勝者が歌い、観客が歓声を上げ、スタッフが当然のように動く。
その“当たり前”を、少し外側から拾っていくウマ娘二次を書きました。
3話まで連続投稿して、10話完結まで1日おきに投稿の予定です。
「……で、なんで歌うんだ?」
秋月恒一は、自分で思ったより大きな声を出していた。
言ってから、しまった、と思った。スタンドにはまだ人が残っている。レースが終わったばかりの空気は、夕方になっても冷めきらず、観客の声と熱を抱えたまま膨らんでいた。
勝ったウマ娘の名前を何度も繰り返す若い男がいた。惜しかった、仕掛けが早かった、と通ぶった顔で話す年配の夫婦がいた。なぜか泣いている子どももいた。負けたからではない。たぶん、胸の中に入ってきたものを、まだどう扱えばいいのか分からないのだろう。隣で父親らしい男が、困った顔でその背中を撫でていた。
秋月は、そういう熱にあまり馴染みがない。
嫌いではない。馬鹿にしているわけでもない。ただ、距離がある。
社会部で二十年。事故、災害、汚職、訴訟、行方不明、遺族会見、謝罪会見。人の感情がむき出しになる場所には、それなりに行ってきた。けれど自分がその中に入ったことは、ほとんどない。
いつも少し外側から見ていた。
見て、聞いて、書く。そうしているうちに、外側にいることの方が自然になった。距離があるから、書ける。距離が消えると、文章が滲む。秋月はそういう仕事の仕方で、二十年やってきた。
ウマ娘のレースも、秋月にとってはその程度のものだった。
人気があることは知っている。テレビをつければ誰かが走っている。駅の広告にも、雑誌の表紙にも、街頭ビジョンにもいる。歴史や社会現象という言葉を使うほどには、世の中に広がっている。
だが、秋月の取材対象ではなかった。
少なくとも、今日までは。
来た理由は、編集長の軽口だった。
「たまにはスポーツでも見てこい。視野が狭くなってる」
冗談めかした口調だった。けれど秋月には妙に刺さった。視野が狭い。二十年かけて磨いてきた仕事の仕方を、横から雑に切られた気がした。
だから来た。
反論の代わりに。
レースそのものは、面白かった。
最後の直線、先頭の二人が並んで抜け出した瞬間、秋月は思わず腰を浮かせていた。勝ったのは外から差してきた栗毛のウマ娘だった。ゴールを抜けたあとも、すぐには止まれず、風を引きずるみたいに走っていた。
あれには、黙らせる力があった。
ゴール直後の数秒間、秋月は記者であることを忘れていた。腰が浮いたのは、観察のためではなかった。気づいたら浮いていた。それが少しだけ、自分に対して新鮮だった。二十年、こういう浮かれ方からは距離を取ってきたはずだ。
そこまでは分かる。
分かるのだが。
「あの、すみません。お席こちらです」
案内スタッフの声で、秋月は顔を上げた。通路を塞ぎかけていたらしい。
「あ、失礼」
脇へ寄ると、後ろから若い女の子たちが三人、ぺこぺこと頭を下げながら通っていった。
「ありがとうございます」
「すみません」
「ライブ間に合うかな」
最後の一言だけが耳に残った。
やはり、そこだ。
ライブ。
走ったあとに、歌う。
そういうものだということは知っている。観客サービスだとか、伝統だとか、勝者の披露だとか、そういう説明があるのも知っている。知っているが、納得していたわけではない。
ただ、今までは気にしていなかった。
気にしないことと、納得することは、似ているようで違う。気にしないでいられたのは、そこに自分が立っていなかったからだ。今日は立っている。だから、気にする。
「そんな顔で立ってると、通報されますよ」
後ろから声がした。
振り向くと、桐生亮がいた。手には、空になりかけた紙コップのコーヒー。黒いジャケットに、少しくたびれたシャツ。研究者というより、休日に寝不足のまま引っぱり出された男に見える。
実際、引っぱり出したのは秋月だった。
「人を不審者みたいに言うな」
「違うんですか」
「違う」
桐生は軽く笑った。
この笑い方が、昔から少し気に食わない。
初めて会ったのは十年ほど前だ。ある事件の取材で、秋月が大学関係者に話を聞いて回っていたとき、妙に話の通じる若い研究者がいた。それが桐生だった。
当時から、愛想がいいのか悪いのか分からない男だった。質問に答えているようで、いつの間にか質問そのものをずらしてくる。苛立つのに、聞いたあと少し考え込まされる。
それ以来、妙に縁が切れなかった。
年に何度か連絡を取る。取材協力というほど大げさではない。世間話でもない。秋月が何かに引っかかったとき、桐生に聞くことがあった。桐生も、秋月に何かの記事を送ってくることがあった。
気心が知れている、というほど近くはない。
だが、十年分の距離の置き方は、お互いに分かっていた。距離を詰めない、ということが、二人の関係の温度だった。
「で」
桐生はスタンドの方へ顎を向けた。
「何に引っかかったんです」
「走ったあとに歌うの、変だと思わないか」
桐生は一度まばたきした。
「そこですか」
「そこだろ」
「もっと手前かと思いました」
「手前?」
「なぜみんな、まだ帰らないのか、とか」
秋月はスタンドを見渡した。
たしかに、人はほとんど残っている。レースは終わった。勝敗も決まった。結果も出た。それなのに、誰も終わったという顔をしていない。
「それも変だな」
「でも、先に歌が気になる」
「気になるだろ」
桐生は紙コップに口をつけた。すぐに少し嫌そうな顔をした。たぶん、ぬるいのだろう。それでも飲む。
この男は、体の扱いが大雑把だ。
昔からそうだった。食事も睡眠も、研究や観察の邪魔にならない範囲で処理する。秋月も人のことは言えないが、桐生の雑さは、自分の身体を借り物のように扱っている感じがある。
研究室に行くと、桐生の机にはたいてい飲みかけのコーヒーがいくつか個並んでいる。冷めていたり、ほぼ手をつけていない様子だったり。それを誰かが片付けている形跡が、いつもあった。
「気になる人は、あまりここまで来ませんけどね」
「どういう意味だ」
「普通は慣れます」
「慣れたら、変じゃなくなるのか」
「変かどうかを考えなくなる」
そのとき、横から小さな紙袋が差し出された。
「だから先生、自販機で温かいの買えばよかったのに」
ミナトだった。
いつの間に戻ってきたのか、少しだけ肩で息をしている。売店まで急いだのだろう。歩幅は小さいが、動きは速い。ただ、立ち止まる直前に、左足だけが半拍遅れた。
秋月はそれに気づいた。
桐生も気づいていた。
顔は紙コップの方を向いたままだったが、視線だけが一瞬、足元に落ちていた。
ミナトは紙袋から缶コーヒーを一本取り出し、桐生の手元の紙コップと勝手に交換した。
「はい。こっちです」
「ありがとうございます」
「あと、砂糖入りはやめてくださいね。今日二杯目です」
「一杯目です」
「集合したときに、缶を捨ててましたよね?」
「見てましたか」
「見てます」
ミナトはそう言って、空になった紙コップをまとめて自分の手に持った。捨てに行く動作が、特別な配慮のようには見えない。ついでに済ませている、という感じだった。
その「ついで」の感じが、秋月の耳に残った。
ミナトは怒っているわけではない。甘やかしているわけでもない。ただ、見ている。桐生もそれを咎めない。見られていることに慣れているようだった。
秋月が初めてこの二人を見たとき、親子かと思った。次に見たとき、それは違うと思った。今は、何と呼べばいいのか分からないまま受け取っている。
ミナトは元競走ウマ娘だ。
元、と言っていいのかどうか、秋月には分からない。走れなくなったのは二年前だと聞いている。脚だということだけは知っている。詳しいことは、本人も桐生も話さない。
桐生の研究室に彼女がいる理由を、秋月は一度だけ聞いたことがある。
「彼女が来たいと言ったので」
桐生はそれだけ答えた。
秋月は、それ以上聞かなかった。
聞かなかったのは、踏み込みすぎる気がしたからだ。だが、踏み込まなかったから、二年経っても分からないままだった。距離を詰めない、ということは、距離の中にあるものを見ないということでもある。
今日この二人を呼んだのは、保険のようなものだった。
自分一人で来ても、たぶん見落とす。
桐生なら余計なことを言うだろうし、ミナトなら秋月には分からない顔をするだろう。
それで十分だった。
関係をどうにかしようなどとは、来る前は考えていなかった。
「なあ、ミナト」
「はい?」
「お前は変だと思わないのか」
「何がですか?」
「走ったあとに歌うの」
ミナトは一瞬、きょとんとした。
質問の意味が分からなかった、というより、質問がそこにあること自体が不思議そうだった。
「ライブですか?」
「他に何がある」
「うーん」
ミナトは少し考えて、それから首を振った。
「別に」
桐生が小さく笑った。
秋月はそちらを睨む。
「お前も笑うな」
「いや、いい答えだなと思って」
「どこがだ」
「彼女にとっては、答えるほど分かれていないんですよ」
「分かれてない?」
「先生、そういう言い方をするから分かりにくいんですよ」
ミナトが少しだけ眉を寄せた。からかうような口調ではない。困った顔だ。だが、その「困った」の温度は軽かった。本当に困っているのではなく、毎度のことを毎度のように受け取っている、という感じの困り方だった。
「秋月さん、普通に考えてください」
「普通に考えたから変なんだよ」
「走ったあとですよ」
「だからだろ。息も上がる。脚も張る。勝った負けたで頭の中もぐちゃぐちゃになる。そのあと歌うか?」
「歌います」
即答だった。
その速さに、秋月は少し黙った。
冗談ではない。強がりでもない。秋月が二十年かけて身につけた、人の言葉の重さを測る感覚が、それを告げていた。
「なんで」
「なんで……」
ミナトは困ったように笑った。
答えがない顔ではなかった。答えを言葉にする必要が、いままでなかった人間の顔だった。
「そういうもの、だからですかね」
「説明になってない」
「秋月さん、今、"なんでご飯のあとにお茶飲むの"って聞いてるみたいです」
「飲みたいから飲むんだろ」
「じゃあ近いです」
「近いのか」
「近いです」
ミナトはそう言って、少しだけ笑った。からかっているのではない。同じ方向の話をしているはずなのに、どうして秋月さんはそんなに困った顔をするんだろう、という顔だった。
秋月は返す言葉を探したが、見つからなかった。
雑な答えに聞こえる。けれどミナトは投げていない。本当にそこに切れ目がないのだ。レースが終わって、別の催しとしてライブが始まるのではない。
たぶん、彼女の中では。
「終わったあと、じゃないんです」
ミナトは言った。
「まだ途中、って感じです」
「途中?」
「はい」
「勝負は終わってるだろ」
「勝負は終わってます」
ミナトはあっさり認めた。
「でも、走ったことはまだ終わってないです」
大型モニターに、勝ったウマ娘の顔が映った。
さっきゴールを駆け抜けた栗毛の子だ。汗は拭われているが、頬にはまだ火照りが残っている。笑っている。笑っているのに、まだどこか走っている途中の顔だった。
観客が名前を呼ぶ。
あの子はいつもああなんですよ、と後ろの席の誰かが言った。
秋月はその声の方を見なかった。
代わりに、ミナトの横顔を見た。ミナトはモニターを見ている。視線は揺れない。だが、一瞬だけ口の端が上がった。笑った、というほどではない。同じ場所にいたことのある人間が、知っている顔を見つけた、という反応だった。
「走ったことが終わってないって、どういう意味だ」
「そのままです」
「そのままじゃ分からん」
「体に残ってるんですよ」
ミナトは自分の胸のあたりを軽く押さえた。
「息とか、脚とか、勝った感じとか、負けた感じとか。全部、まだ残ってるんです」
「それは、時間が経てば消えるだろ」
「消えます」
少し間を置いて、ミナトは言った。
「だから、そのまま消したくないときがあります」
秋月は黙った。
消したくない。
それは分かる気がした。事件でも災害でも、何かが起きたあと、人はすぐにその場を離れない。何かを持ったまま立っている。言葉にできないものが、体の中に残っている。
ただ、ここにあるものは重さが違った。
悲しみではない。怒りでもない。もっと明るい。なのに、放っておくと壊れてしまうような危うさがある。
「で、歌うのか」
「たぶん」
「たぶん、なのか」
「だって、人によりますし」
ミナトは少し笑った。
「でも、私はそうでした」
秋月は桐生の方を見た。
桐生は何も言わなかった。ただ、缶コーヒーを両手で持っている。さっきまでの軽い笑いは消えていた。
ミナトが自分のことを話すとき、桐生はいつも少しだけ黙る。止めるわけでも、促すわけでもない。ただ聞いている。
いや、聞いているだけではない。
ミナトの声の高さ、息の置き方、左足に重心を移すときのわずかな遅れ。そういうものを、桐生は拾っている。
秋月にはそう見えた。
桐生は研究者として、ミナトを観察しているわけではない。そういう目ではない。観察というには、桐生の視線はミナトを「対象」として扱っていない。ただ、見ている。見ているうちに、見るべきものが向こうから現れる、という見方だった。
「お前も、走ったあとに歌ってたのか」
「はい」
「嫌なときは?」
「ありました」
「嫌でもやる?」
「やります」
「なんで」
ミナトはモニターを見たまま言った。
「やらないと、終わらないから」
秋月は、今度こそ黙った。
その一言は、妙にまっすぐ入ってきた。
説明ではない。理屈でもない。けれど、さっきまで秋月が感じていた違和感の輪郭に、いきなり指がかかった。
やらないと、終わらない。
レースは終わっている。勝敗は決まっている。結果は出ている。
それでも、終わっていない。
「先生、立ったまま飲まないでください」
ミナトが急に言った。
桐生は缶に口をつけかけた姿勢で止まる。
「こぼしませんよ」
「前にこぼしました」
「机の上でです」
「それが嫌なんです」
「厳しいですね」
「先生が構わなさすぎるんです」
ミナトは桐生の袖を軽く引いた。
引かれた桐生は抵抗せず、近くのベンチへ向かった。引かれる前から動くつもりだったのかもしれない。この二人の間では、どちらが先なのか分からないことがよくある。
秋月も、なんとなく後ろについていった。
三人で並んで座ると、ミナトは紙袋から小さなサンドイッチを出し、桐生に渡した。
「これも」
「ありがとうございます」
「お昼、食べてないですよね」
「食べました」
「ゼリー飲料は食事じゃないです」
「なかなか厳しい」
「先生、自分の身体のこと、他人事ですよね」
その言い方は、さっきまでより少し低かった。
桐生はサンドイッチの包装を剥がす手を止めた。
「そう見えますか」
「見えます」
「研究者はだいたいそうです」
「私は、それ嫌いです」
さらっと言った。
さらっと言ったのに、秋月には少し重く聞こえた。
桐生は何かを返そうとして、やめた。代わりに、包装を剥がして一口食べた。
ミナトはそれを確認してから、ステージの方を見た。
確認の目だった。食べたかどうか。半分まで食べたかどうか。それを見届けてから、自分の視線を別の場所に移す。長く付き合っている人間の癖だった。
この距離感は、世話を焼いているだけではないのだと秋月は思った。
ミナトは桐生を見ている。
桐生も、ミナトを見ている。
ただし、それはレースを見る目とは違う。能力を見る目でも、壊れたものを見る目でもない。秋月にはまだうまく言えないが、たぶん、桐生はミナトを"走れなくなったウマ娘"としてだけは見ていない。
だからミナトも、桐生を"研究者"としてだけは扱っていない。
そう見えた。
そして、そこに何があるのか、秋月にはまだ分からなかった。分からないが、二人の間にある距離は、自分が桐生と取っている距離とも、過去に取材で関わった人間関係のどれとも違う。研究者と被験者ではない。教師と教え子でもない。家族でもない。だが、無関係でもない。
「なあ」
秋月は言った。
「お前にとっては、走って、勝って、笑って、歌うまでで一個なのか」
ミナトは少し考えた。
今度は、すぐには答えなかった。
「毎回そう、ではないです」
「違うのか」
「負けたら全然違います。勝っても、歌うのが嫌なときはあります」
「それでも、やらないと終わらない」
「はい」
「何が終わらない」
ミナトは、すぐには答えなかった。
モニターに映った勝者は、インタビューを受けていた。声はここまでうまく聞こえない。けれど、観客は彼女の表情だけで何かを受け取っているようだった。笑えば歓声が上がる。少し言葉に詰まれば、あちこちから名前が呼ばれる。
ミナトは、その画面を見ていた。
「走ったこと、ですかね」
小さな声だった。
「走っただけだと、まだ体の中に残ってるんです」
「……」
「勝ったとか、負けたとかも。悔しいとか、嬉しいとかも。あと、見られてた感じも」
「見られてた感じ?」
「はい」
ミナトは少しだけ、自分の左脚を見た。
ほんの一瞬だった。すぐに視線はモニターへ戻った。
桐生は、今度はその動作を見ていなかった。少なくとも、見ているふりをしていなかった。視線は缶コーヒーの口元に置かれていた。だが、秋月には分かった。桐生は見ていた。見ていないふりをしているときほど見ている。十年付き合って、秋月はそれを知っている。
秋月は何も言わなかった。
「走ってるときって、自分だけじゃないんです」
「観客がいるからか」
「それもあります」
「他にも?」
「隣で走ってる子もいます。後ろから来る子もいます。名前を呼ぶ声もあります。誰かが息を飲むのも分かります」
「そんなの、走りながら分かるのか」
「分かります」
「全部?」
「全部じゃないです。でも、分かるものはあります」
ミナトは、自分の手を見た。
「それが、終わったあとも残るんです」
桐生がそこで、ようやく口を開いた。
「秋月さん」
「なんだ」
「さっきのレース、最後の直線は覚えていますよね」
「覚えてる」
「勝ち時計は?」
「知らん」
「上がりは?」
「見てない」
「でも、覚えてる」
「覚えてるな」
桐生は小さくうなずいた。
「なぜでしょう」
「知らんよ」
「知らないままの方がいいかもしれません」
「お前はいつもそういう言い方をする」
「十年聞いても慣れませんか」
「慣れたら腹が立たなくなるだけだ」
桐生は少し笑った。
その笑いで、場の重さがわずかに抜けた。
ミナトも少し笑った。声は出さない。だが、肩が一度だけ揺れた。秋月さん、相変わらず、という顔だった。
秋月はその二人の小さな笑いを、横目で受け取った。十年付き合っても腹が立つのに、今日はその腹立ちに、少し違う感触が混じっている気がした。腹立ちの根が、いつもより浅い。場が違うからかもしれない。あるいは、隣にミナトがいるからかもしれない。
インタビューが終わると、スタンドの空気が少し緩んだ。
だが、誰も帰らない。
飲み物を買いに立つ者はいる。連れと話し込む者もいる。スマートフォンを掲げて写真を撮っている者もいる。それでも、視線の中心はまだモニターの周辺に残っている。
終わったのに、残っている。
取材でも似た場面は見てきた。裁判が終わったあと、事故現場の規制線が外されたあと、会見で最後の質問が終わったあと。人はすぐには動かない。
だが、ここにある停滞はそれと違った。
重さで足が止まっているのではない。
まだここにいたい、という顔だった。
秋月は、そういう顔を何度か見たことがある。
会見が終わったあと、試合が終わったあと、祭りの明かりが落ちたあと。予定されていたものはもう終わっているのに、人だけが少し遅れて動き出す時間がある。
ただ、今ここにあるものは、どれとも少し違っていた。
重くはない。
浮かれているだけでもない。
明るいのに、すぐ手放すには惜しい。
そんなものを、みな少しずつ持っているように見えた。
そのとき、場内の照明が一段落ちた。
「さあ、ライブですよ」
ミナトが言った。
「分かってる」
「分かってる顔じゃないです」
「どんな顔だ」
「別のものが始まると思ってる顔です」
秋月は言い返しかけて、やめた。
実際、そう思っていた。
レースが終わって、次にライブが始まる。別のイベント。別の段階。そういう理解だった。
「違うのか」
「完全に別ではないです」
ミナトは言葉を探すように、少しだけ間を置いた。
「切り替わる、というより、広がる感じです」
「走るのと歌うのは全然違うだろ」
「違います」
「じゃあ何で繋がる」
「同じものが残ってるので」
「同じもの?」
「さっき走ってたときのものです」
ステージの照明が、少し落ちた。
トラックにはもう誰もいない。係員が黙って砂を均している。さっきまであれほど熱を帯びていた場所が、急に空っぽに見えた。
その代わり、中央のステージ周りがゆっくり明るくなっていく。
「ちゃんと間は空けるんだな」
秋月は言った。
「空けますよ」
ミナトは当然のように答えた。
「そのままは無理です」
「そりゃそうか」
「でも、切れてはないです」
「切れてない」
「はい。汗は拭きます。息も整えます。衣装も着替えます。でも、残ってるものはあります」
桐生が缶コーヒーを置いた。
「さっきから秋月さんは、終わったものとして見ている」
「終わっただろ」
「勝敗は」
「それ以外に何がある」
「なぜ、まだ席を立ってないんですか」
秋月は黙った。
桐生は続けなかった。
それがまた腹立たしかった。答えを出さない。問いだけを置く。十年前からこの男はそうだ。
だが、秋月は席を立っていない。
帰る理由はいくらでもあった。レースは見た。疑問も持った。桐生とミナトから話も聞いた。記事になるかは分からないが、取っかかりはある。
それでも、まだ立っていない。
「……余韻だろ」
「そうかもしれません」
「それだけだ」
「それだけなら、なおさら面白いですね」
「何が」
「余韻だけで、これだけの人間が残る」
秋月は周囲を見た。
たしかに、残っている。
数千、いや、それ以上の人間が、まだ同じ場所にいる。帰りそびれているのではない。待っている。
待つ、という動作には、相手がいる。何を待っているのかと言われれば、ライブの開始だと答えるだろう。だが、それだけではない。彼らは、自分の中にあるものが、もう一度どこかに繋がる瞬間を待っている。秋月はそう感じた。感じたが、自分でもまだうまく言葉にできなかった。
音響の準備音が入った。
スタンドのざわめきが、少し前に寄る。
ステージ裏の通路から、何人かのウマ娘が現れた。
さっきとは違う衣装。髪も整えられている。ライトを受ける表情も作られている。
それなのに、秋月はすぐ気づいた。
「……立ち方が似てるな」
「誰のですか」
ミナトが横から聞いた。
「さっき走ってたときと」
「そうですか?」
「同じじゃない。でも、重心が似てる」
ミナトはステージを見た。
少しだけ、目を細める。
「残ってるんだと思います」
「体に?」
「はい」
「そういうのは、意識して出すのか」
「出すというより、出ます」
ミナトは自分の左脚に触れた。
今度は、隠すような動きではなかった。確かめるような動きだった。
「走ったあと、体がまだ走ってるときがあります」
秋月は、その言葉をすぐには理解できなかった。
だが、否定する気にもならなかった。
ミナトはその指を、すぐには離さなかった。確かめるように、軽く左脚の外側を撫でた。痛いから触れているのではない。動きが続いているかどうかを、自分で確認している、という手つきだった。
桐生はそれを見ていた。
今度ははっきり見ていた。見ていないふりをしていない。だが、何も言わない。表情も変えない。ただ、見ている。
ミナトもそれに気づいているはずだった。だが、手を引っ込めなかった。引っ込めない、ということが、桐生に対する答えでもあるように見えた。
秋月は、その短いやり取りを横で受け取った。
二人の間で、言葉のないやり取りが成立している。何が交わされているのか、秋月には完全には分からない。だが、何かが交わされていることだけは分かる。
ステージの上で、ウマ娘たちが位置につく。観客の視線が集まる。さっきまで各々ばらばらに喋っていた声が、少しずつ同じ方向へ揃っていく。
音が鳴った。
秋月は思わず姿勢を正した。
仕事のときと同じだった。会見が始まる瞬間、証言者が口を開く瞬間、現場で誰かが初めて泣き出す瞬間。何かが始まる前に、体が先に構える。
ステージの上で、彼女たちが動き始める。
速くはない。
だが、迷いがない。
腕の振り方、足の置き方、視線の流し方。そのどれかに、さっきの直線がわずかに残っている気がした。
「……同じ顔だな」
秋月は呟いた。
「同じですか?」
「いや、違う。違うが、似てる」
「どこが」
「分からん」
ミナトは少し笑った。
「それでいいと思います」
「いいのか」
「分かる前に見てるものもあるので」
秋月はミナトを見た。
その横顔は、ステージを見ていた。
走れなくなったウマ娘が、走ったあとの歌を見ている。
その事実を、秋月はどう扱えばいいのか分からなかった。記事の材料として見るには近すぎる。感傷として受け取るには、まだ何も知らなすぎる。
桐生は、そのミナトを見ていなかった。
いや、見ていないように見えた。
けれど秋月は、十年の付き合いで知っている。桐生は、見ていないふりをしているときほど見ている。
「桐生」
「はい」
「お前は、これをどう見てる」
桐生は少しだけ考えた。
「秋月さんが、いつ帰るかを見ています」
「俺の話じゃない」
「あなたの話です」
「違うだろ」
「いいえ」
桐生はステージから目を逸らさなかった。
「あなたは今、なぜ歌うのかを見ているつもりで、自分がなぜまだ見ているのかに引っかかっている」
秋月は黙った。
嫌な言い方だった。
だが、間違っているとは言えなかった。
「見てるのは当たり前だろ」
「当たり前です」
「なら、何が問題なんだ」
「当たり前だと思っていることは、だいたい入口です」
「また入口か」
「はい」
「お前の入口は多すぎる」
「出口よりはいいでしょう」
ミナトが小さく笑った。
その笑いは軽かった。軽いのに、底があった。
秋月は、その感じをうまく言葉にできなかった。
ステージの歌が続く。
観客の視線が、音に合わせて少しずつ揃っていく。誰かが名前を呼ぶ。別の場所から拍手が起きる。笑い声が混じる。光が動く。彼女たちの影が伸びる。
秋月は、ふと気づいた。
自分はもう、なぜ歌うのかだけを見ていない。
歌っている彼女たちと、それを見ている観客と、その観客の一人として座っている自分を見ている。
外側にいるつもりだった。
いつものように、少し離れた場所から観察しているつもりだった。
だが、このスタンドに座っている以上、自分の視線もそこに混ざっている。
その事実が、妙に居心地悪かった。
「……見てるだけで、関係あるのか」
ほとんど独り言だった。
ミナトが答えた。
「あります」
迷いがなかった。
「大袈裟じゃないか」
「大袈裟ですか?」
「俺が見ていなくても、あの子たちは走るだろ」
「走ります」
「歌うだろ」
「歌います」
「じゃあ、関係ないだろ」
ミナトは少し考えた。
「でも、秋月さんが見てなかったら、秋月さんの中にはないです」
秋月は返事をしなかった。
それは当然のことだった。
当然すぎて、少し遅れて効いてきた。
見ていなければ、ない。
レースは行われる。記録は残る。映像も残る。記事にもなる。だが、自分の中にはない。
今日、あの直線で腰を浮かせたこと。ゴールのあと風を引きずるように走った栗毛の姿。インタビューでまだ走っている途中の顔をしていたこと。ステージに立ったとき、重心が似ていると感じたこと。
それは、見てしまったからある。
見ていなかったら、ないのだ。
レースもライブも、見なかった人間の中には存在しない。同じ建物の同じ時間に座っていた数千の人間と、家にいた数千万の人間との差は、その「ある/ない」の差だ。物理的に同じ世界にいるかどうかの問題ではない。何を見たか、何が自分の中に入ってきたか。それが、世界を分けている。
秋月はそれを、まだ言葉にできない形で、少しだけ分かりかけていた。
「……追いかけてみるか」
秋月は小さく言った。
本当に独り言のつもりだった。
ミナトが答えた。
「追いかけられると思います」
「なんで分かる」
「引っかかってるので」
「引っかかったら追いかけるのか」
「引っかかってないものは、追いかけても見えないと思います」
秋月は少しだけ笑った。
「お前、記者みたいなことを言うな」
「秋月さんが分かりやすいだけです」
「どこがだ」
「今、帰らないので」
言い返せなかった。
秋月は手帳を出しかけた。
だが、途中でやめた。
まだ言葉にすると、逃げる気がした。
ステージの光が強くなる。歌声が広がる。観客の声が重なる。
走ったあとに、歌う。
さっきまでなら、それだけで十分に奇妙だった。
だが今は、奇妙なのはそこではない気がしていた。
奇妙なのは、誰もそれを説明しようとしないことだった。
それでも、誰も迷っていないことだった。
そして自分も、席を立てずに見ていることだった。
隣でミナトがステージを見ている。
その左手は、膝の上に置かれていた。指先が一度だけ、脚の外側をなぞった。痛むのか、確かめただけなのか、秋月には分からなかった。
桐生はそれを見ていない。
少なくとも、そう見えた。
けれど、缶コーヒーを持つ手が一瞬だけ止まった。
秋月は何も聞かなかった。
聞くべきではない、というより、聞いても答えは返ってこない種類のことだ、と分かっていた。この二人の間にあるものは、外から問いを向けても出てこない。出てくるとしたら、自分が同じ場所にもう少し長くいるうちに、勝手に滲んでくる、というやり方でだ。
ステージの上で、彼女たちは歌っていた。
走り終えたあとの顔で。
観客はそれを見ていた。
ミナトも見ていた。
桐生も見ていた。
秋月も、見ていた。
まだ何も書けなかった。
それでも、目を逸らせなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
少しでも「続きが気になる」と思っていただけましたら、お気に入り登録や評価、感想などをいただけると嬉しいです。
静かな話ではありますが、秋月たちの歩みをもう少し見守っていただければ幸いです。