一歩。
大剣の重みを前方へ預け、男は結晶の地を爆ぜるように踏み出した。
踏みしめた足裏から、結晶の破片が砕ける不快な振動が伝わる。
迎撃せんとするネルギガンテの右前脚が、凄まじい風圧を伴って振り下ろされる。
かつての王ならば、その一撃で大地を粉砕し、獲物を塵に帰していただろう。
だが、今のその前脚は、肥大化した黒棘の質量に振り回され、わずかに軌道が外側に流れている。
男はそれを、紙一重の回避ではなく、大剣の「腹」を滑らせるようにして受け流した。
――ギィィィィィィン!
鋼と棘が擦れ合い、耳を劈くような金属音が広場に反響する。
革のグローブを通じて、腕の骨に直接響くような凄まじい振動が走った。
膝の古傷が悲鳴を上げ、全身の筋肉が焼けるような熱を帯びる。
だが、男の目は冷徹に、その「摩擦の感触」から答えを導き出していた。
(……やはり、硬すぎる。だが、脆い)
本来のネルギガンテの棘ではない。
それは、地脈の熱に曝され続け、焼き入れを失敗した鋼のように、組織が不均一に固まった「異物」だ。
大剣の刃が棘の表面を削った瞬間の手応えが、あまりにも鈍い。
通常なら「断つ」感覚があるはずが、今は「ひび割れたレンガを叩いている」ような、不快なデッド感だけが掌に残る。
それは、この古龍の命そのものが、限界を超えて変質してしまった証左だった。
男は流れる動作のまま、大剣を力任せに振り抜くのではなく、最短距離でその「詰まり」へと突き立てた。
「そこだッ!」
渾身の力を込め、剣の先端を、右前脚の関節を強引にロックしている巨大な棘の根元に叩き込む。
鈍い破砕音と共に、黒い破片が弾け飛んだ。
グゥ、とネルギガンテが短く呻く。
それは痛みを訴えるものではなく、不格好な枷が一つ外れたことで、強引に「駆動」させられた肉体が上げる、不気味な金属疲労の音に近かった。
不意に軽さを取り戻した前脚に、ネルギガンテは困惑の雰囲気を纏う。
だが、自身の「王」としての矜持が、即座にそれを振り払う。
黄金に輝く瞳を鋭く細め、目の前の男に向き直る。
――視線と呼吸が交差する。
瞬間、一瞬の安息は突然破られた。
広場の静寂を、下卑た咆哮が切り裂く。
岩棚の上から、蒼黒い影が滑り込んできた。
オドガロン亜種。
死肉の如き鈍い光沢を放つ蒼黒の甲殻を、口元から漏れる赤黒い龍エネルギーが禍々しく照らし出す。
常に飢えに突き動かされる「掃除屋」は、変わり果てた姿で喘ぐ古龍を、もはや王ではなく、ただの巨大な「餌」として認識していた。
蒼黒の獣が、ネルギガンテの無防備な首筋へ飛びかかる。
だが同時に、王の生存本能が最悪の形で爆発した。
――オオオオォォォォォォンッ!
混濁する意識の中で、ネルギガンテは目の前の男も、乱入してきた獣も、等しく自らを苛む「外敵」として認識した。
枷の外れた前脚が、制御を失ったバネのように大地を叩く。
その余波で男が弾き飛ばされ、直後に巨大な尾が、背後から迫るオドガロン亜種を叩き潰さんと旋回した。
「……ッ、まとめて相手をしろってか!」
男は咄嗟に大剣を岩肌に突き刺し、結晶の床を滑るように距離を置く。
チリチリと導蟲がケージの中で怯えたように鳴き、周囲の酸素が希薄になっていくのを感じる。
ネルギガンテの放つ圧と、オドガロン亜種の撒き散らす不浄な気が混ざり合い、視界が歪むほどの濃密な殺気が空間を埋め尽くしていた。
目の前では、蒼黒の獣が身を翻してネルギガンテの背へと駆け上がり、古龍はそれを振り落とそうと、壁の結晶に自らの巨躯を激しく叩きつけている。
反動で吹き飛ばされたオドガロン亜種は、空中で身体を捩り、その口元を赤く染める。
瞬間、赤黒い稲妻が直線状に空間を切り裂き、ネルギガンテの無防備な翼を掠める。
その光景は、もはや狩場ではなかった。
炉の熱が暴走し、あらゆる部品が互いを削り合いながら崩壊していく、末期の工房そのものだ。
「……無作法な真似をすんじゃねえ」
男の声は、地を這うような怒りを孕んでいた。
大剣を肩に担ぎ直し、一瞬で重心を切り替える。
それは、「救い」などという生温いものではない。
形を失い、ただ壊れていくだけの命に、職人として最後の「始末」をつけようとする、峻厳な拒絶だった。
男は大剣の圧倒的な質量を乗せ、三つ巴の渦中へと再び踏み込んだ。
跳躍し、ネルギガンテの喉元を狙おうとしたオドガロン亜種の横っ面を、薙ぎ払いで迎撃する。
肉を断つ「刃」としてではなく、不純物を叩き出す「槌」としての横殴りだ。
ドォォォン、と重苦しい衝撃音が響き、蒼黒の獣は結晶の壁まで吹き飛ばされた。
その一瞬の隙を見逃すネルギガンテではない。
王の象徴である二振りの角を男に向け、風を切り裂くように振り回しながら突撃する。
男は間髪入れず、狂乱のままに突き出されたネルギガンテの角を、大剣の腹で強引に押し戻す。
かつてなら砕かれていたであろうその衝撃を、男は剥き出しの闘志と、手入れし尽くされた愛剣の剛性だけで強引に逸らした
「ぐ、うぅっ……!」
押し返した反動で、男の左腕の筋が激しく疼く。
加齢で薄くなった軟骨が擦れ合い、脳の奥まで突き刺さるような鋭痛が走った。
だが、男はその痛みを、己の生存を確認するための鼓動として受け入れた。
皮肉なものだ。
目の前の古龍が「過剰な生命」に苦しんでいる一方で、自分は「枯渇していく生命」を振り絞って戦っている。
「落ち着け。……お前さんのその、出来損ないのガワ。……全部、叩き割って炉に戻してやるよ」
背後で再び立ち上がろうとするオドガロン亜種の殺気を感じつつ、男は正面の王を見据えた。
視界の端には、先ほど剥ぎ取った棘の断面から、より鮮烈な、しかしひどく危うい紫の光が漏れているのが見えた。
男は再び、腰を深く落とした。
膝の痛みは、もう感じない。
代わりに、背中の大剣が「早く打て」と、かつてないほど激しく鳴動していた。
結晶の地に降り注ぐ陽光が、大剣の抜き身の鋼に反射し、狂い始めた世界の真実を無慈悲に照らし出す。
一人の職人が、二頭の暴威を相手取り、ただ一つの「正しい終焉」を打ち出すための、最期の『調律』の時。