まだ、走っている   作:監督

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番外編 : 普通盛り

 

 

 

 

食堂の一日は、前の夜に決まる。正確には、米の量から決まる。

 

 

 

少なければ足りない。多ければ余る。足りなければ昼前に厨房が走ることになるし、余れば夜の片づけで大きな容器を抱えてため息をつくことになる。トレセン学園の食堂では、その差が小さくない。茶碗一杯のずれが、何百人分という質量になって跳ね返ってくる。

 

 

 

厨房の野崎は、奥にある白いボードを見つめていた。

 

 

 

そこには翌日の予定がびっしりと書き込まれている。朝練あり。合同練習あり。午後から模擬レース。短距離組は遠征前調整。栄養士が引いた赤い線と、寮の予定表から写した青い線、そして厨房の誰かが後から足した黒い丸が、同じ欄に重なってひしめき合っていた。

 

 

 

野崎は、それを毎晩見る。それでも、予定表の数字だけで全てが決まるわけではない。

 

 

 

合同練習があるからといって、必ず米が多く出るわけではないのだ。練習前に食べる子と、終わってから食べる子に分かれる。模擬レースの前日は肉の進みが鈍ることがあるし、逆に負荷の軽い日の方が、すんなりと米の減りが早かったりもする。何年もこの場所にいると、理屈ではなく「外れる日の外れ方」だけが、なんとなく肌感覚で分かってくる。

 

 

 

野崎が学園に入ったのは、三十年以上前のことだった。当時はまだ若く、厨房の一番下で、米を運ぶことから始めた。その頃に、桁外れの食べ方をする子たちがいた。

 

 

 

茶碗の大盛りでは足りない。丼でも足りない。おかわりの列に並ぶことに一切のためらいがなく、食べ終えた顔が、まだ走る前のように明るい。ただ大食漢なだけではない。食べることが、そのまま彼女たちの体を形作る、一つのアスリートとしての動作になっているような子たちだった。

 

 

 

オグリキャップ。スペシャルウィーク。野崎は、その子たちが食堂で食べる姿を、自分の目で見ていた。

 

 

 

厨房では、米の量をその子たちの名前で呼ぶことがあった。

 

 

 

「今日はオグリまではいかないな」

 

 

 

「スペが二人いたら足りないぞ」

 

 

 

名前で量を測れるくらい、その子たちの食べ方は厨房の中で基準になっていた。一人いるだけで、厨房の段取りが変わる。米の減り方が変わる。おかわりの列の流れが変わり、食堂全体の「大盛り」という基準が、少しだけ引きずられて動く。

 

 

 

記録として残っているわけではない。献立表に名前があるわけでもない。けれど、米を炊く量を決めるとき、野崎の口からもふと漏れる。大鍋を一つ増やすか迷うとき、つぶやく。

 

 

 

「あの頃に比べれば、今日はまだ普通だな」

 

 

 

そう言って、米袋をもう一つ開ける。

 

 

 

名前は、そういう形でも残る。レースの記録とは別の場所で、厨房の手順の中に。

 

 

 

野崎にとって、その名前は冗談ではなかった。特大の大盛りを食べる子が一人いるだけで、食堂全体の「普通」が少し変わる。そのことを、厨房は知っている。

 

 

 

野崎が知っているのは、食べる子だけではなかった。引退していく子のことも、同じ釜の中で見てきた。

 

 

 

引退が決まる前から、その子は食堂で少しずつ何かを変える。米を減らす日が増える。汁物を残す日が出てくる。おかわりに来なくなる。野崎が直接見るわけではない。報告として上がってくるわけでもない。だが、釜の減り方の中に、その子の影が薄くなっていく時期が、毎年、何度かある。

 

 

 

三十年で、何人見たかは、もう数えていない。

 

 

 

「明日、二升足します?」

 

 

 

若いスタッフが聞いた。野崎はボードを見たまま、少し考えた。

 

 

 

「一升半でいい」

 

 

 

「半端ですね」

 

 

 

「半端でいい。二升だと余る」

 

 

 

「一升だと?」

 

 

 

「たぶん、足りない」

 

 

 

「たぶんですか」

 

 

 

「たぶんで決める仕事だよ、これは」

 

 

 

若いスタッフは少し笑ってから、メモに「一升半」と書き付けた。

 

 

 

一升半の明確な根拠を求められても、野崎はうまく答えられない。合同練習と模擬レースのデータだけなら二升増やすのが正解だ。だが今週は、朝の列の動きが少し遅い。月曜から水曜まで、開店直後に滑り込んでくる人数がわずかに減っていた。練習がきついのかもしれない。単に寒くなって布団から出にくいだけかもしれない。

あるいは、釜の減り方が薄くなっていく子が、今週もどこかにいるのかもしれない。

 

 

 

それに、昨日の昼は小鉢が残った。

 

 

 

残ったといっても、ほんの数個だ。片づけの後で出る残菜の記録に、小さな印がついた程度。けれど、残った小鉢の種類がいつもと違っていた。普段なら残るのは酢の物だが、昨日残ったのは、かぼちゃの煮物だった。

 

 

 

甘いものが残る日は、少し疲れている。

 

 

 

そう言い切れるほどの統計はない。ただ、野崎はそういう日を何度も見てきた。だから、一升半にした。

 

 

 

 

 

 

朝、カウンターに立つ小田は、米の量を決めない。小田が見るのは、ただ「列」だった。

 

 

 

開店直後に並ぶ子。少し遅れて入ってくる子。友達を待つ子。ひとりで来て、黙ってトレイを取る子。眠そうな顔でご飯を頼む子。もう目が覚めていて、声だけ先に来る子。

 

 

 

「ご飯、普通で」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「大盛りで」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「少なめで」

 

 

 

「少なめね」

 

 

 

何十回、何百回と、同じやりとりを繰り返す。

 

 

 

小田は一人一人の名前を覚えていないし、覚えられない。食堂には毎日、何百人ものウマ娘が訪れる。年度が変われば顔ぶれも変わり、髪型も変わり、背も伸びる。名前まで全部覚えようとしたら、肝心の手が止まってしまう。

 

 

 

それでも、差し出される声の「硬さ」には、気づくことがある。

 

 

 

この学園では、大盛りは一種類ではない。普通の大盛り。よく食べる子の大盛り。練習明けの大盛り。遠征前の大盛り。何も言わずに茶碗を差し出されただけで、こちらが勝手に少し深くよそう大盛り。そして、昔から語り継がれている、特大の大盛り。

 

 

 

野崎のような古参スタッフは、今でもときどき言う。

 

 

 

「あれは大盛りじゃなくて、補給だった」

 

 

 

スペシャルウィークの名前が出ることもある。

 

 

 

「あの子は、本当に嬉しそうに食べたんだよ」

 

 

 

小田はその頃を直接は知らない。けれど、カウンターの内側には、確かにそういう気配が残っている。写真や記事ではなく、誰がどのレースを勝ったかでもなく、茶碗の深さと、米をよそう手の感覚として。

 

 

 

だから、列の中で「大盛りで」と言われたとき、小田は一瞬だけ相手を見る。

 

 

 

本当に大盛りなのか。今日だけの大盛りなのか。いつもの大盛りなのか。食べられる大盛りなのか、それとも、食べたい大盛りなのか。

 

 

 

もちろん、毎回分かるわけではない。外せば多すぎて残るし、少なすぎればおかわりに来る。それでも、茶碗を差し出された一瞬に、小田の手は少しだけ迷う。その迷いもまた、食堂の仕事の一部だった。

 

 

 

その朝、列の中ほどに、鹿毛のウマ娘がいた。

 

 

 

二年生、たしか中距離の子だったはずだ。いつもは友達と二人で来るが、今日は一人だった。トレイを持つ手が少し低い。顔色が悪いわけではないし、目も合う。挨拶も返ってきた。

 

 

 

「おはようございます」

 

 

 

「おはよう」

 

 

 

小田は茶碗を持った。「ご飯は?」

 

 

 

「普通で」

 

 

 

声が、少し硬かった。硬い、と思っただけだった。

 

 

 

「普通ね」

 

 

 

普通によそった。よそってから、いつもの普通より、ほんの少しだけ少ないかもしれないと思った。手が勝手にそうした。減らしたつもりはなかったが、茶碗の縁の少し下で、米が止まっていた。

 

 

 

鹿毛の子はそれを見たが、何も言わなかった。そのまま味噌汁の列へと移っていく。

 

 

 

小田はすぐに次の子に向き直る。

 

 

 

「ご飯は?」

 

 

 

「大盛りで」

 

 

 

「はい」

 

 

 

列は止まらない。さっきの鹿毛の子が、どこの席へ座ったかはもう見えなかった。

 

 

 

朝のピークが過ぎたあと、小田はカウンターを離れて、給湯室で茶を飲んだ。

 

 

 

野崎が、奥で米びつを開けていた。

 

 

 

「今日、一升半増やしたんですよね」

 

 

 

「ああ」

 

 

 

「ちょっと多い気がしました」

 

 

 

野崎は、米びつのふたを閉めた。

 

 

 

「中距離の、二年生の鹿毛」

 

 

 

小田は野崎の顔を見た。野崎は米びつの方を見たままだった。

 

 

 

「今朝、いつもより少なかった?」

 

 

 

「少なくしました。勝手に」

 

 

 

「そうか」

 

 

 

野崎は、それ以上は何も言わなかった。

 

 

 

小田も、それ以上は聞かなかった。

 

 

 

ただ、米びつの残りを少しの間、二人で見ていた。

 

 

 

 

 

 

栄養士の三枝が見るのは、顔ではなく、表だった。

 

 

 

食数表。欠食表。補食の申請。アレルギー対応。遠征前メニュー。怪我明けの個別指示。医務室から回ってくる簡単な連絡事項。三枝の机の上には、いつも紙が重なっている。

 

 

 

朝のピークが落ち着いた頃、三枝はパソコンの画面を見ながら、欠食の欄に印をつけた。

 

 

 

鹿毛の二年生が、昨日の夕食を欠食していた。理由欄には「寮対応」とだけある。その前の日は補食を受け取っていない。さらに前の日の昼食は、通常。

 

 

 

それだけだった。それだけでは、何も分からない。

 

 

 

風邪かもしれないし、練習時間がずれたのかもしれない。気分が悪かったのか、あるいは友達と外で食べたのか。欠食表は万能の理由書ではない。

 

 

 

ただ、三枝は別の表も開いた。

 

 

 

医務室との情報共有の表だった。先月から、その鹿毛の子の名前が、何度か記録に上がっていた。膝の違和感、要観察。練習の負荷調整。再検査、要経過観察。短い言葉が、月をまたいで並んでいた。

 

 

 

怪我そのものは、軽度の部類だった。だが、軽度であっても、繰り返される怪我は別の意味を持つ。中距離で走り続けるには、膝が持たない。それは、本人もトレーナーも、もう分かっているはずだった。

 

 

 

引退、という言葉は、まだどこにも書かれていない。だが、書かれない情報の意味を、三枝は知っていた。

 

 

 

医務室は、引退に関わる情報を、栄養士には早めには回さない。出走表の調整や、寮の引き継ぎが先に動く。栄養士が知るのは、たいてい一番最後だ。それまでに、彼女たちの食事は、すでに少しずつ変わっている。

 

 

 

三枝は、午前のうちに寮の担当へ短い連絡を入れた。

 

 

 

『二年の鹿毛の子、昨日夕食欠食。今日の朝は来ていますか』

 

 

 

少しして、返事が届く。

 

 

 

『来ています。朝は食堂に行きました。昨夜は部屋でパン少し』

 

 

 

パン少し。

 

 

 

それは栄養管理の言葉としてはあまりに曖昧だった。何のパンかも、どれくらいの量かも分からない。けれど、寮の担当がわざわざ「少し」と書き添えたということは、本当にそれしか口にできなかったのだろう。

 

 

 

三枝は少し迷ってから、もう一通、寮の担当にメッセージを送った。

 

 

 

『何かありましたか』

 

 

 

返事は、しばらく来なかった。

 

 

 

昼前になって、ようやく返事が届いた。

 

 

 

『今のところ、まだ動きはありません。本人の意向待ちです』

 

 

 

それだけだった。

 

 

 

「動き」と書かれている。「引退」とは書かれていない。だが、三枝には十分だった。

 

 

 

三枝は、昼の小鉢を一つ変更すべきか考え、そして、やめた。

 

 

 

全体の献立を一人のために動かすことはできない。個別対応の指示が出ているわけでも、医務室からの連絡があるわけでもない。栄養士が勝手に「この子は食べられない」と決めつけるのは越権行為だ。

 

 

 

だから、献立は変えなかった。その代わり、厨房の白いボードの端に、小さく書き残した。

 

 

 

――汁物、具やや小さめ可。

 

 

 

誰のためとは、書かなかった。

 

 

 

 

 

 

昼の食堂は、朝よりも速い。

 

 

 

列が伸び、トレイが流れる。ご飯、主菜、小鉢、汁物、果物。声が幾重にも重なり、厨房の奥から「魚あと十五!」と声が飛ぶ。配膳台の下では、空になったバットが小気味いい音を立てて重なっていく。

 

 

 

小田は朝と同じ場所に立っていた。

 

 

 

鹿毛の子は、昼にも来た。今度は友達と一緒だった。笑っていた。その笑顔を見て、小田は少し迷った。朝の声の硬さを、自分が気にしすぎていただけかもしれない。

 

 

 

「ご飯は?」

 

 

 

「普通で」

 

 

 

朝より、声は滑らかだった。

 

 

 

小田は普通によそった。今度は、いつもの普通だった。茶碗の縁のすぐ下まで、しっかりと米が入る。鹿毛の子はそれを見て、ほんの一瞬だけ目を伏せた。隣で友達が何かを言い、鹿毛の子はまた笑った。

 

 

 

笑ったので、小田は何も言わなかった。

 

 

 

次の子が来た。「少なめでお願いします」

 

 

 

「はい」

 

 

 

鹿毛の子の背中は、すぐに人混みの向こうへ消えた。

 

 

 

下膳の皿は、返却口から洗い場へ流れる。そこから先は、調理場とは切り離された別の場所だ。

 

 

 

食べ終わったトレイが滑り込んでくる。箸とスプーンを分け、コップを外し、皿の残飯を落とす。椀を重ね、茶碗を重ねて洗浄機へ放り込む。流れが詰まりそうになれば、手前のトレイを少しずらす。

 

 

 

洗い場の大塚に、それが誰の皿かは分からない。分かるはずがなかった。

 

 

 

返却口に置かれた時点で、トレイはもう、誰のものでもなくなっている。何より、洗い場には顔を見る余裕などない。皿はただ来る。来たものを、機械的に流す。

 

 

 

米が残っている茶碗は重い。汁物が残っている椀は、持ち上げたときに重く揺れる。

 

 

 

それでも、大塚はその場で何かを判断するわけではないし、調理場へ声を飛ばすこともない。汚れた食器を扱う場所と、食べ物を作る場所は厳格に分けられている。大塚の手袋は濡れ、袖口には水が跳ねている。ここで拾った気配を、そのままカウンターへ持っていくことはできない。

 

 

 

昼のピークが終わってベルトコンベアが止まったあと、大塚は残菜の容器を見た。

 

 

 

昨日より、少し重い気がした。気がした、というだけだ。量はあとで計量され、大まかな数字の記録になる。誰が残したのかは、もう誰にも分からない。

 

 

 

それでいい、と大塚は思う。

 

 

 

洗い場に戻ってくるものは、個人の話ではなくなっている。環境としての食堂全体が、どこかで少しだけ食べきれなかった――その事実だけが、静かに底に沈んでいる。

 

 

 

 

 

 

寮の担当は、食堂の中にはいなかった。

 

 

 

夕方、寮の共有スペースで、あの鹿毛の子が自販機の前に立っているのを見かけた。買うかどうか迷っているようだった。財布を出し、戻し、また出す。後ろから友達が来て何か声をかけると、彼女は首を振って、何も買わずに部屋へ戻っていった。

 

 

 

寮の担当は、それを見ただけだった。

 

 

 

声をかけるほどではない。体調不良と決まったわけでもなく、食事を取っていないわけでもない。昼は食堂に行っているし、練習も休んでいない。

 

 

 

担当は、彼女が今週、トレーナーと長く話していたことを知っていた。先週も、その前の週も。話の内容は知らない。だが、寮の廊下で、彼女が一度だけ立ち止まって、窓の外を長く見ていたのを、見かけた。それは、何かを決めようとしている子の姿だった。

 

 

 

それでも、夜の巡回のとき、担当はその部屋の前で少しだけ足を止めた。

 

 

 

中から声が聞こえる。友達と通話しているのか、動画を見ているのか。笑い声でも、泣き声でもない、普通の声だった。

 

 

 

担当はノックしなかった。ノックすれば「用事」になってしまう。用事にすれば、相手は構えて返事をしなければならない。そこまでのことではない。

 

 

 

共有スペースに戻ってから、担当は栄養士の三枝に短くメッセージを送った。

 

 

 

『昼は食べたようです。夜はこれから確認』

 

 

 

少し迷って、もう一文足した。

 

 

 

『自販機前で迷って買わず』

 

 

 

送ってから、余計だったかもしれないと思ったが、消さなかった。

 

 

 

夕食の前に、三枝はその連絡を読んだ。

 

 

 

自販機前で迷って買わず――それは栄養指導の資料にはならない、曖昧すぎる報告だ。だが、食べたいのか食べたくないのか、自分でも決められない時間があったことだけは、痛いほど伝わった。

 

 

 

三枝は厨房へ足を運んだ。

 

 

 

「今日の汁物、少し多めに残せますか」

 

 

 

野崎が鍋をかき混ぜながら振り返る。「具か?」

 

 

 

「汁の方です。薄めないで、量だけ」

 

 

 

「はいはい、無理じゃないよ。ちょっと余裕見とく」

 

 

 

野崎は誰のためかは聞かなかった。聞かなくても、必要なことだけ分かればいい。

 

 

 

三枝が厨房を出ていったあと、野崎は少しの間、鍋の前に立っていた。

 

 

 

今週で、何度目だろうか、と思った。三枝が、こういう頼みを持ってくるのは。月曜にも一度あった。水曜にも、似たような頼みがあった。

 

 

 

今週、どこかの一人が、引退を決めようとしている。

 

 

 

名前は、野崎は知らない。三枝も口にしない。それでいい。野崎の仕事は、米を炊くことと、汁物を作ることと、明日の段取りを決めることと、若いスタッフに教えることと、発注表に判子を押すことだ。誰が何を食べられないかは、野崎の領域ではない。

 

 

 

ただ、その「誰か」がいる週は、釜の減り方が少しだけ違う。

 

 

 

三十年で、何度も見てきた。

 

 

 

夕食の列に、鹿毛の子は最後の方に現れた。一人だった。

 

 

 

小田は朝のことも、昼に普通盛りを受け取ったあとに少し目を伏せたことも覚えていた。だが、それを一つの勝手な物語にしてはいけない、と自分を戒めた。

 

 

 

朝は朝。昼は昼。今は夕方。同じ子でも、毎回違う。

 

 

 

「ご飯は?」

 

 

 

小田はいつも通り聞いた。鹿毛の子は、少し間を置いた。

 

 

 

「普通で」

 

 

 

朝よりも、昼よりも、声が小さかった。

 

 

 

小田は普通によそった。今度は、ほんの少しだけ少なめの普通。普通と少なめの境界線。言われなければ誰も気づかない量。自分でもなぜそうしたのか説明できない。

 

 

 

鹿毛の子は茶碗を見た。

 

 

 

「少ないですか」小田は声を落として聞いた。

 

 

 

「いえ」鹿毛の子は小さく首を振った。「これでいいです」

 

 

 

汁物の場所へ進むと、別のスタッフが椀を差し出した。

 

 

 

「熱いよ。具、少し小さいの入れといたから」

 

 

 

鹿毛の子は、少しだけ顔を上げた。

 

 

 

「……ありがとうございます」

 

 

 

そうして、席へ向かった。

 

 

 

小田はすぐに、次の子に向き直る。「ご飯は?」

 

 

 

「大盛りで!」

 

 

 

「はい」

 

 

 

列は続く。

 

 

 

 

 

 

夕食の返却は、昼より速い。練習後のウマ娘たちはまとまって食べ、まとまって返しに来る。洗い場では顔も名前も消え、ただ皿だけが流れていく。

 

 

 

その日は、汁物の椀がよく空になって戻った。

 

 

 

それはすぐには誰にも伝わらない。ただ、片づけの最後に、汁物の残りがいつもより少ないことを大塚が確認しただけだ。容器を洗い、床を流し、記録用紙に短く書く。

 

 

 

――汁物残、少。

 

 

 

それだけだった。その記録を栄養士が見るのは翌朝になる。そのときにはもう、誰がどの椀を空にしたのかは分からない。

 

 

 

夜の片づけが終わると、厨房は急に広くなる。

 

 

 

大きな鍋を洗う音が響き、床に水が流される。野崎は白いボードの前に立ち、翌朝の米の量を考えた。

 

 

 

「明日、戻します?」若いスタッフが聞いた。

 

 

 

「何を」

 

 

 

「米。一升半増やした分」

 

 

 

野崎は少し考えた。昼は米が残り気味だった。夕方はそうでもなかった。汁物はよく出たが、小鉢は残った。合同練習は明日もある。模擬レースは午後。寮からは夜食の追加申請が二件。どれも決定的な数字ではない。

 

 

 

「一升だけ増やす」野崎は言った。

 

 

 

「半、減らすんですね」

 

 

 

「半だけ」

 

 

 

若いスタッフは「はい」と書いた。

 

 

 

ボードの隅には、三枝が昼に書いた「汁物、具やや小さめ可」がまだ残っていた。野崎はそれを消そうとして、手を止めた。明日の朝も使うかもしれない。

 

 

 

黒いノートを開く。

 

 

 

『米、明日一升増。味噌、発注。二番冷蔵庫、音あり。汁物、具小さめ対応可』

 

 

 

そこまで書いて、ペンを置いた。誰のことも書かなかった。書くほどのことではない。書かなくても、明日の手は少し覚えている。

 

 

 

次の日の朝、鹿毛の子は少し遅れて来た。列の後ろの方に並んでいる。今日は友達と一緒だった。

 

 

 

「おはようございます」

 

 

 

「おはよう」

 

 

 

昨日より、声が少しだけ戻っていた。

 

 

 

「ご飯は?」

 

 

 

鹿毛の子は、茶碗を見つめ、少し考えてから言った。

 

 

 

「普通で」

 

 

 

「普通ね」

 

 

 

小田は普通によそった。昨日の夕方より少し多く、昼より少し少ない。そういう普通。言葉にすればおかしいが、食堂の「普通」はいつも同じではない。茶碗を持つ手と、列の速さと、その日の空気で、少しずつ形を変える。

 

 

 

鹿毛の子は茶碗を受け取り、何も言わずに席へ向かった。小田はどこに座ったかまでは見なかった。次の子がもう来ていた。

 

 

 

昼前、栄養士の三枝は前日の記録を見た。

 

 

 

『主食残、やや多。小鉢残、やや多。汁物残、少』

 

 

 

並んでいるからといって、理由が一つだとは限らない。主食が残ったのは練習の負荷、小鉢は味つけ、汁物は寒さのせいかもしれない。

 

 

 

三枝はその数字を見ただけで、欠食表を開いた。鹿毛の子の欄に印はなかった。

 

 

 

朝、昼、ともに通常。補食申請なし。医務室からの連絡なし。

 

 

 

何も書くことはなかった。書くことがないというのは、何も起きていないという意味ではない。ただ、表には出てこないだけだ。出てこないものは、扱えない。けれど、存在しないわけではない。

 

 

 

三枝は、白いボードの「汁物、具やや小さめ可」を指で消した。今日の欄からは、いったん消していいと思っただけだった。

 

 

 

三日後、医務室から正式な連絡が回ってきた。

 

 

 

中距離、二年、鹿毛。競走面、活動終了。来週から個別対応、リハビリ期メニュー移行。

 

 

 

三枝はその連絡を読み、欠食表のその子の欄を少し見た。先週からの記録が、点々と並んでいた。欠食、補食なし、欠食、通常、欠食。

 

 

 

連絡を読む前から、表は何かを示していた。読んだ今、ようやくそれが言葉になった。

 

 

 

三枝はパソコンを閉じて、厨房へ歩いた。

 

 

 

「中距離の鹿毛の子、来週から個別対応です。リハビリ期に入ります」

 

 

 

野崎は鍋から振り返った。

 

 

 

「分かった」

 

 

 

それだけだった。

 

 

 

野崎は、名前は聞かなかった。

 

 

 

聞かなくても、もう知っていた。先週からの釜の減り方が、その子の影だった。

 

 

 

 

 

 

食堂には、誰か一人の目はない。

 

 

 

盛り付ける人は、返ってくる皿を見ない。

 

 

 

洗い場の人は、誰がその皿を使ったのか知らない。

 

 

 

栄養士は表を見るが、カウンターでの声までは聞こえない。

 

 

 

寮の担当は、食堂の列を見ていない。

 

 

 

厨房の責任者は、米の量を決めるが、その茶碗が誰の前に置かれたかは知らない。

 

 

 

誰も、全部は見ていない。

 

 

 

それでも、米を炊き、味噌汁を作り、茶碗の量をほんの少しだけ変え、具を小さくする。声をかける。あるいは、かけない。そして、次の子に向き直る。

 

 

 

それだけで、一日が回る。

 

 

 

夕方、鹿毛の子は食堂の出口で友達を待っていた。窓の外では、別のウマ娘たちがまだ走っている。照明の下で、影が何本も伸びていた。

 

 

 

小田はカウンターの片づけをしながら、その姿を一度だけ見た。声はかけなかった。

 

 

 

鹿毛の子は、少しして友達に呼ばれ、「うん」と答えて食堂を出ていった。その背中が元気だったのか、まだ少し重かったのか、小田には分からなかった。分からないまま、空になったご飯の保温釜を奥へ運んだ。

 

 

 

洗い場では大塚がベルトを止め、三枝は翌日の献立表を確認し、野崎は米びつの残りを見ていた。それぞれの仕事が、それぞれの場所で続いていた。

 

 

 

夜の厨房で、野崎は最後に白いボードを見た。

 

 

 

「明日、どうします?」若いスタッフが聞いた。

 

 

 

野崎は、ボードの前で少し黙った。

 

 

 

雨の日は、朝の列が少し遅れる。来週から個別対応に入る子が一人いる。どれも小さすぎて、理由にはならない。けれど、明日の米は決めなければならない。

 

 

 

「今日と同じで」野崎は言った。

 

 

 

「増やさないんですか」

 

 

 

「増やさない」

 

 

 

若いスタッフは「分かりました」と書いた。

 

 

 

野崎は黒いノートに『米、同量』と書き、その横に少しだけ間を空けた。何か書くことがあるような気がしたが、結局、書かなかった。

 

 

 

ノートを閉じ、換気扇を止めると、厨房は急に静かになった。

 

 

 

遠くで、グラウンドの照明が一つ消え、もう一つ、少し遅れて消えた。

 

 

 

野崎は裏口の鍵を閉めた。

 

 

 

明日の朝、また米を炊く。誰が食べるかは、そのときまで分からない。それでも、米は炊いておく。

 

 

 

三十年、そうやってきた。

 

 

 

これからも、たぶん、そうやっていく。

 

 

 

食堂は、そういう場所だった。

 

 

 

 

 




番外編も、こちらのお話しを持って完結となります。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。


完結に際しての活動報告

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