まだ、走っている   作:監督

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レース後ライブを、社会部記者の視点から見たらどう映るのか。
勝者が歌い、観客が歓声を上げ、スタッフが当然のように動く。
その“当たり前”を、少し外側から拾っていくウマ娘二次を書きました。

3話まで連続投稿して、10話完結まで1日おきに投稿の予定です。



走ったあと

 

 

 

 

「……で、なんで歌うんだ?」

 

秋月恒一は、自分で思ったより大きな声を出していた。

 

言ってから、しまった、と思った。スタンドにはまだ人が残っている。レースが終わったばかりの空気は、夕方になっても冷めきらず、観客の声と熱を抱えたまま膨らんでいた。

 

勝ったウマ娘の名前を何度も繰り返す若い男がいた。惜しかった、仕掛けが早かった、と通ぶった顔で話す年配の夫婦がいた。なぜか泣いている子どももいた。負けたからではない。たぶん、胸の中に入ってきたものを、まだどう扱えばいいのか分からないのだろう。隣で父親らしい男が、困った顔でその背中を撫でていた。

 

秋月は、そういう熱にあまり馴染みがない。

 

嫌いではない。馬鹿にしているわけでもない。ただ、距離がある。

 

社会部で二十年。事故、災害、汚職、訴訟、行方不明、遺族会見、謝罪会見。人の感情がむき出しになる場所には、それなりに行ってきた。けれど自分がその中に入ったことは、ほとんどない。

 

いつも少し外側から見ていた。

 

見て、聞いて、書く。そうしているうちに、外側にいることの方が自然になった。距離があるから、書ける。距離が消えると、文章が滲む。秋月はそういう仕事の仕方で、二十年やってきた。

 

ウマ娘のレースも、秋月にとってはその程度のものだった。

 

人気があることは知っている。テレビをつければ誰かが走っている。駅の広告にも、雑誌の表紙にも、街頭ビジョンにもいる。歴史や社会現象という言葉を使うほどには、世の中に広がっている。

 

だが、秋月の取材対象ではなかった。

 

少なくとも、今日までは。

 

来た理由は、編集長の軽口だった。

 

「たまにはスポーツでも見てこい。視野が狭くなってる」

 

冗談めかした口調だった。けれど秋月には妙に刺さった。視野が狭い。二十年かけて磨いてきた仕事の仕方を、横から雑に切られた気がした。

 

だから来た。

 

反論の代わりに。

 

レースそのものは、面白かった。

 

最後の直線、先頭の二人が並んで抜け出した瞬間、秋月は思わず腰を浮かせていた。勝ったのは外から差してきた栗毛のウマ娘だった。ゴールを抜けたあとも、すぐには止まれず、風を引きずるみたいに走っていた。

 

あれには、黙らせる力があった。

 

ゴール直後の数秒間、秋月は記者であることを忘れていた。腰が浮いたのは、観察のためではなかった。気づいたら浮いていた。それが少しだけ、自分に対して新鮮だった。二十年、こういう浮かれ方からは距離を取ってきたはずだ。

 

そこまでは分かる。

 

分かるのだが。

 

「あの、すみません。お席こちらです」

 

案内スタッフの声で、秋月は顔を上げた。通路を塞ぎかけていたらしい。

 

「あ、失礼」

 

脇へ寄ると、後ろから若い女の子たちが三人、ぺこぺこと頭を下げながら通っていった。

 

「ありがとうございます」

 

「すみません」

 

「ライブ間に合うかな」

 

最後の一言だけが耳に残った。

 

やはり、そこだ。

 

ライブ。

 

走ったあとに、歌う。

 

そういうものだということは知っている。観客サービスだとか、伝統だとか、勝者の披露だとか、そういう説明があるのも知っている。知っているが、納得していたわけではない。

 

ただ、今までは気にしていなかった。

 

気にしないことと、納得することは、似ているようで違う。気にしないでいられたのは、そこに自分が立っていなかったからだ。今日は立っている。だから、気にする。

 

「そんな顔で立ってると、通報されますよ」

 

後ろから声がした。

 

振り向くと、桐生亮がいた。手には、空になりかけた紙コップのコーヒー。黒いジャケットに、少しくたびれたシャツ。研究者というより、休日に寝不足のまま引っぱり出された男に見える。

 

実際、引っぱり出したのは秋月だった。

 

「人を不審者みたいに言うな」

 

「違うんですか」

 

「違う」

 

桐生は軽く笑った。

 

この笑い方が、昔から少し気に食わない。

 

初めて会ったのは十年ほど前だ。ある事件の取材で、秋月が大学関係者に話を聞いて回っていたとき、妙に話の通じる若い研究者がいた。それが桐生だった。

 

当時から、愛想がいいのか悪いのか分からない男だった。質問に答えているようで、いつの間にか質問そのものをずらしてくる。苛立つのに、聞いたあと少し考え込まされる。

 

それ以来、妙に縁が切れなかった。

 

年に何度か連絡を取る。取材協力というほど大げさではない。世間話でもない。秋月が何かに引っかかったとき、桐生に聞くことがあった。桐生も、秋月に何かの記事を送ってくることがあった。

 

気心が知れている、というほど近くはない。

 

だが、十年分の距離の置き方は、お互いに分かっていた。距離を詰めない、ということが、二人の関係の温度だった。

 

「で」

 

桐生はスタンドの方へ顎を向けた。

 

「何に引っかかったんです」

 

「走ったあとに歌うの、変だと思わないか」

 

桐生は一度まばたきした。

 

「そこですか」

 

「そこだろ」

 

「もっと手前かと思いました」

 

「手前?」

 

「なぜみんな、まだ帰らないのか、とか」

 

秋月はスタンドを見渡した。

 

たしかに、人はほとんど残っている。レースは終わった。勝敗も決まった。結果も出た。それなのに、誰も終わったという顔をしていない。

 

「それも変だな」

 

「でも、先に歌が気になる」

 

「気になるだろ」

 

桐生は紙コップに口をつけた。すぐに少し嫌そうな顔をした。たぶん、ぬるいのだろう。それでも飲む。

 

この男は、体の扱いが大雑把だ。

 

昔からそうだった。食事も睡眠も、研究や観察の邪魔にならない範囲で処理する。秋月も人のことは言えないが、桐生の雑さは、自分の身体を借り物のように扱っている感じがある。

 

研究室に行くと、桐生の机にはたいてい飲みかけのコーヒーがいくつか個並んでいる。冷めていたり、ほぼ手をつけていない様子だったり。それを誰かが片付けている形跡が、いつもあった。

 

「気になる人は、あまりここまで来ませんけどね」

 

「どういう意味だ」

 

「普通は慣れます」

 

「慣れたら、変じゃなくなるのか」

 

「変かどうかを考えなくなる」

 

そのとき、横から小さな紙袋が差し出された。

 

「だから先生、自販機で温かいの買えばよかったのに」

 

ミナトだった。

 

いつの間に戻ってきたのか、少しだけ肩で息をしている。売店まで急いだのだろう。歩幅は小さいが、動きは速い。ただ、立ち止まる直前に、左足だけが半拍遅れた。

 

秋月はそれに気づいた。

 

桐生も気づいていた。

 

顔は紙コップの方を向いたままだったが、視線だけが一瞬、足元に落ちていた。

 

ミナトは紙袋から缶コーヒーを一本取り出し、桐生の手元の紙コップと勝手に交換した。

 

「はい。こっちです」

 

「ありがとうございます」

 

「あと、砂糖入りはやめてくださいね。今日二杯目です」

 

「一杯目です」

 

「集合したときに、缶を捨ててましたよね?」

 

「見てましたか」

 

「見てます」

 

ミナトはそう言って、空になった紙コップをまとめて自分の手に持った。捨てに行く動作が、特別な配慮のようには見えない。ついでに済ませている、という感じだった。

 

その「ついで」の感じが、秋月の耳に残った。

 

ミナトは怒っているわけではない。甘やかしているわけでもない。ただ、見ている。桐生もそれを咎めない。見られていることに慣れているようだった。

 

秋月が初めてこの二人を見たとき、親子かと思った。次に見たとき、それは違うと思った。今は、何と呼べばいいのか分からないまま受け取っている。

 

ミナトは元競走ウマ娘だ。

 

元、と言っていいのかどうか、秋月には分からない。走れなくなったのは二年前だと聞いている。脚だということだけは知っている。詳しいことは、本人も桐生も話さない。

 

桐生の研究室に彼女がいる理由を、秋月は一度だけ聞いたことがある。

 

「彼女が来たいと言ったので」

 

桐生はそれだけ答えた。

 

秋月は、それ以上聞かなかった。

 

聞かなかったのは、踏み込みすぎる気がしたからだ。だが、踏み込まなかったから、二年経っても分からないままだった。距離を詰めない、ということは、距離の中にあるものを見ないということでもある。

 

今日この二人を呼んだのは、保険のようなものだった。

 

自分一人で来ても、たぶん見落とす。

桐生なら余計なことを言うだろうし、ミナトなら秋月には分からない顔をするだろう。

 

それで十分だった。

関係をどうにかしようなどとは、来る前は考えていなかった。

 

「なあ、ミナト」

 

「はい?」

 

「お前は変だと思わないのか」

 

「何がですか?」

 

「走ったあとに歌うの」

 

ミナトは一瞬、きょとんとした。

 

質問の意味が分からなかった、というより、質問がそこにあること自体が不思議そうだった。

 

「ライブですか?」

 

「他に何がある」

 

「うーん」

 

ミナトは少し考えて、それから首を振った。

 

「別に」

 

桐生が小さく笑った。

 

秋月はそちらを睨む。

 

「お前も笑うな」

 

「いや、いい答えだなと思って」

 

「どこがだ」

 

「彼女にとっては、答えるほど分かれていないんですよ」

 

「分かれてない?」

 

「先生、そういう言い方をするから分かりにくいんですよ」

 

ミナトが少しだけ眉を寄せた。からかうような口調ではない。困った顔だ。だが、その「困った」の温度は軽かった。本当に困っているのではなく、毎度のことを毎度のように受け取っている、という感じの困り方だった。

 

「秋月さん、普通に考えてください」

 

「普通に考えたから変なんだよ」

 

「走ったあとですよ」

 

「だからだろ。息も上がる。脚も張る。勝った負けたで頭の中もぐちゃぐちゃになる。そのあと歌うか?」

 

「歌います」

 

即答だった。

 

その速さに、秋月は少し黙った。

 

冗談ではない。強がりでもない。秋月が二十年かけて身につけた、人の言葉の重さを測る感覚が、それを告げていた。

 

「なんで」

 

「なんで……」

 

ミナトは困ったように笑った。

 

答えがない顔ではなかった。答えを言葉にする必要が、いままでなかった人間の顔だった。

 

「そういうもの、だからですかね」

 

「説明になってない」

 

「秋月さん、今、"なんでご飯のあとにお茶飲むの"って聞いてるみたいです」

 

「飲みたいから飲むんだろ」

 

「じゃあ近いです」

 

「近いのか」

 

「近いです」

 

ミナトはそう言って、少しだけ笑った。からかっているのではない。同じ方向の話をしているはずなのに、どうして秋月さんはそんなに困った顔をするんだろう、という顔だった。

 

秋月は返す言葉を探したが、見つからなかった。

 

雑な答えに聞こえる。けれどミナトは投げていない。本当にそこに切れ目がないのだ。レースが終わって、別の催しとしてライブが始まるのではない。

 

たぶん、彼女の中では。

 

「終わったあと、じゃないんです」

 

ミナトは言った。

 

「まだ途中、って感じです」

 

「途中?」

 

「はい」

 

「勝負は終わってるだろ」

 

「勝負は終わってます」

 

ミナトはあっさり認めた。

 

「でも、走ったことはまだ終わってないです」

 

大型モニターに、勝ったウマ娘の顔が映った。

 

さっきゴールを駆け抜けた栗毛の子だ。汗は拭われているが、頬にはまだ火照りが残っている。笑っている。笑っているのに、まだどこか走っている途中の顔だった。

 

観客が名前を呼ぶ。

 

あの子はいつもああなんですよ、と後ろの席の誰かが言った。

 

秋月はその声の方を見なかった。

 

代わりに、ミナトの横顔を見た。ミナトはモニターを見ている。視線は揺れない。だが、一瞬だけ口の端が上がった。笑った、というほどではない。同じ場所にいたことのある人間が、知っている顔を見つけた、という反応だった。

 

「走ったことが終わってないって、どういう意味だ」

 

「そのままです」

 

「そのままじゃ分からん」

 

「体に残ってるんですよ」

 

ミナトは自分の胸のあたりを軽く押さえた。

 

「息とか、脚とか、勝った感じとか、負けた感じとか。全部、まだ残ってるんです」

 

「それは、時間が経てば消えるだろ」

 

「消えます」

 

少し間を置いて、ミナトは言った。

 

「だから、そのまま消したくないときがあります」

 

秋月は黙った。

 

消したくない。

 

それは分かる気がした。事件でも災害でも、何かが起きたあと、人はすぐにその場を離れない。何かを持ったまま立っている。言葉にできないものが、体の中に残っている。

 

ただ、ここにあるものは重さが違った。

 

悲しみではない。怒りでもない。もっと明るい。なのに、放っておくと壊れてしまうような危うさがある。

 

「で、歌うのか」

 

「たぶん」

 

「たぶん、なのか」

 

「だって、人によりますし」

 

ミナトは少し笑った。

 

「でも、私はそうでした」

 

秋月は桐生の方を見た。

 

桐生は何も言わなかった。ただ、缶コーヒーを両手で持っている。さっきまでの軽い笑いは消えていた。

 

ミナトが自分のことを話すとき、桐生はいつも少しだけ黙る。止めるわけでも、促すわけでもない。ただ聞いている。

 

いや、聞いているだけではない。

 

ミナトの声の高さ、息の置き方、左足に重心を移すときのわずかな遅れ。そういうものを、桐生は拾っている。

 

秋月にはそう見えた。

 

桐生は研究者として、ミナトを観察しているわけではない。そういう目ではない。観察というには、桐生の視線はミナトを「対象」として扱っていない。ただ、見ている。見ているうちに、見るべきものが向こうから現れる、という見方だった。

 

「お前も、走ったあとに歌ってたのか」

 

「はい」

 

「嫌なときは?」

 

「ありました」

 

「嫌でもやる?」

 

「やります」

 

「なんで」

 

ミナトはモニターを見たまま言った。

 

「やらないと、終わらないから」

 

秋月は、今度こそ黙った。

 

その一言は、妙にまっすぐ入ってきた。

 

説明ではない。理屈でもない。けれど、さっきまで秋月が感じていた違和感の輪郭に、いきなり指がかかった。

 

やらないと、終わらない。

 

レースは終わっている。勝敗は決まっている。結果は出ている。

 

それでも、終わっていない。

 

「先生、立ったまま飲まないでください」

 

ミナトが急に言った。

 

桐生は缶に口をつけかけた姿勢で止まる。

 

「こぼしませんよ」

 

「前にこぼしました」

 

「机の上でです」

 

「それが嫌なんです」

 

「厳しいですね」

 

「先生が構わなさすぎるんです」

 

ミナトは桐生の袖を軽く引いた。

 

引かれた桐生は抵抗せず、近くのベンチへ向かった。引かれる前から動くつもりだったのかもしれない。この二人の間では、どちらが先なのか分からないことがよくある。

 

秋月も、なんとなく後ろについていった。

 

三人で並んで座ると、ミナトは紙袋から小さなサンドイッチを出し、桐生に渡した。

 

「これも」

 

「ありがとうございます」

 

「お昼、食べてないですよね」

 

「食べました」

 

「ゼリー飲料は食事じゃないです」

 

「なかなか厳しい」

 

「先生、自分の身体のこと、他人事ですよね」

 

その言い方は、さっきまでより少し低かった。

 

桐生はサンドイッチの包装を剥がす手を止めた。

 

「そう見えますか」

 

「見えます」

 

「研究者はだいたいそうです」

 

「私は、それ嫌いです」

 

さらっと言った。

 

さらっと言ったのに、秋月には少し重く聞こえた。

 

桐生は何かを返そうとして、やめた。代わりに、包装を剥がして一口食べた。

 

ミナトはそれを確認してから、ステージの方を見た。

 

確認の目だった。食べたかどうか。半分まで食べたかどうか。それを見届けてから、自分の視線を別の場所に移す。長く付き合っている人間の癖だった。

 

この距離感は、世話を焼いているだけではないのだと秋月は思った。

 

ミナトは桐生を見ている。

 

桐生も、ミナトを見ている。

 

ただし、それはレースを見る目とは違う。能力を見る目でも、壊れたものを見る目でもない。秋月にはまだうまく言えないが、たぶん、桐生はミナトを"走れなくなったウマ娘"としてだけは見ていない。

 

だからミナトも、桐生を"研究者"としてだけは扱っていない。

 

そう見えた。

 

そして、そこに何があるのか、秋月にはまだ分からなかった。分からないが、二人の間にある距離は、自分が桐生と取っている距離とも、過去に取材で関わった人間関係のどれとも違う。研究者と被験者ではない。教師と教え子でもない。家族でもない。だが、無関係でもない。

 

「なあ」

 

秋月は言った。

 

「お前にとっては、走って、勝って、笑って、歌うまでで一個なのか」

 

ミナトは少し考えた。

 

今度は、すぐには答えなかった。

 

「毎回そう、ではないです」

 

「違うのか」

 

「負けたら全然違います。勝っても、歌うのが嫌なときはあります」

 

「それでも、やらないと終わらない」

 

「はい」

 

「何が終わらない」

 

ミナトは、すぐには答えなかった。

 

モニターに映った勝者は、インタビューを受けていた。声はここまでうまく聞こえない。けれど、観客は彼女の表情だけで何かを受け取っているようだった。笑えば歓声が上がる。少し言葉に詰まれば、あちこちから名前が呼ばれる。

 

ミナトは、その画面を見ていた。

 

「走ったこと、ですかね」

 

小さな声だった。

 

「走っただけだと、まだ体の中に残ってるんです」

 

「……」

 

「勝ったとか、負けたとかも。悔しいとか、嬉しいとかも。あと、見られてた感じも」

 

「見られてた感じ?」

 

「はい」

 

ミナトは少しだけ、自分の左脚を見た。

 

ほんの一瞬だった。すぐに視線はモニターへ戻った。

 

桐生は、今度はその動作を見ていなかった。少なくとも、見ているふりをしていなかった。視線は缶コーヒーの口元に置かれていた。だが、秋月には分かった。桐生は見ていた。見ていないふりをしているときほど見ている。十年付き合って、秋月はそれを知っている。

 

秋月は何も言わなかった。

 

「走ってるときって、自分だけじゃないんです」

 

「観客がいるからか」

 

「それもあります」

 

「他にも?」

 

「隣で走ってる子もいます。後ろから来る子もいます。名前を呼ぶ声もあります。誰かが息を飲むのも分かります」

 

「そんなの、走りながら分かるのか」

 

「分かります」

 

「全部?」

 

「全部じゃないです。でも、分かるものはあります」

 

ミナトは、自分の手を見た。

 

「それが、終わったあとも残るんです」

 

桐生がそこで、ようやく口を開いた。

 

「秋月さん」

 

「なんだ」

 

「さっきのレース、最後の直線は覚えていますよね」

 

「覚えてる」

 

「勝ち時計は?」

 

「知らん」

 

「上がりは?」

 

「見てない」

 

「でも、覚えてる」

 

「覚えてるな」

 

桐生は小さくうなずいた。

 

「なぜでしょう」

 

「知らんよ」

 

「知らないままの方がいいかもしれません」

 

「お前はいつもそういう言い方をする」

 

「十年聞いても慣れませんか」

 

「慣れたら腹が立たなくなるだけだ」

 

桐生は少し笑った。

 

その笑いで、場の重さがわずかに抜けた。

 

ミナトも少し笑った。声は出さない。だが、肩が一度だけ揺れた。秋月さん、相変わらず、という顔だった。

 

秋月はその二人の小さな笑いを、横目で受け取った。十年付き合っても腹が立つのに、今日はその腹立ちに、少し違う感触が混じっている気がした。腹立ちの根が、いつもより浅い。場が違うからかもしれない。あるいは、隣にミナトがいるからかもしれない。

 

 

 

 

インタビューが終わると、スタンドの空気が少し緩んだ。

 

だが、誰も帰らない。

 

飲み物を買いに立つ者はいる。連れと話し込む者もいる。スマートフォンを掲げて写真を撮っている者もいる。それでも、視線の中心はまだモニターの周辺に残っている。

 

終わったのに、残っている。

 

取材でも似た場面は見てきた。裁判が終わったあと、事故現場の規制線が外されたあと、会見で最後の質問が終わったあと。人はすぐには動かない。

 

だが、ここにある停滞はそれと違った。

 

重さで足が止まっているのではない。

 

まだここにいたい、という顔だった。

 

秋月は、そういう顔を何度か見たことがある。

会見が終わったあと、試合が終わったあと、祭りの明かりが落ちたあと。予定されていたものはもう終わっているのに、人だけが少し遅れて動き出す時間がある。

 

ただ、今ここにあるものは、どれとも少し違っていた。

 

重くはない。

 

浮かれているだけでもない。

 

明るいのに、すぐ手放すには惜しい。

そんなものを、みな少しずつ持っているように見えた。

 

そのとき、場内の照明が一段落ちた。

 

「さあ、ライブですよ」

 

ミナトが言った。

 

「分かってる」

 

「分かってる顔じゃないです」

 

「どんな顔だ」

 

「別のものが始まると思ってる顔です」

 

秋月は言い返しかけて、やめた。

 

実際、そう思っていた。

 

レースが終わって、次にライブが始まる。別のイベント。別の段階。そういう理解だった。

 

「違うのか」

 

「完全に別ではないです」

 

ミナトは言葉を探すように、少しだけ間を置いた。

 

「切り替わる、というより、広がる感じです」

 

「走るのと歌うのは全然違うだろ」

 

「違います」

 

「じゃあ何で繋がる」

 

「同じものが残ってるので」

 

「同じもの?」

 

「さっき走ってたときのものです」

 

ステージの照明が、少し落ちた。

 

トラックにはもう誰もいない。係員が黙って砂を均している。さっきまであれほど熱を帯びていた場所が、急に空っぽに見えた。

 

その代わり、中央のステージ周りがゆっくり明るくなっていく。

 

「ちゃんと間は空けるんだな」

 

秋月は言った。

 

「空けますよ」

 

ミナトは当然のように答えた。

 

「そのままは無理です」

 

「そりゃそうか」

 

「でも、切れてはないです」

 

「切れてない」

 

「はい。汗は拭きます。息も整えます。衣装も着替えます。でも、残ってるものはあります」

 

桐生が缶コーヒーを置いた。

 

「さっきから秋月さんは、終わったものとして見ている」

 

「終わっただろ」

 

「勝敗は」

 

「それ以外に何がある」

 

「なぜ、まだ席を立ってないんですか」

 

秋月は黙った。

 

桐生は続けなかった。

 

それがまた腹立たしかった。答えを出さない。問いだけを置く。十年前からこの男はそうだ。

 

だが、秋月は席を立っていない。

 

帰る理由はいくらでもあった。レースは見た。疑問も持った。桐生とミナトから話も聞いた。記事になるかは分からないが、取っかかりはある。

 

それでも、まだ立っていない。

 

「……余韻だろ」

 

「そうかもしれません」

 

「それだけだ」

 

「それだけなら、なおさら面白いですね」

 

「何が」

 

「余韻だけで、これだけの人間が残る」

 

秋月は周囲を見た。

 

たしかに、残っている。

 

数千、いや、それ以上の人間が、まだ同じ場所にいる。帰りそびれているのではない。待っている。

 

待つ、という動作には、相手がいる。何を待っているのかと言われれば、ライブの開始だと答えるだろう。だが、それだけではない。彼らは、自分の中にあるものが、もう一度どこかに繋がる瞬間を待っている。秋月はそう感じた。感じたが、自分でもまだうまく言葉にできなかった。

 

音響の準備音が入った。

 

スタンドのざわめきが、少し前に寄る。

 

ステージ裏の通路から、何人かのウマ娘が現れた。

 

さっきとは違う衣装。髪も整えられている。ライトを受ける表情も作られている。

 

それなのに、秋月はすぐ気づいた。

 

「……立ち方が似てるな」

 

「誰のですか」

 

ミナトが横から聞いた。

 

「さっき走ってたときと」

 

「そうですか?」

 

「同じじゃない。でも、重心が似てる」

 

ミナトはステージを見た。

 

少しだけ、目を細める。

 

「残ってるんだと思います」

 

「体に?」

 

「はい」

 

「そういうのは、意識して出すのか」

 

「出すというより、出ます」

 

ミナトは自分の左脚に触れた。

 

今度は、隠すような動きではなかった。確かめるような動きだった。

 

「走ったあと、体がまだ走ってるときがあります」

 

秋月は、その言葉をすぐには理解できなかった。

 

だが、否定する気にもならなかった。

 

ミナトはその指を、すぐには離さなかった。確かめるように、軽く左脚の外側を撫でた。痛いから触れているのではない。動きが続いているかどうかを、自分で確認している、という手つきだった。

 

桐生はそれを見ていた。

 

今度ははっきり見ていた。見ていないふりをしていない。だが、何も言わない。表情も変えない。ただ、見ている。

 

ミナトもそれに気づいているはずだった。だが、手を引っ込めなかった。引っ込めない、ということが、桐生に対する答えでもあるように見えた。

 

秋月は、その短いやり取りを横で受け取った。

 

二人の間で、言葉のないやり取りが成立している。何が交わされているのか、秋月には完全には分からない。だが、何かが交わされていることだけは分かる。

 

ステージの上で、ウマ娘たちが位置につく。観客の視線が集まる。さっきまで各々ばらばらに喋っていた声が、少しずつ同じ方向へ揃っていく。

 

音が鳴った。

 

秋月は思わず姿勢を正した。

 

仕事のときと同じだった。会見が始まる瞬間、証言者が口を開く瞬間、現場で誰かが初めて泣き出す瞬間。何かが始まる前に、体が先に構える。

 

ステージの上で、彼女たちが動き始める。

 

速くはない。

 

だが、迷いがない。

 

腕の振り方、足の置き方、視線の流し方。そのどれかに、さっきの直線がわずかに残っている気がした。

 

「……同じ顔だな」

 

秋月は呟いた。

 

「同じですか?」

 

「いや、違う。違うが、似てる」

 

「どこが」

 

「分からん」

 

ミナトは少し笑った。

 

「それでいいと思います」

 

「いいのか」

 

「分かる前に見てるものもあるので」

 

秋月はミナトを見た。

 

その横顔は、ステージを見ていた。

 

走れなくなったウマ娘が、走ったあとの歌を見ている。

 

その事実を、秋月はどう扱えばいいのか分からなかった。記事の材料として見るには近すぎる。感傷として受け取るには、まだ何も知らなすぎる。

 

桐生は、そのミナトを見ていなかった。

 

いや、見ていないように見えた。

 

けれど秋月は、十年の付き合いで知っている。桐生は、見ていないふりをしているときほど見ている。

 

「桐生」

 

「はい」

 

「お前は、これをどう見てる」

 

桐生は少しだけ考えた。

 

「秋月さんが、いつ帰るかを見ています」

 

「俺の話じゃない」

 

「あなたの話です」

 

「違うだろ」

 

「いいえ」

 

桐生はステージから目を逸らさなかった。

 

「あなたは今、なぜ歌うのかを見ているつもりで、自分がなぜまだ見ているのかに引っかかっている」

 

秋月は黙った。

 

嫌な言い方だった。

 

だが、間違っているとは言えなかった。

 

「見てるのは当たり前だろ」

 

「当たり前です」

 

「なら、何が問題なんだ」

 

「当たり前だと思っていることは、だいたい入口です」

 

「また入口か」

 

「はい」

 

「お前の入口は多すぎる」

 

「出口よりはいいでしょう」

 

ミナトが小さく笑った。

 

その笑いは軽かった。軽いのに、底があった。

 

秋月は、その感じをうまく言葉にできなかった。

 

ステージの歌が続く。

 

観客の視線が、音に合わせて少しずつ揃っていく。誰かが名前を呼ぶ。別の場所から拍手が起きる。笑い声が混じる。光が動く。彼女たちの影が伸びる。

 

秋月は、ふと気づいた。

 

自分はもう、なぜ歌うのかだけを見ていない。

 

歌っている彼女たちと、それを見ている観客と、その観客の一人として座っている自分を見ている。

 

外側にいるつもりだった。

 

いつものように、少し離れた場所から観察しているつもりだった。

 

だが、このスタンドに座っている以上、自分の視線もそこに混ざっている。

 

その事実が、妙に居心地悪かった。

 

「……見てるだけで、関係あるのか」

 

ほとんど独り言だった。

 

ミナトが答えた。

 

「あります」

 

迷いがなかった。

 

「大袈裟じゃないか」

 

「大袈裟ですか?」

 

「俺が見ていなくても、あの子たちは走るだろ」

 

「走ります」

 

「歌うだろ」

 

「歌います」

 

「じゃあ、関係ないだろ」

 

ミナトは少し考えた。

 

「でも、秋月さんが見てなかったら、秋月さんの中にはないです」

 

秋月は返事をしなかった。

 

それは当然のことだった。

 

当然すぎて、少し遅れて効いてきた。

 

見ていなければ、ない。

 

レースは行われる。記録は残る。映像も残る。記事にもなる。だが、自分の中にはない。

 

今日、あの直線で腰を浮かせたこと。ゴールのあと風を引きずるように走った栗毛の姿。インタビューでまだ走っている途中の顔をしていたこと。ステージに立ったとき、重心が似ていると感じたこと。

 

それは、見てしまったからある。

 

見ていなかったら、ないのだ。

 

レースもライブも、見なかった人間の中には存在しない。同じ建物の同じ時間に座っていた数千の人間と、家にいた数千万の人間との差は、その「ある/ない」の差だ。物理的に同じ世界にいるかどうかの問題ではない。何を見たか、何が自分の中に入ってきたか。それが、世界を分けている。

 

秋月はそれを、まだ言葉にできない形で、少しだけ分かりかけていた。

 

「……追いかけてみるか」

 

秋月は小さく言った。

 

本当に独り言のつもりだった。

 

ミナトが答えた。

 

「追いかけられると思います」

 

「なんで分かる」

 

「引っかかってるので」

 

「引っかかったら追いかけるのか」

 

「引っかかってないものは、追いかけても見えないと思います」

 

秋月は少しだけ笑った。

 

「お前、記者みたいなことを言うな」

 

「秋月さんが分かりやすいだけです」

 

「どこがだ」

 

「今、帰らないので」

 

言い返せなかった。

 

秋月は手帳を出しかけた。

 

だが、途中でやめた。

 

まだ言葉にすると、逃げる気がした。

 

ステージの光が強くなる。歌声が広がる。観客の声が重なる。

 

走ったあとに、歌う。

 

さっきまでなら、それだけで十分に奇妙だった。

 

だが今は、奇妙なのはそこではない気がしていた。

 

奇妙なのは、誰もそれを説明しようとしないことだった。

 

それでも、誰も迷っていないことだった。

 

そして自分も、席を立てずに見ていることだった。

 

隣でミナトがステージを見ている。

 

その左手は、膝の上に置かれていた。指先が一度だけ、脚の外側をなぞった。痛むのか、確かめただけなのか、秋月には分からなかった。

 

桐生はそれを見ていない。

 

少なくとも、そう見えた。

 

けれど、缶コーヒーを持つ手が一瞬だけ止まった。

 

秋月は何も聞かなかった。

 

聞くべきではない、というより、聞いても答えは返ってこない種類のことだ、と分かっていた。この二人の間にあるものは、外から問いを向けても出てこない。出てくるとしたら、自分が同じ場所にもう少し長くいるうちに、勝手に滲んでくる、というやり方でだ。

 

ステージの上で、彼女たちは歌っていた。

 

走り終えたあとの顔で。

 

観客はそれを見ていた。

 

ミナトも見ていた。

 

桐生も見ていた。

 

秋月も、見ていた。

 

まだ何も書けなかった。

 

それでも、目を逸らせなかった。

 

 





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静かな話ではありますが、秋月たちの歩みをもう少し見守っていただければ幸いです。
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