まだ、走っている   作:監督

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まだ、走っていた

 

 

 

朝刊は、店の入口近くの棚に置かれていた。

 

 

 

女がその新聞を手に取ったのは、読むものが他になかったからだった。約束の時間まで、まだ二十五分ある。スマートフォンの充電は残り少なく、文庫本は家に置いてきた。喫茶店の窓際の席に座り、コーヒーが来るまでの間を埋めるために、女は棚から新聞を一部取った。

 

 

 

日頃、新聞を読む習慣はなかった。

 

 

 

紙面は大きく、どこを持てばよいのか分かりにくかった。一面を開き、見出しの大きさだけを眺め、政治面を飛ばし、経済面も飛ばした。テレビ欄を探すつもりでページをめくったとき、社会面の下の方にある署名記事が目に入った。

 

 

 

大きな記事ではなかった。

 

 

 

紙面の中央には、別の記事が載っていた。写真も、見出しも、そちらの方が目立っていた。女が目を止めた記事は、左下の細い欄に収まっていた。署名は、秋月恒一、とあった。知らない名前だった。

 

 

 

記事の最初に、一行だけ、少し変な文章が置かれていた。

 

 

 

走ったあとに歌う理由を、最初は分からなかった。

 

 

 

女は、その一行をもう一度読んだ。

 

 

 

見出しなのか、本文の書き出しなのか、少し分からなかった。新聞の社会面に載る文章にしては、入り口が静かすぎる気がした。普段なら、もっと内容の分かる言葉が置かれている。支援、制度、課題、広がる、見直し。そういう言葉なら、読まなくても記事の輪郭が分かる。

 

 

 

この一行は、輪郭を先に渡してくれなかった。

 

 

 

女は、次の行を読んだ。

 

 

 

 

 

 

 

走ったあとに歌う理由を、最初は分からなかった。

レース場で初めてそれを見たとき、私は余興だと思った。走り終えた者たちが、観客の前に並ぶ。照明が落ちる。音楽が流れる。勝った者も、負けた者も、同じステージに立つ。観客は手を振り、名前を呼ぶ。

 

 

 

そういう仕組みなのだろう、と思った。

 

 

 

仕組みとしては、たぶん間違っていない。

 

 

 

だが、隣にいた元競走ウマ娘は、少し違う顔をした。

 

 

 

「終わったあと、じゃないんです」

 

 

 

彼女はそう言った。

 

 

 

「まだ途中、って感じです」

 

 

 

私はその言葉を、その場では理解できなかった。理解できないまま、手帳に書いた。書いてから、しばらくその言葉の周りを歩くことになった。

 

 

 

 

 

 

 

店員がコーヒーを運んできた。

 

 

 

「お待たせしました」

 

 

 

女は軽く頭を下げて、カップを受け取った。湯気が上がっていた。手を近づけると、指先に熱が来た。新聞の紙面を片手で押さえたまま、一口飲んだ。少し苦かった。

 

 

 

店内には小さくラジオが流れていた。隣の席では、年配の男がスポーツ紙を広げている。奥の席では、学生らしい二人が、同じスマートフォンの画面を見ながら笑っていた。入口近くの席に座った女は、コーヒーと新聞と、待ち合わせまでの時間の中にいた。

 

 

 

社会面の記事に戻った。

 

 

 

 

 

 

 

地方のトレセンを訪ねた。

 

 

 

中央の大きな施設とは違い、建物は古く、敷地も広くはない。バ場の脇には使い込まれたベンチがあり、隅の方に置かれたコーンは、色が少し抜けていた。案内してくれた育成課長は、自分たちの仕事を大きく語らなかった。

 

 

 

「測る、休ませる、食べさせる、帰す。怪我をさせない。無理をさせない。それだけです」

 

 

 

それだけ、と彼は言った。

 

 

 

だが、その言葉は軽くなかった。

 

 

 

公開練習で、小柄なウマ娘が走った。一本目は硬かった。スタートの直後から肩に力が入り、直線に入っても体が前へ出きらなかった。走り終えたあと、彼女は客席を見なかった。

 

 

 

二本目で、記録が少し上がった。

 

 

 

大きな歓声は起きなかった。観客席にいた数人が、小さく拍手をしただけだった。まばらで、弱く、すぐ消える拍手だった。けれど、その拍手が聞こえたとき、彼女は客席を見た。

 

 

 

一本目では見なかった。

 

 

 

二本目では、自分から見た。

 

 

 

その差は、数字には残らない。順位にもならない。将来を保証するものでもない。だが、彼女の中で何かが動いたことだけは、見ていれば分かった。

 

 

 

中央へ進まない子たちのことを聞いた。

 

 

 

育成課長は、少し考えてから答えた。

 

 

 

「ここで走ったことを、粗末にしないことくらいです」

 

 

 

無駄にしない、ではなかった。

 

 

 

意味を与える、でもなかった。

 

 

 

粗末にしない。

 

 

 

私はその言葉を、そのまま書くことにした。

 

 

 

 

 

 

 

女は、紙面から目を上げた。

 

 

 

窓の外を、人が流れていた。会社員、学生、配送の制服を着た人、ベビーカーを押す母親。信号が青になるたびに、人の流れが斜めに動き、赤になると止まった。いつもの駅前だった。

 

 

 

向かいのビルの壁に、ウマ娘の広告が貼られていた。

 

 

 

スポーツ飲料の広告らしい。走っているところを横から撮った写真だった。片脚が地面を離れ、もう片方の脚が前へ伸びている。髪が後ろへ流れ、口が少し開いていた。

 

 

 

女は、その広告を前にも見ているはずだった。

 

 

 

この喫茶店には何度も来ている。窓際の席にも座ったことがある。あの広告は、少なくとも先週にはあった。だが、どんな写真だったかは覚えていなかった。ウマ娘の広告だ、というところまでしか見ていなかったのだと思った。

 

 

 

今日は、脚の角度を見た。

 

 

 

それだけだった。

 

 

 

コーヒーをもう一口飲んで、女はまた新聞に目を戻した。

 

 

 

 

 

 

 

相談会にも行った。

 

 

 

競走生活を離れたウマ娘たちが、進路や仕事について相談する場だった。机が並び、資料が置かれ、担当者が一人ずつ話を聞いていた。部屋は明るく、空調も効いていた。用意されているものは、きちんとしていた。

 

 

 

だからこそ、そこに収まらない声があった。

 

 

 

「やめたら、楽になりますか」

 

 

 

若いウマ娘が、紙コップを両手で持っていた。質問というより、こぼれた言葉だった。誰かに答えを求めているのか、自分の中に落ちてきたものを口に出しただけなのか、すぐには分からなかった。

 

 

 

私は、その声を記事に書くかどうか迷った。

 

 

 

書けば届く。届けば、同じ問いを抱えている誰かの目に入るかもしれない。だが書いた瞬間、その声は「若いウマ娘の悩み」という見出しの下に入る。紙コップを持つ指の力も、耳が落ち着かなく動いていたことも、声を出したあとに自分で少し驚いた顔も、そこからこぼれる。

 

 

 

それでも、書くことにした。

 

 

 

ただし、答えは書かない。

 

 

 

その場で誰が何を言ったかより、問いがそこにあったことだけを残す。それ以上を、私の言葉で埋めない。

 

 

 

 

 

 

 

女は、記事のその部分で少し止まった。

 

 

 

紙コップを両手で持つ、という一文が残った。質問の内容よりも、先に手が浮かんだ。熱い飲み物を持つときの、少し力の入った指。落とさないように、しかし強く握りすぎないようにしているときの形。

 

 

 

女は自分のカップを見た。

 

 

 

取っ手を持っていた右手を、いったん離した。両手で包むように持ち直す。カップはもう、それほど熱くなかった。持ち方を変えたところで、何かが分かるわけではない。

 

 

 

分かるわけではないが、そうしていた。

 

 

 

入口のドアが開いた。客が二人入ってきた。風が少し流れ込んで、棚の新聞が一部だけ持ち上がり、すぐに落ちた。店員が水を運んでいった。

 

 

 

女は、紙面を押さえ直した。

 

 

 

 

 

 

 

研究施設では、ロボウマ娘の走行映像を見た。

 

 

 

動きは滑らかだった。足の運びも、重心の戻り方も、関節の沈み方も、素人目には本物とほとんど区別がつかなかった。案内してくれた職員は、計測値の一致率を説明した。私は頷きながら聞いた。

 

 

 

隣にいた元競走ウマ娘は、黙って画面を見ていた。

 

 

 

映像が終わってから、感想を求めた。

 

 

 

「近いと思います」

 

 

 

彼女は言った。

 

 

 

少し間を置いて、続けた。

 

 

 

「でも、体はそこにないです」

 

 

 

私はその言葉を、手帳に書こうとして止めた。

 

 

 

体はそこにない。

 

 

 

書けば、分かったような文章になる。技術と身体、記録と実感、装置と生身。いくつもの言葉が、そこから引き出せる。社会面の記事として、扱いやすい入口にもなる。

 

 

 

だが、彼女は整理するために言ったのではなかった。

 

 

 

ただ、画面の中の走りを見て、そう感じただけだった。

 

 

 

私はその日から、何かを分かった形にしようとするたびに、少しだけ手を止めるようになった。

 

 

 

 

 

 

 

女のスマートフォンが震えた。

 

 

 

待ち合わせの相手からだった。

 

 

 

十分くらい遅れる、と短いメッセージが入っていた。女は「大丈夫」とだけ返した。画面の上の電池残量は、赤くなっていた。充電器は持ってきていない。

 

 

 

スマートフォンを伏せて、新聞に戻った。

 

 

 

遅れるという連絡が来る前なら、途中で新聞を畳んでいたかもしれない。だが、あと十分あるなら、最後まで読める気がした。

 

 

 

最後まで読む理由があるのかは、分からなかった。

 

 

 

それでも、畳まなかった。

 

 

 

 

 

 

 

街にも行った。

 

 

 

レース場のある街だった。駅前には横断幕が出ていた。商店街の店先には、翌日の観戦客に向けた弁当の札が並んでいた。観光案内所には、過去の開催記録をまとめたパネルが置かれていた。

 

 

 

来場者数。臨時シャトルの本数。商店街フェアの写真。雨天時の対応記録。そうしたものと並んで、出走ウマ娘の名前が残っていた。

 

 

 

その中に、ミナトレーヴ、という名前があった。

 

 

 

隣にいた彼女は、ガラスの向こうの文字を見て、少しだけ黙った。

 

 

 

「私、ここにも残ってたんですね」

 

 

 

そう言った。

 

 

 

私は、すぐには返事をしなかった。返事をすると、何かを決めてしまう気がした。

 

 

 

名前が残るものがある。残らないものもある。白線を引き直していた駅員の名前は、そこにはなかった。臨時便を出した運転手の名前も、観戦客に道を教えた店員の名前も、パネルにはなかった。

 

 

 

だが、いなかったわけではない。

 

 

 

誰かが駅前を整えた。誰かが店を開けた。誰かが客を案内した。誰かが、終わったあとのゴミを拾った。名前が残らない動作が、その日の街を作っていた。

 

 

 

街の人たちは、それを特別な話にはしなかった。

 

 

 

「毎年のことです」

 

 

 

何人もが、そう言った。

 

 

 

私はその「毎年のこと」を、何度も聞いた。

 

 

 

 

 

 

 

女は、窓の外を見た。

 

 

 

信号待ちの列の中に、白い作業着の男がいた。腰に工具袋を下げている。どこかの修理へ向かうのか、終えて戻るところなのかは分からなかった。男は信号が変わる前から少しずつ体を前へ倒していて、青になるとすぐ歩き出した。

 

 

 

女は、その人を見た。

 

 

 

名前は知らない。今後も知ることはない。さっきまでなら、たぶん見ていなかった。見たとしても、白い作業着の人がいた、くらいで終わっていた。

 

 

 

今も、それ以上のことは分からない。

 

 

 

分からないまま、通り過ぎる背中を少しだけ目で追った。

 

 

 

信号の人の流れに紛れて、すぐ見えなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

何度か、研究室を訪ねた。

 

 

 

そこには机が二つあった。

 

 

 

一つは研究者の机だった。もう一つは、書類上は誰のものでもなかった。だが、彼女はそこに座っていた。お茶を入れ、書類の端を揃え、忘れ物を拾い、牛乳の期限を確かめ、そしてノートを書いていた。

 

 

 

走行記録ではない。

 

 

 

研究報告でもない。

 

 

 

安いノートに、整わない字で、その日見たものを書いていた。

 

 

 

何を書いているのか、と聞いた。

 

 

 

「見てるものです」

 

 

 

彼女は答えた。

 

 

 

「走ってるときだけじゃなくて、今も見えます」

 

 

 

そのあと、研究者の机の方を見た。

 

 

 

「先生のこととか」

 

 

 

彼女は、研究者の目が止まる場所を見ていた。手が止まる前に、目が止まる。資料のどこで止まり、どこへ戻り、どこをもう一度読むのか。本人が意識していない動きを、彼女は拾っていた。

 

 

 

なぜ書くのか、と聞いた。

 

 

 

彼女は少しの間、マグカップを両手で持っていた。答えを探しているというより、言葉がその形になるのを待っているようだった。

 

 

 

「書かないと、先生が見えなくなったあとで、誰にも残せないので」

 

 

 

その先を、私はここには書かない。

 

 

 

書けば、たぶん読まれる。

 

 

 

読まれれば、分かりやすい話になる。誰かを思う美しい話になる。美しい話になった瞬間、彼女がノートに残していた崩れた字の間隔が消える。書いて、止まり、また書いた、その時間が消える。

 

 

 

だから、書かない。

 

 

 

ただ、彼女がその日もノートを書いていたことだけを書く。

 

 

 

 

 

 

 

女は、記事のその段落を二度読んだ。

 

 

 

一度目は、先へ進むために読んだ。

 

 

 

二度目は、「その先を、私はここには書かない」という行に戻るために読んだ。

 

 

 

新聞の記事に、こういう書き方があるのかと思った。書かなかった、と書く。書かないことを、わざわざ紙面に残す。矛盾しているようで、そうでもないような気がした。

 

 

 

女は、バッグの中を見た。

 

 

 

小さな手帳が入っていた。去年買って、最初の二か月だけ使っていた手帳だった。仕事の予定も、買い物のメモも、今は全部スマートフォンに入れている。手帳は重いだけで、使っていない。それでもバッグの底に入ったままになっていた。

 

 

 

取り出そうとして、やめた。

 

 

 

そこまでのことではない。

 

 

 

そう思って、バッグを閉じた。

 

 

 

だが、手帳が入っている場所だけは、閉じたあとも分かった。バッグの底の、右側。財布の下。折りたたみ傘の横。

 

 

 

記事に戻った。

 

 

 

 

 

 

 

最後に、彼女が走るかどうかを聞いた人がいた。

 

 

 

私は、その場にいた。

 

 

 

その問いが出るまでに、二年分の沈黙があった。問いかけた側にも、答える側にも、それぞれの時間があった。

 

 

 

私はその言葉を、手帳に書いた。

 

 

 

だが、ここには書かない。

 

 

 

彼女は、答えを決めなかった。

 

 

 

決められなかったのか、決めなかったのかは、私には分からない。分からないものを、分かった形にはしない。今回の取材で、私はそれを何度も自分に言い聞かせた。

 

 

 

走るかどうか。

 

 

 

それは、記事の結論ではない。

 

 

 

彼女のものだ。

 

 

 

 

 

 

 

女は、ゆっくり息を吐いた。

 

 

 

気づかないうちに、少し前のめりになっていた。背もたれに体を戻すと、椅子が小さく鳴った。コーヒーは半分ほど残っていた。もう湯気は立っていなかった。

 

 

 

店のドアが開くたびに、入口の鈴が鳴る。

 

 

 

待ち合わせの相手は、まだ来なかった。

 

 

 

女は最後の段落を読んだ。

 

 

 

 

 

 

 

走ったあとに、彼女たちは歌う。

 

 

 

私は長い間、それを観客のためのものだと思っていた。勝者を祝うためのもの。敗者を慰めるためのもの。興行を終えるためのもの。そういう面は、たぶんある。

 

 

 

だが、それだけではなかった。

 

 

 

走った体の中に残ったものを、外へ出す。自分の中だけに置いておけば、いつか消えるものを、誰かに渡す。観客はそれを受け取る。受け取ったことを、すぐには分からない。忘れることもある。別の記憶に混ざることもある。

 

 

 

それでも、どこかに残る。

 

 

 

記事も、同じなのだと思う。

 

 

 

見たものを書く。聞いたものを書く。書けなかったものの周りを、できるだけ汚さずに残す。紙面に載れば、私の手を離れる。誰が読むかは分からない。どこまで届くかも分からない。

 

 

 

分からないまま、渡す。

 

 

 

そのために、私は書いた。

 

 

 

 

 

 

 

女は、最後まで読んだ。

 

 

 

読み終えて、すぐには新聞を畳まなかった。

 

 

 

何かに感動した、というほどではなかった。泣きそうになったわけでもない。誰かに勧めたいと思うほど、分かりやすい記事でもなかった。読み終わったあとに、結論だけを誰かに説明しようとしても、うまく言えない気がした。

 

 

 

ただ、すぐに別の面へ移る気にはならなかった。

 

 

 

紙面の下に、もう一度署名があった。

 

 

 

秋月恒一。

 

 

 

女はその名前を見た。

 

 

 

覚えるかどうかは分からなかった。明日になれば忘れているかもしれない。今日の夜には、もう思い出せないかもしれない。

 

 

 

それでも、いまは読んだ。

 

 

 

店の扉が開いた。

 

 

 

待ち合わせの相手が、少し慌てた顔で入ってきた。コートの肩に、小さな埃がついていた。電車が遅れたのか、急いで歩いてきたのか、息が少し上がっていた。

 

 

 

「ごめん、遅れた」

 

 

 

「大丈夫」

 

 

 

女はそう言って、新聞を閉じた。

 

 

 

相手は席に座り、メニューを開いた。女は新聞を棚に戻しに行った。戻すとき、社会面の角に折り目がついているのに気づいた。自分が読んでいる間についたものだった。

 

 

 

折り目を伸ばそうとして、やめた。

 

 

 

完全には戻らない気がした。

 

 

 

席に戻ると、相手は今日の予定を話し始めた。映画を見るか、買い物にするか、天気が持つなら少し歩くか。女は相づちを打った。話はすぐに別の方向へ流れた。

 

 

 

一度だけ、さっき読んだ記事のことを言おうとした。

 

 

 

けれど、何の話だったのかを説明する言葉が、先に見つからなかった。

 

 

 

ウマ娘の記事、と言えば違う気がした。

 

 

 

進路の記事、と言っても違う気がした。

 

 

 

走る話だった。

 

 

 

書く話だった。

 

 

 

残る話だった。

 

 

 

そう並べても、やはり違う気がした。

 

 

 

だから、言わなかった。

 

 

 

相手はメニューを見ながら、季節限定のケーキの話をしていた。女はそれを聞いて、うん、と返事をした。

 

 

 

新聞の記事のことは、話さなかった。

 

 

 

話すほどのことではない気がした。

 

 

 

それで、話さなかった。

 

 

 

 

 

 

 

店を出ると、風が少し冷たかった。

 

 

 

二人は駅の方へ歩いた。相手は昨日見た動画の話をしていた。女は聞きながら、向かいのビルの広告をもう一度見た。

 

 

 

走っているウマ娘の写真。

 

 

 

片脚が宙に浮いている。膝が鋭く折れ、指先が開いている。口が少しだけ開いている。走っている最中の顔なのか、走り終えたあとに息を吸っている顔なのか、写真だけでは分からなかった。

 

 

 

広告は何も変わっていなかった。

 

 

 

女も、何かが変わったとは思わなかった。

 

 

 

ただ、さっきよりも細いところを見ていた。

 

 

 

膝の角度。

 

 

 

指先。

 

 

 

髪の乱れ。

 

 

 

目の向き。

 

 

 

信号が変わった。

 

 

 

相手が先に歩き出した。女も少し遅れて歩き出した。横断歩道の白線を踏む。白いところと、黒いところが交互に足の下を過ぎた。

 

 

 

白線の端が、少し欠けていた。

 

 

 

いつから欠けていたのかは、分からなかった。

 

 

 

たぶん昨日も欠けていた。

 

 

 

その前の日も、欠けていたのかもしれない。

 

 

 

誰かが塗り直すのだろうか、と一瞬だけ思った。

 

 

 

思っただけで、すぐに忘れた。

 

 

 

 

 

 

 

昼過ぎ、同じ記事は電子版にも載った。

 

 

 

紙の折り目は、画面にはなかった。

 

 

 

インクの匂いも、喫茶店の棚も、誰かが戻したときについた小さなずれも、そこにはなかった。紙面の左下という場所も、隣に載っていた別の記事の大きさも、画面の中ではほとんど意味を持たなかった。

 

 

 

ただ、最初の一行だけは同じだった。

 

 

 

走ったあとに歌う理由を、最初は分からなかった。

 

 

 

その一行の上で、どこかの誰かの指が止まった。

 

 

 

名前は、なかった。

 

 

 

場所も、分からなかった。

 

 

 

ただ、読まれていた。

 

 

 

指が、少しだけ下へ動いた。

 

 

 

画面が、静かに送られた。

 

 

 

 





これにてこの物語はおしまいになります。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。

完結に際しての活動報告

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