その日の事を、私は決して忘れないだろう。あの日、裏路地で君を見つけたことを。
「ヌルフフフ。良い教材が沢山買えました。しかし、まだまだ足りませんね。生徒たちと向き合うためには、もっともっと沢山の事を学ばないといけませんし」
それはタコのような黄色い触手の化物、後に殺せんせーと名付けられる男が椚ヶ丘中学の教師になる前のある日。彼は変装して町へ行き、中学生や高校生向けの教材、先生としての心得の本等を大量に買い集めて自分の隠れ家へと向かっており、今は人けのない裏路地を歩いている。
「しかし、街行く人たちに変な目で見られましたし、今後はもう少しバレないような変装をしないといけませんね」
彼の変装は近くで見ると人間ではないことがバレバレだった。関節の位置が曖昧だし指の長さはおかしいし鼻はよく取れるしと怪しいところだらけ。街の人達に怪しまれつつも、警察等に通報されなかったのは奇跡と言えるレベルである。彼も通報される事態は避けたいので、人々に見られないようにマッハで帰りたかったが、下手な所でそんなスピードを出すと街の人達に被害を出してしまう可能性があるため、マッハで移動しても被害が出ないと確信できる所まで行くため、こうして人けのない所を歩いているのだ。
教材の重さに苦労しながら歩いている夜。彼はある少女を見つけた。
「にゅや? あの子」
それは腰まで伸びるほどの長い白髪で白いワンピースを着た少女。背丈は160あるかないかの大きさであり、三角座りをして顔を膝の間に沈めている。その傍には大きなアタッシュケースがあった。
四肢は枝のように細く、所々汚れている所から見て、何やらただ事ではない感じに思える。彼は自分が人間ではないとバレないよう、ほぼ意味のない変装を直しながら少女に声をかける。
「あの〜、お嬢さん。こんな所で1人、どうかしたのでしょうか?」
恐る恐る声をかけた彼に、少女が顔をあげる。肌は白人と思えるほどに白く、光を灯さない青い瞳、端正な顔立ちやその無表情と相まって、まるで人形のような現実離れした美しさがある。
だがそれ以上に気になるのは彼女の姿。顔は土や埃で汚れ、体は細く服もボロボロ。まるで、かつてスラムで暮らしていた自分を見ているかのような姿だ。そして。
「⋯⋯何?」
少女にそう言われ、彼は初めて気がついた。自分の触手がいつのまにか彼女のうなじ部分に触れていることに。
「!? し、失礼しました。少し、手が滑ってしまいまして。ヌルフフフフ」
慌てて触手を離し、少女から距離を取る。
(何だこれは。触手が彼女に引き寄せられている!?)
服の中に隠している触手が、まるで明かりに釣られる虫のように、彼女の方へ引き寄せられているのを感じた。
(この子は一体⋯⋯いえ、今はそんな事よりも大切なことがありますね)
「こんな所で寝ていたら、風邪をひいてしまいますよ。ご両親はどちらに? なぜあなた1人なのですか?」
「⋯⋯両親。父親とか母親とかのこと?」
「そうですよ。ご両親はお家に? それともお出かけの最中ではぐれてしまったのですか? それなら、私が一緒に両親を」
「⋯⋯父や母はない。強いて言うなら、スクルドがその代わり?」
「えっ⋯⋯もしかして、ご両親は既に」
「⋯⋯んーん。そういうのじゃなくて、私には父や母が最初からない。私は神様だから」
何とも意味を図りかねる少女の言葉に彼は混乱するしかなかった。
「⋯⋯でも、そんな私を育ててくれたのがスクルドだった。あの人と一緒に、私はここに来た」
「そのスクルドさん? は今どちらに。姿が見えませんが」
「⋯⋯分からない。何か用事があるみたいで、ここで待っててと言われて、3日くらい待ってる気がする」
「3日!? ご飯とかお水とかは」
「⋯⋯欲しかったけど、スクルドがここを動くなって言ってたから。何も口にしてない⋯⋯そういえば、誰かに声をかけられたらこれを渡せって言われた」
そう言って、少女は1枚の手紙を彼に渡した。
「これは?」
「私に声をかける人がいたら、これを渡せって。内容は分からない。私は読むなって言われてるから」
その手紙を受け取って内容を読むと、彼は驚きとスクルドという人間への怒りを感じた。手紙の内容は要約するとこうだ。
少女を育てることがしんどくなった。私は一人暮らしで幸せになりたいから、彼女はここに置いていく。誰か心優しい人が、彼女を拾って代わりに育ててほしい。アタッシュケースの中に金は沢山あるから、養育費には困らないだろうということ。
自分勝手な理由で少女を捨て、しかも勝手に他人に子育てを押しつける無責任さ。怒りで黒くなってしまいそうになるが、先生はぐっと堪える。
「なるほど。手紙の内容は理解しました。えっと⋯⋯お名前は」
「アテナ。スクルドからはそう呼ばれてた」
「アテナさん。スクルドさんはしばらくこちらに来られないようです。何かしらの用事があるようですが、詳しくは話せないみたいで。それで、あなたを1人残すことが心配なので、迎えに行くまで、他の人にお世話をしてほしいと書いてました。ですから」
彼は触手を彼女に差し伸べる。
「スクルドさんが迎えに来るまで、私と一緒に暮らしましょう。こんな所で座り込んで、もし病気になって倒れたりしたら大変ですしね」
「⋯⋯分かった。じゃあ、スクルドが迎えに来るまでよろしく。えっと」
「ひとまずは、先生とでも呼んで下さい。アテナさん」
彼は真実を話さなかった。いつかは話すべきとは考えているが、今話すのは、あまりにも残酷と思えたから。彼女の心が強くなり、受け止められるようになるまで、秘密にしようと判断した。
(さて。どうしたものでしょうか)
現在、彼はアテナという少女と共に隠れ家に帰り、向かい合わせで床に座っていた。傍にあったアタッシュケースは一旦彼女に預けている。
「⋯⋯⋯⋯」
彼女は向かい合わせで座ってから一言も話さず、じっと彼のことを見つめていて、その視線が彼にとってはむず痒い。彼女の事を放っておけず、将来が良いものになるよう導きたいと思って自分の隠れ家へと連れてきた。
家に入ってまずは風呂に入ってもらい、先生自身も風呂上がりの彼女を綺麗に手入れした。おかげで体は綺麗になり、着ていた服も先生が直して新品のように綺麗になっている。そして十分な食事と水分を取らせ、彼女は少しばかり元気そうになった。そこまでは良かった。
しかし、彼は少女くらいの年の娘と話したことは無く、育児スキルも0に等しい。そんな彼が少女との会話内容に困ってしまうのは仕方のないことだった。一応、世間話をしようと頑張ったのだが。
「あ、アテナさん。えっと、ご趣味は?」
「⋯⋯ない」
「そうですか。ご年齢は?」
「⋯⋯14歳」
「ほお。14歳ということは、どこかの中学校に入ってるんですか?」
「⋯⋯入ってない。私は神様だから」
「な、なるほど。神様も大変ですねえ⋯⋯そういえば、今日は素晴らしい夜ですよね。星がキラキラ輝いて素晴らしくて。幻想的でロマンチックで神様であるあなたに相応しい夜と思いませんか?」
「⋯⋯そうだね」
と無表情で返された後に話は続かず、先生も次に何を話せば良いか分からずに詰まってしまった。
(しかし、いつまでもこうしてるわけには行きません。彼女を守り、教え導くと決めたのです。いずれは私が人間ではない事も話さないといけないでしょうし、彼女についても知りたいことは色々ありますが、それはまだ後ですね。とりあえず、ここはお菓子を出しましょう。物で釣るようで嫌な感じですが、美味しいお菓子を食べれば何かしらの話ができるはず。まずはそこからです)
そう考え、彼は棚に取っておいたお菓子を1つ出して彼女の前に置いた。
「どうぞ。コンビニで買ってきた期間限定の栗カスタードのシュークリームです。甘くて美味しいですよー」
「⋯⋯いただく」
彼女はそう言ってシュークリームを受け取り、無表情で食べ始め、あっという間に平らげてしまった。
「⋯⋯美味しかった。ありがとう。先生」
無表情ではあるが、彼女が感謝してるであろうことは何となく彼に伝わった。
「お口に合ったようで良かったです。甘いものはお好きなんですか?」
「⋯⋯うん。甘いものは好き」
「ほお。気が合いますね。先生も甘いものは大好きなんですよ。昨日も色々なスイーツを買ったりしたのですが、特に絶品なのがこのスイーツでして。これの甘さや食感、触り心地が最高でして。せっかくですし、これを一緒に食べませんか?」
「⋯⋯良いの?」
「美味しいものは誰かと分け合いたいですからね。それに先生、これまで誰かと一緒に食事をしたということがないので、こんな風に誰かとシェアできるのちょっと憧れてたんですよ」
2人でスイーツに舌鼓を打っていると、彼女が質問してきた。
「⋯⋯ところで、先生はどうしてこんな所に? 普段は何の仕事をしてるの?」
「ちょっとした事情があってここに隠れてるんですよ。仕事は今は何もしてませんが、2週間後くらいに、ある中学校の教師をやることになってます」
「⋯⋯中学校。それって椚ヶ丘中学のこと?」
「にゅや!? な、なんで私が椚ヶ丘中学の先生をすると!? 一体どこでそんな情報を」
「⋯⋯スクルドが言ってた。新年度に、椚ヶ丘中学に人間ではない新しい先生が来るって。先生は人間じゃないみたいだし、中学の教師をやるって言ってたから椚ヶ丘中学の先生なのかと思ったんだけど」
「ちょ、ちょっと待って下さい! 色々突っ込みたいところはありますが、まずあなた、私が人間ではないと気づいてたんですか!?」
「⋯⋯関節の位置変だし、鼻が少し斜めになってるし、指の長さも変だし、色々おかしなところが多い。正直、なんでバレて騒ぎになってないのか不思議なレベル」
「そこまで言いますか!? 私としては中々良いものだと思ったのですが」
「⋯⋯先生はもう少し変装について学ぶべきだと思う。ま、そんなことはどうでも良いや。先生が椚ヶ丘中学に行くなら、教えてほしいことがある」
「何ですか。それは」
「⋯⋯椚ヶ丘中学のE組に入る方法を教えてほしい」
その言葉に、彼は目を見開いて驚いた。彼女が入ると言ったE組。それは彼が担当をすることになるクラスだったからだ。
「理由を聞いてもよろしいですか?」
「⋯⋯スクルドが言ってた。もし私が中学校に行くなら、椚ヶ丘中学のE組になったほうが良いって。それに、なぜかは分からないけど、私もそこに行かないといけないと思った。私のやりたいことや見つけたい物は、そのE組の中にある気がする。だから、私は椚ヶ丘中学のE組に行きたい」
変わらずの無表情で瞳に光は灯ってないが、その瞳からは確固たる強い意志を感じた。誰かにそうやれと言われたから仕方なくするのではなく、何かしらの目標意識があると分かる強い意志。その目を見て彼は顎に触手を添えながら考える。
(色々と気になることはありますが、彼女が椚ヶ丘中学に入りたいと望むなら、先生としてその心意気に応えないわけにはいきませんね。ヌルフフフフフ。さしずめ、先生として活動する前の予行演習というところでしょうか)
「良いでしょうアテナさん。あなたが椚ヶ丘中学のE組に入れるよう先生として全力を尽くしましょう。ただし、その前に学ぶべき事は沢山ありますし、時間は短いからかなりハードになりますよ。それでも構いませんか?」
「⋯⋯大丈夫。四肢が千切れない程度の事なら余裕でこなせるから」
「程度のレベル高くないですか!? いくらハードといってもそんなえげつないことになりませんよ! ただし、それなりの覚悟はしてもらいますからね」
「⋯⋯分かった。覚悟しておく」
こうして彼による『アテナ、椚ヶ丘中学のE組に入るためのヌルヌル特別学習』が始まるのであった。