『炎の夜を越えて』───外相、小村寿太郎の戦い 作:あおさ海苔
───1904年5月29日
小村は幾たびも迎えたこの日を迎えていた。だが今回も以前と同じように迷いなどない。やるべき事をやるだけである。この国をあの炎の夜から救うには、一分一秒でも惜しいのだ。
前回は破局を迎えた世界情勢という最悪な結末を迎えたが、そうなってしまった原因を自身の介入に求めるのは正しい事であろう。
今回もまた寝床から出て身支度を整えつつ脳内で考えをまとめていく。
1.井上馨 元外務大臣に強力に外債確保を支援してもらい、補給物品の確保と増税を可能な限り抑え、国内生活への影響を押しとどめる事
国内世論への影響を狙って軍備に余り使わなかった予算、残念ながら国内世論には響かず戦勝による利益を求める声は避けられなかった。
この予算の使い道については一考の余地があるだろう。
財務大臣……いや、単独で動くのではなく桂首相にお願いして政府として動かねばならない問題だろう。
2.旅順攻囲戦にて桂首相と膝を突き合わせて語り、速戦速攻の政府要望を出さずに時間をかけてでも消耗を抑制する事
これは最低限必要な事だ。多数の死傷者や、路頭で物乞いになる傷痍軍人が減れば減るほど『対価』を求める国民感情は減るはずだ。
何より、初めて旅順攻囲戦に同行した時の惨劇は今も忘れることなどできない。
少なくとも過去の経験上、この選択が何か悪い影響を与えたことは無い。
3.旅順攻囲戦で神尾陸軍少将と釜屋海軍中佐の『発案』した旧式艦による艦砲射撃支援により旅順攻囲戦を早期終了させる事
これはよい新しい介入だったはずだ。松島級や鎮遠などの旧式ながら大口径砲による艦砲射撃は、確かに旅順攻囲戦で決定的な役割を果たした。
203高地の防御陣地を松島級の大口径砲は吹き飛ばし、容易く占領できた。その後奪回に来たロシア軍を再び松島級の主砲でなぎ倒した後に、旅順港への観測艦砲射撃を実施した。
ハズレ弾も旅順市街地に落ちて、ロシア軍は観測地点である203高地への逆襲に躍起になるもロシア軍陣地から203高地までの道は遮蔽物がなく、その観測対象を旅順港からロシア軍に向けた陸海の砲撃によりまたたく間にロシア軍予備兵力は枯渇してゆく。
投錨している第三艦隊を攻撃しようと旅順艦隊も出撃したが、4月13日に旅順艦隊旗艦の戦艦『ペトロパブロフスク』が機雷によって轟沈したように、出撃してきた戦艦『セヴァストポリ』が触雷して大破し引き返す。
やむなく旅順艦隊は駆逐艦による夜間襲撃により第三艦隊の撃退を試みるも、夜間には既に第三艦隊の姿はなく反撃は空振りに終わった。
戦艦部隊の出撃が無いことを確認し、第一艦隊ほか主力艦は佐世保に後退し整備と補給、再訓練を開始する事ができ、その後の日本海海戦で英国戦艦の追加購入なくとも大勝利する事ができる結果に繋がった。
そしてこの案を通すためには今日の朝のうちに二人へ接触しなければならない。今回は『3回目』の旅順攻囲戦における艦砲射撃について両名が反省会を行い指摘した点について、さらなる修正を行う予定だ。
少なくとも第三艦隊が夜間後退することを察したロシア側による夜襲によって第三軍に少なからず被害がでた。
この点についても旅順攻囲戦後に予め繰り返す事を想定した小村が原因と対策について確認している。
4.上記を元にポーツマス条約にて賠償金を要求する。主に奉天会戦で得た貴族階級の捕虜や、捕獲したロシア海軍艦艇の返却などによりロシア側に賠償金支払は止むなしと認めさせる事
これは残念ながら当てが外れたと言っていいだろう。
賠償金は払えずとも、人道的見地や壊滅した海軍の再編成のため何かしらの名目をつけて金銭の支払いに応じるかとは思ったのだが……結果はロシア皇帝の逆鱗に触れ、現実を無視した大規模追加派兵に始まる秩序の破滅であった。行き過ぎた勝利はロシア側の態度硬直や体制の崩壊を招く。
この点は違う動きを試さねばならないだろう。
5.4をもって国民に講和が勝利であると知らしめる事
講和会議がそもそも不成立となったため、この条項は機能しなかった。
そのうえで、建国以来最大の勝利であるはずの大勝利であっても、国民はさらなる次を求めあの炎の夜に繋がっまてしまった。
辛勝でも、大勝でも、記録的勝利でも国民は納得しない。いったいどのような結末なら納得するのだろうか?
現時点では皆目見当もつかない。
6.外務官僚達に『思考実験』として、この繰り返してきた経験を伝えて一人では思いつかない事や必要な行動に協力してもらう事
こちらも必須であろう。旅順攻囲戦における陸海だけでなく学問の力を借りた事は記憶に新しい。観測艦砲射撃の件で砲撃は数学で、砲弾は科学なのだという事を小村もよく理解した。
7.新聞社などを通じて現実的勝利への納得感を国民に訴える事
この点は大失敗であった。御用新聞扱いの政府寄りである新聞社からも断られたのだ。そのうえ好戦的な記事を飛ばす新聞社に至っては言論の自由という錦の旗で講和に関する論調を徹底的に叩いてくる。
そして国民がどちらの記事を読み、どちらに心が向くかは痛いほど理解した。しかし小村はマスメディアというものに関して理解が薄かった。何か新しい打つ手を考えようにも何も思いつかない。最初のポーツマス条約のために渡米した時、米国の記者を怒らせたことを思い出す。どうにも自分にはこうしたメディア戦略というものは向いているように思えなかった。
誰かしらこうした点が得意な者の力を借りなければならない。
一通り『3回目』の振り返りを行った後、外務省へ出発しようとした小村は玄関で頭を抱えてうずくまってしまう。
脳裏に一つ浮かんでしまったのだ。先程脳内で整理した事をやったとしてどうなるというのかと。あれだけ苦労しても逆に前回はさらなる結末の悪化を招いたと。
これ以上どうすべきなのか、むしろ神がサイコロを振るように自らが何もしなくても歴史は毎回変わっていくのではないか? 自らこれ程辛く苦しい思いをせずとも今回は見えざる神の手に任せてはどうか? どうせ今回もまた───「何してんだい、そんなところでさ」
抱えていた頭をパシリと叩かれた。振り返れば腕を組んで不機嫌そうな妻の町子が居た。
「お前さんみたいなずぶとい男が玄関も出ずに頭抱えててどうすんだい、ほら、とっとと仕事に行って稼いできな!」
もう一度頭を叩かれた後、小村は立ち上がる。不思議と先ほどまでの不安も、折れそうな気持ちも、繰り返すたびに増えていく焦燥感も一次的なものかもしれないがきれいさっぱり消えていた。
一言、長年苦労をかけてきた妻の町子に礼を言う。町子は怪異でも見たかのように目をぱちくりさせると首を傾げ「なんか悪いものでも食べたのかねぇ」と言いながら戻っていった。
ふふっと小村は笑うと、再び活力と決意を滾らせ外務省へと向かった。
今回が駄目でも仕方がない、自らは只々進むのみ。そう小村は自分を奮い立たせた。
外務省に到着した小村は、今回も『思考実験』という課題を外務官僚達に投げつける。
しかし今度は懇切丁寧に説明するのではなく、黒板に要点を示し口頭で不足分を説明するとすぐ外務省を後にした。一つ、重大な覚悟を決めたのだ。
「小村大臣前置きはいい、顔を見ればわかる」
総理公邸に到着した小村を、今回もまた桂首相は真剣な表情で迎え入れた。事前に使いを出してはいるが、あくまで『国家存亡に関わる案件にて今後の予定全て空けてほしい』とだけ伝えていた。
それだけで桂首相は事の重大性と嘘や冷やかしの類ではないことを見抜いたのだろう。
「まずは人払いを」
早速、小村は何回か繰り返してきた事を変えた。以前は腹を割って話すために桂首相への茶を用意してもらったり、書き留める秘書官に同席してもらったりしていたためだ。
うむと桂首相は頷くと秘書官らは退席する。人払いが済んだ後、小村は過去何度も悩んだ事を明かす事にした。もはやここで精神異常者として捕らえられても構わぬ、もう一度繰り返してもよいという覚悟だ。
「桂首相、私は未来を見た……変えがたい未来だ。もはやいかなる努力をもってしても私一人では変えられぬ」
「……小村大臣、疲れているのか? それともいつの間にかそういった物に頼るようにでもなったかね?」
過去であればまずなかった桂首相の拒絶的態度である。
しかしもはや小村には『3回目』以上の介入や対策は思いつかない。繰り返しについて伏せてはいたが、自身の思いつく限り動いたし、何より周辺を巻き込むことも行ってきた。だがそれでも最後はあの炎の夜に収束してしまう。であれば思い切って協力者をつくらねばならない。そしてそれはこの国の首相であり、小村のよき理解者である桂首相以外ありえなかった。
「気が狂ったのであればどれほど良かったか、まずは私の話を最後まで聞いてほしい。それから憲兵でも医者でも呼べばよい」
気が狂っているとはとても思えぬ強い意志を宿した瞳は、今回も桂首相の心に届いた。桂首相はまずは話を聞こうと足を崩しネクタイを緩める。
小村はそれを見ると水差しからコップに水を注ぐと飲まずに満杯には僅かに届かぬ程度に注ぐ。すこし震える手でコップを慎重に机に置くと、もう一度同じようにコップに水を満たし机に置く。そして角砂糖用のスプーンを手に取り言った。
「右が国民の期待、左が国民の不満だ」
そう言うと「旅順攻囲戦での大損害」「沙河会戦での膠着」「ウラジオ艦隊による海上輸送路への襲撃」と言うたび『国民の不満』とよんだ左のコップに水を一匙注ぐ。もう表面張力であふれんばかりだ。
次に「講和条約での賠償金未獲得」の一言と共にスプーンではなく水差しから注いだ水で遂に左のコップから水が溢れた。
桂首相はその流れでた水をじっと見つめる。続いて小村は同じように『国民の期待』とよんだ右のコップに一匙ずつ注ぎ始める。
「旅順攻囲戦での大勝利」「奉天会戦での大勝利と多数の捕虜」「ロシアバルチック艦隊の壊滅」
そして最後に「ロシア極東陸海軍の壊滅的打撃、切り取り次第のシベリア、不安定なロシア極東州」の一言と水差しから注いだ水で右のコップから水が溢れ出した。
「……小村大臣、旅順攻囲戦はわかる。まさにこれから始まることだからだ」
だが、と桂首相は前置きすると、その先で出てきた事柄を改めて理解しようとする。
「つまりは、何をどうやってもどちらかのコップが溢れる……それを見た、と」
桂首相は額に手を当ててうなだれる。事柄の詳細まではわからない。だが手元に届く報告からある程度予測しうる未来では間違いなくあった。
桂首相は「こぼれそうなどちらかから移し替え……いや、どちらももう限界なのか。だから……」と言うと眉間に皺を寄せて腕を組む。しばらく唸ったうち、目をつぶったまま天を仰ぐとしばし、両膝をぱんっと叩き立ち上がった。
「もう一つコップを用意できないだろうか? この両方から移し替えることのできるコップを」
桂首相がそう言うと、新たに持ってきた中身の入っていないコップに、小村はまた同じように水差しを持って立つ。
「これは歴史への介入度だ」
そう言うと続けて「国内新聞への介入」「バルチック艦隊の賠償艦要求と大量の捕虜と高級将官の身代金による賠償金相殺」「樺太島全島割譲による満州利権の米国開放」とまたスプーンではなく水差しで少しずつ。最後に「国内不安定化によるロシア皇帝暗殺」の言葉と共に水差しから大きく注いだ水が溢れ出した。
「大きく理を変えようとするとロシアが持たない、この先は既に試した。だからこそこの3つのコップを溢れさせる事なく、この戦争を終わらせなければならない。少なくとも外交によって」
それから小村は今までの繰り返しの中で恐らくこの3つ目のコップに関わる出来事を紙に書き出す。
・第1次非常特別税
・旅順攻囲戦
・常陸丸事件
・第2次非常特別税
・ロシア国内工作
・奉天会戦
・日本海海戦
・ポーツマス講和会議
このあたりを大きく改変する事により、注がれた水で恐らく歴史は壊れロシアというコップから水が溢れ保たなくなる。結末は前回の最後見てきた通り、あの炎の夜は全世界を「民族主義」という大きな焔で燃やし尽くすであろう。
「まるで打つ手が思いつかん……そうか、だからこうして私に。いやはや……まさかこの世にこの様な奇妙奇天烈があるとはな」
いやぁ参ったと笑いながら立ち上がると、桂首相は溢れたコップを手に持つと、コップから溢れ出る水で手元や服を濡らしながら一気に3杯全部飲み干す。
呆気に取られている小村を前にして桂首相はキリッと表情に力を込めると、少し笑う。
「この桂太郎、腹を括った! 小村寿太郎、お前を信じる、だから諦めてはならんぞ!」
あの大連で聞いた伊地知参謀長の怒声かくやという大声で桂首相は叫ぶ。
政治の世界に今は身を置いているが、基は維新の志士であり日清戦争では師団長として出征も経験している。まさに現場を見てきた軍人でもあるのだと改めて思い出す。
「維新の時もそうであった。諦めてはならぬ、諦めなければ必ず人の想いは世界を変えるのだ」
まだ椅子から立ち上がることもできずに居る小村の肩を叩くと、扉の向こうへ「よーしまずは飯だ、小村大臣は何が食いたい? 任せろ、私のおごりだ」と出前を頼み始める。
そういえば朝から何も食べていないなと思い出した小村であるが、何を食べたいかがすぐに思いつかない。あのループが始まった日から何か食べたいものを食べようなどと思ったことがなかったからだろうか。するともう自分は何年も何か食べたいものについて考える余裕がなかったということか。すこし恥ずかしくなり、やっとのことで小村は思いついた品目を伝える。
ではビールとビスケットを。
そう答えた小村に対して桂首相は笑いながら「さっそく歴史を変えよう」と言ってざる蕎麦を手配した、それも5人前。しかも熱燗の日本酒まで手配し始める。日が暮れる前から酒を飲むつもりかとたしなめようとしたが、自分もビールを頼んでしまった以上もはや止められない。
これから国の運命をかけた話し合いをするのに酒を頼んでしまった自分をとがめることなく、自らもまた合わせてくる桂首相。
この人とならば今回こそ変えられるかもしれない。届いた出前のそばを一人前すすり久方ぶりの満腹感の中、小村はこれまで体験したことを静かに語り始めるのであった。