まだ、走っている   作:監督

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余白 : 歩いた帰り

 

 

『少し歩きませんか』

 

送信したあとで、ミナトはしばらくスマートフォンの画面を見ていた。

 

指先は、まだ送信ボタンの上に残っているような気がした。もう電波に乗せて送ってしまったのに、少し力を入れれば言葉を取り戻せるような、そんな変な感覚があった。画面の無機質な光が、少しだけ早くなったミナトの瞬きを照らしていた。

 

返事は、思っていたより早く来た。

 

『いいぞ。どこにする』

 

その文字の短さに、ミナトは少し息を止めた。

 

自分だけが置いていかれたわけではないのだと、そこで分かった。ずっと何もなかった空白の時間は、相手が自分のことを忘れて、過去にしてしまったからではなかった。たぶん、向こうも同じように、連絡する理由としない理由の間でずっと立ち止まっていただけだった。

 

昔なら、場所はすぐに決められた。

 

競技場の正門前。

河川敷の折り返し地点。

商店街の角にある定食屋。

練習帰りに寄ったコンビニの前。

 

どこを選んでも、走っていたころの自分が少し混じる気がした。かつての日常が染み付いた場所を指定すれば、あの頃の続きだと錯覚してしまいそうだった。

 

ミナトは画面の上で指を止めたまま、少しだけ迷った。

 

それから、打った。

 

『駅の西口でお願いします』

 

返事は、またすぐに来た。

 

『分かった』

 

それだけだった。

 

絵文字も、余計な言葉もなかった。昔からそういう人だった。必要なことだけを、必要な温度で短く言う。その短さに、何度も助けられた。何度も腹を立てた。何度も、置いていかれないように必死で走った。画面の文字が、記憶の中の低い声で再生された。

 

当日、ミナトは予定より十五分早く着いた。

 

西口の太い柱のそばに立って、行き交う人を眺める。学校帰りの学生の群れ。夕飯の買い物袋を持った年配の女性。疲れた顔でイヤホンをつけた会社員。誰もミナトを見ていないようで、時折、誰かの視線が少しだけ耳に触れて通り過ぎていく。

 

気づかれたのかもしれない。

気づかれなかったのかもしれない。

 

前なら、そのどちらにも少し傷ついていた。

 

忘れられるのは怖かった。

けれど、覚えられていることも、同じくらい怖かった。

 

今の自分ではなく、走っていたころの自分だけを見られている気がした。

 

「もう走らないのか」と言われなくても、その言葉を先に受け取ってしまうようなところがあった。

 

だから、人の視線が少し耳に触れるだけで、胸の奥が固くなった。

 

今は、少し違った。風が抜ける駅前の雑踏の中で、ただ立って人を待つということが、少しだけ自然にできるようになっていた。

 

改札のほうから、見慣れた歩き方の人が来た。

 

歩幅が大きく、少しだけ前傾姿勢の歩き方。人混みを避けるときの肩の動かし方まで、記憶のままだった。だが、着ているものは違った。

 

いつも着ていたチームのジャージではなかった。紺色の上着に、何のロゴも入っていない無地のシャツ。それは「トレーナー」というより、ただの待ち合わせに来た一人の大人の男の姿だった。

 

ミナトは、軽く頭を下げた。

 

「お久しぶりです」

 

トレーナーは、ミナトの数歩手前で少しだけ立ち止まった。

 

「久しぶりだな」

 

声は変わっていなかった。

 

それだけで、ミナトは少し困った。変わっていないことにひどく安心して、同時に、あの頃から何も変わっていないわけではないという現実の輪郭を、はっきりと分かってしまったからだ。

 

トレーナーの視線が、ほんの一瞬だけ、ミナトの足元を通った。

 

職業病のようなものだ。体重の乗り方、筋肉の張り、怪我の兆候。かつて毎日見られていたその視線は、今はもう必要のないものだった。トレーナー自身もそれに気づいたのか、視線はすぐにミナトの顔に戻った。

 

けれど、足のことには何も言わなかった。

 

「飯、食ったか」

 

最初の言葉がそれだったので、ミナトは張り詰めていた肩からふっと力が抜け、思わず笑いそうになった。

 

「まだです」

 

「なら、何か食べるか」

 

「練習後みたいですね」

 

口にしてから、少しだけしまったと思った。無意識のうちに、かつての時間軸に自分から触れてしまっていた。

 

トレーナーも、すぐには返さなかった。

 

駅前のロータリーを、路線バスがゆっくりと曲がっていく。排気の乾いた匂いが、夕方の冷え始めた空気に混じった。ミナトは少しだけ俯いた。自分の放った言葉だけが、その場に置きっぱなしになっている気がした。

 

でも、トレーナーはいつものように少しだけ眉を寄せただけだった。

 

「練習後じゃなくても、腹は減るだろ」

 

その言い方があまりにも普通で、そしてあまりにもこの人らしかったので、今度はミナトも声を出して笑った。

 

「そうですね」

 

二人は歩き出した。

 

並んで歩く距離と位置を、ミナトは少し迷った。昔は、トレーナーの斜め後ろ、半歩下がった位置を歩くことが多かった。指示を聞きやすかったし、何より、信号の先、曲がる角、練習場までの道、どこへ向かうのかをいつもトレーナーが先に見て、導いてくれていたからだ。

 

今日は、少し横に立った。半歩後ろではなく、並ぶ位置。

 

トレーナーは、それに気づいたようだった。肩越しにちらりとミナトを見た。けれど、何も言わなかった。ミナトの歩幅に合わせて、少しだけ歩く速度を落としてくれた。

 

気がつくと、二人の足は商店街のほうへ向かっていた。

連絡を送るとき、ミナトはこういう場所を避けようとした。けれど、こうして並んで歩いていると、そのこだわりが少しだけ可笑しく思える。

避けたかったのは、たぶん、場所ではなかった。場所に試される自分のほうだった。

 

駅から商店街へ入ると、アーケードの看板の明かりが増えた。八百屋の前には手書きの特売の札が出ていて、夕飯の買い物客で賑わっている。総菜屋のほうからは、油で揚げるきつね色の匂いが漂ってきた。

 

少し進んだ先、古い靴屋の閉まったシャッターに、地元のウマ娘を応援する色褪せたポスターがまだ貼られていた。

 

その隅に、小さくミナトの名前もあった。

 

新しいポスターではなかった。雨風に晒されて端が少し浮き、色も陽に焼けて薄くなっている。写真の中で走っているミナトは、今より少し髪が短く、前だけを見据える目つきが鋭く強かった。

 

トレーナーが、そのポスターに気づいて足を止めた。

 

ミナトも、気づかないふりはしなかった。隣に並んで、色褪せた自分の残像を見た。

 

「まだ貼ってあるんですね」

 

「そうだな」

 

「剥がし忘れでしょうか」

 

「さあな」

 

トレーナーは、それ以上言わなかった。

 

昔なら、そこで何か言ってほしかったかもしれない。「お前はまだ応援されている」とか、「誰も忘れていない」とか、そういう前向きな慰めの言葉を。

 

けれど今は、何も言われないことがありがたかった。無理に意味づけをせず、ただそこにあるものとして見てくれる。

 

ポスターは貼ってある。

 

それだけでよかった。

 

ポスターから視線を外して、二人はまた少しだけ歩いた。

 

「何か、食いたいものはあるか」

 

トレーナーが、前を向いたまま聞いた。

 

ミナトは少しだけ考えた。現役のころに我慢していたものは、いくつもあった。揚げ物、菓子パン、甘いジュース。

けれど、今ここで口に出すには、どれも少し重い気がした。反動だと思われるのも、「もう走らないから」と取られるのも、どちらも嫌だった。

 

だから、軽く言った。

 

「歩きながら、つまめるものがいいです」

 

「そうか」

 

総菜屋の油の匂いが、また濃く流れてきた。ミナトの足は、気づくと少しだけそちらに向いていた。ガラスケースの前に立ち、並んだ揚げ物を眺める。コロッケ、メンチカツ、唐揚げ。値段の手書きの札が、少し滲んでいる。

 

ミナトが指を伸ばしかけたとき、店主が顔を上げた。

 

「あれ、ミナトちゃん?」

 

声をかけられて、ミナトは一瞬だけ肩が止まった。それから、軽く耳の角度を戻す。咄嗟に身構える癖は、まだ抜けきっていなかった。

 

店主は、揚げ網のそばに置いていたトングを脇に寄せ、前掛けで手を拭いた。記憶の中より少しだけ髪に白いものが混じっていたが、笑い皺の寄り方は変わっていなかった。

 

「こんばんは」

 

「久しぶりだねえ。元気にしてた?」

 

声が、ミナトの耳の付け根に小さく触れた。

いつもなら、答えるまでに一呼吸要る種類の質問だった。今日は、その一呼吸が要らなかった。

 

「はい。まあ、ぼちぼちです」

 

店主は、ミナトの隣に立つトレーナーのほうを見て、少しだけ目を細めた。記憶の糸を手繰り寄せるような間があった。

 

「ああ、先生も。懐かしいね。よく二人でコロッケ買ってたよね。いつもミナトちゃんがいっぱい食べるからって」

 

「先生じゃありません」

 

ミナトが反射的に訂正すると、店主は大きな声で笑った。

 

「そうだったそうだった。トレーナーさんだ。ごめんごめん」

 

トレーナーは、表情を変えずに軽く頭を下げただけだった。

 

店主はトングを手に取り、ガラスケースの中の揚げ物を覗き込んだ。

 

「今日は走ってきた帰りじゃないの?」

 

ミナトの耳が、少しだけ後ろに引いた。悪気のない言葉だと分かっている。それでも、かつての日常を突きつけられる質問だった。

 

トレーナーは何も言わなかった。ミナトの代わりに答えることも、庇うこともしなかった。だからミナトが、店主の顔をまっすぐ見て答えた。

 

「今日は走りません」

 

言葉は、思っていたより軽く、自然に口から出た。無理をした声ではなかった。

 

店主は少しだけ「あ」と口を開けて、状況を察したのか、それからすぐにカラリと笑った。

 

「そっか。じゃあ、歩いた帰りだね」

 

「はい」

 

そう答えながら、ミナトはカウンターのほうに視線を戻した。

 

「コロッケを二つください」

 

隣でトレーナーが、何か言いかけた。ミナトはそれより一拍早く、続けた。

 

「二人分です」

 

店主は少しだけ眉を上げて、それから嬉しそうに笑った。

 

「気が利くねえ。じゃあ、ミナトちゃんのほうにもう一個おまけしとくよ。歩くのにも腹は減るからさ」

 

ミナトは、少しだけ困って隣を見た。

 

「いえ、ちゃんと払います」

 

「いいのいいの。昔からのやつ」

 

店主は、油染みのついた紙袋を二つ広げ、片方にコロッケを二つ、もう片方に一つ入れた。トレーナーが無言で財布を出そうとしたが、ミナトのほうが早く小銭入れを開け、硬貨をカウンターに置いた。

 

「今日は、私が」

 

トレーナーの手が止まった。

 

ミナトは両方の紙袋を受け取り、片方をトレーナーに差し出した。

 

「前は、よく払ってもらっていたので」

 

「そうだったか」

 

「そうでした」

 

「覚えてないな」

 

「そういうところは、覚えていてください」

 

少しだけ、昔の言い方になった。文句を言いながらも、頼りにしきっていた頃の口調。

 

トレーナーは小さく息をついて、紙袋を受け取った。揚げたての熱が、茶色い紙越しに指へ伝ってくる。二人は店先を離れ、商店街の端にある小さな広場までゆっくりと歩いた。

 

広場の端にある木製のベンチは空いていた。

 

トレーナーが座る前に、ミナトは一度だけ自分の足元を見た。コンクリートと土の境界にある、数センチの段差。痛むわけではない。けれど、現役のころのように何も考えずに踏み越えるかというと、今は少しだけ違う。体が、自分のペースを覚え始めている。

ゆっくりと腰を下ろすと、少しだけ息が楽になった。

 

トレーナーは、ミナトの隣に腰を下ろしてから、紙袋を開けずに言った。

 

「無理はしてないか」

 

ミナトは、自分の紙袋を開けながら、素直に答えた。

 

「今日は、してないです」

 

「今日は、か」

 

「今もたまに、します」

 

「そうか」

 

叱られなかった。

 

それが少し、不思議だった。

 

現役のころなら、そこから睡眠時間、食事のバランス、毎日のケア、リハビリのメニュー、全部細かく聞かれたはずだった。無理をするなと厳しく言われ、それでも勝つために必要な無理はさせられた。ミナトも、その厳しさを自分への愛情と期待だと思い、当たり前のように受け入れていた。

 

今は、その続きではなかった。彼はもう、ミナトの体を管理する人間ではない。

 

トレーナーは、コロッケを半分ほど食べてから、正面の広場を見たまま言った。

 

「連絡しようとは思ってた」

 

ミナトは、すぐには答えなかった。

 

広場の向こうで、小さな子どもがアスファルトに引かれた白線の上を歩いていた。落ちないように、両手を左右に広げてバランスをとっている。母親が少し離れた場所から、微笑みながら見守っていた。子どもは一歩ずつ、慎重に、世界のすべてがその線の上にあるかのように進んでいた。

 

「私も、しようとは思っていました」

 

「そうか」

 

「でも、できませんでした」

 

「俺も、できなかった」

 

ミナトは、コロッケをひと口食べた。衣がサクッと音を立てた。中はまだ熱かった。舌の上で、油のコクとじゃがいもの素朴な甘さが広がった。懐かしい味だった。徹底した栄養管理の下では、いつでも好きに食べられるものではなかった。だからこそ、許された日の味はよく覚えていた。

 

「トレーナーさんに連絡したら、たぶん、私は元気なふりをしたと思います」

 

トレーナーは、前を見たまま相槌を打たなかった。

 

「そうか」

 

「でも、元気じゃないって言うのも、嫌でした」

 

「うん」

 

「走りたいって言ったら、困らせると思いました。走りたくないって言ったら、もっと困らせると思いました」

 

そこで、ミナトは少し自嘲するように笑った。

 

「どちらでも、困らせると思っていました」

 

トレーナーは、食べ終えた紙袋を膝の上で小さく、きれいに折り畳んだ。その几帳面な動作も、昔のままだった。

 

「俺は、会いに行ったら、また走れと言っているように見えると思った」

 

ミナトは、隣の横顔を見た。

 

トレーナーは、こちらを見ていなかった。視線は、広場の白線の上を一生懸命に歩く子どもに注がれていた。

 

「そんなつもりはなくてもな。俺がいるだけで、そういう顔になるかもしれないと思った」

 

「そういう顔、してましたか」

 

「してた」

 

即答だった。

 

ミナトは、少しだけ口を開けて、反論の言葉を探し、それから諦めて口を閉じた。見透かされていた。

 

「ひどいですね」

 

「昔からだ」

 

「そこは否定してください」

 

「嘘はよくない」

 

今度は、二人とも少し声に出して笑った。冷えつつある夕暮れの広場に、その笑い声が小さく溶けていった。

 

子どもが白線の終わりまで歩き切って、「ゴール!」と母親に手を振っていた。

 

線はただの線だった。踏み外しても何も起きない、どこにでもあるアスファルトの模様。けれど、その子にとっては、今だけは絶対に落ちてはいけない細く大切な道だった。かつてのミナトにとっての、レースと同じように。

 

ミナトは、その様子から目を離さずに言った。

 

「この前、自分の名前が、思っていたよりいろんなところに残っているのを見ました」

 

トレーナーは、静かに聞いていた。

 

「ポスターとか、店の人の記憶とか、誰かの会話とか。ちゃんとした記録じゃないものばかりです。でも、そういうところにも残っていました」

 

「そうか」

 

「走れなくなったら、全部なくなると思っていました」

 

言葉にすると、それは少し幼く聞こえた。でも、たぶん本当だった。

 

「走っていない私は、私じゃないみたいで」

 

トレーナーは、そこで初めて顔を向け、ミナトを見た。

 

ミナトは、正面を向いたまま続けた。

 

「でも、そうじゃなかったみたいです」

 

それ以上は言わなかった。自分でもまだ完全に整理できているわけではない。ただ、桐生の研究室での日々や、秋月という記者の眼差しを通じて、少しずつ輪郭を取り戻しているものがあった。

 

トレーナーも、それ以上は聞かなかった。

 

しばらく、二人で無言のまま広場を見ていた。夕方の明かりが、街灯や店の看板のネオンに少しずつ勝てなくなっていく。家路を急ぐ人の足音が増えたり、減ったりする。誰かが自転車のベルをチリンと鳴らして走り去った。

 

「よかったな」

 

トレーナーが言った。

 

短い言葉だった。重い感傷も、過剰な激励もない。

 

それだけだった。

 

ミナトは、少しだけ冷たくなった空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 

「はい」

 

その返事も、短くなった。

 

十分だった。これ以上の言葉は、今の二人には必要なかった。

 

帰り道、すっかり暗くなった駅の近くまで戻ると、トレーナーが立ち止まって言った。

 

「送るか」

 

「大丈夫です」

 

「そうか」

 

「でも、改札までは一緒に歩いてください」

 

トレーナーは、少しだけ目を細め、小さく頷いた。

 

「分かった」

 

改札までの道は、昔よりずっと短く感じた。

 

昔は、練習の反省をしながら歩いた道だった。次のレースの話をした。フォームの修正点、食事のタンパク質量、ライバルの動向、明日の天気。走ることに関係のない会話をしていたつもりでも、最後は必ず、どうやって速く走るかという結論に戻っていった。

 

今日は、戻らなかった。他愛もない話が、他愛もないまま終わっていく。

 

改札の数十メートル前で、ミナトは立ち止まった。

 

「今日は、ありがとうございました」

 

「こっちこそ」

 

「また連絡します」

 

言ってから、少しだけ考えた。

 

それでは、きれいすぎる気がした。

 

社交辞令のような「また」という言葉だけでは、今まで空いてしまった途方もない時間をごまかしているようにも思えた。

 

だから、まっすぐに相手の目を見て言い直した。

 

「今度は、もう少し早く、こっちから連絡します」

 

トレーナーは、少しだけ口角を上げて笑った。

 

「俺も、もう少し早く連絡する」

 

「はい」

 

「飯の話でもいいしな」

 

「それは、トレーナーさんらしいですね」

 

「食ってないと、だいたい悪いほうに考える」

 

「昔も、よく言ってました」

 

「今も言う」

 

ミナトは、少し笑った。耳が自然に立ち上がった。

 

昔なら、その言葉の先には過酷な練習があった。徹底した体調管理があって、絶対に負けられない次のレースがあって、走るための生活のすべてがあった。

 

今は、そこには戻らなかった。

 

ただ、自分がちゃんとご飯を食べたかどうかを気にしてくれる人がいる。

 

それだけで、少し足元が軽くなった気がした。

 

「じゃあ、今度は食べたものの写真でも送ります」

 

「揚げ物ばかりなら注意する」

 

「そこは見逃してください」

 

「見逃さない」

 

そう真顔で言われて、ミナトはまた笑った。

 

改札の向こうから、電車の到着を知らせる電子音が聞こえてきた。

 

「行きます」

 

「ああ」

 

ミナトはICカードをタッチして、改札を通った。

 

数歩進んで振り返ると、トレーナーはまだそこにいた。昔のように、次の指示を出すためではない。レースを見届けるためでも、スタート地点へ向かう背中を押すためでもなかった。

 

ただ、そこにいた。

 

ミナトは軽く手を上げた。

 

トレーナーも、ポケットから手を出して、同じように軽く手を上げた。

 

ホームに上がると、上着のポケットの中でスマートフォンが短く震えた。

 

『コロッケ代、次は俺が払う』

 

ミナトは、画面を見て、すぐには返さなかった。

 

今度は、返事に迷っているわけではなかった。

 

少しだけ、丁寧に言葉を選びたかったからだ。指先が、キーボードの上で少しだけ踊るように動いた。

 

『次があるなら、考えておきます』

 

送信してから、もう一文足した。

 

『今日は、こっちから連絡できてよかったです』

 

返事は、少し間を置いて来た。

 

『俺もだ』

 

それだけだった。

 

短い返事だった。昔なら、もう少しほしいと思ったかもしれない。今日は、その短さで足りた。

 

ミナトは画面を閉じ、スマートフォンをポケットにしまった。

 

ホームに、滑り込んでくる電車の風が入ってきた。ミナトの耳の先が、少しだけ風に揺れた。ターフを切り裂いて走り出すための風ではなかった。ただの、日常を運ぶ冷たい風だった。

 

それでも、よかった。

 

 




本編では、秋月の視点から少し遠くにミナトを書いてきました。
この「余白」では、ミナトにとって一番近かった人との関係を書きました。

走っていた頃を知る人と、走らなくなったあとに、もう一度並んで歩く話です。
ミナトを、最後にもう少しだけ、読者の皆さんの近くへ戻してあげたかったのだと思います。

これで本当の本当に完結です。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


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