空、望まれぬ星が二つある。   作:暴れ球

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四話

 

 マルフォイは決闘に来なかった!

 ハリーとロンと、ついでにハーマイオニーとネビルは、全速力で廊下を走り抜けていた。

 夕食の席でマルフォイにけしかけられた真夜中の決闘に、ノコノコと応じたのが運のツキだった。おせっかいなハーマイオニーと、合言葉を忘れて談話室から締め出されていたネビルに見つかりつつも、トロフィー室に向かった四人を待ち受けていたのはマルフォイではなかった。管理人のアーガス・フィルチと猫のミセス・ノリスだった。マルフォイのマの字もない。

 きっと、マルフォイは最初からそのつもりだったに違いない。暗闇の中に、あのせせら笑いを浮かべる青白い顔が見えるようだった。

 偽の約束でハリーをおびき出し、フィルチに告げ口し、そこを捕まえさせてやろうという魂胆だったのだ。ハーマイオニーもそう言ったが、ハリーは彼女の前でそうだと言いたくなかった。

 

 最悪は積み重なるものだ。

 一刻も早くグリフィンドール塔に戻らないといけないのに、ピーブズにまで出くわした。ハリー達の場所を大声で叫ぶポルターガイストの下をすり抜けて、命からがら逃げ出した先は廊下の突き当りだった。ドアには鍵が掛かっていた。

 もうおしまいだと思ったとき、ハーマイオニーがハリーの杖をひったくって鍵を叩いた。

 

「アロホモラ!――開け!」

 

 最初から鍵なんてなかったかのように、パッと扉は開いた。四人は折り重なってなだれ込んで、這う這うの体でドアを閉めた。

 まだ心臓がバクバクと鳴っている。ハリーは今夜だけで、一生分の心臓の働きを使い切ったとさえ思った。

 ハリーは扉に耳を当てて、必死に向こうの様子を探った。

 

「フィルチはこのドアに鍵が掛かってると思ってる。もうオーケーだ――ネビル、離してくれよ!」

 

 ハリーは扉の向こうに聞こえないようにヒソヒソ声で言った。ネビルがずっとハリーのガウンの袖を引っ張っていたのだ。

 

「えっ、なに?」

 

 そこでようやく、ハリーは振り返った。

 それに気づいたのはハリーが最後だった。他のみんなはもうとっくに振り返って、それを見ていたから。

 ハリーは頭がくらくらした。起きたまま夢を見ているのかと思った。夢なら早く覚めてくれ、とも思った。

 扉の先は、部屋ではなくて廊下だった。入学式の時にダンブルドアが言っていた、四階の『禁じられた廊下』だ。

 そして、見たのは犬だった。

 それも、ただの犬じゃない。巨大な犬だ。熊より大きな? ――いいや、そんなものじゃない。床から天井の空間全てが犬だった。それに比べれば、熊なんて可愛いものだった。何せその巨大な犬は、巨大であるだけには飽き足らず、頭が三つもあったからだ。

 六つの目が、呆気にとられた様子でハリーたちをじっと見て、フンフンとしきりに鼻を鳴らした。黄色い牙の隙間からだらりと涎が垂れる。

 ハリーたちが突然現れたものだから、怪物犬も困惑したらしい。だがその困惑も一時のもので、すぐに消えたのがわかった。聞こえてくる腹の底に響くような唸り声――。

 ハリーは思わず叫び声をあげそうになった。

 けれど、それより前に聞こえてきたものがあった。

 誰かの声だ。女の子の声。

 すると怪物犬は途端にとろんとした目をして、廊下の中央に丸くなってしまった。そして、なんと寝息まで立て始めた。

 

「こんな夜更けにお客様?」

 

 犬の寝息に混じって、凛とした声があった。

 四人が呆気にとられて、その様子に目が離せないでいると、怪物犬が喋った。

 いや、犬が喋ったのではない。よく見ると、怪物犬の足下に人影があった。ローブ姿、女の子。それにスリザリンの生徒だ。暗闇に浮かぶ青色の目に、ハリーは見覚えがあった。

 

「り、リラ――!」

「こんばんは。ダイアゴン横丁以来ね」

 

 散歩中に偶然出会ったから挨拶を返した、というのと同じ調子でリラは言った。

 それに対してロンが何かを言おうとした。けれど怪物犬がふがふがと言い始めたので、途端に後ずさりした。ハリーもそれにつられそうになると、また声が聞こえた。

 今度ははっきりとわかった。聞こえた声は、リラの歌声だったのだ。

 静かな謳い口に、怪物犬は静かに再び眠りについた。

 

「……ね? わかったでしょう。この子、すぐに目が覚めるの。だからお話は静かにね」

 

 ハリーはリラの言葉に、コクコクと何度も頷いた。

 

「……スリザリンじゃないか! なんでこんなところにいるんだ?」

「そういうあなたはグリフィンドールのロナルド・ウィーズリー。あら、他のみんなもグリフィンドールね。談話室はこっちじゃないわよ」

 

 嫌なものでも見たとでも言いたげなロンに、リラは素っ気なく言った。

 

「なんでって聞いたわね、それは――、」

 

 リラは言いながら、ひょい、ひょいと杖を指揮するかのように動かした。その先を見ると、いくつものブラシが浮かんでいた。ブラシはシャッ、シャッと音を立てながら、怪物犬をブラッシングしている。よく見ればリラは杖の反対の手にもブラシを持っていて、そのローブは犬の黒い毛だらけだった。きっと長い時間ここにいたのだろうということが伺える。

 

「……まあ、こういうことね。お世話してるの。校内を散歩してたら偶然この子を見つけたものだから。狭いところにいるから毛づくろいも満足にできないみたいだし、せめてこれくらいはね」

「毛繕い!? こんな怪物を!?」

 

 悲鳴みたいな声をロンはあげた。ハリーも同じことを思った。自分が魔法使いだと知らされて、ホグワーツに入学して数日。そこでは不思議なことばかりが魔法使いの常識で、何度も驚かされてきたが怪物犬はその常識からすらも外れている。もしかするとハグリッドなら大喜びかもしれないが。

 けれどリラの手付きはあくまでも優し気で、仮にここにいるのが小さな小型犬であろうとも同じことをしているだろうと思えるものだった。怪物だろうとなんだろうと、リラにとってはあまり違いはないらしかった。

 

「大きくたって、動物には変わりないわね」

 

 リラはこともなげに言って、ブラシを動かす手を止めない。

 そのときだった。眠っていたはずの怪物犬の頭の一つが、ふいにもたげられた。真ん中の頭だ。とろんとした目のまま、その鼻先がリラの方へぐいと寄せられる。残る二つの頭はまだ寝息を立てているのに、その一つだけが、何かを訴えるようにフンフンと鼻を鳴らした。

 ハリーはまた身を硬くした。起きてしまうのか、と思った。

 けれどリラは慌てなかった。

 

「……こっちも?」

 

 まるで犬の言葉を聞き取ったかのように、リラは小首をかしげた。怪物犬の頭は、ずいと彼女の手元のブラシに鼻面を押し付ける。甘えるような、急かすような仕草だった。

 

「はいはい、わかったから。順番でしょう。そんなに焦らなくても、ちゃんと全部やってあげるから」

 

 リラは苦笑して、浮かんでいたブラシの一本を、その頭の方へと回した。シャッ、シャッと毛並みが整えられていくと、犬の頭は満足そうに目を細め、再びゆっくりと床に伏せた。とろとろと、寝息が戻ってくる。

 ハリーはその一部始終を見ていた。

 犬は何も喋っていない。ただ鼻を鳴らして、ブラシに頭を押し付けただけだ。それなのにリラはまるで会話でもするように、犬の望みを正確に汲み取ってみせた。

 

「君……」ハリーは思わず口を開いていた。「君、動物と話ができるの?」

「なんとなくね」

 

 リラは振り向きもせずに答えた。

 

「言葉ってわけじゃないわ。なんとなく何を考えてるか、何をしてほしいかっていうのがわかるだけ。別に、大したことじゃないわ」

 

 言って、リラはまた歌を歌い始めた。

 ハリーには、目の前の女の子がこの巨大な怪物よりもずっと不思議なもののように思えてきた。

 

「信じられない! ここって『禁じられた廊下』よ? それに夜中に出歩くなんて!」

「そう、校則違反。あなたの言う通りね、ミス・グレンジャー」

 

 リラはこともなげに頷いて、それからわずかに首をかしげた。

 

「それじゃあ、どうする? 扉向こうのアーガス・フィルチに報告してみる? あなたの口で。『生徒が禁じられた廊下にいます、それも夜中に!』……って」

 

 リラはクスクスと、鈴のような笑みを漏らした。

 自分が何を言ったのか気づいたのか、ハーマイオニーは目を見開いて黙り込んだ。ネビルはその隣で怪物犬に怯え切って、何もしゃべれないようだった。

 

「一日に二度も校則を破るなんて。意外と勇ましいのね、ハリー」

「好きで破ったんじゃないよ。マルフォイが……」

「ドラコが?」

 

 リラは眉をひそめた。

 ハリーが決闘の顛末を話すと、その顔があきれ顔に変わった。

 

「……あの子、またそんなちょっかい掛けたのね。可愛いんだか可愛くないんだか。せっかくならちゃんと決闘してしまえばいいのに、半端に逃げるんだから」

「アイツにかわいいところなんてあるのか? あれがかわいいなら、庭小人だってかわいいって言えるだろうさ」

「庭小人は……まあ、それなりじゃない? どちらでもいいけれど」

 

 適当に言って、リラは杖をもう一度振るった。

 

「スコージファイ――清めよ」

 

 ローブやブラシに絡みついていた犬の毛が一瞬で消えた。

 

「さ、用がないなら早く行って。フィルチももういなくなったでしょう。静かにしてもらわないと、またこの子が起きるわ」

 

 視線を外して、リラはブラッシングを再開した。また低く、落ち着くような調子で歌を歌いながら。

 言われた通り、四人はさっさと出ていこうとした。こんなところに長居なんて絶対にしたくない気持ちは、全員同じだった。

 けれどハリーは、少しだけ躊躇った。

 

「おい! 行こうぜハリー」

「ロン、ちょっと待って!」

 

 ハリーはリラに向き直る。

 

「その、ありがとう。本のこと。授業で当てられたとき、君がくれた本のおかげで答えられたから」

「また、意外ね」

 

 リラはひょいと片眉を上げて、それからおかしそうに口元を緩めた。

 

「あたしてっきり、埃を積もらせてるものだと思ったから」

 

 ハリーはどきりとした。

 図星だった。本当のところ、ハリーはあまり本を読む方ではない。ダーズリーの家でも、本を読もうと思えばダドリーがみんなバラバラのページにしてしまったし、字を追うのは得意な方じゃなかった。だから書店でリラに本を手渡されたとき、内心では少し困っていたのだ。きっと読まずに鞄の底で眠らせてしまうだろう、と。

 もっとも、それを認めてしまうと、ハリーは単に話題作りのために書店でリラに話しかけたことになる。それはちょっと、恥ずかしい。

 それを否定したいという気持ちがハリーに本を開かせた。

 眠る前のわずかな時間に、寮のベッドの中で、ランプの灯りを頼りに、一行ずつ、何度もつっかえながら読んだ。わからない単語は飛ばして、絵を眺めて、ページをめくった。

 それをリラはまるで見ていたかのように言い当てた。いや、言い当てたと感じたのはハリーの直感でしかないけれど。

 

「ちゃ、ちゃんと読んでるよ! ……まだ、全部は読めてないけど」

 

 ハリーは、つい声を大きくして言った。

 リラはそれを聞いて、シィ、と人差し指を口に当てて、それからコロコロとおかしそうに笑った。咎める色も、馬鹿にする色もない。マルフォイとは違う形の揶揄うような笑み。

 それがかえって、ハリーにはやはり恥ずかしかった。頑張って読んだことも、つっかえながらページをめくった夜のことも、全部見透かされているような気がして。

 もっと話をしたいと思ったが、怪物犬が目を瞑ったままぐるぐると唸るし、ロンが死にそうな顔をしていたので、大人しく出ていくことにした。

 

「ほら、もう行って。お友達も待っていることだし」

「うん、僕たちもう行くよ。……また会えるよね?」

「そりゃ同じ学校ですもの。会いたいと思えば、普通に会えるわよ。寮が違ってもね」

「よかった。それじゃ、また」

「ええ、また」

 

 ひらひらと振られる手に見送られて、ハリー達は『禁じられた廊下』から出た。

 

「ああ、それと」扉を閉める瞬間、楽し気なリラの声がハリーの耳に届いた。「シーカー就任おめでとう、ハリー」

 

 

 帰り道では、幸いなことに誰とも出会うことはなかった。フィルチもミセス・ノリスもピーブズも、みんな別のところに行ってくれたらしい。

 四人、へとへとになりながら談話室に戻って、ハーマイオニーにまたガミガミ言われて、ロンとそれを受け流してベッドの中に入り込んで(ネビルはまだ談話室の肘掛け椅子にへたり込んだままだった)、そこでハリーはようやく、ほっと一息付けたような気がした。今日一日、いろんなことがありすぎた。

 

「リラ・ブラックってイカレてるよな」

 

 向かいのベッドの中で、ロンが言った。

 

「一人であんなところに居て、あんな怪物の相手してるなんて!」

「動物が好きって、前に言ってた。だからじゃないかな」

「ドラゴンが好きだからってドラゴンに頬擦りできるかよ! ルーマニアのチャーリー兄さんだって、そんなことしないと思うぜ」

 

 リラを悪しきように言うロンを否定したかったが、ハリーはうまく言葉が見つからなかった。

 確かに、リラにはちょっと、不思議なところがある。

 彼女は他のスリザリンの連中とはどこか違って見えた。マルフォイのように偉そうにふんぞり返るでもなく、その取り巻きのように群れるでもない。組分けの後の食堂で遠目に見たときも、彼女は同じ寮の生徒たちの輪の中にいながら、どこかひとり離れた場所にいるみたいだった。本を読んでいるか、皿の上のものをちまちまとつまんでいるか。騒がしいグリフィンドールの席とは正反対の静かな佇まい。スリザリンが嫌いなロンでさえ、彼女のことだけは「イカレてる」としか言えずに、「いけ好かない」とは言わなかった。

 それに、動物と話ができる。

 あの怪物犬の、声にもならない要求を、彼女はまるで友達のおしゃべりみたいに聞き取っていた。「こっちも」とか、「順番でしょう」とか。ハリーには、犬がただ鼻を鳴らしているようにしか聞こえなかったのに。

 そして何より、あんな怪物を前にしても、彼女はちっとも怖がっていなかった。

 頭が三つあって、床から天井まで埋め尽くすような巨大な犬。ハリーもロンもハーマイオニーも、腰を抜かしそうになったあの怪物の足元で、リラはまるで自分の部屋でくつろぐみたいに座って、鼻歌交じりにブラシをかけていた。怖がるどころか、その毛が満足に手入れできていないことを心配してやっていた。

 不思議な子だ、と思う。

 いや、不思議という言葉だけでは、何か足りない気もした。うまく言えないけれど。

 いろんなことがハリーの頭の中を回っていた。初めて箒に乗ったこと、自分が箒を自在に操れたということ、グリフィンドールのシーカーに選ばれたこと、『禁じられた廊下』のこと、三頭犬、ハーマイオニーが言ってた仕掛け扉のこと、ハグリッドが七一三番金庫から持ち出した汚い小さな包みのこと、リラと話ができたこと……。

 そうして考えているうちに、ハリーはすっと眠りの中に落ちていった。

 

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