『炎の夜を越えて』───外相、小村寿太郎の戦い 作:あおさ海苔
───1904年5月29日
この日をご存じだろうか? いや、知らない人の方が大半であろう。
1904年2月8日から始まった日露戦争、その中で誰もが知っていると言っても過言ではない『旅順要塞攻囲戦』において、その陸戦指揮を執った第三軍の軍司令部が編成された日である。
この日、大日本帝国の外務大臣である小村寿太郎はいつもより早く大臣室に居た。朝起きた時からだろうか、どうにも『何かしなければならない』という焦燥感に駆られており、朝食もあまり喉を通らず大臣室まで来てしまっていた。確かに今は国運を賭してロシア帝国と戦争の真っ最中であり、やることなど山積している。
軍事的勝利だけでは戦争に勝てない。いや、軍事的勝利を得るためにはまず事前に外交で勝たねばならない。そう考える小村の戦いは開戦前から今日までずっと続いていた。
だが、いざ大臣室で優先度の高い執務に取り掛かっても小村の焦燥感は消えることがなかった。何かをしなければ、何かを止めなければ、心の中で何かがざわつく。この日は一日中ざわつきが消えることはなかった。
その日の夜、奇妙な夢を見た。極東の地図を背景に大きな炎がゆっくりと帝都から中国のほうへ移動していくのだ。それは海を渡り、地図的に大連のあたりに向かい、そのあとゆっくりと旅順のほうに向かうように見える。
旅順───満州の陸軍と日本本土を結ぶ生命線である海上輸送路を脅かす、強力なロシア極東艦隊が停泊する軍港である。海軍が開戦劈頭の奇襲攻撃に加え幾度も閉塞作戦や奇襲を行っているが、いまだこの艦隊の撃滅は果たせておらず陸軍は常に後背の海上輸送路を脅かされ続けている。
食料、弾薬、人員、陸軍が大陸でロシア軍と戦うのに必要なありとあらゆる物がこの海上輸送路を通っているのだ。
もしこの夢が旅順に関係する事で、何かとてつもない重要な事を伝えようとしているのならば直ちに何か手を打たねばならない。小村は翌日起きてすぐ着替えるとすぐさま海軍省に向かった。海軍はつい先日、貴重な6隻しかない戦艦のうち2隻を触雷で失ったばかりである。もしやこの夢は海軍にとてつもない大惨事をもたらす予兆なのではないか? 小村の中であの焦燥感がなぜ自分をこうも突き動かそうとするのか、その理由がわかったような気がしてすぐさま海軍省へと向かった。
海軍省に向かう途中、小村の脳裏には2つの相反する想いがあった。あのような夢を見たからという理由で、今も感じる焦燥感という奇天烈な、非科学的な物を根拠に動いても良いのだろうか。そも他人に説明できるようなものではなく、こんな理由で目の前の職務を放置してまで動くのは国の大臣職に就く身として恥すべきことではないか?
いや、ことこれほどまでの国難である。かつて元寇の時は神仏だけでなく妖怪までもが日ノ本のため戦ったと聞く、その類なのかもしれぬ。我が身の恥一つで何か大きな災いを回避できるであれば、甘んじてその様な恥は受けようではないか。
そんな2つの想いに囚われながら到着し、海軍省の受付に話をするとたまたますぐ海軍大臣の山本権兵衛に会うことができた。海軍大臣室に通された小村の視界に入ってきたのは、目の下にクマをつくりずいぶんと憔悴しているように見える山本大臣の姿だった。
だが気遣う余裕はない。こちらも焦燥感に突き動かされており、顔色をうかがって立ち去る事はできない。
「山本大臣……突然だが、旅順について話したいことがある」
「藪から棒になんだね小村大臣、『初瀬』に『八島』の喪失についてか? いや『吉野』喪失と『龍田』座礁についてか? 海軍としては───」
帝国海軍始まって以来最大の厄日である5月15日の件についてまた何か言いに来たのだろう、そう思ったのか山本はバツの悪そうな顔をしながら目線を合わせず、自嘲するかのようにまくし立てる。
そう、1904年5月15日はまさに帝国海軍始まって以来の厄日である。日本海軍は当時保有していた主力戦艦6隻(富士、八島、敷島、朝日、初瀬、三笠)のうちの三分の一を数時間のうちにロシア軍の機雷で喪失した。また同日未明には巡洋艦『吉野』が味方艦との衝突により沈没。触雷して沈没した『初瀬』と『八島』の生存者を収容していた通報艦『龍田』も座礁するという大惨事であった。
「おい、聞いているのか? 聞かれたから話しているんだぞ」
さらなるいら立ちを込めた山本の声は小村に1つの奇妙な確信を抱かせた。
もし神仏が厄災から祖国を救おうとするのであれば、なぜ昨日から私にこの奇妙な現象を起こしたのか? 夢として警鐘を鳴らすのであれば5月15日より前ではないのか? ともすれば5月15日であれほどの被害をもたらしたのである。それ以上の何かこの戦争、いや帝国にとって致命的な何かが旅順で起こる。海軍始まって以来の厄日など艦艇損失程度の『小さな事』でしかないほどに。
しかし直接『夢を見た』などど言ってしまえば、いよいよ小村も頭がおかしくなったと笑われるだろう。そう思い、あえて直接的な表現は避けることにした。
「山本海軍大臣、その話ではない。旅順攻略に関して、何か大規模な動きはないか? 対外的に先日の艦艇損失は『必要経費だった』と説明できれば、まだ外交面だけで言えば傷は浅い」
「……海軍の出番はしばらくない。今は陸軍の出番だ」
そう言うと机の上にあったそれなりに分厚い書類束を手渡してきた。そこには先日編成された第三軍をもって旅順を攻撃するという作戦情報が書かれていた。
詳細は書いていなかったが、司令官には日清戦争で旅順攻略に参加した乃木希典大将が、参謀長には砲術の専門家である伊地知幸介少将が、軍参謀らには開戦後に海外赴任先から帰国してきた俊英揃いであると書いてある。
総兵力は2個師団を越えてさらに増強される。
これを見るだけでは特に問題ないように見える。陸軍も見事な人事と兵力を注ぎ込む事で旅順を早期陥落させ、満州での陸上決戦への影響を抑えようという事であろう。
だが、昨日から続くこの焦燥感はこの書類束を読んでも全く変わらなかった。いやむしろより強まっている。第三軍という言葉を目にした時から再び『何かしなければ』と身体が勝手に動きそうになるほどだ。
「小村大臣……そんなに報告書をまじまじとみてどうしたというのだ。まさか外務大臣たる貴方が陸軍の攻撃を知らなかった、というわけではあるまい」
確かに陸軍が攻撃する事は知っていた。だが第三軍が編成された、司令官は乃木大将で、という詳細情報に触れるのはこの時が初めてであった。
ああこれだ、間違いなくそうだ。私は第三軍と旅順が組み合わさった時に起きる『何か』を止めねばならないのだ。ずっと感覚に押され続けていた小村の理性が、状況を整理しカチリとはめる。
その後の小村はまさに行動力の化身が如くであった。
山本海軍大臣に『急ぎやらねばならぬ事ができた』と告げると、すぐさま海軍省を飛び出す。
外務省に戻れば直ちに移動中で頭へ叩き込む必要のある情報が書かれた書類と身分書や現金を鞄に入れだす。傍から見たらただの奇行でしかないが、そんな大臣を見て混乱する職員へ『書面は関係各所へ渡し、出張に関わる一切は妻と職員に託す』と告げ走り出す。外務省の入り口に居た人力車に駅へと急ぐよう伝え、そのまま鞄一つで横浜行の汽車に乗り込んだ。
行き先は、『釜山』
───1904年7月3日
海風が夏の釜山港を鋭く切り裂いていた。
小村は、軍服姿の若い士官に付き添われ、釜山港の一角に設けられた陸軍部隊の仮設の司令部に向かっていた。
この司令部は小村が乗ってきた船に同乗していた第三軍への補充兵と新規編成された部隊のものだ。
船旅の最中、兵士達と共に波間に揺られながら小村は感じていた。兵士達は貝のように閉じ籠もる旅順艦隊ではなく常にウラジオストック巡洋艦戦隊の攻撃に怯えていた。満足な護衛もなく、実際に大きな被害が出ていたのだ。
さらに直前に『常陸丸事件』が起きていた事も大きい。
6月15日に玄界灘を西航中の陸軍徴傭運送船3隻が、ウラジオストク巡洋艦隊所属の3隻によって相次いで攻撃され、撃沈破されたのである。
特に、陸軍徴傭運送船『常陸丸』は近衛後備歩兵第一連隊を輸送しており、装備だけでなくその兵員もまた喪失していたのだ。
新聞では各社こぞって一面を連合艦隊、特に日本海の海上警備を担当していた上村彦之丞中将の第二艦隊に対しての非難で満たし、世論は急速に海軍への非難を強めていった。
陸軍の一部では海戦劈頭の奇襲攻撃成功以外は失敗続きである事をなじり、蔑む者も出始めているように感じていた。それに反発する海軍との軋轢も徐々に強まり始めている。
司令部までの道のりの中で、恐怖と慣れぬ船旅で疲れ切った兵達の合間を抜けていくこと幾ばくか。無事、仮設司令部へと足を踏み入れることができた。
釜山の港に作られた簡素なこの仮説司令部の室内では、戦況図が広げられ赤い石がびっしりと旅順要塞の外周を囲んでいる。
旅順要塞の方を地図で見れば青い石が山や村など、恐らく重点部分に纏まって置かれている。青がロシア軍で、赤が我が軍ということであろう。
なるほど、これから休養と装備を確認後に列車移動となるため、その待合時間を使って士官らは現状把握や机上演習など行うためのものだろうと小村は理解した。
しかしその戦況図に使われている地図に少し違和感を感じた。どうにもその地図は清軍の記載がある。もしかするとこれは日清戦争の時の地図ではないか? 小村はその地図を見てとうとう足を止めてしまった。
「これは旅順外延部の戦況図です。塹壕ほか陣地構築も終えたとのことで、電報情報を基に作成しております」
「旅順要塞への攻撃開始は間もなくです。日清の時のように陸軍は勝利を確信しております大臣」
だれも地図の古さには触れず、仮説司令部に居る者たちの声は明るい。しかし小村は、胸の奥にざらついた違和感を抱えていた。
その感覚は数日前から続いているあの焦燥感だけではない。いや、それに加えて説明できない『既視感』のようなものが、胸をつねるように疼いていた。
自分もあの緊張の続く船旅で調子でも悪いのかもしれない、そう思い一度司令部を出て休もうかと振り返った時、明け放たれていた扉から、海の向こうから鈍い風が吹き込んだ。その瞬間───
視界が、突然、変わった。
炎の揺らめき。
黒煙が夜空を覆い、人々の怒号が狭い街角に反響する。
石を投げる音。窓ガラスが割れ、新聞社の看板が倒れる。
暴徒の影が幾重にも揺れ、交番にすら火を配られ、火の手が高く高く上がっていく。
「なぜ……なぜ街が燃えている?」
思わず声が出る。知らぬ景色ではなかった。恐らくここは日比谷だろう。
しかし、なぜ釜山の仮設司令部に居るはずの自分がここにいるのかが分からない。それ以上に何より『これは未来だ』という確信だけが、胸の奥に焼き付くように残った。
だが、次の瞬間、視界はふっと暗転した。
「外務大臣? どうされました」
声をかけられてハッと意識が現実に引き戻されると、小村は仮設司令部の入り口に立っていた。壁にもたれかかり、額には薄い汗が浮かんでいる。
「……今、妙なものを見た。街が……燃えていた」
思わず小村の口から言葉が漏れた。
士官は怪訝な顔をした。あたりまえだ、現役の外務大臣が突然ふらついたかと思うと、壁にもたれかかり荒い呼吸と汗を浮かべている。まるで一瞬のうちになにかとてつもない事でもあったか? いや、何か急病、発作でも起きたのだろうかと疑う。しかもその外務大臣の口から出てきたのはまるで理解不能な言葉だったから余計に困惑している。
「夢の話ですか?」
「いや、夢ではない。あれは……これから起こる出来事であった気がするのだ」
士官から夢ではないかと疑われた小村は、己の言葉に我ながら戸惑った。外交の世界で、こうした曖昧な直感に頼ることはない。だがあの炎の光景は、ただの幻ではありえなかった。
小村の身を案じる士官に『一度外の空気を吸ってくる、船旅が祟ったのだろう』と言うと、小村はふらつきながら仮設司令部の外に出た。
大きく深呼吸をして、自分を落ち着かせようと努める。
もう一度目を閉じて深呼吸した後、ゆっくりと目の前を見る。
港の向こうに灰色の、それでいてまるで切り裂かれたかのように割れた曇り空が広がっていた。これから日本が辿る未来に、何か取り返しのつかぬ亀裂が入っている。そんな確信が、消えない。
「……旅順が落ちれば、戦は大きく動く。講和の道筋も決まってくる」
無意識に呟いた言葉に自分自身が背筋を冷やす。
旅順で大きく戦が動く? これほど盤石な編成で恐らくまたたく間に攻め落とすであろう要塞戦で?
要塞を攻め落とした後、旅順艦隊の撃滅の事だろうか? いや何かが違う。
『炎』
そう炎だ。あの炎はこの戦争における結果。つまり「講和」が引き金になっているのではないか?
あの光景にロシア軍や武器による惨事はなかった。それに日本国内の事である。ますます戦時の事ではないはずだ。
「まさか……講和後に、あの惨事が……?」
答えはない。だが小村の胸にはひとつの感覚だけが残った。
きっとあれは歴史の最悪の分岐点だ。
そしてその分岐点を避ける方法は、今の自分にはまったく見当がつかない。
呆然と立ち尽くす小村に向かい海風が吹き抜ける。まるで未来の炎の熱を冷ますように。
しばらくその場に立ち尽くしていたが、一度コホンと咳き込むと静かに息を吸い込んだ。
ここから始まる戦闘、外交、そして国民感情の渦。どれかひとつを誤れば、あの夜の炎は避けられない。だが、その未来を変えねばならぬ、と彼は直感していた。
こうして小村の『ループ』とすら気づかぬ最初の試練が、静かに幕を上げた。