『炎の夜を越えて』───外相、小村寿太郎の戦い   作:あおさ海苔

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第五章 改変は想定外の未来を産む

───1904年6月20日

 

 

 東京に戻った小村は『2回目』の反省を活かし、旅順攻囲戦にあわせて国内世論にも踏み込んでいた。

 あの炎をもたらす火種は、今も新聞や辻演説する政治結社、野党議員などか叫ぶ現実を無視した勝利である。

 今まで見た中では『賠償金20億円』『極東ロシアの全割譲』『ロシア太平洋艦隊すべての賠償艦化』『極東ロシア軍の全面非武装化と装備接収』という子供でも言わぬような事が国民の支持を受けていたのである。報道されている内容のほとんどは日本軍の連戦連勝である。そのぐらい勝利の分け前としてもらえて当たり前だということだろう。

 

 そんな国内世論を抑えるべく動いた御用新聞とまで揶揄されているある新聞社の編集長と社長に極秘で会談した結果について、手元にあるその新聞社の朝刊を読む。

 一面には『乃木大将、高地を奪取し旅順艦隊を撃滅す』『海軍の奇策、観測艦砲射撃とは!?』『特集、陸軍の今孔明 神尾少将』

 ───只々軍の勝利を喧伝する文字が並んでいた。

 

 そんな期待する内容とは真逆の記事を前に、先日の極秘会談の事を思い出す。

 小村は社長にまず軍の華々しい勝利だけでなく、前線に居る兵達のありのままの姿であったり、この戦争が欧米列強に黄色人種であると下に見られている事を見返すための戦いであるといった宣伝を行って欲しいと頼んだ。

 社長も編集長も現職の外務大臣から直接の願いである。また本来であれば国家存亡をかけた戦いである以上、協力は惜しまぬつもりである。しかしながらそれでもなお編集長の苦い顔は消えず、きつく結ばれた口からは同意の言葉は出てこない。

 それを見た社長は小さく、そして静まり返った料亭でなければかき消されるようなささやきで答えた。

 

「それでは部数が稼げんのです……国民は勝利を望んでいるのです……」

 

 すると社長と編集長は二人揃って正座から深々と頭を下げ畳につける。それは土下座と呼ばれる物であった。

 

「小村大臣、どうかご容赦ください。この戦争で国民は限界まで耐えております。そんな国民から勝利という唯一の希望を奪わんといてください……」

 

 社長と編集長の啜り泣く音が響く夜の料亭で、小村は3回目のこの世界にしてなぜ炎の夜が起きるのか、その一端に触れたような気がした。

 

 

 

 意識を今に戻し、続いて『2回目』の講和会議を大きく批判し国民を煽った新聞各社に対して匿名で、『講和を求めるべき』『この戦争は列強へ我が帝国の実力を知らしむるための戦いである』『蟻が象に戦いを挑んでいる、象が参ったと言えばそれこそが蟻にとって最上の勝利である』といった国民に現実的な妥協点で納得しやすくする為の投書を送っていた事に思いを馳せる。

 小村はマスメディアやそれに伴う戦略についてはてんで無知であったが、先程思い出していた新聞社への直接工作に加えてこうした草の根でも意見形成するこが重要なのではないかと考えていたのだ。

 そして机のうえに積まれた新聞各社の朝刊をため息ながら手に取る。もはやよく見ずともわかる一面であった。

 

 『政府から報道への干渉か?、言論の自由を今こそ守るべし』

 『努力には対価を、勝利には対価を、今こそ国民一丸となってこの様な惰弱な気持ちを捨てて団結すべし』

 『これ程優勢であるのに講和を求める勢力とはいったい? 特集、国内の反政府秘密結社』

 

 残念ながら改めて紙面を見る限り小村の努力はどれも逆効果であったようだ。逆に世論は『打倒ロシア』という風潮になり、巷ではロシア皇帝ニコライの肖像画を踏んで団結を高めよう! などどぬかす狂信者としか言いようの無い輩まで現れ始めた。そんな行き過ぎた思想犯によって国内のロシア正教に関する教会や施設では襲撃の危険があるため、政府はわざわざ警官隊を派遣して警備を行い始めた。しかしそれもまた『そんな余裕があるなら前線に送れ』だとか『味方より敵を守るのが得意』だと批判が相次ぐ。さらにそれを野党や過激派が煽る。まるで自分たちが正しいことをしていると信じ切っているようであった。

 当然そのような状況では警備する警官隊の士気も上がらない。警察から政府への苦言は増える一方である。

 

 そう、まるであの炎の夜を変えさせまいとするなにかとても強い、人知を超えた力を感じる。

 また今回もそうなのだ。違う道筋を踏もうとした瞬間、会議の裏で、報道の裏で、戦闘の裏で、理由の分からぬ抵抗や政治的な壁が次々と現れる。

 そう、まるで歴史そのものが、既定の流れへ押し戻してくるかのように。

 

「……運命とでも言うのか、いや、だがそれでも」

 

 小村は血が滲むほど唇を噛んだ。このままではまた未来は変わらない。あの炎の夜もまた変えられない。

 しかし、それでも進まなければ、変えなければならない。

 だかあの時見た未来とは確実に変わり始めているはず。運命など人の叡智は変えられるはずだ。あの炎の夜を知っているのはたとえ自分のみだったとしても、今回は多数の仲間達が居る。絶対に大丈夫だ。

 そう自分に言い聞かせながら小村と仲間達の戦いはポーツマスに向けて渡米するまで続いた。

 

 

 渡米直前、小村は前回ポーツマス会議に提出した講和を元にした草案を今回も多数の障害を乗り越え修整する事に成功した。

 まずは『2回目』の反省も踏まえ賠償金を多少なりとも確保しなければならない。最初の領土要求は樺太の全島割譲とカムチャッカ半島の割譲とし、ここでカムチャッカ半島の要求を放棄する事で賠償金を得ようとしたのだ。

 『1回目』と『2回目』に比べて、陸軍は旅順攻囲戦で甚大な損失を出さずかつ迅速に勝利した。そのため連合艦隊の補給や訓練などはバルチック艦隊の回航までに無事完了し、日本海海戦の結果バルチック艦隊の多数がウラジオストクにたどり着くことなく撃沈、降伏した。日本側の艦艇は旗艦の三笠こそ中破したものの、その他の被害はきわめて軽微である。

 また海軍の再整備が間に合ったため、井上元外務大臣による対外工作によって『2回目』では英国カノーパス級の購入資金に回した対外借款を増税回避に使い、国民生活の窮乏を少しでも減らすよう努めている。

 太平洋側に活動可能な主力艦の一隻すら失ったロシア海軍は、その保有する全艦艇で見ても8割近くを喪失している。もはや海軍そのものが消滅しかけているのだ。

 そのうえで、兵力を温存した第三軍はしっかりと補給と休養を経て、奉天会戦では果敢なる片翼突破に成功したのであった。そのうえでその動きに呼応するかのごとく日本陸軍の包囲が成功し、有史上カンネー以来とまで称される圧倒的な包囲殲滅に成功したのであった。

 捕虜は10万人を越え、撤退に成功したロシア軍のほとんどは火砲など重装備に限らず、小銃すら投げ捨ててやっとの事でチチハルまで大きく撤退した。

 ハルビンからロシア側が撤退したことにより、ウラジオストクとモスクワを繋ぐ東清鉄道経由での支援が見込めなくなりウラジオストクも無抵抗宣言を出した、つまりロシア極東方面軍は事実上降伏状態にあった。

 

 この様な状況で日本陸軍にはまだ戦闘を継続できる余力がある。ロシア軍が遺棄した軍需物資により万全な補給も得ることができた。一部の後備旅団では幕末の頃から使っていたスナイドル銃や22年式小銃を遺棄されたロシア軍のモシン・ナガン小銃に持ち替え、使い古した軍服は程度のよいロシア軍の軍服に日の丸の腕襷を縫いつけ装備も万全にすることができた。そこまで準備万端といえども世論の求めるようなウラルの向こう側まで行けるわけではない事は政府も軍も当然承知している。

 こうした状況の中、満足な補給も支援もないロシア極東沿海州の治安は崩壊し無政府状態に陥り始めている。

 各地から日本軍に保護を求めるロシア人達が押し寄せ占領地はごった返していた。指揮統制が崩壊したロシア軍の一部が野盗化したり、馬賊たちによるロシア系住民への襲撃が相次いだためである。

 

 英国や米国経由でもたらされたロシア政界の情報によると、多数捕虜となった貴族階級の解放を求める声も大きくなっているとの事である。

 こうした状況の中で陸に海にと決戦では圧勝し軍事的、外交的の懸念点もない。前回以上の講和条約を結ぶ事にもはや疑いの余地はないのだ。

 しかし小村の胸の中で蠢く焦燥感は消える事がない。

 そうしてポーツマスに到着した小村達に届いたのは驚くべき報告であった。

 

 

 

───1905年8月5日

 

 

「なにぃ!? 交渉団が来ていないだと!!」

 

 

 ポーツマスに到着した小村達の前に、以前であればまるで戦勝国のごとく振る舞い先んじて到着していたウィッテとロシア代表団の姿はなく、そしてそのまま現れることはなかった。

 1905年1月22日にロシア帝国首都サンクトペテルブルクで発生した『血の日曜日』によって国内暴動が激化していた。過去のループではその政治不安が交渉の追い風となって日本を助けたが、今回はその状況にも関わらず、皇帝は抵抗力をほぼ喪失したロシア極東軍に向けてメンツから現実を無視した欧州からの大規模な派兵を行い、戦力的空白を生んでしまったのだ。

 皇帝の怒号から発したこの大規模派兵は、当然のごとく兵員輸送どころか命令伝達すらまともにおぼつかず、大混乱を引き起こす。

 完全充足した旅団も、それを指揮する司令部も、それを運ぶ列車も、装備も食料品もありとあらゆる物は『やれ』という一言でどこからか湧き上がってくるものではない。

 ヨーロッパ側のロシア各地で無理やり集められた兵達は装備する物もなく指揮する士官すらおらず、食料も寝床もないまま放置された。そうした兵達がどうなるかは言うまでもない。各地で治安は大いに悪化する。僅かながら統制された即応軍は駅で永久にやってこない列車を待ち続け補給途絶、または襲撃を受けた。

 そう、この機を逃さずロシア帝国に虐げられてきた諸民族は一斉に蜂起したのである。

 無差別に集められた兵士の一部は装備を持ったまま右往左往するロシア軍を撃破したり、駐屯地に僅かばかり残っていた装備を略奪し、輸送部隊を襲撃してその勢力を拡大させる。その結果あのロシア帝国はかつての姿からは想像もつかぬほど揺さぶられ、まさに代表団すら送ることすらできぬ混乱ぶりである。

 

 ポーツマスで待機すること幾週、ついにロシア帝国政府より『無期限交渉中止』と『無条件即時講和』の報がもたらされた。

 延期なのか即時講和なのか、それすらもまともに統制できないロシア政府の混乱ぶりである。

 だがその報にあわせて、フィンランド、バルト諸国、ポーランド、ウクライナ、バスマチ諸国の『独立政府』から講和会議拒否の嘆願も到着する。

 

 さらに混乱に拍車をかけたのがロシア国内で起きた無政府主義者によるテロ事件である。この凶弾はまずは国内騒乱の沈静化を目的としてヨーロッパ側の国境軍を動員しようと向かっていたロシア皇帝ニコライを貫く事になった。 

 こうして皇帝は斃れ、短期での混乱収束は全く望めない状況となる。

 この状況ではもはや講和会議は実現不可能としてルーズベルト米国大統領もポーツマス会議の無期限延期を決定する。

 

 ある意味でついに完全勝利を大日本帝国は得た。兵士の損害を減らし、海上でも比類なき戦功をあげている。まさにこれ以上ない勝利である。賠償金や領土を得ることは今はできていないかもしれないが、事がおさまれば間違いなく求めていた条件を全て叶える講和条約となるだろう。今度こそあの炎の夜は回避したはずだ。

 しかし改めて冷静に考えれば、今度は講和会議そのものが流れるという歴史を変える事には成功したのかもしれない。いや、『無期限延期』という発表から見るに講和会議自体が消えることはない。歴史を変えたとまでは言えないのかもしれない。

 急変する国際情勢によって大混乱の中、小村達は追い出されるようにポーツマスを後にする。横浜港へ戻る船旅の中で小村の胸の中に残る焦燥感は消える事がなかった。

 

 

───1905年9月5日

 

 小村はまたしても外務省の中で多数の外務官僚に囲まれていた。

 

『国民が求めるのは未来の勝利ではない、今の勝利なのだ』

『どこへ行った賠償金と領土、交渉相手を消し飛ばす政府の大失態』

『今こそシベリアを帝国へ編入し、ウラルを越えて攻め込むべし』

『ロシアからの独立諸国を支援し、帝国の共栄圏設立を』

 

 交渉するべき政府を失った外務官僚達にとって、新聞や世論の声は滑稽にもほどがあった。

 どれもできるはずのない夢物語である。しかしその現実を国民感情が受け入れるはずもない。空前絶後の大勝利なのである。

 あれだけ苦しい思いをしたのだ。後もう少し、もう少しだけ、そんな欲が日本を覆い隠していた。そんな中、現実を見据えた桂内閣は各地に乱立する『独立政府』とロシア帝国の和平斡旋に米国や英国含めた列強と躍起になっていた。

 この様な民族的活動が成功してしまえば列強の足元にも火が及びかねないのだ。既に英仏の植民地だけでなく、それよりも脆弱なオスマン帝国各地で独立運動が発生し、バルカン半島諸国もこの混乱を活かすべく煽動を始める。

 ナポレオンを倒し、色分けが簡単になった世界を、あの炎の夜は燃やし尽くそうとでもしているのだろうか?

 世界は大きく揺れ始めていた。

 

 対策会議で集まった外務官僚達と共に、小村は今後の方針を決定してゆく。だがどれも国民が納得するとはとても思えない。今日は日比谷公園を含めた各地で倒閣を目的とする反政府集会が開かれている。

 再び自制を求める匿名の投書も行ったがまったく相手にもされず、ついには政府として沈静化に動いた時点で維新の元勲達から『我が国もロシアの二の舞になる』と圧力をかけられ、もはや桂内閣には打つ手などほとんどない。

 

 そしてしばらくして大臣室で息苦しさを感じた小村は窓を開けた。

 

 

 

 風が吹いた。

 

 夜の気配が広がる。

 

 残念だが、あの炎の夜はきっとまた起こる。その炎を全世界へと広げながら───

 

 

「止めねばならん。こんな未来を誰が望もうか……次こそは、この命を賭しても、いや何度でも」

 

 小村は静かに拳を握る。決して諦めることはできない。前回よりも間違いなく良い講和にできたのだ。きっと変えられるはずである。では何が足りないのか。

 ループ『何か』を求めている。その答えを見つけるまで、終わらぬのだ。

 

 一段と強い風が吹く。

 その風が運んできた焦げ臭い炎と共に、小村の意識はまた遠のいていくのであった。

 

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