滅尽の残響   作:冷蔵庫の奥の方

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最終話 看取りの余韻

 

 一閃。

 

 執拗にネルギガンテの首筋を狙っていた蒼黒の影――オドガロン亜種が、大剣の腹で真横から叩き伏せられた。

 

 肉を断つ手応えではなく、芯まで響く衝撃。

 不浄な龍エネルギーを散らしながら、蒼黒の獣は結晶の壁に叩きつけられ、短く、しかし鋭い悲鳴を上げた。

 

「……邪魔だ。失せな」

 

 男の声は、感情を排した冷徹な重みを孕んでいた。

 

 男が構える大剣の先からは、龍封力の残光が、まるで消えゆく蝋燭の炎のように揺らめいている。

 それは、数え切れないほどの戦場を潜り抜け、無数の古龍の血を吸ってきた鋼だけが放つ、無言の威圧だった。

 

 立ち上がったオドガロン亜種は、再び牙を剥こうとしたが、男が構える大剣から放たれる「逃げ場のない殺気」に本能が屈した。

 

 もはやそこにあるのは、狩猟という遊戯ではない。

 蒼黒い不純物は、捨て台詞のような咆哮を一つ残し、闇の奥へと消えていった。

 

 静寂が、広場に戻る。

 

 ネルギガンテと男の荒い呼吸だけが、結晶の壁に反響し、重苦しく響いている。

 

 ネルギガンテは、もはや男を攻撃する気力さえ残っていないようだった。

 古龍はゆっくりと身を翻すと、ふらつく足取りで、さらに奥――巨大な龍結晶が星空のように降り注ぐ最深部の寝床へと歩き出した。

 

 男は、大剣を杖代わりにしてその後ろ姿を追った。

 

 一歩ごとに、膝が、腰が、そして腕の筋が、焼きごてを当てられたように疼く。

 視界は疲労と熱気で歪み、時折、自分が歩いているのが結晶の地なのか、それともかつて若い頃に無謀な夢を見ていた工房の床なのか、判別がつかなくなる。

 

 足元に点々と滴るネルギガンテの熱い体液が、道標となって男を導く。

 それは追跡というよりは、役目を終えようとする古い道具同士の、静かな同行だった。

 

 辿り着いた先は、この世の果てのような美しさに満ちていた。

 天を衝く巨大な龍結晶が、外界の光を吸い込み、青白く、あるいは黄金色にまたたいている。

 そこは生命の源流が噴き出し、そして還っていく、新大陸の心臓部だった。

 

 寝床に辿り着いたネルギガンテは、崩れ落ちるようにその場に横たわった。

 

 胸元。

 

 呼吸するたびに肉を内側から抉り、心臓を圧迫している、最後にして最大の大棘。

 肥大化し、歪み、本来の成長の理を外れた「不純物」が、王の最期の呼吸を妨げている。

 その棘の断面からは、過剰なエネルギーが紫色の火花となって散り、王の肉体を内側から焼き続けていた。

 

 男は大剣を、正眼に構えた。

 

 新大陸に来る前から数えて四十余年。

 

 数え切れないほどの鋼を打ち、数え切れないほどの獲物を捌いてきた。

 火花の散る工房で、あるいは吹雪の雪山で、男が握り続けてきたのは常にこの「重み」だった。

 自分の人生とは、この一振りを研ぎ澄ますための長い準備期間だったのではないか。

 

 すべての経験が、この瞬間のためだけにあったのだと、男は悟る。

 

「……ああ、そうだな。これでおしまいだ」

 

 男は、ネルギガンテの苦悶に満ちた鼓動に、自らの呼吸を合わせた。

 周囲の龍結晶が共鳴するように低く唸りを上げ、大剣の刀身が白熱していく。

 男の腕の震えが止まり、世界から音が消えた。

 

 最大、かつ最後の一振り。

 

 大剣が描いた円弧は、空気を裂く音すら置き去りにし、歪な棘の根元を正確に射抜いた。

 

 ――カラン、と。

 

 乾いた音がした。

 

 胸元を縛っていた大棘が粉々に砕け散ると同時に、男の手に残った大剣が、悲鳴のような金属音を立てた。

 

 四十年近い歳月を共に歩み、百万回と研ぎ、強化を重ねてきた鋼が、ついに限界を迎えたのだ。

 切っ先から数寸のところで刃は折れ、刀身全体に、冬の湖に張った氷のような深い亀裂が走った。

 男の手に残ったのは、命を使い果たした鋼の冷たさと、確かな達成感だけだった。

 

 解放されたネルギガンテが、薄れゆく意識の中で、ゆっくりと首を巡らせた。

 その黄金の瞳が、真っ直ぐに男を捉える。

 

 視線が、一瞬だけ重なった。

 

 感謝も、謝罪も、憎しみもない。

 ただ、同じ時代を駆け抜けた者だけが共有できる、純粋な視線の交差。

 

 やがて王は満足したように目を閉じると、その巨躯は光の粒となって、地脈の奔流へと静かに溶け込んでいった。

 後には、砕けた棘の破片と、清冽な空気だけが取り残された。

 

「……ああ。いい焼きだったぜ。お疲れさん」

 

 男は、折れた愛剣を、まるで眠る子を抱くように優しく背負い直した。

 

 

 ◇

 

 

 アステラへの帰路は、不思議なほど足取りが軽かった。

 夜を徹して歩き続け、空が白み始めた頃、拠点の灯りが見えてきた。

 

 朝靄に包まれたアステラは、穏やかだった。

 数日前の祝祭の喧騒はなりを潜め、見慣れた朝の様子に安堵してしまったのか、急激な睡魔が男を襲う。

 

 調合用の素材が溢れる箱を両手で抱え、必要な各所へ届ける若者。

 モンスターの情報を纏めながら、次なる依頼へ向けて朝の支度を始める受付嬢たちの声。

 忙しない様子で朝食の準備を進めているアイルーたちの姿。

 

 拠点は、非日常の熱狂を脱ぎ捨て、平穏な日常へと戻り始めている。

 

 門を潜った男の前に、一人の女性が立っていた。

 

 一期団のフィールドマスター。

 彼女はボロボロになった男の姿と、その背で無残に折れた大剣を静かに見つめ、短く問う。

 

「……終わったのか?」

 

 男は、足を止めることなく答えた。

 

「……ああ。道具も、寿命だった」

 

 彼女はそれ以上追及せず、ただ、静かに道を開けた。

 男の背中に、自分たちと同じ「新大陸の開拓者」の、そして一人の表現者としての誇りが宿っているのを、彼女は理解していた。

 

 それ以上の言葉は、この場に必要なかった。

 

 数日前に突然行方をくらました男が、ボロボロの姿で歩を進める姿に気付く者もいた。

 だが、周囲の人間やアイルー達は、老狩人の余りにも清冽な雰囲気に気圧され、声を掛ける者は誰一人いなかった。

 

 

 ◇

 

 

 加工場の、いつもの席。

 まだ誰もいない薄暗い工房には、使い込まれた鞴や、煤けた槌が静かに主を待っていた。

 

 男は台の上に、柄だけとなった愛剣を横たえる。

 

 使い古した煙管に火を付けると、紫煙が加工場の静かな熱気の中に溶けていく。

 

 遠く、龍結晶の地から響いてくるのは、もう、あの金属疲労のような悲鳴ではない。

 

 澄み渡り、安らかに脈打つ、新大陸の心音。

 

 男は、もう、武器を握ることはないだろう。

 だが、その代わりに得た静寂は、何物にも代えがたい報酬だった。

 

 男はその音に耳を澄ませながら一度煙を燻らせると、口に咥えていた煙管を静かに置く。

 最期に、愛剣を一瞥し満足気な表情を浮かべながら、深く、深い眠りへとついた。

 

 立ち上っていた煙管の紫煙が、ふっ……と揺らいで消える。

 

 入口から差す新大陸の朝陽が、冷えた工房の床をゆっくりと照らし始めていた。

 

(完)

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