最後の曲が終わった。
音が消えて、一瞬だけ間が空いた。
そのあと、拍手が来た。
前の方から広がって、横へ流れて、少し遅れて後ろの席まで届いてくる。波というより、火が回るみたいだった。誰かが名前を呼んだ。別の場所で歓声が上がった。ステージの上のウマ娘たちは、息を整えながら笑っている。
秋月は、それを見ていた。
見ていたつもりだった。
気づくと、自分の手も動いていた。乾いた音が、掌の間で鳴っている。
秋月は自分の手を見た。
叩いていた。
意識していなかった。気づいたら、やっていた。仕事中なら、こんなふうに手が勝手に動くことはない。観察と記録の動作は、いつも意識の下にある。だが今は、観察する前に、体が反応していた。
「秋月さん」
隣でミナトが言った。
「拍手、してますよ」
「分かってる」
「珍しいですね」
「うるさい」
ミナトが小さく笑った。
からかっているというより、まあそうなりますよ、という顔だった。秋月は少しだけ居心地が悪くなって、手を止めようとした。
けれど、周囲の拍手はまだ続いている。
一人だけやめるのも変な気がして、結局、もう何度か叩いた。
ステージの照明がゆっくり落ちていく。ウマ娘たちは袖の方へ下がりながら、何度も客席を振り返っていた。ひとりが小さく手を振ると、前の方からまた歓声が上がる。別のひとりが深く頭を下げると、拍手が少し遅れて大きくなった。
手を振る者がいる。
名前を呼ぶ者がいる。
スマートフォンを掲げたまま、画面ではなく肉眼で見ようとしている者がいる。
泣いている子もいた。笑っている子もいた。泣きながら笑っている子もいた。
誰も、すぐには動かなかった。
やがて前の方の席から、ぽつぽつと人が立ち始める。荷物をまとめる者がいる。隣の相手と顔を見合わせて笑う者がいる。ステージに向けて、もう一度だけ手を振る者がいる。
客席が、少しずつほどけていく。
秋月には、そう見えた。
レースが終わった直後のざわめきとは、少し違う。あのときは、まだ何かが前に進んでいた。次がある、という空気だった。
今はもっと柔らかい。
熱は残っている。けれど、押してくるような熱ではない。人が立ち上がっても、場内から何かが急に失われる感じはしなかった。
前の列で、若い男がスマートフォンを友人に見せていた。
「ここ撮れてる?」
「ブレてるけど、逆にいい」
「逆にって何だよ」
二人は笑って、もう一度ステージの方を見た。照明はほとんど落ちていたが、まだ完全には暗くなっていない。袖の近くで一人が振り返る。男たちは、それに気づいて慌てて手を振り返した。
少し離れた席では、親子連れが荷物をまとめていた。母親らしい女性が、子どもの膝に置かれた飲み物を取る。子どもはまだステージを見ている。女性は急かさない。片手で上着を畳みながら、子どもがこちらを向くのを待っていた。
その待ち方が、妙に自然だった。
帰らせるのではなく、戻ってくるのを待っている。
秋月には、そんなふうに見えた。
記者として、待つことには慣れている。会見が始まるのを待つ。証言者が口を開くのを待つ。判決が出るのを待つ。だが、それはたいてい、何かが動き出すのを待つ時間だった。
今、あの母親がしているのは、少し違う。
子どもが自分のタイミングで戻ってくるまで、隣にいる。
ただ、それだけだった。
「お前は、あっち側だったんだろ」
秋月は横を向かずに言った。
「はい」
「今、どういう感じだ」
ミナトは少しだけ間を置いた。
「うずきますね」
あっさり言った。
感傷というより、体の具合を報告しているような言い方だった。
「懐かしいとか、辛いとかじゃなくて?」
「それもありますけど」
ミナトは少しだけ口の端を上げた。笑いというより、苦笑に近い。
「どっちかというと、やりたい、って感じです」
「やりたい」
「見てると、体が覚えてるんで」
「怪我してから、二年経つんだろ」
「二年ちょっとです」
「それでも、か」
「そういうもんですよ」
ミナトは肩をすくめた。
軽い仕草だった。けれど、その肩には少しだけ力が入っているように見えた。
ステージの袖では、まだ何人かが客席の方を向いていた。動きはほとんどない。ただ、名残のように手を振ったり、頭を下げたりしている。そのたびに、客席のどこかが小さく応えた。
拍手は、小さくなったり、大きくなったりしながら続いていた。
秋月はその光景を目で追いながら、ふと横を見た。
ミナトの右足が、わずかに動いていた。
踏み出しかけた、というより、重心が前に移りかけたように見えた。一瞬のことで、次の瞬間には止まっていた。
そのあと、ミナトの手がほんの少し握られた。
すぐに開く。
それだけだった。
秋月は何も言わなかった。
見ていたことも、気づいたことも、口にしなかった。
ただ、その一瞬だけが妙に残った。
手帳を出すほどの出来事ではない。
だが、見なかったことにして通り過ぎるには、少しだけ引っかかる。
秋月は、その程度のものほど後で効いてくることを知っていた。
ミナトはステージを見続けていた。
拍手が小さくなると、彼女の指先が少し緩む。誰かが名前を呼ぶと、視線がそちらへ寄る。ステージの一人が振り返ると、また足先が微かに動く。
本人は気づいているのかもしれない。
気づいていないのかもしれない。
秋月には、どちらとも判断できなかった。
桐生は、少し離れた席でステージを見ていた。
何も言わない。手帳もペンも出していない。ただ、見ている。
研究者の顔ではなかった。
少なくとも、いまの桐生は、対象を採取しているようには見えない。何かを待っている。あるいは、待っているふりをしながら、ミナトの視線の動きを拾っている。
秋月はその横顔を一度見て、また前に戻した。
桐生は、ミナトの足が動いたとき、それを見ていた。手が握られたとき、それも見ていた。だが、何も言わない。注意も引かない。
ミナトは、桐生がそうしていることに気づいているのかもしれない。気づいていて、何も言わないのかもしれない。
秋月にはまだ分からなかった。ただ、二人の間には、長い時間をかけて少しずつできあがった距離があった。言葉にされたものではないのだろう。だが、確かにあった。
拍手がようやくまばらになっていく。
荷物を膝の上に置いた人が、バッグの口を閉める。隣の席の友人にスマートフォンを見せる。撮れてる、撮れてない、そんな声がする。前の列では、泣いていた子が鼻をすすりながら、隣の子と同じ画面を覗き込んでいる。
秋月は、その一つ一つを見ていた。
みな、勝手に戻っていく。
ただし、一気に戻るのではない。
手を振って、笑って、写真を確認して、もう一度ステージを見てから、少しずつ立ち上がっていく。
それが、奇妙に丁寧な動きに見えた。
「……下に降りるか」
秋月が言うと、桐生が少しだけこちらを見た。
「そうしましょう」
「なんで少し嬉しそうなんだ」
「人の流れを見るには、下の方がいいので」
それだけだった。
秋月の話だ、とは言わない。だが、秋月が何を見たがっているのかは、たぶん分かっている。
そういう顔だった。
三人は席を立った。
ミナトが立ち上がるとき、左足に一瞬だけ重心が乗りかけ、すぐに右へ逃げた。本人は気にしていないふりをしている。
桐生がそれを見ていた。
見ていたが、何も言わなかった。
秋月も、何も言わなかった。
階段を降りると、音の質が変わった。
スタンドの広がった歓声ではなく、通路の声になる。足音、笑い声、案内のアナウンス、遠くの売店の呼び込み。場内に残っていた熱が、細い流れに分かれてロビーへ向かっていく。
壁際には、すでに人が立ち止まり始めていた。階段を降りきったところで、スマートフォンを取り出す者がいる。連れを待つために、柱のそばへ寄る者がいる。小さな子どもの靴紐を結び直している父親がいる。
それぞれが、自分の都合で動いている。
なのに、全体としては乱れていなかった。
急かされている人間はいない。急がせている人間もいない。
秋月は通路の途中で立ち止まって、しばらくその様子を見ていた。
二十年、社会部で仕事をしてきて、こういう流れの場面はあまり見たことがなかった。事故現場の規制線を解いた後、被災地の避難所、選挙の開票後の会場。いずれも、人の流れには別の力学があった。早く出たい人と、まだ立ち去れない人が、別々の方向で混ざっている。今日のこの場所は、それとは違う。早く出たい人がほとんどいない。だからといって、滞っているわけでもない。
ミナトはその流れを見ていた。視線は揺れない。だが、目が少しだけ柔らかかった。勝手知ったる場所にいる人間の目だった。
走らなくなって二年が経つはずだった。それでも、こういう場所に来ると、目が変わる。家ではない。けれど、家の近くにあるどこか、という感じの目だった。
ロビーに出ると、人はまだ多かった。
ただ、スタンドにいたときのように、全員が同じ方向を向いているわけではない。撮影パネルに並ぶ人がいる。物販の袋を抱える人がいる。壁際でスマートフォンを覗き込んでいる人がいる。出口に向かう人もいる。
ばらばらになった、というより、それぞれが自分の速度で動き始めたように見えた。
天井の照明は明るかった。場内の暗さに慣れた目には、少し白すぎるくらいだった。床には人の影が重なって、伸びたり縮んだりしている。どこかで紙袋の擦れる音がした。誰かのスマートフォンから、さっきの曲の一節が小さく漏れて、すぐに止まった。
「物販、まだ間に合う?」
「先にパネル撮ろ」
「さっきの直線、動画上がるかな」
「最後の曲もよかったよね」
声が、あちこちから浮かんでくる。
秋月は少しだけ足を止めた。
レースの話と、ライブの話と、帰り道の話が、同じ調子で混ざっている。
誰も、どこからが本番でどこからが余興かなど、気にしていなかった。
近くでスタッフがケーブルを巻いていた。作業は手早いが、急いでいる感じではない。客の流れを邪魔しない場所を選び、慣れた手つきで一本ずつまとめていく。
黒いケーブルが輪になり、結束バンドで留められる。スタンドが折りたたまれ、壁際に寄せられる。スタッフは客が近づくと、作業の手を止めて少しだけ身を引いた。通り過ぎるのを待って、また同じ太さの輪を作る。
何度もやってきた動きだった。
秋月は声をかけた。
「お疲れ様です。少し聞いてもいいですか」
スタッフが振り向く。三十代くらいの女性だった。手を止めて、こちらに向き直る。作業を中断したことを苦にしている顔ではない。
「はい、何でしょう」
「今日は、まだ人が多いですね」
女性スタッフはロビーを見た。
「そうですね。写真を撮る方が多いです。物販もまだ動いてますし」
「いつもこんな感じですか」
「日によります。雨の日は早いですし、遅い時間だと電車を気にされる方も多いので」
女性は、パネルの前にできた列へ目を向けた。
「今日は皆さん、ゆっくりですね」
「レースがよかったから?」
「それもあると思います。最後の直線の話をされている方も多いですし」
ちょうど近くで、若い男が連れにスマートフォンを見せていた。
「ここ、外から来たとこ」
「ああ、ここやばかった」
そんな声が、短く流れていく。
女性は軽く笑った。
「こういう日は、列も少し長くなります。でも、皆さん楽しそうなので」
そこで別の客が、撮影パネルの列を探すように足を止めた。女性はそちらへ体を向ける。
「撮影パネルは奥の列です。最後尾は案内板のところになります」
客が礼を言って進んでいく。
女性はまたケーブルを巻き始めた。
秋月は、礼を言って少し離れた。
女性は何かを解説したわけではなかった。
ただ、人の残り方と、列の長さと、客の声を見ているだけだった。
それでも秋月には、レースが終わってライブが終わって、そこからすぐ外へ出るまでのあいだに、もう一つ薄い時間がある気がした。
誰かが写真を撮る。
誰かが物販の袋を持ち直す。
誰かが、さっきの直線をもう一度画面で探す。
それらは余興というより、今日見たものを持って帰るための手順のように見えた。
秋月はそこで、ふと自分が質問を飲み込んでいたことに気づいた。
走ったあとに歌うことを、変だと思わないのか。
聞こうと思えば聞けた。
だが、今の女性にそれを聞いたところで、たぶん少し困らせるだけだ。
彼女は答えを持っている人間ではない。ただ、この場を回している人間だった。
それで十分だった。
桐生は、少し離れたところでロビーの天井を見上げていた。何かを観察している顔ではない。ただ、視線をどこかに置く必要があったから、そこに置いているようだった。秋月のやり取りは聞いていたはずだが、口を挟まなかった。
「聞いてたか」
秋月が言うと、桐生は少しだけ顎を引いた。
「聞いてました」
「意味のあることは、何も言ってなかったな」
「ええ」
桐生は否定しなかった。
「でも、たぶんそれがいいんでしょうね」
秋月はロビーを見た。
スタッフはまたケーブルを巻いている。案内を求める客が来ると、顔を上げて列の場所を示す。それが終わると、また手元に戻る。作業の中に、客が残っている時間が当たり前に組み込まれているようだった。
ミナトは、人の流れを見ていた。
さっきからずっと同じ姿勢で立っている。だが、目だけが動いている。誰かの手の動きや、子どもの歩き方や、列の伸び方を追っていた。
その目の動き方は、レースを見ているときの目とは違った。レースのときは、勝負の流れを追う目だった。今は、人がそれぞれの速度でほどけていく様子を、一つずつ拾っている。一本道を見る目ではなく、川面の波を見る目だった。
「すぐ帰る方に、体が向かないんです」
ミナトが横で言った。
秋月はそちらを見た。
「体が?」
「はい」
ミナトはロビーを見ていた。
「ライブが終わって、はい解散、って言われても、たぶん動けないです。少し歩いたり、話したり、もう一回見たりしてるうちに、だんだん帰る方に向く感じです」
「お前もそうだったのか」
「そうですね」
ミナトは少し笑った。
「走ったあとって、体の中がまだ明るいんですよ」
秋月は返事をしなかった。
体の中が明るい。
それは、記者の言葉ではなかった。だが、さっきから見ている人の流れには、その言い方の方が近い気がした。
ミナトはロビーを見続けている。
視線は、ただぼんやりしているわけではなかった。撮影パネルへ向かう人の歩幅、物販の袋を持ち替える手、モニターの前で足を止める親子。そういうものを、一つずつ拾っているようだった。
「まだ見てるのか」
秋月が聞くと、ミナトは少し遅れてこちらを見た。
「見てますね」
「何を」
「どこまで残ってるか、ですかね」
「何が」
「さっきのやつが」
ミナトはそう言って、少しだけ困ったように笑った。
「うまく言えないですけど」
うまく言えない。
その言葉の方が、秋月には信じられた。
うまく言える言葉ばかりが、正しいわけではない。むしろ、うまく言えないものの方が現場には残る。遺族の沈黙。会見のあとに残る視線。事故現場に供えられた花の前で、誰かがかがんだまま立てなくなる時間。
秋月はそういうものを、何度も見てきた。
ただ、今日のそれは悲しみではない。
怒りでもない。
もっと明るい。
明るいのに、簡単には消えない。
「私は」
ミナトが続けた。
「走り切ったあとに、あの状態のまま見てもらうのが好きでした」
秋月は黙っていた。
「うまく言えないですけど、速かったとか、勝ったとかだけじゃなくて。息が残ってるところとか、声がかすれるところとか、そういうのも含めて見てもらう感じです」
「嫌じゃなかったのか」
「嫌なときもあります」
ミナトはロビーを見たまま言った。
「でも、隠せないところまで見てもらう方が、終わったあと楽でした」
秋月は、その言葉を受け取った。
楽。
思ったより軽い言葉だった。
救われた、でもない。認められた、でもない。もっと生活に近い。体の向きが変わる。息の入り方が変わる。足を止めていたものが、少し抜ける。
そういう意味の「楽」に聞こえた。
ミナトはそこから先を言わなかった。
秋月も聞かなかった。
ロビーの奥にモニターがあった。
今日のレースのハイライトが流れている。ゴール直前の直線。勝ったウマ娘が外から伸びる。実況の音は小さく、ロビーのざわめきに半分消えていた。
その前で、小学生くらいの子どもが父親の袖を引いていた。
「もう行こうよ」
父親は画面を見たまま、「ちょっとだけ」と言った。
「さっきも見たじゃん」
子どもの声には、はっきり退屈が混じっていた。
秋月はそれを聞いて、少しだけ安心した。
全員が同じ熱に浮かされているわけではない。そういう子もいる。当たり前だ。むしろ、そちらの方が自然だった。
父親は笑って、画面を指した。
「ほら、ここ」
画面の中で、ゴール後のウマ娘が映った。
笑った、というより、息を吐きながら顔を上げた。頬が赤く、髪が少し乱れている。さっき秋月が見た、走り終えたあとの顔だった。
子どもはまだ不満そうだった。
けれど、袖を引く手が止まった。
数秒だけ、画面を見る。
その顔に、感動はなかった。理解もなかった。何かを言葉にして受け取った顔でもない。
ただ、見ていた。
やがて子どもは「ふーん」と言った。
父親は笑って、ようやく歩き出した。子どももそれについていく。歩きながら、一度だけ振り返ってモニターを見た。
それだけだった。
秋月は、その「それだけ」から目を離せなかった。
熱心な客ではない。
たぶん、今日の勝者の名前もまだ覚えていない。
帰りたいと思っていた子どもだ。
それでも、少しだけ止まった。
その数秒は、記事に書けばすぐに嘘っぽくなるだろう。
「帰りたがっていた子どもも、レースの余韻に足を止めた」
そんな書き方をした瞬間に、いま見たものは別のものになる。
子どもは余韻に浸ったわけではない。
感動したわけでもない。
ただ、父親の袖を引く手を止めて、画面を見ただけだ。
けれど、その「だけ」を切り捨てると、何かを見落としてしまう気がした。
二十年、出来事を切り分けて整理してきた。原因と結果、行為と感情、当事者と傍観者。整理すれば書ける。書けるものになる。だが、整理した瞬間に消えるものもあった。今日の子どもの数秒は、たぶんそういう種類のものだった。
整理すると、消える。
「見てました?」
ミナトが言った。
「見てた」
「あの子、止まりましたね」
「ああ」
「今日のやつが映ったので」
レースでもライブでもない。
今日のやつ。
秋月は、その言い方を頭の中で転がした。
今日のやつ。
たしかに、そうだった。
ゴール前の直線だけなら、ただのレース映像だったかもしれない。ステージの映像だけなら、ただのライブだったかもしれない。だが、ロビーのモニターでは、それらが一つの短い映像になっている。人はそれを見て、さっきの話をして、写真を撮り、袋を持って、外へ出ていく。
子どもも、その中で数秒だけ止まった。
その数秒が、秋月には妙に大きく見えた。
桐生が、そこでようやく口を開いた。
「秋月さんは、切り分ける訓練を積んできた」
「記者だからな」
「切り分けると、書きやすくなる」
「そうだな」
「でも、切ると、ああいう数秒が落ちます」
それだけだった。
秋月は、ロビーを見た。
写真を撮る人間がいる。物販の袋を持つ人間がいる。モニターの前で立ち止まる親子がいる。出口へ向かいながら、さっきの直線の話をしている客がいる。
一つずつは、ただの帰り支度だった。
けれど、それらを切り分けると、何かを見落とす気がした。記事にするなら、いくらでも分けられる。分けた方が書きやすい。見出しもつけやすい。
だが、ここにいる人間は、そんなふうには歩いていない。
さっきの子どもも、レースを見たのではない。ライブを見たのでもない。父親と並んで、今日の断片を見た。それだけのことなのに、袖を引く手が止まった。
そこに、秋月は引っかかった。
最初に気になったのは、走ったあとに歌うことだった。
今は少し違う。
歌っているウマ娘だけを見ても足りない。拍手している客も、パネルに並ぶ人も、モニターの前で足を止めた子どもも、そこから外せない気がしていた。
「……追うしかないな」
秋月は小さく言った。
分からないから追うのではない。分からないまま帰る気が、もうなかった。
「追うんですか」
ミナトが聞いた。
「たぶん」
「何を?」
秋月は少し考えた。
「まだ分からん」
それが正直な答えだった。
桐生が先に出口の方へ歩き始めた。ミナトが秋月の横に並ぶ。
ミナトは、出口の方へ歩きながら、少しだけ視線を後ろに残していた。さっきの親子が向かった方向だ。子どもがもう一度振り返った瞬間を、ミナトも見ていたのかもしれない。あの数秒の意味を、ミナトは秋月とは違う角度から拾っていた可能性があった。
「ミナト」
秋月は歩きながら聞いた。
「はい」
「お前、あの子の止まったの、どう思った」
ミナトは少しだけ間を置いた。
「見たんだな、って思いました」
「見た?」
「さっきまで帰りたかったのに、ちょっとだけ」
「それだけか」
「それだけです」
ミナトは歩きながら、少しだけ目を細めた。
「でも、そのちょっとが残ることもあるので」
秋月は黙った。
子どもが何かを理解したわけではない。感動したわけでもない。ただ、見た。その数秒が、どこかに残るかもしれない。
それだけの話だった。
歩いているうちに、出口の近くまで来ていた。
外気が少し入り込んでいた。場内の湿った暖かさとは違う。乾いて、冷たい。人が扉を開けるたび、夜の空気が細く流れ込んでくる。
その境目で、何人かが立ち止まっていた。
上着をまとう人。
スマートフォンをしまう人。
物販の袋を持ち直す人。
一度外へ出かけて、忘れ物をしたように振り返る人。
警備員が出口の脇に立って、軽く手を上げていた。
「段差、お気をつけください」
「駅方面は左手です」
声は淡々としている。だが、その淡々とした声も、今の場には合っていた。
外に出ると、夜の空気が冷たかった。
場内の熱が、肌から一枚はがれる。人の流れが駅の方へ伸びていた。みな、さっきまでいた場所の話をしながら歩いている。
「最後の衣装よかったね」
「直線、もう一回見たい」
「動画上がるかな」
「明日仕事なの無理」
「物販、買いすぎた」
何でもない会話だった。
秋月はその何でもなさを聞きながら歩いた。
誰も語らない。
誰も説明しない。
ただ、さっきのレースの話をして、最後の曲の話をして、物販の袋を抱えて歩いている。
その全部が、同じ一日の中に入っているように見えた。
外へ出ると、建物の音は急に遠くなった。代わりに、靴音と、駅へ向かう人の声と、夜の車道の音が耳に入ってくる。さっきまでステージに向いていた人たちは、今はそれぞれの方向へ歩いている。それでも、完全にばらばらになった感じはしなかった。
誰かがスマートフォンを見ながら笑う。
別の誰かが、袋の中身を確認する。
少し前を歩く二人組が、手振りでさっきの直線を再現している。
ミナトはその後ろ姿を、少しだけ目で追っていた。直線を再現する手振りに、自分の体が反応しないか、確認している顔にも見えた。だが、今度は重心は動かなかった。手も握られなかった。ただ、見ていた。
桐生はそのミナトを、見ているふりをしていなかった。だが、見ていた。
秋月は一度だけ振り返った。
建物にはまだ光が残っていた。音はもう聞こえない。だが、さっき見たものが完全に消えた感じはしなかった。中に残っているのではない。出てきた人間が、少しずつ外へ持ち出している。
走ったあとに、歌う。
最初は、それだけが引っかかっていた。
だが今は、ステージを見ていた客も、通路を案内していたスタッフも、父親の袖を引いていた子どもも、そこから外せない気がしていた。
秋月は、それを少しだけ分かり始めていた。
歩きながら、桐生が秋月に並んだ。
「次、どこから入ります」
「まだ分からん」
「決まったら呼んでください」
「お前も来るのか」
「来ますよ」
「なんで」
「面白いので」
それは桐生の口癖だった。
だが、今日のそれは、いつもより少しだけ重みがあった。「面白い」という言葉の中に、ミナトのことが入っているのかもしれない、と秋月は思った。桐生がミナトを研究室に置いている理由も、秋月をこの場所に連れてきた理由も、たぶん同じ場所から始まっている。だが、それが何なのかは、まだ秋月には分からなかった。
三人は駅の方へ歩いていった。
ミナトの足音が、夜道にはっきり響いている。さっきまで隠していた左足の半拍の遅れも、今はあまり目立たなかった。場所の熱が、まだ少しだけ体に残っているのかもしれない。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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静かな話ではありますが、秋月たちの歩みをもう少し見守っていただければ幸いです。