『炎の夜を越えて』───外相、小村寿太郎の戦い 作:あおさ海苔
───1904年5月29日
小村は幾たびも迎えたこの日を迎えていた。あの炎の夜を変えてみせるという決意に関しては言えば以前の繰り返しとなんら違いはない。しかし、最初に頭へ過ったのは桂首相には大層迷惑をかけてしまったという後悔の念であった。
だか今回も諦めてはいけない。少なくとも国内についてはあと一歩のところまで来ていたし、『国民官報』の線は悪くなかったはずだ。あとは国民への説明啓蒙と、ロシア側への情報流出による継戦意識の天秤を上手く扱える人物の協力さえあれば、今度こそ上手くいくはずだ。
そうとわかればやるべき事をやるだけである。この国をあの炎の夜から救うには、一分一秒でも惜しいのだ。寝床から出て身だしなみを整えつつ、ふと居間にいる妻の姿が目にはいる。「行ってくる」と一声かけて玄関で靴を履く。
「ちゃんと今日も稼いできなよ」
そんな何気ない会話ではあるが、再び桂首相へ己の秘密を打ち明ける勇気を妻からもらった小村は、再び外務省での『思考実験』を差配しつつ首相公邸に向かうのであった。
───1904年8月15日
旅順攻囲戦の早期終了にあわせて、小村は内閣閣僚級会議の中で発表をしていた。
「まず『国民官報』での写真と筆頭記者に田山花袋氏を、また主要な記者として旧硯友社関係の諸氏を招聘する」
マスメディアについて小村は全くの素人である。ただ、なんとなく最初の旅順攻囲戦であったり、跡形もなく大破しただ浮かべる屍となったロシア艦を思うに、こうした現実をもって国民に写真を通し『そろそろ良いのではないか』という考えを持ってほしいと思っていた。
そのため以前より南山での話を聞きに行った時に記録写真と共に当時のメモ書きを読ませてもらった、第二軍従軍写真家兼記者であった田山花袋に目をつけていた。
今回調べて見るとちょうど戦地で体調を崩しており故郷で療養中であった。民間人ながら従軍経験もあり、写真撮影もできて記事も書ける。まさに理想の人物であった。
病気も回復し東京で小村が直接相談した際、「一人ではこの大任、務まるとは思えません。ぜひ硯友社の皆とやりたいのです」と言った。
その呼びかけで集まった旧硯友社の面々や、田山の三顧の礼により徳田秋声までもが『国民官報』に寄稿してくれるようになったのだ。
どうしても書いてはいけないことの条文は守りつつ、度々出てくる徳田の鋭い指摘は『国民官報』の中での政府批判にも取れる寄稿でさえ許可された。これにより政府批判の層まで読者として取り込む事になったのだ。
戦地のありのままを田山の写真と紀行録が国内にいる国民の手元まで満州の空気感を届けた。そして旧硯友社の面々による記事と、徳田の政府批判も絡めながら書かれる鋭い指摘はまたたく間に『国民官報』の読者を増やすこととなったのである。
また完全に余談ではあるが、様々な知識人が『国民官報』の内容に意見を言い始めると、田山達はそういった著名人や知識人の投書をむしろ『国民官報』の記事として寄稿を歓迎した。そのうち朝刊だけでは紙面が足りず夕刊まで作り始め、配達の手がまわらぬため街中であったり地域の掲示板にて公開するようになった。
すると朝刊に書かれた徳田の記事に対して、夕刊で泉鏡花が批判をするという流れができ始める。本人たちはいたって真面目に書いていたが、それを楽しみにする読者も増え、しまいには大衆娯楽としても受け入れられてしまうというちょっとした誤算も生まれていた。
「次に、外交戦略として諸外国への情報公開を『国民官報』を通して行う。『国民官報』の英訳版も同時刊行するのだ」
情報戦において余りに開示しすぎた反省を生かし、『伝えたい事実』だけを訳し選別して届ける。国内と国外、必要十分であり過剰な情報公開を抑制し、『大勝利しているし、まだ日本は戦えるが流石にこれ以上はもういいだろう』と国民に自ら考え判断させる。
国外にも『日本は十分勝利したし、これ以上は止めたほうがいいだろう』と思わせる。
従来改編してきた内容は維持しつつ、最後に残った情報と国民に的を絞ったのである。
果たして小村達の狙いは徐々に結果が現れた。
無料で投票権のある1家庭に1部、それ以外は町内会単位で毎日配られる『国民官報』は、見ていて愉快かもしれないがお金のかかる民間新聞をそこまで真面目に読んでいなかった層に浸透することになった。
そのうえで、国民一人一人に『この戦争はどのように始まり、どのように進み、どのように終わらせればよいのか』を問い続けた。
釜の火種に使えばよいと渡された女中や、包み紙として使われ捨てられた新聞を拾い読む貧困層、政府批判の為の数字や不足点を血眼にして探す記者や論者、みな『国民官報』の話を日夜続けるようになったのだ。
『満州の寒い夜、塹壕の中で出征前に母のくれた靴下の暖かさに救われています。次の春にはお土産話で満杯になった背嚢と共に伺いたく存じます』
この様な勝ってはいるがもうそろそろ良いのではないか? と思わせるような兵士達の投書や郷里で帰りを待つ家族からの手紙も掲載され、国内世論の過激化を防ぐ。
『シベリア全てを手中におさめよ!』と辻演説家が叫べば『そんな金も人もどこにあろうか! 準備万端、満州で敵を迎え撃て!』と通行人が叫ぶ。明らかに国内世論の流れは変わってきていた。
国外メディアも、あくまで『そろそろ良いだろう』という日本はまだまだ戦えるが落としどころを探っているという印象を『国民官報』を通して感じ始めていた。
───1905年7月8日
米国の仲介で行われる講和会議のため渡米する小村達外交団に対し、新橋駅では『国民官報』で今日の出立を知った大勢の人が集まり、大歓声で盛大な見送りが行われていた。
小村もまた帽子を取り群衆に向けて帽子を振る。また一段と応援や激励の声が鳴り響く。大勢の群衆から手を振られつつ、堂々と外交団は横浜港へと向かう汽車へと乗り込んだ。
小村は同行する桂首相に対して少しはにかんだような表情で言った。
「初めて見る新橋駅頭の光景でした、帰る時にはまるで反対になっていなければよいのですが」
向かいの席に座っている桂首相にもわかっていた。この小村は何度となく悲劇的な講和会議を経験してきたと。小村らの努力がなければ国民は愚かにも叶うはずもない膨大な要求を政府に求めただろうと。
小村の言う通り、帰国したらあの群衆は歓声を怨嗟に変えて我々を罵るかもしれない。だが、この様子であれば大丈夫ではないかと桂首相も小村も感じていた。
人々の言葉は『万歳』ではなく『頑張れ』だったからだ。この講和会議で日本側は『頑張らねばならない』事を理解してくれていると感じていた。
「私は逃げない、やらねばならぬのです。他ではない、私がやらねばならぬ、なさなければならないのです」
握った手にぐっと力を入れ小村は桂首相に告げる。その佇まいは活力に満ちていた。その細身で小さな身体は見た目以上に大きく、強く見えた。
その時、港まで同乗していた井上馨は小村に対し涙を流して言った。
「君は実に困難な境遇にたった。講和会議の如何によってはいままでの名誉も今度で台なしになるかもしれない」
小村は苦笑いしつつ首を振るとその気持ちだけで十分だと答えた。井上もまた債権先の確保に尽力し、この講和会議に向けてあらゆる対外活動に心血を注いで協力してくれたのだ。
外務大臣であるこの身は一つしかないからこそ、小村は大いに井上へ頼った。あとはその分小村がこの外交という己の本分での戦争に全力を尽くすのだ。
未だ戦時中である以上、一国の首相ほか重鎮がポーツマスまで渡米するわけには行かない。しかし多くの閣僚や政治家が、決戦の地である米国に向けて出発する小村達を見送りに来たのだ。
新橋駅同様、横浜港は厳重な警備もあるなかで、港の周辺には多数の船艇が『講和達成祈願』だったり『最期の決戦に向かう交渉団に栄光あれ』だの思い思いの垂れ幕や大漁旗を掲げていた。
海軍の一部もまるで観艦式かのように整然と並び小村達交渉団を見送る。
「行ってきます」
そう言うと、帽子を取り胸に当てながら小村達を乗せた船はゆっくりと横浜港を後にした。
船旅14日、船内で多数の外国メディア相手に徳田ら『国民官報』の記者団と共にインタビューに追われる旅であった。
ワシントンに到着する頃には横浜港から同行してきた外国メディアの記事が世界中の新聞に載り始め、『日本はここで幕引きを図りたいようだ』『超大国ロシアに堂々と戦う東洋のサムライ、堂々と米国に上陸す』『陸海の決戦に勝利した日本、外交でも大勝利なるか』など概ね日本に好意的だ。
そのような歓迎ムードで小村達はワシントンでルーズベルト大統領に表敬訪問をおこない、仲介を引き受けてくれたことに謝意を表明した。
ルーズベルト大統領も日本側に好意的で、外交団は少し自分たちに追い風が吹いていると確かに感じる事ができた。
しかし、小村は油断していなかった。あの炎の夜はまだどうなるかわからないのである。どれだけ慎重に慎重を重ねてもよいはずだ。
何か見落としていることは無いか、何か考慮できていな事はないか、協力的なルーズベルト大統領とさらに深く話をすべきか。悩みながら小村はルーズベルト大統領をもう一度見る。小村はその後ポーツマスへと向う前に少し米国政府と話し合いを半日ほど持つことを提案し快諾を得た。
───1905年8月10日ポーツマス
合衆国政府の直轄地で、近郊にポーツマス海軍造船所がある。宿舎となるホテルがあり警備も厳重。日露両国の全権委員は互いに離れて起居できる事からここを選んだ、そう小村はルーズベルト大統領から直接伝えられていた。
ポーツマスに到着した小村は、早速日本代表団の中心として会議に臨んだ。
通された講和会議の会議室の長机向かいには、ロシア全権代表セルゲイ・ウィッテがその巨体をもって座っていた。彼は当時56歳で身長180センチメートルを越す大男である。皇帝より「一にぎりの土地も、一ルーブルの金も日本に与えてはいけない」という厳命を受けており、日本外交団より若干早くポーツマス到着し以来まるで戦勝国の代表のように振る舞っている。
ロシアは必ずしも講和を欲しておらず、いつでも戦争を続ける準備があるという姿勢を崩してはいない。だが事前会談を設けていたルーズベルト大統領より、ウィッテは渡米後様々なマスメディア工作を行ったが、どれも数字により説明する日本側に対して言葉だけでまさに言い張るだけで不発に終わっており焦っているとの情報を得ていた。
あとはまずはこの態度を少しずつ、穴を穿ち切り崩し突破口を見出さねばならない。
今もまさに小村の眼前には最低限の礼節だけは守っては居るものの、『講和』そのものに不満があることを隠さない態度でウィッテが居るが、むしろその姿は虚勢にまみれ小さく見えた。
第一回本会議冒頭において小村は、まず日本側の条件を提示し、逐条それを審議する旨を提案してウィッテの了解を得た。
しかしここでウィッテが話を続けようとした小村は手を挙げて待ったをかける。小村がどうぞと言うとウィッテは少し呆れた感情を込めながら小村達に話し始める。
「貴国が我々ロシアに和平を求めているのは重々承知している。だが一握りの領土も1カペイカたりとも貴国に渡すつもりはない。まずはそれを伝えたかった」
交渉団はあえてすこしムッとした雰囲気を醸し出す。だが既に事前情報で虚勢である事は分かっている。小村も堂々と答える。
「我が国が求めてやまない講和とは、地べたに膝をつき頭を垂れて慈悲を願うものではない。殴り合あった紳士が硬く握手するような講和である。まずはそれを伝えたかった」
日露双方にピンと緊張が走る。だがウィッテはこほんと話を促すように咳をすると小村に向かい手を向ける。話を続けろという合図であった。
では、と言ったその後小村がウィッテに示した講和条件は次の12箇条である。
1.ロシアは韓国における日本の政治上・軍事上および経済上の日本の利益を認め、韓国の自主独立性に関し日本と共同して干渉せず諸外国からの干渉から韓国を守ること。
2.ロシア軍の満洲よりの全面撤退、満洲におけるロシアの権益のうち清国の主権を侵害するもの、または機会均等主義に反するものはこれをすべて放棄すること。
3.満洲のうち日本の占領した地域は一切を清国に還付し、その治安や経済の回復するまで列強各国の監視軍を派遣を受容する。この時監視軍の派遣費用はロシアが持つものとする。ただし、遼東半島租借条約に包含される地域は米国主導の経済特区としてその一切の統治権を日露両国は放棄するものとする。
4.日露両国は、清国が満洲の商工業発達のため、列国に共通する一般的な措置の執行にあたり、これを阻害しないことを互いに約束すること。
5.ロシアは、樺太および附属島、一切の公共営造物・財産を日本に譲与すること。
6.旅順、大連およびその周囲の租借権・該租借権に関連してロシアが清国より獲得した一切の権益・財産を清国に返還すること。
7.ハルビン・旅順間鉄道とその支線およびこれに附属する一切の権益・財産、鉄道に所属する炭坑をロシアより日本に移転交附すること。
8.東清鉄道本線は、その敷設にともなう特許条件にしたがい、また単に商工業上の目的にのみ使用することを条件としてロシアが保有運転すること。
9.ロシアは、日本が戦争遂行に要した実費を払い戻すこと。払い戻しの金額、時期、方法は別途協議すること。
10.戦闘中損害を受けた結果、太平洋沿岸諸国の中立港に逃げ隠れしたり抑留させられたロシア軍艦をすべて合法の戦利品として日本に引き渡すこと。またこの引渡す艦艇にはウラジオストクにおいて大西洋までの航海に耐えない損傷艦艇すべてを含むものとする。
11.ロシアは極東方面において海軍力を増強しないこと。
12.ロシアは日本海、オホーツク海およびベーリング海におけるロシア領土の沿岸、港湾、入江、河川において漁業権を日本国民に許与すること。
すでに事前協議で内容を把握していたウィッテは、涼しい顔で2.3.4.6.8.については同意または基本的に同意、7.については「主義においては承諾するが、日本軍に占領されていない部分は放棄できない」、11.については「屈辱的約款には応じられないが、太平洋上に著大な海軍力を置くつもりはないと宣言できる」、12.に対しては「同意するが、入江や河川にまで漁業権は与えられない」と返答する一方、5.9.10については、不同意の意を示した。
なお1については「意図を図りかねる」と述べて事実上判断を持ち越した。
当然一回の協議で決まるほど講和会議は容易いわけではない。だが、これまで幾度となくこの講和会議を経験してきた小村にとって、初回からウィッテらロシア外交団の反応にわずかながら悩んでいる雰囲気を感じ取っていた。