスを欠いて内側から「爆ぜる」直前の鋼が放つ、不気味な鈍色に似ていた。

 

 意識が、数日前の「アステラ」へと引き戻される。

 

 

 ◇

 

 

 この日、拠点は勝利の祝祭に酔いしれていた。

 新大陸を揺るがした未曾有の脅威、地脈の源流に座していた名も無き古龍の討伐。

 若き五期団の英雄たちが成し遂げたその偉業は、長きにわたる調査団の悲願を達成させた。

 

 食事場からは、特大の肉が焼ける香ばしい匂いと、ジョッキを打ち合わせる乾杯の音、そして若者たちの誇らしげな笑い声が絶え間なく溢れていた。

 

 だが、男はその喧騒の輪にはいなかった。

 一人、夜の静寂が降りる加工場に籠もり、愛剣のメンテナンスに没頭していた。

 

 ゴリッ、ゴリッと骨を削るような、重々しい摩擦音が響く。

 

 大剣の刃の上を、指の腹が滑る。鋼の返りを確認し、微かな歪みも許さず修正していく。

 職人としての指先は、誰よりも敏感に「地脈の変化」を感じ取っていた。

 

 地脈のエネルギーを喰らい続けていたあの巨大な灯が消えた。

 地脈を吸い上げ、龍結晶の地に異常なエネルギーを滞留させていた、いわば生態系の「巨大な吸い出し口」が唐突になくなったのだ。

 

 理屈の上では、これで生態系は平穏を取り戻すはずだった。

 だが、大剣の芯を通じて伝わってくるのは、大地が奏でる安堵の溜息ではない。

 それは、突如として均衡を失った天秤が、激しく揺れ動きながら軋みを上げているような、不気味な金属疲労の音だった。

 

「大旦那、そんなところで何してるんですか! 英雄たちの帰還ですよ、一杯やりましょう!」

 

 酒の匂いをさせた五期団の若者が、陽気に声をかけてくる。男は手を止めず、ただ低く応えた。

 

「後で行く。……道具を研ぐのに、これ以上の夜はねえからな」

 

 若者は「相変わらず職人気質ですね」と笑い、喧騒の渦へと戻っていった。

 

 賑やかな足音が遠ざかり、再び加工場を支配したのは、炉の爆ぜる音と、自身の重い呼吸音だけだった。

 

 祝祭の光が届かぬこの場所こそが、世界の真実の輪郭を浮き彫りにする。男は再び砥石を当てた。冷たい鋼の感触だけが、今は信じられる全てだった。

 

 彼らが持ち帰ったのは、見たこともないほど美しく輝く古龍の素材と、多大なる名声だ。

 それを否定するつもりはない。

 だが、男の目には、その輝きの裏側で、新大陸という巨大な機構の「歯車」が一つ、完全に噛み合わせを失ったのが見えていた。

 

 地脈のエネルギーを喰らう古龍がいなくなったことで、溢れ出した余剰エネルギーはどこへ行くのか。

 その最大の受け皿となるのは、生態系の調律者――ネルギガンテだ。

 

 捕食すべき「巨大なエネルギー源」が不在となった一方で、大地そのものから噴き出す奔流のようなエネルギーが、あいつの驚異的な再生能力を強制的に駆動させ続けている。

 

 喰らうべき獲物がいないのに、身体だけが「次なる戦い」に備えて無限に再生を繰り返す。

 

 それは職人の目から見れば、逃げ場のない熱を孕み続ける暴走した炉そのものだった。

 

 翌朝、荷をまとめ、拠点の門を潜ろうとした時。

 一期団のフィールドマスターが、影のようにそこに立っていた。

 

 彼女は何も言わず、ただ静かに男を見つめた。

 その瞳には、祝祭の余韻など微塵もなかった。

 ただ、荒れ狂う自然の予兆を察知した、老練な観察者特有の鋭利な懸念だけが宿っていた。

 

 男は背負った大剣を軽く叩いた。

 言葉は交わさなかった。ただ一度、短く頷き合う。

 それだけで十分だった。「お前も、あの音を聞いたか」という問いへの、沈黙による肯定。

 

 

 ◇

 

 

 回想から引き戻された視界に、再び広場の光景が広がる。

 足元は起伏を増し、鋭利な結晶の破片がブーツの底を削った。

 

 男は、軋む膝を庇いながら、這いつくばるようにして地面の足跡へ顔を寄せた。

 動作のたびに、背負った大剣の重みが容赦なく老いた脊髄を圧し潰し、大腿の古傷が「無理をするな」と、鋭い痙攣を上げて警笛を鳴らす。

 それを無視し、男は岩を掴む指先に力を込めた。

 

「……酷えな、こいつは」

 

 足跡は、もはや巨大な古龍の堂々たる歩みではなかった。

 四つの爪痕のうち、左側の加重が異常に重い。

 そして右側は、爪を地面に立てることすら叶わず、重い肉塊を引き摺ったような、深い溝となって長く伸びていた。

 

 本来、ネルギガンテの歩法は、一歩ごとに大地を粉砕し、獲物を追い詰めるための力強さに満ちている。

 だが、目の前にあるのは、自身の重さに耐えかねて崩れ落ちそうになっている老いた機械の残骸のような足取りだ。

 

 チチチチ、と導蟲の羽音が一段と激しくなる。

 青い光が狂ったように一箇所に集まり、陽光の届かない岩陰を照らし出した。

 

 その瞬間、男の鼓膜に音が届いた。

 咆哮ではない。

 地鳴りのような重苦しい振動。

 それは、無理やり肺を膨らませ、喉の奥から絞り出すような、喘鳴だった。

 

 ヒュー、ヒューと、壊れた鞴が風を漏らすような音が、広場の結晶に反響して重なり合う。

 

 男は大剣の柄を握り締めた。

 革のグローブ越しに、自身の心臓の鼓動が激しく伝わってくる。

 

 陽光の柱が、その異形の輪郭を捉えた。

 

 広場の中央、巨大な結晶の柱に寄りかかるようにして、かつて「破滅を統べる龍」と呼ばれた存在が、不格好にうごめいていた。

 

 一歩、足を踏み出す。

 

 大剣の重みが、かつてないほど肩に食い込んだ。

 それは単なる質量の重さではない。一人の職人が、一振りの剣と共に歩んできた四十年の歳月の、すべてを賭けるべき「最期の仕事」の予感が、その重みに形を与えていた。

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