まだ、走っている   作:監督

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番外編 : 一時間前

 

 

控室の椅子は、思っていたより固かった。

 

 

 

ノエルは、座ったまま、足先を床につけて、踵を二度上げ下げした。

 

 

 

膝が震えていた。

 

 

 

寒いわけではなかった。控室は適温に保たれている。震えているのは、寒さのせいではなかった。

 

 

 

レースまで、あと一時間。

 

 

 

それが、何度も頭の中で繰り返された。

 

 

 

一時間後に、自分はゲートに入る。

 

 

 

ゲートに入って、扉が開く。

 

 

 

その先のことを、ノエルはまだうまく想像できなかった。トレーニングでは何度も走っている。模擬レースもやった。ゲートの開く音にも、慣れているはずだった。

 

 

 

だが、今日のゲートは、トレーニングのゲートとは違うらしかった。

 

 

 

そう、トレーナーは言った。

 

 

 

「本番は、空気が違うから」

 

 

 

何が違うのか、トレーナーは詳しく説明しなかった。説明されても分からないと、彼女は知っていたのだと思う。

 

 

 

ノエルは、控室を見回した。

 

 

 

四つの椅子があった。一つは彼女が座っている。三つは空いていた。同じレースに出る他のウマ娘たちは、別の控室にいる。今日は、控室を一人ずつ使えるように調整されていた。デビュー戦のウマ娘には、なるべく静かな環境を、という運営の方針だった。

 

 

 

静かすぎる、とノエルは思った。

 

 

 

トレーニング場では、いつも誰かの足音や、声や、機材の音があった。ここには、それがない。空調の音と、自分の呼吸の音だけがある。

 

 

 

机の上に、出走表のコピーが置かれていた。

 

 

 

ノエル、と自分の名前が、上から二番目に印刷されている。

 

 

 

ジュニアステークス、第三レース、芝千四百メートル、八人。

 

 

 

その下に、他のウマ娘の名前が並んでいる。

 

 

 

知っている名前もあった。トレーニング場で会ったことがある子。練習会で並んで走った子。記事で読んだことがある子。

 

 

 

知らない名前もあった。

 

 

 

知っている名前の方が、少し緊張する、と気づいた。

 

 

 

知らない名前は、ただの文字だった。知っている名前は、走り方の癖や、コーナーでの傾向や、先週の調子まで、頭の中で結びついていた。トレーナーと一緒に映像を見たり、データを確認したりした記憶が、名前と一緒に思い出された。

 

 

 

それらの記憶を呼び戻すたびに、膝の震えが少し強くなった。

 

 

 

ノエルは、出走表を裏返しにした。

 

 

 

机の上に、白い裏面が向いた。

 

 

 

それで、少しだけ落ち着いた。

 

 

 

机の引き出しに、ジュースのパックが入っていた。運営が用意してくれたものだった。ストローを刺して、一口だけ飲んだ。冷たいオレンジジュースの味がした。甘さが、口の中で少し広がった。

 

 

 

それも、すぐに消えた。

 

 

 

 

 

 

 

ドアがノックされた。

 

 

 

「失礼します」

 

 

 

入ってきたのは、トレーナーだった。

 

 

 

トレーナーは、紺色のジャケットを着ていた。今日は重要な日だから、いつもより少しだけ整った格好をしていた。それも、ノエルを緊張させる要素の一つだった。

 

 

 

「調子は」

 

 

 

「大丈夫です」

 

 

 

「足、震えてるな」

 

 

 

ノエルは、自分の膝を見た。

 

 

 

止めようと思ったが、止まらなかった。

 

 

 

「すみません」

 

 

 

「謝らなくていい」

 

 

 

トレーナーは、向かいの椅子に座った。

 

 

 

「みんな震える。デビュー戦は」

 

 

 

「先生も、震えましたか」

 

 

 

「俺は走らないから、震える側じゃない」

 

 

 

「あ、そうですね」

 

 

 

ノエルは、小さく笑った。

 

 

 

笑ったあとに、膝の震えが少しだけ収まった。

 

 

 

トレーナーは、ノエルのその様子を見ていた。

 

 

 

何も言わなかった。

 

 

 

ノエルが落ち着くまで待っている、という顔だった。

 

 

 

「先生」

 

 

 

「ああ」

 

 

 

「私、走れますかね」

 

 

 

「走れる」

 

 

 

「分からないんです、まだ」

 

 

 

「分からなくていい」

 

 

 

トレーナーは、机の上の裏返しになった出走表を見た。

 

 

 

裏返しにしたことについて、何も言わなかった。

 

 

 

「ノエル」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「今日は、レースに勝つ日じゃない」

 

 

 

「え」

 

 

 

「勝てたら嬉しい。だが、勝つ日じゃない」

 

 

 

ノエルは、トレーナーの顔を見た。

 

 

 

「今日は、走る日だ」

 

 

 

「走る、日」

 

 

 

「ゲートに入って、扉が開いて、走る。それだけだ。勝ち負けは、結果でついてくる。それは、後で気にしろ」

 

 

 

ノエルは、少しの間、その言葉を頭の中で並べた。

 

 

 

走る日。

 

 

 

勝つ日じゃない。

 

 

 

走る日。

 

 

 

「分かりました」

 

 

 

ノエルは頷いた。

 

 

 

頷いたあとに、また膝が震えた。

 

 

 

トレーナーは、それを見て、少し笑った。

 

 

 

「分かったって顔じゃないな」

 

 

 

「すみません」

 

 

 

「いいよ。分からないまま、走ればいい」

 

 

 

トレーナーは立ち上がった。

 

 

 

「あと一時間ある。少し横になっておけ」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「呼びに来る」

 

 

 

「はい」

 

 

 

トレーナーはドアの方へ歩いて、出ていく前に振り返った。

 

 

 

「ノエル」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「観客のことは、気にしなくていい」

 

 

 

「観客?」

 

 

 

「ゲートに入る前に、観客席が見える。見えるだけで、何もしてこない。気にしなくていい」

 

 

 

ノエルは、頷いた。

 

 

 

それまで、観客のことは、あまり考えていなかった。考える余裕がなかった。トレーニング場には観客はいない。模擬レースにも、関係者しかいない。ノエルが「観客がいる場所で走る」のは、今日が初めてだった。

 

 

 

トレーナーが、なぜそれを今、言ったのか、ノエルには分からなかった。

 

 

 

ドアが閉まった。

 

 

 

 

 

 

 

控室には、また静寂が戻った。

 

 

 

ノエルは、ソファーに移動して、横になった。

 

 

 

天井を見た。

 

 

 

蛍光灯が、白く光っていた。

 

 

 

観客のことを、気にしなくていい、とトレーナーは言った。

 

 

 

ノエルは、観客のことを考え始めた。

 

 

 

トレーニング場には、観客はいない。だが、誰も見ていないわけではない。トレーナーが見ている。他のウマ娘たちが見ている。データを取る人が見ている。ノエルは、トレーニング場で走るとき、その視線を感じていた。

 

 

 

今日は、その視線が、もっと多い場所で走る。

 

 

 

何百人か、何千人かは分からない。

 

 

 

その人たちは、ノエルのことを知らない。

 

 

 

ノエルも、その人たちのことを知らない。

 

 

 

知らない人たちの前で、走る。

 

 

 

それが、デビュー戦だった。

 

 

 

ノエルは、天井から目を逸らして、横向きになった。

 

 

 

ソファーの背もたれが、頬に触れた。

 

 

 

少し冷たかった。

 

 

 

冷たさが、心地よかった。

 

 

 

膝の震えが、また少し収まった。

 

 

 

 

 

 

 

横になっているあいだ、ノエルはいくつかのことを思い出した。

 

 

 

去年の冬に、初めてトレーニング場に来た日のこと。

 

 

 

その日、ノエルは緊張して、何度もトイレに行った。トレーナーはそれを笑わなかった。「飲んだ水の分だな」とだけ言った。

 

 

 

最初に走った日、ノエルは三百メートルで足が止まった。

 

 

 

息が続かなかった。胸の中で何かが詰まって、足が前に出なくなった。ノエルは、走るのをやめて、コースの端に座り込んだ。

 

 

 

トレーナーが近づいてきた。

 

 

 

怒られるかと思った。

 

 

 

トレーナーは、ただ、ノエルの隣にしゃがんで、

 

 

 

「もう一回」

 

 

 

と言った。

 

 

 

「もう一回、走ってみろ」

 

 

 

ノエルは、立ち上がって、もう一回走った。

 

 

 

四百メートルで足が止まった。

 

 

 

また、コースの端に座り込んだ。

 

 

 

トレーナーが、また近づいてきた。

 

 

 

「もう一回」

 

 

 

その日、ノエルは六回走った。

 

 

 

最後の一回は、五百メートルまで走れた。

 

 

 

そこで、トレーナーは「今日は終わり」と言った。

 

 

 

「明日、また走るから」

 

 

 

ノエルは、その日、シャワーを浴びながら泣いた。

 

 

 

なぜ泣いたのかは、自分でもよく分からなかった。情けなかったわけでもない。悔しかったわけでもない。ただ、涙が出た。

 

 

 

翌日、また走った。

 

 

 

その日は、五百メートルからスタートして、六百メートルまで走れた。

 

 

 

毎日、走れる距離が少しずつ伸びた。

 

 

 

二週間後には、千メートルが走れるようになった。

 

 

 

一ヶ月後には、千四百メートルが走れるようになった。

 

 

 

今日のレースの距離だ。

 

 

 

その距離を、ノエルはトレーニングで何度も走った。トレーナーはタイムを計った。ノエルが走り終わるたびに、ストップウォッチの数字を見て、少し頷いた。

 

 

 

「いい走りだった」と言われたことは、何度もない。

 

 

 

「次は、ここを意識しろ」と言われたことは、何度もあった。

 

 

 

ノエルは、その「ここ」を、毎回、頭に入れた。

 

 

 

次の日、「ここ」を意識して走った。

 

 

 

意識すると、別の場所が崩れた。

 

 

 

崩れた場所を、また「ここ」として指摘された。

 

 

 

それを繰り返した。

 

 

 

繰り返したあとに、ノエルの走りは、少しずつ変わった。

 

 

 

最初に走った日の自分が、ノエルにはもう想像できなかった。

 

 

 

三百メートルで止まった頃のノエルは、今のノエルの中にはいない。

 

 

 

でも、いる、とも思った。

 

 

 

今のノエルが走れるのは、三百メートルで止まった日があったからだった。座り込んだ日が、もう一回走った日が、シャワーで泣いた日が、全部、今のノエルの中に積み重なっていた。

 

 

 

積み重なっていたものを、今日、レースで使う。

 

 

 

ノエルは、そう思った。

 

 

 

 

 

 

 

控室の壁に、時計があった。

 

 

 

針が動いた音は聞こえない。だが、時間は確実に進んでいた。

 

 

 

レースまで、あと三十分。

 

 

 

ノエルは起き上がって、ストレッチを始めた。

 

 

 

トレーニングと同じ手順だった。アキレス腱を伸ばす。腿の裏を伸ばす。腰を回す。肩を回す。首を回す。一つずつ、丁寧にやった。

 

 

 

ストレッチをしている間、ノエルは何も考えなかった。

 

 

 

考えないことが、ストレッチの目的の一つだった。トレーナーがそう言っていた。「ストレッチは、頭を空にする時間でもある」と。最初はその意味が分からなかった。今は、少し分かる。

 

 

 

ストレッチが終わったあと、ノエルは机の上を整えた。

 

 

 

裏返しになっていた出走表を、また元に戻した。

 

 

 

自分の名前が、上から二番目にあった。

 

 

 

ノエル。

 

 

 

その名前を、知らない人たちが、これから見る。

 

 

 

スタンドの大型ビジョンに、その名前が映る。

 

 

 

実況が、その名前を呼ぶ。

 

 

 

何千人か、何万人かが、その名前を聞く。

 

 

 

聞いたあと、ほとんどの人は、忘れる。

 

 

 

レースが終わって、家に帰って、夕食を食べて、寝る頃には、忘れている。

 

 

 

それでいい、とノエルは思った。

 

 

 

忘れられても、走った事実は、なくなりはしない。

 

 

 

その事実は、ノエルの中に残る。

 

 

 

トレーナーの中にも残る。

 

 

 

それで、十分だった。

 

 

 

 

 

 

 

ノックがあった。

 

 

 

「ノエル、十分前」

 

 

 

スタッフの声だった。

 

 

 

ノエルは、ドアの方へ歩いた。

 

 

 

ドアを開ける前に、もう一度、控室を振り返った。

 

 

 

自分が座っていた椅子。

 

 

 

横になっていたソファー。

 

 

 

机の上の、表に戻した出走表。

 

 

 

引き出しに、半分残ったジュースのパック。

 

 

 

これらの全部を、ノエルは覚えておこうと思った。

 

 

 

レースに勝っても、負けても、今日のことを忘れるかもしれない。だが、控室の景色は、覚えておきたかった。なぜそう思ったのかは、分からなかった。

 

 

 

ドアを開けて、通路に出た。

 

 

 

 

 

 

 

通路を歩いた。

 

 

 

通路の途中で、別の控室から出てきた、別のウマ娘とすれ違った。

 

 

 

栗毛のウマ娘だった。

 

 

 

ノエルより少し背が高い。出走表の中にあった名前のどれかだろう、と思った。だが、すぐには名前と顔が結びつかなかった。

 

 

 

そのウマ娘も、ノエルを見て、軽く会釈した。

 

 

 

ノエルも会釈を返した。

 

 

 

それだけだった。

 

 

 

すれ違ったあと、ノエルは少しだけ振り返った。

 

 

 

そのウマ娘も、振り返っていた。

 

 

 

目が合った。

 

 

 

二人とも、少しだけ笑った。

 

 

 

「初めてですか」

 

 

 

栗毛のウマ娘が、声をかけてきた。

 

 

 

「はい」

 

 

 

「私も、です」

 

 

 

そのウマ娘は、少し笑った。

 

 

 

「震えますね」

 

 

 

「震えます」

 

 

 

二人は、少しの間、立っていた。

 

 

 

何か続けようとして、続ける言葉が見つからなかった。代わりに、もう一度頷き合って、それぞれの方向へ歩き出した。

 

 

 

ノエルは、そのウマ娘の名前を聞かなかった。

 

 

 

向こうも、ノエルの名前を聞かなかった。

 

 

 

聞かなくても、十分だった。

 

 

 

二人とも、初めてで、震えている。

 

 

 

それを確かめ合えたことが、今は大事だった。

 

 

 

ノエルは、また歩き始めた。

 

 

 

膝の震えは、まだあった。

 

 

 

だが、さっきまでより少しだけ、軽くなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

通路の先で、外の光が見えた。

 

 

 

ゲート前に向かう、最後の通路だった。

 

 

 

光に近づくにつれて、観客席のざわめきが、少しずつ聞こえてきた。

 

 

 

膝が、また震えた。

 

 

 

ノエルは、それを止めようとしなかった。

 

 

 

トレーナーが、隣を歩いていた。

 

 

 

「ノエル」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「走るだけだ」

 

 

 

「はい」

 

 

 

光の中に、ノエルは出ていった。

 

 

 

観客席が、見えた。

 

 

 

人がたくさんいた。

 

 

 

ノエルは、その全員のことを、知らなかった。

 

 

 

その全員も、ノエルのことを、たぶん知らなかった。

 

 

 

それでも、ノエルは走る。

 

 

 

走るために、ここまで来た。

 

 

 

ゲートに向かって、ノエルは歩いた。

 

 

 

歩きながら、ふと、振り返った。

 

 

 

通路の方を見た。

 

 

 

通路の入口に、さっきすれ違った栗毛のウマ娘が、立っていた。

 

 

 

彼女も、こちらを見ていた。

 

 

 

目が合った。

 

 

 

栗毛のウマ娘は、軽く頷いた。

 

 

 

ノエルも、頷き返した。

 

 

 

それから、二人とも、それぞれのゲートの方へ歩いていった。

 

 

 

膝は、まだ震えていた。

 

 

 

震えたまま、歩いた。

 

 

 

歩けた。

 

 

 

それで、十分だった。

 

 

 

 

 




番外編です、連作で何話か投稿します
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