まだ、走っている   作:監督

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番外編 : 担当を外れて

 

 

 

 

四月の半ばに、葉書が届いた。

 

 

 

差出人の名前を見て、塚本は少し驚いた。

 

 

 

「クラウドアリア」

 

 

 

その名前を、葉書で見るとは思わなかった。

 

 

 

塚本は玄関先で葉書を開いて、そのまま読んだ。

 

 

 

「お元気でしょうか。来月、地元のレース場で引退ウマ娘の交流イベントがあります。私も出ます。もし時間があれば、お会いできたら嬉しいです」

 

 

 

文面はそれだけだった。

 

 

 

裏には印刷されたイベントの案内が貼り付けられている。五月の第三日曜日。会場は、塚本の家から電車で一時間半の場所だった。

 

 

 

葉書を持ったまま、塚本はしばらく玄関に立っていた。

 

 

 

クラウドアリアは、塚本が最後に担当したウマ娘だった。

 

 

 

正確に言えば、最後に「担当だった」ウマ娘だ。担当を外れたのは、彼女の引退の半年前だった。塚本が体を壊して、長期休職に入った。そのまま復帰せずに、トレーナーをやめた。今は、競技とは関係のない仕事をしている。

 

 

 

クラウドアリアは、別のトレーナーに引き継がれた。

 

 

 

そのトレーナーの下で、彼女は最後のレースを走り、引退した。

 

 

 

塚本は、その最後のレースを、テレビで見た。

 

 

 

引退後、クラウドアリアからは、一度も連絡が来ていなかった。

 

 

 

塚本からも、連絡しなかった。

 

 

 

それから、三年が経っていた。

 

 

 

連絡しないことが、見ないことを意味するわけではなかった。塚本は彼女のことを、引退後もテレビや新聞で見かけるたびに、目で追っていた。引退セレモニーの中継。彼女の現役時代を振り返る短い特集。たまにスポーツ紙の隅に出る、引退ウマ娘の近況の記事。それらを、塚本は読んでいた。

 

 

 

担当を外れたあとも、見ることは続いていた。

 

 

 

近くで見ていたのが、遠くで見るようになっただけだった。

 

 

 

 

 

 

 

午後の早い時間に、塚本は事務所を出た。

 

 

 

今の仕事は、地元の保険会社の代理店だった。前職とは何の関係もない仕事だが、慣れれば落ち着いてできる。客の話を聞き、必要な書類を作り、契約を更新する。決まった手順がある。決まった手順を、決まった通りにやる。

 

 

 

その単調さが、今の塚本には合っていた。

 

 

 

葉書のことは、午後の仕事の間、頭の片隅にあった。

 

 

 

行くかどうかは、すぐには決められなかった。

 

 

 

行かない理由は、いくつかあった。

 

 

 

担当を外れた人間が、いまさら顔を出すのは、彼女のためにならないかもしれない。新しいトレーナーがいて、新しい関係があって、塚本が引退まで見届けられなかったことは、彼女の中でもう整理されているはずだった。そこに塚本が現れることは、整理されたものを、もう一度開けることになる。

 

 

 

行く理由も、いくつかあった。

 

 

 

葉書を送ってきたのは、彼女の方だった。

 

 

 

「会えたら嬉しい」と、彼女が書いた。

 

 

 

その一文を、塚本は何度か読み返した。

 

 

 

社交辞令で書く文章ではなかった。クラウドアリアは、社交辞令を書くタイプでもなかった。塚本が知っている範囲では、そうだった。

 

 

 

夕方、事務所を閉めて、自転車で帰る道で、塚本は決めた。

 

 

 

行く。

 

 

 

決めてから、家に帰る最後の信号で、自転車を止めた。

 

 

 

決めたあとに、少しだけ、緊張した。

 

 

 

 

 

 

 

レース場のある駅に着いたのは、当日の午前十時過ぎだった。

 

 

 

駅前は、人で賑わっていた。

 

 

 

レースは午後からだが、その前に引退ウマ娘の交流イベントがあった。レース場の外側の広場に、テントが並んでいる。子ども向けの絵本コーナー、地元商店街のブース、写真撮影の列。

 

 

 

塚本は、ジャケットを着ていた。

 

 

 

トレーナーをやっていた頃に着ていた、ジャージは持ってこなかった。あれを着る資格は、もう自分にはないと思っていた。代わりに、仕事で使うようなジャケットを着てきた。

 

 

 

会場の入口で、案内のスタッフが小さなパンフレットを配っていた。

 

 

 

出演する引退ウマ娘の一覧が載っていた。クラウドアリアの名前は、上から三番目だった。

 

 

 

「トークコーナー、午前十一時から」

 

 

 

「サイン会、午後一時から」

 

 

 

「クロージング挨拶、午後三時」

 

 

 

トークコーナーまで、まだ三十分あった。

 

 

 

塚本は広場を一周した。

 

 

 

子ども連れの家族が多かった。引退ウマ娘の現役時代を覚えている世代の親が、子どもを連れてきている、という雰囲気だった。子どもたちは、目の前の絵本やお菓子の方に関心があるようだった。

 

 

 

ステージの前に、椅子が並べられていた。

 

 

 

塚本は、後ろから三列目の端の席に座った。

 

 

 

近すぎず、目立たない位置だった。

 

 

 

 

 

 

 

トークコーナーが始まった。

 

 

 

司会の女性が、出演者を一人ずつ呼んだ。

 

 

 

「クラウドアリアさん」

 

 

 

ステージの袖から、クラウドアリアが出てきた。

 

 

 

塚本は、息を一度止めた。

 

 

 

体つきが、変わっていた。

 

 

 

現役時代の鋭さが、抜けていた。代わりに、少し肉が付いて、肩の線が柔らかくなっている。髪は短くなっていた。記者会見で見た引退発表のときよりも、さらに短い。

 

 

 

だが、それ以外は、知っているクラウドアリアだった。

 

 

 

歩き方。

 

 

 

立ち止まる位置の選び方。

 

 

 

マイクを受け取る手の角度。

 

 

 

司会の質問に答える前の、一拍の間。

 

 

 

塚本が二年間、毎日見てきた動きだった。引退して三年経っても、それは変わっていなかった。

 

 

 

「最近の生活は、いかがですか」

 

 

 

司会が聞いた。

 

 

 

「地元で、子どもたちに走ることを教えています」

 

 

 

塚本は、初めて聞く話だった。

 

 

 

知らなかった。

 

 

 

引退後の彼女が、子どもたちに何かを教えていることまでは、新聞には書かれていなかった。塚本は、テレビや紙面で彼女を見てきたが、見えていたのは、表に出ている部分だけだった。それ以外の彼女の生活は、塚本の視界には入っていなかった。

 

 

 

「教えるというのは」

 

 

 

「専門的なことではないんです。地元の小学校で、月に二回、走り方の体験教室みたいなものをやっています」

 

 

 

「楽しいですか」

 

 

 

「楽しいです」

 

 

 

クラウドアリアは、少しだけ笑った。

 

 

 

その笑い方を、塚本は知っていた。

 

 

 

現役時代に、調子のいい日の朝に、彼女が見せていた笑い方だった。トレーニング前のストレッチをしながら、たまに見せる笑い方。

 

 

 

塚本は、椅子の上で、無意識に少し前のめりになっていた。

 

 

 

気づいて、座り直した。

 

 

 

トークコーナーは三十分続いた。

 

 

 

その間、塚本はずっと彼女を見ていた。

 

 

 

彼女は、塚本の方を見なかった。

 

 

 

席が後ろの方で、ステージから客席は逆光になっていることもあるだろう。だが、それだけではなかった。彼女は、客席全体を見ながら話していて、特定の誰かを探しているような視線はなかった。

 

 

 

それで、いい、と塚本は思った。

 

 

 

会いに来た、と彼女が分かる必要はなかった。

 

 

 

ただ、見たかった。

 

 

 

塚本が、彼女を。

 

 

 

それだけで、十分だった。

 

 

 

 

 

 

 

トークコーナーが終わると、サイン会まで休憩があった。

 

 

 

塚本は会場の外に出て、自販機で水を買った。

 

 

 

サイン会の列に並ぶかどうか、迷った。

 

 

 

並べば、彼女と直接話すことになる。塚本が来ていたことが、彼女に伝わる。それは、彼女が望んでいたことのはずだった。葉書を送ったのは、彼女の方だった。

 

 

 

だが、塚本は、列の前に立つ自分が想像できなかった。

 

 

 

三年ぶりに会って、何を言えばいいのか分からなかった。

 

 

 

「元気そうだね」

 

 

 

そういう言葉が、自分の口から出るのが、嫌だった。

 

 

 

塚本がクラウドアリアと話してきた二年間、二人の間にあったのは、走ることについての真剣な言葉だった。

 

 

トレーニングの内容、コースの選び方、レース当日の体調、相手のウマ娘の分析、走り終わった後の感想。塚本は、彼女の走りに、自分の持っているすべてで応えてきた。

 

 

 

今、三年ぶりに会って、それより軽い言葉から始めるのは、違う気がした。

 

 

 

水を飲みながら、塚本は広場のベンチに座った。

 

 

 

サイン会が始まる時間が来た。

 

 

 

塚本は、立ち上がらなかった。

 

 

 

ベンチから、サイン会のテントが少しだけ見えた。

 

 

 

列ができていた。子ども連れの家族が多かった。クラウドアリアは、座って一人ずつサインを書いていた。手を振る子どもに、笑顔で応えている。

 

 

 

その光景を、塚本は離れて見ていた。

 

 

 

並ばなかった。

 

 

 

並ばないことに、決めた。

 

 

 

並べば、別の関係が始まる。

 

 

 

塚本は、別の関係を始めに来たのではなかった。

 

 

 

ただ、彼女が元気で、彼女のままで、新しい場所にいる、ということを、自分の目で確かめに来た。それは、達成された。

 

 

 

それで、十分だった。

 

 

 

 

 

 

 

午後二時頃に、塚本はレース場を出ようとした。

 

 

 

最後の挨拶まではいない方が良い、と思った。最後まで残れば、見送る側に近づく。塚本は、見送る側にはいなかった。彼女を最後まで見送ったのは、引き継いだトレーナーだった。

 

 

 

駅へ向かう途中の通路で、塚本は足を止めた。

 

 

 

通路の壁に、ポスターが貼られていた。

 

 

 

今日のイベントの案内のポスターだった。出演する引退ウマ娘の写真が、並んで載っている。

 

 

 

クラウドアリアの写真があった。

 

 

 

最近の写真だ。短くなった髪。柔らかくなった肩の線。

 

 

 

その下に、現役時代の代表的なレースの記録が、短く書かれていた。

 

 

 

「重賞優勝、二回」

 

 

 

「G2優勝、一回」

 

 

 

塚本は、その記録を読んだ。

 

 

 

G2の優勝は、塚本が担当していた時期だった。

 

 

 

塚本は、その日のことを覚えていた。

 

 

 

彼女が外を回って、最終直線で伸びてきて、二着のウマ娘を半馬身差し切った。ゴールしたあと、塚本は涙が出た。彼女の体を抱きしめて、何か言葉を言おうとして、言葉にならなかった。代わりに、彼女の肩を二度叩いた。

 

 

 

彼女もそのとき、何も言わなかった。

 

 

 

ただ、抱きしめられたまま、息を整えていた。

 

 

 

その後、控室に戻って、ようやく言葉が出た。

 

 

 

「ありがとう」

 

 

 

塚本がそう言うと、彼女は、

 

 

 

「トレーナーが、走らせてくれたから」

 

 

 

と答えた。

 

 

 

それが、塚本が彼女と交わした言葉の中で、いちばん覚えている言葉だった。

 

 

 

ポスターの記録に、その日のことは「G2優勝、一回」としか書かれていない。

 

 

 

それで、いい、と思った。

 

 

 

塚本と彼女のあいだにあった言葉は、ポスターには書かれない。記録にもならない。誰にも残らない。

 

 

 

だが、なくなりはしない。

 

 

 

塚本の中に、まだあった。

 

 

 

たぶん、彼女の中にも、まだあった。

 

 

 

伝えなかったことを、後悔するかどうかは、分からなかった。

 

 

 

ポスターから視線を外して、塚本は駅へ歩いた。

 

 

 

 

 

 

 

電車に乗った。

 

 

 

午後の電車は、空いていた。

 

 

 

塚本は、窓際の席に座って、外を見た。

 

 

 

レース場が遠ざかっていく。線路沿いの桜は、もう散っていた。葉桜になりかけている。

 

 

 

クラウドアリアは、たぶんまだサイン会の最中だった。子どもたちに笑顔を見せている。最後に挨拶をして、それから新しいトレーナーや、引退後の関係者と話して、彼女自身の家に帰る。

 

 

 

塚本が来ていたことを、彼女は知らない。

 

 

 

知らなくていい、と塚本は思った。

 

 

 

来た、ということだけが、塚本の中にあれば良かった。

 

 

 

葉書は、家に帰ったら、引き出しにしまう。捨てない。だが、額に入れて飾るような種類のものでもない。引き出しに入れて、たまに開けたときに、見つかる場所に置く。

 

 

 

それくらいで、ちょうど良かった。

 

 

 

電車が、トンネルに入った。

 

 

 

窓の外が暗くなり、窓に塚本の顔が映った。

 

 

 

三年前より、少しだけ老けていた。

 

 

 

担当だった頃の顔は、もうそこにはなかった。

 

 

 

それで、いい、と思った。

 

 

 

担当だった頃の顔のままでいたら、塚本は今日、ここに来られなかった。担当を外れて、別の仕事をして、別の生活をして、三年が経った。その三年があったから、今日、客席の後ろから彼女を見ることができた。

 

 

 

担当だった頃には、できなかった見方だった。

 

 

 

見方が変わっただけだ、と塚本は思った。

 

 

 

見ることをやめたわけではない。担当の頃は、近くから見ていた。新聞やテレビで彼女を見ていた三年間は、もっと遠くから見ていた。今日は、客席の後ろから見た。距離は、その時々で変わる。だが、見ているということは、変わっていない。

 

 

 

彼女も、たぶん、それを知っていた。

 

 

 

葉書を送ってきたのは、自分が見られていることを、確認したかったからかもしれなかった。確認したい、と意識して書いたかは分からない。だが、結果として、葉書は塚本に届いた。塚本は来た。客席の後ろから、彼女を見た。

 

 

 

それで、彼女の側の確認も、たぶん、済んだ。

 

 

 

伝えなくても、済むことがある。

 

 

 

トンネルを抜けると、窓の外が明るくなった。

 

 

 

塚本の顔が、窓から消えた。

 

 

 

代わりに、田園風景が流れていった。

 

 

 

電車は、塚本の家のある町へ向かっていた。

 

 

 

明日からは、また保険の仕事だった。

 

 

 

葉書のことは、誰にも話さない。

 

 

 

話さないまま、また保険の客の話を聞き、書類を作り、契約を更新する。決まった手順を、決まった通りにやる。

 

 

 

そのあいだに、ふとした瞬間に、今日見た彼女の歩き方が、目の奥に浮かぶことが、あるかもしれない。

 

 

 

明日のニュースで、彼女の名前が出るかもしれない。出たら、塚本はまた目で追う。出なくても、いつかどこかで、彼女の写真や記事を見るかもしれない。

 

 

 

見続けるだろう、と思った。

 

 

 

担当を外れても、見続けることはできる。

 

 

 

それくらいで、ちょうど良かった。

 

 

 




番外編です、連作で何作か投稿します
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