「ありがとう、千咲」
「いいえ。先輩からの頼みとあれば、インタビューでもなんでも……ばっちこい、です」
「ふふ、そっか。……それじゃあ、早速だけど始めるね。千咲にとっての葦ノ原は、どんな国?」
「……あたたかい国です。あの場所には……たくさんの、大切な思い出があるんです」
「……朽葉、千咲です。……よろしくお願いします」
暗い声だった。
まるで深海のように、沈んだ、暗黒の声。
それが転校初日の教室でどのような印象を与えるかなど、今の私にはどうでもよかった。
というよりも、わからない。
だって、もう人の顔すらわからなくなってしまったから。
中学時代、私はいじめにあった。
きっかけは……どちらかといえば、私……なのだろうか。
当時の友人が手酷いいじめを受けているのを偶然目撃し、彼女の涙を見た瞬間、弾かれたように体が動いて、主犯の生徒をハサミで牽制したのだ。
しかし……当時を振り返ってみると、後悔こそないものの、もう少し考えてから突っ込むべきだったのではと、常々考えてしまう。
葦ノ原の治安はすこぶる良い。
民度というものも高水準で、世界中で見てもかなり過ごしやすい国なのだと、いつしかテレビでやっていたのを見たことがある。
でもやはり、人というものは悪意あってこそ人たり得るということか。
葦ノ原には数こそ少ないなれど、未だにこうした悪意は蔓延っていたし、私はその少数派たる一部に目を付けられるようなマネをしてしまったのである。
『いじめ』というものを、知ってはいても本当の意味で理解していなかった私は、すぐに報復の対象となってしまった。
歩けば足を引っかけられ、ロッカーを開ければズタズタにされた教科書が雪崩を起こし、自分の机にはあらん限りの悪口が書き込まれる。
そして私の脳は、人の顔を識別するための糸を断ち切った。
押し寄せるおぞましい情報の波から、私という存在の心を守るために。
結果として私は『心因性視覚認識障害』を発症し、全ての人の顔立ちは、まるで蝋人形のように溶けてしまった。
だから、印象などどうでもよかった。
どうせどんな顔をしているのかすらわからないのだから。
指定された窓際の席に座り、灰色の空だけを見つめる。
この新しい場所でも、私は透明なままでいい。誰とも関わらず、誰の記憶にも残らず、ただ息を潜めて卒業までの日々をやり過ごす。
そう決めていた。
────この時までは。
「ねえ……ちょっと」
「……?」
休み時間。
チャイムが鳴り響く中、ふと横から声を掛けられる。
────こんな私に話しかけるだなんて。
疑問を覚えながらも、声の主の方へとのっそり顔を向ける。
顔は相変わらずのっぺりとしか見えない。
あとわかるのは、どうやら声の主はショートカットの髪型をした女子らしいということと────、
────雰囲気だけでわかるほど、自身にドン引いているらしいということだった。
「うっ……わ。アンタ何? 普段洞窟住まいでもしてるわけ? 何をどーしたらそんなに暗くなれんのよ」
「え……あの、あなたは……」
「……ハァー?? なぁに? 人様に興味ありませんって? そりゃあ結構なことですけどね、隣の席の相手ぐらい覚えておいても損ないんじゃない?」
そこでようやく、彼女が自分の隣の席に座っていた生徒であると知った。
初対面とは思えないほど明け透けに────というか、ズケズケとこちらの領域に踏み込んで来る彼女に、私は眉をひそめるよりも前に呆然としてしまう。
目を瞬く私をよそに、彼女はずい、と顔を寄せて言葉を続ける。
「自己紹介したげる。
「……は、はぁ……」
勢いに押され、私は思わず頷く。
友人など作るつもりはなかったのに、彼女のようなタイプと関わるのが初めてだったからか、私は無意識に頷いてしまっていた。
────透明なままでいてしまおうって、決めたのに。
相変わらずの平坦な視界に、曖昧な返事を返した自分にぶーぶーと文句を言う彼女を映しながら、私はそう自虐する。
自分に向けた切っ先は、決めたことすら実行できない自分への嫌悪の他に、こんな私に話しかけてくれた彼女への申し訳なさも含んでいた。
「まずはホラ、お昼よ、お昼! 一緒に食べるわよ。アンタお弁当は?」
「あ、はい……ここに」
「あら、綺麗なお弁当箱じゃない。そら行くわよ。ほら立って!」
流れに流されるまま、彼女のあとを追いかける。
こんな関係、きっと長くは続かない。
だが自分の不注意で結んだ縁。せめて向こうから切るまでそのままにするべきだろう。
その時の私は確か、そんな風に考えて、彼女との縁の糸を切らなかった。
この瞬間が、私の人生にとって大きな転換点になるとも知らず。
「────ぷっ。アッハハハハハ!!!! あ......アンタ、いっ意外と、やるわね……く、くくくっ……」
「そこまで笑うことですか……?」
「笑うことでしょーが! アンタ、如何にも『ワタクシ人畜無害でございます』って顔してるクセに、友達がいじめられてたからってハサミ取り出して割って入るとか……あーおっかしい!」
「……そう、でしょうか」
「ちょっと。別にアンタのこと貶してるわけじゃないわよ? カッコいいとこあんじゃんって思っただけ」
「カッコ……いい?」
「は? だってカッコいいじゃない、そんなの。友達守るために割って入るとか、そんじょそこらの奴にはとてもできやしないわよ。……実際、その助けた子、アンタに感謝してたんでしょ?」
「……はい」
「じゃあホラやっぱり。アンタ、ヒーローじゃん。カッコいいと思うわよ、私は」
「────……」
青天の霹靂、というには、いささか都合のいい解釈だと思いはしたけれど。
それでもあの時、彼女が言ってくれたその言葉は────。
「────折田さんって、こんな顔……してたんですね」
「いやどういう顔よ」
────一瞬見えた彼女の微笑みを、私の心に深く刻み付けた。
あれから、幾分か月日が経った。
その頃には私も随分と気を持ち直していて、友人と言える相手もかなり増えていた。
「────頼んます!! 千咲さま巫女さま仏さま!!」
「今度のテスト範囲の数学教えてくださいぃーっ! こちらパジクッキーでございますお納めください!! なのでどうか、どうかなにとぞ!!」
よっぽどのピンチなのか、必死の形相で私へ頭を下げるのは、
真壁くんは筋金入りの野球少年。
朝昼晩、いつでも野球のことを考えてしまうほど野球が大好きで、あまりにのめり込むせいで授業中の居眠り常習犯でもある。必ずプロになると豪語する彼の姿は、正直眩しい。
渡辺さんはアニメやゲームが大好き。
絵を描くのも得意なようで、以前偶然見た彼女作と見られる漫画は非常にクオリティが高かった。将来は漫画家を目指すのだと、照れながらこっそり語ってくれたことは、大切な二人だけの秘密だ。
「あーヤダヤダ。これだから補習組は。ちーちゃん、こんな奴ら無視して早く例のカフェ行きましょ」
「ほお? では自分は不真面目ではないと? ならば先ほどの授業で船を漕いでいたのはこの私の見間違いか?」
「てっ徹夜して勉強してたせいですぅー! しかも寝てませんしぃー。必死に耐えてましたしぃー? ……っていうか、何アンタ。授業中そんなに私のこと見てたわけ? キモッ」
「勘違いも
「……燃やす。燃やすわアンタ。私がちーちゃんと駅前のカフェ行くのどんだけ楽しみにしてたか知ってて言ってるのよね? なおのこと燃やすわ」
「いいだろう受けて立つ。貴様の炎と私の雷……果たしてどちらが上か、今ここで決着をつけるとするか」
「ふ、二人とも。私のために争わないでください」
見ての通り、依里さんと犬猿の仲の彼女は
彼女はいわゆる────不良というやつで、毎夜愛車である大型バイクを乗り回し、補導された回数はもはや数えきれない。加えて彼女は共鳴者であったため、私が来る以前はかなり先生たちも扱いに困っていたらしい。
だが、本当の彼女はとても人の心の機微によく気が付く人で、以前にはまだ前の高校の時のことを引きずっていた私を乗せて、ツーリングに連れて行ってくれたことがある。
その時の景色や風を、私は恐らく一生忘れない。
共鳴者といえば、実は依里さんも共鳴者だった。
あれから仲を深めていくうちに明かしてもらったことなのだが、最初に私に話しかけたのも、同じ共鳴者だからというのが理由だった。
彼女からはそのことを謝罪されたが、私としてはまったく気にすることではなかったし、むしろ私が交友のきっかけとなった『共鳴者』という括りにいることを、生まれて初めて嬉しく思ったほどだった。
そんな依里さんと星間さんは、両者互いにどうにも気が合わないようで、このような喧嘩はしょっちゅう。
こういう時はきまって私が間に入れば落ち着くので、恐らく本当に嫌い合っているわけではないのだろう。
腐れ縁、というやつなのかもしれない。
「千咲さーん! 後日勉強会するなら私も呼んで? 力になれると思うわ」
そう穏やかな声で言うのは、クラスの学級委員長を務める
成績優秀で誰にでも分け隔てなく優しい彼女はクラスの人気者。しかし実は意外と負けず嫌いなところがあり、同じくらい成績の良い私をライバルとして見ているらしい。
それはそれとして仲は良く、赤点の多い真壁くんと渡辺さんの二人組によくいっしょになって勉強を教えている。
「ち、千咲さん! 良ければ僕も手伝うよ!」
そう声をあげてくれたのは、同じく成績優秀な男子である
品行方正で、副委員長も務める彼もまた、名取さんと同じように分け隔てない優しさを持っている。むしろ彼は困っている人を放っておけないタイプで、依里さんや星間さんからは呆れまじりに「お人好しバカ」と呼ばれている。
私が障害を患っていると知った時など、私が気に病まないようにまで気を付けながら、いつも気遣ってくれていたことを覚えている。
「宇佐美くん……ありがとうございます。助かります」
「いっ!? えっと、いやあの、そ、そんな大したことじゃないからさ、あはは……」
そんな彼の唯一不思議なところ。
それは、私が距離を縮めようとするとすぐに挙動不審になってしまうところ。
これについてはずっとわからないままだ。
彼本人に聞いても答えてくれないので、一度依里さんに相談してみたことがあったが、その時の彼女はなんとも面白そうに「私から言うのは野暮でしょ」と言って結局教えてくれなかった。
何はともあれ。
この数か月の間に、私の周囲はかなり賑やかになった。
転校した当初は、予想もしていなかった幸せの形。
どこにも居場所がなくて、唯一安心できた場所だった家も、今では帰って眠るたびに「早く明日にならないかな」とまで思うようになっていた。
そして大切な思い出も、季節を経るごとに次々と積み重なっていく。
「────っ!? なにこれうっま!!」
「ほんとだ……すごく美味しいよ千咲さん!!」
「ふふっ。ありがとうございます、宇佐美くん」
「オオオオ……すき焼きの甘辛い醤油ベースの割り下にレモンの酸味が合わさって濃厚なお肉の脂っぽさがスッキリして飽きがこない新感覚の味わいがなんとも……! それにレモンに含まれるクエン酸によって柔らかくなったお肉で口当たりも抜群で控えめに言っても絶品ですねこれは!!」
「わ、渡辺さんもありがとうございます。すごい食レポですね……」
「や……やっべえ。箸が止まんねぇぞ!? ちくしょー美味すぎんだろ!」
「
「アンタらはもうちょっと遠慮しなさ……ってコラ私の肉取ってんじゃないわよ!!!!」
「千咲さん、良ければ作り方教えてくれない? 私も作ってみたいの!」
「勿論いいですよ。……そうだ、追加でもう一度作るので一緒にやってみませんか? この通り、このままだと足りなくなりそうなので」
「わ、わあすごい勢い……確かに足りなくなりそう……よし、手伝わせて!」
私の実家で開催したレモンすき焼きパーティー。
友達に振る舞うのは初めてだったので若干不安だったものの、全員すごく喜んでくれた。
両親も、私にたくさん友人ができたことに安心したのか、嬉しそうにしていた。
「千咲さん切るのはやーい! やっぱりお料理慣れてるのね!」
「まあ……両親の仕事が忙しい時なんかは、よくひとりでご飯を作っていたので」
「おっし! 野菜もうすぐ切り終わるな! んじゃそろそろ火つけとくか……折田頼むわ!」
「よしきた」
「て、手加減ですよ!? 折田さんそんな大きさの炎で大丈夫です!? もそっと、もそっと小さく……」
「うるっさいわねぇ。心配しすぎよ。そら────」
モエルーワ!!
「……鍋吹っ飛んでったぞ」
「馬鹿め。火力調整すらできんのか」
「うっさいわね!! じゃあアンタやってみなさいよ!!」
「いいだろう。────穿てッ!!」
バリバリダー!!
「……薪が消滅しましたね」
「ふん……あまりに脆い」
「アンタ人のこと言えないじゃないのよーッ!!!!」
「ぼ、僕もう一回薪とってくるねー……」
夏休みに泊りがけで行った旅行。
キャンプしたり、海に行ったり、山に登ったり。
あの数日間は、間違いなく私にとってかけがえのないものだった。
「いきます────『解弦の眼』ッ!」
「────ほお……やるな」
「よっしゃぁサンキュー朽葉! これでうちのクラスは飾りつけで頭一つ抜けたな!!」
「ま、当然よね。千咲の切紙ってば、たぶん売り物にできるレベルよ? ────ほら見なさい、一個飾りつけただけでこの雰囲気の変わりよう!」
「綺麗……うちのクラスのコンセプトにもピッタリだし、頼んでよかったわ!」
「はい。『和装カフェ』をやると決まった時から、何か役立てるのではと思っていましたので」
「今更だけどよ、共鳴能力使って良かったのか?」
「大丈夫。先生に許可は取ってあるよ。『宇佐美がいるなら安心だ』だって」
「あー、そういやお前『共鳴能力使用監督者資格』の勉強してたもんなー。アレ3級でも滅茶苦茶難しいのによく取れたよな。……へへ、愛の成せる技かー?」
「ちょッ、真壁くん!?」
「それにしても、共鳴能力使うと目が光るんですね……カッコいい……」
「そ、そうですか? ……そんなことを言われたのは、初めて、です」
「あ、ちーちゃん照れてる」
「スケッチ! なにとぞスケッチさせてください姫君!!」
「構いませんよ。でも姫君はやめてください」
学年一位を目指し、一丸となって臨んだ文化祭。
私は共鳴能力を使って、カフェ内の飾りつけを担当した。
得意だった切紙を使っての飾りつけは、出し物として決まった『和装カフェ』のイメージにもよくマッチし、クラスメイトとともに一生懸命準備した。
そして文化祭当日、和装カフェは予想以上の大盛況となり、見事学年一位の座を獲得した。
「千咲さんのおかげだね!」……その感謝が、今でも耳に心地よく残っている。
「────ふぅ。こんなところでしょうか」
「きゅ、98点……っ!!?」
「千咲さん、歌上手いんだね……!」
「……くっ、負けただと……この私が!?」
「そりゃ星間は負けるだろ。お前43点しか取れてないじゃん」
「貴様……その坊主頭をよほど野球ボールにしてほしいらしいな……いいだろう。特大の糸と針を買ってこい」
「ひぃっ」
「ひゅーひゅー! ちーちゃんさっすがー!」
「千咲さんアンコールー!!」
「あ…アンコールですか!? そ、そこまで上手いわけでは……渡辺さん! 良ければ一緒に歌いませんか? デュエットです」
「あひぇ!? わわわわたくしめが姫君とでゅでゅでゅデュエットォ!? スゥーわかりました! 不肖渡辺、誠心誠意デュエットさせて頂きます!!!! では早速参りましょう選曲は姫君の好きな作品を鑑みての『キミがいれば』!!!!」
「おお……! 良い選曲ですね。いきましょう! でも姫君はやめてください」
「何気にこのメンツでカラオケ行ってなくない?」という依里さんの鶴の一声で行くことになったカラオケ。
ポテトやジュースをつまみながら、お昼ご飯を食べるのも忘れて一日中歌い尽くした。
次の日、声はガラガラだったが、皆も全員ガラガラ声だったのがおかしくって、朝のホームルームが始まるまでずっと笑いっぱなしだった気がする。
「ざざざざむい゛い゛い゛!! がらだがごおっでじまいまずう゛う゛う゛う゛う゛」
「お、オイオイ大丈夫かよ渡辺……カイロ分けてやるから、ほれ」
「……いやアンタはなんでそんな薄着で平気なのよ」
「わかんね。なんか平気だわ」
「フン……『馬鹿は風邪を引かない』、ということか」
「すごい人ですね……壮観です」
「やっぱり皆『
「みんなはどんなお願いするのー? 私は将来学校の先生になりたいってお願いしようかな!」
「俺は勿論、将来プロ入りできますようにって願うぜ!」
「一生美味い物が食えてバイクに乗れれば私はそれでいい」
「推じに会う゛だめ゛にぎょうはぎまじだ」
「私は……皆さんが、ずっと健康でいてくれるように、と」
「ちっ、ちーちゃん……!! それじゃあ私もちーちゃんの為に願うわ!! ずっと健康でいてね! ちーちゃん!!」
「ありがとうございます、依里さん。……そういえば、宇佐美くんは願い事決まってますか?」
「……ぼ、僕の願い事は、えっと……」
「……?」
「────あの……その、千咲さん! あなたと────」
「あ゛ー!!!! 緋雪ざまがお見えになりましたよ!!!!」
「! ホントだー! すごい綺麗な人……!」
「オアァァーン*1……緋雪ざまお綺麗ですぅぅぅその美しい
「ちょアンタ、女の子がしちゃいけない顔してるから。ほらティッシュ。鼻水凍るわよ」
「わぁ…………ところで宇佐美くんの願い事は────」
「え゛!? い、いやあ忘れちゃった! あは、あはははは……」
年末、皆で遥々行った『除夜の桜舞』。
見た者の願いは叶うと言われるその舞を見に、寒い中
……そういえば、あの時宇佐美くんは一体何を言おうとしていたのだろう……?
────そんな、数多くの楽しい記憶を積み重ねていく内に。
私の視覚認識障害にも、変化が訪れようとしていた。
私は毎年、共鳴能力の定期検診のために、両親に連れられて都内の大きい病院に通っている。
普段はそこでオーバークロックリスクだとか、基本的なことに変わりが無いかを精密に検査するだけなのだが……その日は偶然、葦ノ原における医療の第一人者である先生が来ていたらしく、ついでということで私の様子を診てくれたのだ。
すると彼女は、私のカルテを見るなりこう言ったのだ。
「君の障害だけど、たぶんもう治せる」────と。
「え────治るん、ですか?」
「治そうと思えばな。ただ、障害を負った原因が原因だ……そっちの意志次第になる。少しでも戻したくないって思ってたら、こっちでいくら頑張っても治せない────……ホント君凄い能力持ってるな」
「治したいと、思う、意志」
「そういうこと。たぶん、たとえ無意識でも治したくないって思っていたら治せない。完全にそっち任せだよ」
ただ、と、たばこの香り漂うその人は間を置いて。
「そっちが治したいって完全に思ってくれたなら────私が責任もって治してみせる」
そう、言い切ってくれた。
答えは決まっていた。
「……! ちーちゃん!」
「うおお、朽葉!! 退院おめでとう! あと体大丈夫か!?」
「退院してるんだから大丈夫に決まってるだろう。……大事ないな?」
「姫君ー!! 久々の姫君成分摂取させてください死にそうですぅぅぅ」
「こーら。千咲さんも疲れてるかもしれないんだから、まだそういうのはダメよ」
「……? 千咲さん? どうしたの……?」
「……貴様何かしたか?」
「は? いやどっちかっつーとこの場合────……まあいいや。それよりホントどうしたのよちーちゃん。さっきからうんともすんとも言わないで……────!?!?!?」
「はっ!? 泣っ……!?!?」
止められなかった。
ぽたぽたと、目から溢れるように零れ落ちる雫を、どうやっても抑えることができなかった。
まるで幼子のように、流れて止まらない涙を必死に拭う。
そんな無様な姿を、これ以上見せたくなくて。
「ち、千咲さん一体どうし────えぇッ!?!?!?!?!?!?」
「ほわあああああああ!?!?!? 姫君ぃぃぃぃ!?!?!?」
「馬鹿な……何故そこで宇佐美に抱き付きに行く……!?」
「おい! 宇佐美がやべーぞ!!」
「ちちちちちちちさささささささささ────」
「ちーちゃん!! 涙の理由とか色々聞きたいけど、ひとまず宇佐美から離れて!? そのままだとソイツ死んじゃうわ!! 主に羞恥で!!!!」
「千咲さん! こっちの胸が空いてるわよ!? 千咲さーん!?」
そんな、変わらない周囲の喧騒に少しだけ落ち着いて、やっと宇佐美くんから離れる。
宇佐美くんはまるで茹でダコみたいに顔を真っ赤にして固まっていた。
「……っ、ごめんなさい。こんな顔、見せたくなくてっ……」
「……! だ、大丈夫だよ。ちょ、ちょっとびっくりしちゃっただけだよ!」
「それで、その……姫君? 涙のわけを、聞いてもいいですか……?」
「────治ったんです」
「……え」
「私の、視覚障害────治ったんです」
先生の処置により、障害は完治した。
そのことは、目の下に濃い隈と、右目に泣き黒子のある女性────つまり、先生の素顔が見れたことによって理解した。
そして次に、両親の顔。
久しく見ていなかった二人の顔は、なんだかとても懐かしいものに思えて。
そしてすぐに私は、皆の顔を見てみたくなった。
退院し、その足ですぐに登校した。
そして、教室に入り。
一週間ほど入院していた私を出迎えようと、近くまで寄って来てくれた友人たちの顔を見て────私は、いつのまにか泣いていた。
彼らの私を見る顔は、どこまでも優しさと親愛に溢れていて。
その瞬間、それらの顔にはめ込まれた瞳が、この世のどんな宝石よりも美しいと思えた。
嗚呼、こんなことなら。
こんなことなら……!
────あの時、切らなければよかった。
「────どうしてあの時、切ってしまったんだろうって……切らなければ、もっと早く、皆の表情を……どんな顔をしているのかだとか、もっともっと早く、知ることができたのに……!」
「……あのねぇ、ちーちゃん」
またもや涙が溢れそうになった私を、今度は依里さんが優しく抱きしめてくれた。
「その『糸』を切ったのは、その時のちーちゃんの防衛反応ってヤツよ。ちーちゃんをイジメたクソどもに対して、ちーちゃんがその時できる最善の行動をしたってだけ。……だから、だからね。その時のちーちゃんを責めないであげてちょうだい」
その言葉が、まるで溶ける様に心に染み入っていく。
過去のボロボロな私が、笑顔で今の私の背中を、押してくれているような気がした。
「……依里さん」
半ば無意識に、名前を呼ぶ。
「なぁに」
優しく返される声。
「……星間さん」
「……ああ」
「……真壁くん」
「おうっ」
「……渡辺さん」
「はっ、はいぃ、ぐすっ」
「……名取さん」
「うん」
「……宇佐美くん」
「ここにいるよ、千咲さん」
皆の顔を見回して。
そのすべてを正確に頭に刻み込んで。
そして私は。
「────私と……私と、友達になってくれて、ありがとうっ……!」
やっと涙を止めて、笑うことができたのだった。
そうして、私の視界は本当の意味でクリアになった。
息を潜め、ただ静かに時を過ごす。教室とは、私にとってそうした類の────言わば、牢獄。
しかし今となっては……朝のホームルームから放課後まで、『愛おしい喧騒』で満たされるかけがえのない場所となっていた。
いじめの引き金になったあの瞬間────それを『ヒーロー』だったと、何の迷いもなく肯定してくれた依里さんと、私の
彼らの優しさに触れて、私は初めて知ったのだ。
私のこの力は────誰かを笑顔にできる、あたたかい魔法になり得るんだと。
だからこそ。
すっかり色彩を取り戻した葦ノ原の街を歩きながら、私はいつしか……ひとつの明確な『答え』に辿り着いていた。
クリアになった視界は、久しく見ていなかった葦ノ原の『美しさ』を映し出す。
風車を買ってもらって、喜ぶ子供。
それを見て、呆れながらも優しく微笑む母親。
旬の魚を売りさばきながら、見知った客と朗らかに語らう店主。
ニチアサのヒーローごっこを楽しみながら、夕日に向かってどこまでも走って行く子供たち。
手を繋ぎ、仲睦まじくゆっくりと歩みを進める恋人同士。
────この景色は、みんなに貰ったものだ。
そして思う。
私が皆から貰った、この眩しい光を。
今度は私が、かつての私のように、暗闇の中で泣いている誰かに届けたい。
そして何より────私にこの美しい世界を教えてくれた葦ノ原という国を、大好きな皆がずっと笑っていられるこの場所を、いつか私の力で、守れるようになりたい。
そして────ある日の放課後。
オレンジ色の夕焼けが差し込む、すっかり定位置のようになった学校の屋上に皆を集めて、私はその決意を口にした。
「────この学校を辞めて、ラハイロイのスタートーチ学園に行きます」
しんと、音が消えた。
当然だろう。
急に打ち明けるには、あまりに唐突すぎる内容だった。
「……は? ちょっと、何言ってるの」
彼女らしからぬ、幼いと言ってもいいほどの純粋な困惑が、その声に張り付いていた。
彼女以外も目を瞬き、混乱している。
いつもクールな星間さんでさえ、腕を組んだまま硬直していた。
目を見開いたまま、何を言うべきかわからないのか、何かを言いかけては呑み込むのを繰り返している。
そんな彼女を待たずして、依里さんが叫んだ。
「どうしてよ……っ! ……なんで、なんでそんな遠くに行っちゃうのよ!! しかもそんな、急にっ────……!」
言いながら、勢いよく依里さんが立ち上がる。
叫ぶその目元は、夕日よりも赤く見える。今にも零れ落ちそうな涙を必死に堪えて、私を睨みつけていた。
その怒りが────私を引き止めようとする、その姿が────どうしようもなく嬉しくて、胸が締め付けられた。
「……ごめんなさい。でも、思いつきで決めたわけじゃないんです」
私は皆を真っ直ぐに見回して、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「私は……皆に出会うまで、世界はずっと暗闇だと……良いことなんて何もないんだと思ってました。────でも、皆が私を外に連れ出してくれて、私のこの目を『綺麗だ』『役に立つ』って言ってくれて……そのおかげで、私は自分を誇れるようになったんです」
周囲は相変わらず静寂に包まれている。
しかし少しだけ、その静寂の雰囲気が変わっていた。
「スタートーチ学園の工学部では、黒石武器や戦術装備の開発などを行っているみたいなんです。ここで私は、直接でも間接的にでも────かつての私みたいに、理不尽な悪意や暗闇の中で動けなくなっている人の力になれるかもしれない。……私は、皆と出会えたこの葦ノ原を……私に光をくれた皆の、力になりたい。────だから、行きたいんです」
────変わらぬ、沈黙。
しかしすぐに、変化は訪れた。
「……フン。相変わらず、一度決めたら梃子でも動かん奴だ」
最初に息を吐き出したのは、星間さんだった。
彼女はわざとらしく肩をすくめ、口の端をわずかに吊り上げる。
「そこまで言われては、流石に止められん……というより、無粋だな。────行け、千咲。お前の進みたいように、やりたいように────どこまでも行くがいい」
星間さんらしい、堂々とした激励。
そしてそれに釣られるように、真壁くんも勢いよく顔を上げた。
「────そうだな……うん、そうだよな! 朽葉は頭良いし、スタートーチ学園でも絶対上手くやってけるよな!! ……その、まあ……寂しくねぇって言ったら嘘になるけどさ!」
そう言ってグッと親指を立てる彼の目から、大粒の涙が吹き出しているのには、見ないふりをしてあげた。
彼は、自分が泣いているところを見られるのが嫌いだから。
そんな彼の言葉に続くように、名取さんがいつものおっとりとした温かさで微笑む。
「そうね。寂しくなるわ……でも、千咲さんが決めたことなら、応援してあげないと! それに、千咲さんだもの。千咲さんなら、向こうでも絶対に大丈夫」
名取さんの優しくも力強い微笑みに頷きを返せば、ふと手を取られる。
見れば、顔をぐしゃぐしゃにして泣きながら、それでも笑おうとしている渡辺さんの姿があった。
「ひ、姫君っ、姫君ぃぃ……っ……寂しいですっ! 寂しいですっ、けどっ! ……姫君が、千咲さんが夢に向かって進むなら────私はいつまでも応援します! うっ、ううう! 毎日毎秒エール送りますからぁぁぁ……!」
ボロボロと涙を流す彼女の目には、言葉には出さずとも「私も頑張るから」という、強靭な意志が見え隠れする。
それが、私と渡辺さんの間でのみ交わした会話────『漫画家になりたい』という夢を、必ず現実にするという静かな宣言だった。
そして、宇佐美くん。
彼はぎゅっと拳を握りしめ、何度か深呼吸をして────やがて、少しだけ寂しそうな、けれどこれ以上ないほど優しい笑顔を私に向けた。
「……応援するよ、千咲さん。千咲さんの選んだ道なら、絶対に間違いなんかじゃないから」
彼がそう言って浮かべた、今までと変わらなくて、少しだけ違う微笑み。
どこまでも優しくて、少し勇気が足りない時も多かった宇佐美くん。
────でも、今一瞬だけ見えた彼の顔は、なんだか随分大人びて見えてしまって。
一瞬だけ、私の顔に夕日が赤く射しこんだ。
皆の視線が、最後に一人、うつむいたままの依里さんに集まる。彼女は袖口で乱暴に目元を擦ると、ずい、と私の目の前まで進み出た。
「ぜったい……絶対! 帰ってきなさいよ!! そこまで言うなら、絶対夢叶えないと承知しないんだから!! ちーちゃんなら絶対……ぜったい、すぐ……っ、ゆめなんて、かなえっ、られる、から……────ッ、だから! 頑張れっ……頑張れ、ちーちゃん」
唇を震わせながらも、依里さんは笑ってくれる。
激励の言葉とともに、いつか見た、あの微笑みを浮かべてくれた。
気づけば、私の目からも涙が零れていた。
「……はい。ありがとうございます────皆さんっ……!」
────それからの月日は、本当にあっという間だった。
編入の手続き、荷造り、そして皆と過ごす、一分一秒が惜しいほどの残り少ない日々。
────そして、出立の日。
私は現在、新幹線に乗っている。
皆には「お別れが辛くなるから、駅には来ないで」と我儘を言っておいた。だからホームでの涙の別れなんてものはなく、私はただ静かに、滑り出す車窓からの景色を眺めていた。
何の気なしに、手元の携帯を開く。
一、二回の操作の後に画面へ映し出されるのは、これまでに皆と撮ったたくさんの写真。
すき焼きパーティーで肉を取り合う依里さんと星間さん。
文化祭の和装カフェで笑う名取さん。
カラオケでアニソンを熱唱する渡辺さん。
野球の試合で見事満塁ホームランを成し遂げる真壁くん。
そして、いつも少し後ろから、はにかむようにピースをしている宇佐美くん。
どれもこれも、私の人生の大切な宝物だった。
ふと、その時。
ポーンと、手元の端末が小さく震えた。
画面上部にポップアップした通知。
それは、私と皆で作っていたグループチャットからのものだった。
開いてみると、そこに文字はなく────ただ一本の、動画ファイルだけがぽつんと送られてきていた。
……再生ボタンを、タップする。
画面にぱっと映し出されたのは、見慣れた学校の屋上。
すぐにぬっとレンズを覗き込んできたのは、星間さんだ。
「おう千咲。あの時も言ったことだが、自分の選んだ道には誇りをもてよ。それと、向こうの連中にナメられたらすぐ言え。海をウィリーして駆けつけてやろう。それと────その、なんだ。……達者でな」
照れ隠しのように鼻を鳴らした彼女が画面の外へ押しやられると、今度は真壁くんが満面の笑みでフレームインしてくる。
「朽葉! 向こうの飯が美味しいかわかんねぇけど、とにかく飯はいっぱい食えよ! プロになったらぜってー招待券送るからな!」
その後ろから、名取さんがおっとりと手を振る。
「千咲さん、元気でね。お食事は三食きちんと摂ること。夜更かしは禁止です。……なーんて、ね? ……健康にね。辛くなったら、いつでも私たちの顔を思い浮かべてね」
続いて、画面の端で謎のポーズを決めている渡辺さんが大写しになった。
「姫君ー!! もうすでにロスで息絶えそうですが私は生きます! 私の夢を叶えて、絶対に姫君を私のファンにしちゃいますからね!! 姫君の進む未来に、幸多からんことをー!!!!」
そして、カメラが少しだけズームになり、はにかむ宇佐美くんが映る。
彼は少しだけ視線を
「千咲さん。どうか体にだけは気をつけて。……遠く離れていても、僕たちはいつでも、千咲さんの味方だから」
五人のあたたかい声が、スマートフォンの小さなスピーカーから震えて響く。
音が鼓膜を揺らす度に、何か熱いものがこみ上げるのを感じた。
そして、最後にカメラを手に持っていた人物────依里さんの顔が、画面いっぱいに映し出された。
彼女は少しだけ口元を歪め、いつものようにツンとした態度を作ろうとして、失敗したような顔で笑った。
「ちょっと遠いとこに引っ越したってだけで、私たちがずっと友達なのは変わらないわ。……ちーちゃんは一人じゃない、いいわね? ……私の親友」
その言葉を合図にするように。
「ほら皆、出すわよ!」という依里さんの声が響き、カメラが一歩引きの
映し出されたのは、横一列に並んだ六人の姿。
そして彼らが、カメラに向かって、各々の『宝物』を誇らしげに高く掲げている光景だった。
それは、私が日常の合間にプレゼントした『金魚の切紙』。
文化祭の時、飾りを作るついでに作ってプレゼントしたそれを、皆は掲げていた。
依里さんは、それをスマートフォンのクリアケースの裏に挟んで。
星間さんは、愛車のキーホルダーに頑丈なビニールでパウチして括り付けて。
名取さんは、綺麗な和紙の
渡辺さんは、あの『漫画本』の表紙の一番いい場所に貼り付けて。
真壁くんは、勝守の紐にキーホルダーのようにくっつけて。
宇佐美くんは、生徒手帳の透明なポケットに、そっと忍ばせて。
それぞれのやり方で、私の作った切紙を、これ以上ないほど大切に扱ってくれている。
画面の中の皆は、涙ぐみながら、それでも精一杯の笑顔で私に手を振っていた。
頑張って!
負けるなよ
大丈夫!
応援してます!
いけるぜ!
ファイトだよ、千咲さん!
「み、んな」
────視界が、急激に滲んだ。
ああ、もう。
視覚障害はもうとっくに治ったはずなのに。
嗚呼、視界が滲んで滲んで、仕方がない。
さっきまであんなにクリアだったはずなのに、今はもう、画面の六人の顔すらまともに見えない。
もっと見たいのに。
見ていたいのに────それでも、耐えられなかった。
両手でスマートフォンを包み込むように握りしめて、私は泣いた。
静かに泣けたかどうかは定かではない。いくらか、堪えられなかったかもしれない。
でも、周りの乗客の視線なんて、もうどうでもよかった。
窓の外、猛スピードで流れ去っていく葦ノ原の景色。
でもまだまだ、ラハイロイは先。
これから海を越え空を越え────物理的な距離は、これから何千キロと離れていく。
でも、大丈夫。
私の胸の奥に刻まれた、この極彩色の日々は、誰にも奪えない。
彼らがくれたあたたかな光がある限り────私の思い出は、絶対に消えない。
◯朽葉千咲
葦ノ原で大切な思い出を手に入れて、視覚障害も完治済みの完璧で究極の千咲。
だからといって何か能力が向上したわけではないし、共鳴能力も何もかも原作そのままだが、少しだけ原作千咲よりもフランク?かも?
宇佐見くんからの恋愛的好意には気が付いていない。哀れなり宇佐見。
また、この世界線でも普通にスタートーチ学園での生活は満喫するし、穂波にも飛ばされる。しかしこの世界線の穂波は、外界との時間のズレが大幅に縮まっているため、千咲が脱出する時のズレはわずか一年程度。
さらにそもそもの千咲の出生年月が、この世界線ではリンネーなどの原作での同世代と被っているので、リンネーを始めとするスタートーチ学園での友達と出会えない、なんていうこともない。ご都合設定だって?細けぇこたぁいいんだよ幸せなら!!
ちなみに、穂波内で元々持っていた携帯は壊してしまったため、現在千咲は旧友たちと連絡が取れない状態。幸いにも写真や動画は事前に学園でバックアップをとっていたので無事。
それはそうと千咲は当時滅茶苦茶落ち込んだし、旧友たちも急に連絡が取れなくなってしまったので心配で仕方ない。