まだ、走っている   作:監督

2 / 14
帰り道

 

 

 

 

最後の曲が終わった。

 

音が消えて、一瞬だけ間が空いた。

 

そのあと、拍手が来た。

 

前の方から広がって、横へ流れて、少し遅れて後ろの席まで届いてくる。波というより、火が回るみたいだった。誰かが名前を呼んだ。別の場所で歓声が上がった。ステージの上のウマ娘たちは、息を整えながら笑っている。

 

秋月は、それを見ていた。

 

見ていたつもりだった。

 

気づくと、自分の手も動いていた。乾いた音が、掌の間で鳴っている。

 

秋月は自分の手を見た。

 

叩いていた。

 

意識していなかった。気づいたら、やっていた。仕事中なら、こんなふうに手が勝手に動くことはない。観察と記録の動作は、いつも意識の下にある。だが今は、観察する前に、体が反応していた。

 

「秋月さん」

 

隣でミナトが言った。

 

「拍手、してますよ」

 

「分かってる」

 

「珍しいですね」

 

「うるさい」

 

ミナトが小さく笑った。

 

からかっているというより、まあそうなりますよ、という顔だった。秋月は少しだけ居心地が悪くなって、手を止めようとした。

 

けれど、周囲の拍手はまだ続いている。

 

一人だけやめるのも変な気がして、結局、もう何度か叩いた。

 

ステージの照明がゆっくり落ちていく。ウマ娘たちは袖の方へ下がりながら、何度も客席を振り返っていた。ひとりが小さく手を振ると、前の方からまた歓声が上がる。別のひとりが深く頭を下げると、拍手が少し遅れて大きくなった。

 

手を振る者がいる。

 

名前を呼ぶ者がいる。

 

スマートフォンを掲げたまま、画面ではなく肉眼で見ようとしている者がいる。

 

泣いている子もいた。笑っている子もいた。泣きながら笑っている子もいた。

 

誰も、すぐには動かなかった。

 

やがて前の方の席から、ぽつぽつと人が立ち始める。荷物をまとめる者がいる。隣の相手と顔を見合わせて笑う者がいる。ステージに向けて、もう一度だけ手を振る者がいる。

 

客席が、少しずつほどけていく。

 

秋月には、そう見えた。

 

レースが終わった直後のざわめきとは、少し違う。あのときは、まだ何かが前に進んでいた。次がある、という空気だった。

 

今はもっと柔らかい。

 

熱は残っている。けれど、押してくるような熱ではない。人が立ち上がっても、場内から何かが急に失われる感じはしなかった。

 

前の列で、若い男がスマートフォンを友人に見せていた。

 

「ここ撮れてる?」

 

「ブレてるけど、逆にいい」

 

「逆にって何だよ」

 

二人は笑って、もう一度ステージの方を見た。照明はほとんど落ちていたが、まだ完全には暗くなっていない。袖の近くで一人が振り返る。男たちは、それに気づいて慌てて手を振り返した。

 

少し離れた席では、親子連れが荷物をまとめていた。母親らしい女性が、子どもの膝に置かれた飲み物を取る。子どもはまだステージを見ている。女性は急かさない。片手で上着を畳みながら、子どもがこちらを向くのを待っていた。

 

その待ち方が、妙に自然だった。

 

帰らせるのではなく、戻ってくるのを待っている。

 

秋月には、そんなふうに見えた。

 

記者として、待つことには慣れている。会見が始まるのを待つ。証言者が口を開くのを待つ。判決が出るのを待つ。だが、それはたいてい、何かが動き出すのを待つ時間だった。

 

今、あの母親がしているのは、少し違う。

 

子どもが自分のタイミングで戻ってくるまで、隣にいる。

 

ただ、それだけだった。

 

 

 

「お前は、あっち側だったんだろ」

 

秋月は横を向かずに言った。

 

「はい」

 

「今、どういう感じだ」

 

ミナトは少しだけ間を置いた。

 

「うずきますね」

 

あっさり言った。

 

感傷というより、体の具合を報告しているような言い方だった。

 

「懐かしいとか、辛いとかじゃなくて?」

 

「それもありますけど」

 

ミナトは少しだけ口の端を上げた。笑いというより、苦笑に近い。

 

「どっちかというと、やりたい、って感じです」

 

「やりたい」

 

「見てると、体が覚えてるんで」

 

「怪我してから、二年経つんだろ」

 

「二年ちょっとです」

 

「それでも、か」

 

「そういうもんですよ」

 

ミナトは肩をすくめた。

 

軽い仕草だった。けれど、その肩には少しだけ力が入っているように見えた。

 

ステージの袖では、まだ何人かが客席の方を向いていた。動きはほとんどない。ただ、名残のように手を振ったり、頭を下げたりしている。そのたびに、客席のどこかが小さく応えた。

 

拍手は、小さくなったり、大きくなったりしながら続いていた。

 

秋月はその光景を目で追いながら、ふと横を見た。

 

ミナトの右足が、わずかに動いていた。

 

踏み出しかけた、というより、重心が前に移りかけたように見えた。一瞬のことで、次の瞬間には止まっていた。

 

そのあと、ミナトの手がほんの少し握られた。

 

すぐに開く。

 

それだけだった。

 

秋月は何も言わなかった。

 

見ていたことも、気づいたことも、口にしなかった。

 

ただ、その一瞬だけが妙に残った。

 

手帳を出すほどの出来事ではない。

 

だが、見なかったことにして通り過ぎるには、少しだけ引っかかる。

 

秋月は、その程度のものほど後で効いてくることを知っていた。

 

ミナトはステージを見続けていた。

 

拍手が小さくなると、彼女の指先が少し緩む。誰かが名前を呼ぶと、視線がそちらへ寄る。ステージの一人が振り返ると、また足先が微かに動く。

 

本人は気づいているのかもしれない。

 

気づいていないのかもしれない。

 

秋月には、どちらとも判断できなかった。

 

桐生は、少し離れた席でステージを見ていた。

 

何も言わない。手帳もペンも出していない。ただ、見ている。

 

研究者の顔ではなかった。

 

少なくとも、いまの桐生は、対象を採取しているようには見えない。何かを待っている。あるいは、待っているふりをしながら、ミナトの視線の動きを拾っている。

 

秋月はその横顔を一度見て、また前に戻した。

 

桐生は、ミナトの足が動いたとき、それを見ていた。手が握られたとき、それも見ていた。だが、何も言わない。注意も引かない。

 

ミナトは、桐生がそうしていることに気づいているのかもしれない。気づいていて、何も言わないのかもしれない。

 

秋月にはまだ分からなかった。ただ、二人の間には、長い時間をかけて少しずつできあがった距離があった。言葉にされたものではないのだろう。だが、確かにあった。

 

拍手がようやくまばらになっていく。

 

荷物を膝の上に置いた人が、バッグの口を閉める。隣の席の友人にスマートフォンを見せる。撮れてる、撮れてない、そんな声がする。前の列では、泣いていた子が鼻をすすりながら、隣の子と同じ画面を覗き込んでいる。

 

秋月は、その一つ一つを見ていた。

 

みな、勝手に戻っていく。

 

ただし、一気に戻るのではない。

 

手を振って、笑って、写真を確認して、もう一度ステージを見てから、少しずつ立ち上がっていく。

 

それが、奇妙に丁寧な動きに見えた。

 

「……下に降りるか」

 

秋月が言うと、桐生が少しだけこちらを見た。

 

「そうしましょう」

 

「なんで少し嬉しそうなんだ」

 

「人の流れを見るには、下の方がいいので」

 

それだけだった。

 

秋月の話だ、とは言わない。だが、秋月が何を見たがっているのかは、たぶん分かっている。

 

そういう顔だった。

 

三人は席を立った。

 

ミナトが立ち上がるとき、左足に一瞬だけ重心が乗りかけ、すぐに右へ逃げた。本人は気にしていないふりをしている。

 

桐生がそれを見ていた。

 

見ていたが、何も言わなかった。

 

秋月も、何も言わなかった。

 

 

 

階段を降りると、音の質が変わった。

 

スタンドの広がった歓声ではなく、通路の声になる。足音、笑い声、案内のアナウンス、遠くの売店の呼び込み。場内に残っていた熱が、細い流れに分かれてロビーへ向かっていく。

 

壁際には、すでに人が立ち止まり始めていた。階段を降りきったところで、スマートフォンを取り出す者がいる。連れを待つために、柱のそばへ寄る者がいる。小さな子どもの靴紐を結び直している父親がいる。

 

それぞれが、自分の都合で動いている。

 

なのに、全体としては乱れていなかった。

 

急かされている人間はいない。急がせている人間もいない。

 

秋月は通路の途中で立ち止まって、しばらくその様子を見ていた。

 

二十年、社会部で仕事をしてきて、こういう流れの場面はあまり見たことがなかった。事故現場の規制線を解いた後、被災地の避難所、選挙の開票後の会場。いずれも、人の流れには別の力学があった。早く出たい人と、まだ立ち去れない人が、別々の方向で混ざっている。今日のこの場所は、それとは違う。早く出たい人がほとんどいない。だからといって、滞っているわけでもない。

 

ミナトはその流れを見ていた。視線は揺れない。だが、目が少しだけ柔らかかった。勝手知ったる場所にいる人間の目だった。

 

走らなくなって二年が経つはずだった。それでも、こういう場所に来ると、目が変わる。家ではない。けれど、家の近くにあるどこか、という感じの目だった。

 

ロビーに出ると、人はまだ多かった。

 

ただ、スタンドにいたときのように、全員が同じ方向を向いているわけではない。撮影パネルに並ぶ人がいる。物販の袋を抱える人がいる。壁際でスマートフォンを覗き込んでいる人がいる。出口に向かう人もいる。

 

ばらばらになった、というより、それぞれが自分の速度で動き始めたように見えた。

 

天井の照明は明るかった。場内の暗さに慣れた目には、少し白すぎるくらいだった。床には人の影が重なって、伸びたり縮んだりしている。どこかで紙袋の擦れる音がした。誰かのスマートフォンから、さっきの曲の一節が小さく漏れて、すぐに止まった。

 

「物販、まだ間に合う?」

 

「先にパネル撮ろ」

 

「さっきの直線、動画上がるかな」

 

「最後の曲もよかったよね」

 

声が、あちこちから浮かんでくる。

 

秋月は少しだけ足を止めた。

 

レースの話と、ライブの話と、帰り道の話が、同じ調子で混ざっている。

 

誰も、どこからが本番でどこからが余興かなど、気にしていなかった。

 

近くでスタッフがケーブルを巻いていた。作業は手早いが、急いでいる感じではない。客の流れを邪魔しない場所を選び、慣れた手つきで一本ずつまとめていく。

 

黒いケーブルが輪になり、結束バンドで留められる。スタンドが折りたたまれ、壁際に寄せられる。スタッフは客が近づくと、作業の手を止めて少しだけ身を引いた。通り過ぎるのを待って、また同じ太さの輪を作る。

 

何度もやってきた動きだった。

 

秋月は声をかけた。

 

「お疲れ様です。少し聞いてもいいですか」

 

スタッフが振り向く。三十代くらいの女性だった。手を止めて、こちらに向き直る。作業を中断したことを苦にしている顔ではない。

 

「はい、何でしょう」

 

「今日は、まだ人が多いですね」

 

女性スタッフはロビーを見た。

 

「そうですね。写真を撮る方が多いです。物販もまだ動いてますし」

 

「いつもこんな感じですか」

 

「日によります。雨の日は早いですし、遅い時間だと電車を気にされる方も多いので」

 

女性は、パネルの前にできた列へ目を向けた。

 

「今日は皆さん、ゆっくりですね」

 

「レースがよかったから?」

 

「それもあると思います。最後の直線の話をされている方も多いですし」

 

ちょうど近くで、若い男が連れにスマートフォンを見せていた。

 

「ここ、外から来たとこ」

 

「ああ、ここやばかった」

 

そんな声が、短く流れていく。

 

女性は軽く笑った。

 

「こういう日は、列も少し長くなります。でも、皆さん楽しそうなので」

 

そこで別の客が、撮影パネルの列を探すように足を止めた。女性はそちらへ体を向ける。

 

「撮影パネルは奥の列です。最後尾は案内板のところになります」

 

客が礼を言って進んでいく。

 

女性はまたケーブルを巻き始めた。

 

秋月は、礼を言って少し離れた。

 

女性は何かを解説したわけではなかった。

 

ただ、人の残り方と、列の長さと、客の声を見ているだけだった。

 

それでも秋月には、レースが終わってライブが終わって、そこからすぐ外へ出るまでのあいだに、もう一つ薄い時間がある気がした。

 

誰かが写真を撮る。

 

誰かが物販の袋を持ち直す。

 

誰かが、さっきの直線をもう一度画面で探す。

 

それらは余興というより、今日見たものを持って帰るための手順のように見えた。

 

秋月はそこで、ふと自分が質問を飲み込んでいたことに気づいた。

 

走ったあとに歌うことを、変だと思わないのか。

 

聞こうと思えば聞けた。

 

だが、今の女性にそれを聞いたところで、たぶん少し困らせるだけだ。

 

彼女は答えを持っている人間ではない。ただ、この場を回している人間だった。

 

それで十分だった。

 

桐生は、少し離れたところでロビーの天井を見上げていた。何かを観察している顔ではない。ただ、視線をどこかに置く必要があったから、そこに置いているようだった。秋月のやり取りは聞いていたはずだが、口を挟まなかった。

 

「聞いてたか」

 

秋月が言うと、桐生は少しだけ顎を引いた。

 

「聞いてました」

 

「意味のあることは、何も言ってなかったな」

 

「ええ」

 

桐生は否定しなかった。

 

「でも、たぶんそれがいいんでしょうね」

 

秋月はロビーを見た。

 

スタッフはまたケーブルを巻いている。案内を求める客が来ると、顔を上げて列の場所を示す。それが終わると、また手元に戻る。作業の中に、客が残っている時間が当たり前に組み込まれているようだった。

 

ミナトは、人の流れを見ていた。

 

さっきからずっと同じ姿勢で立っている。だが、目だけが動いている。誰かの手の動きや、子どもの歩き方や、列の伸び方を追っていた。

 

その目の動き方は、レースを見ているときの目とは違った。レースのときは、勝負の流れを追う目だった。今は、人がそれぞれの速度でほどけていく様子を、一つずつ拾っている。一本道を見る目ではなく、川面の波を見る目だった。

 

「すぐ帰る方に、体が向かないんです」

 

ミナトが横で言った。

 

秋月はそちらを見た。

 

「体が?」

 

「はい」

 

ミナトはロビーを見ていた。

 

「ライブが終わって、はい解散、って言われても、たぶん動けないです。少し歩いたり、話したり、もう一回見たりしてるうちに、だんだん帰る方に向く感じです」

 

「お前もそうだったのか」

 

「そうですね」

 

ミナトは少し笑った。

 

「走ったあとって、体の中がまだ明るいんですよ」

 

秋月は返事をしなかった。

 

体の中が明るい。

 

それは、記者の言葉ではなかった。だが、さっきから見ている人の流れには、その言い方の方が近い気がした。

 

ミナトはロビーを見続けている。

 

視線は、ただぼんやりしているわけではなかった。撮影パネルへ向かう人の歩幅、物販の袋を持ち替える手、モニターの前で足を止める親子。そういうものを、一つずつ拾っているようだった。

 

「まだ見てるのか」

 

秋月が聞くと、ミナトは少し遅れてこちらを見た。

 

「見てますね」

 

「何を」

 

「どこまで残ってるか、ですかね」

 

「何が」

 

「さっきのやつが」

 

ミナトはそう言って、少しだけ困ったように笑った。

 

「うまく言えないですけど」

 

うまく言えない。

 

その言葉の方が、秋月には信じられた。

 

うまく言える言葉ばかりが、正しいわけではない。むしろ、うまく言えないものの方が現場には残る。遺族の沈黙。会見のあとに残る視線。事故現場に供えられた花の前で、誰かがかがんだまま立てなくなる時間。

 

秋月はそういうものを、何度も見てきた。

 

ただ、今日のそれは悲しみではない。

 

怒りでもない。

 

もっと明るい。

 

明るいのに、簡単には消えない。

 

「私は」

 

ミナトが続けた。

 

「走り切ったあとに、あの状態のまま見てもらうのが好きでした」

 

秋月は黙っていた。

 

「うまく言えないですけど、速かったとか、勝ったとかだけじゃなくて。息が残ってるところとか、声がかすれるところとか、そういうのも含めて見てもらう感じです」

 

「嫌じゃなかったのか」

 

「嫌なときもあります」

 

ミナトはロビーを見たまま言った。

 

「でも、隠せないところまで見てもらう方が、終わったあと楽でした」

 

秋月は、その言葉を受け取った。

 

楽。

 

思ったより軽い言葉だった。

 

救われた、でもない。認められた、でもない。もっと生活に近い。体の向きが変わる。息の入り方が変わる。足を止めていたものが、少し抜ける。

 

そういう意味の「楽」に聞こえた。

 

ミナトはそこから先を言わなかった。

 

秋月も聞かなかった。

 

 

 

ロビーの奥にモニターがあった。

 

今日のレースのハイライトが流れている。ゴール直前の直線。勝ったウマ娘が外から伸びる。実況の音は小さく、ロビーのざわめきに半分消えていた。

 

その前で、小学生くらいの子どもが父親の袖を引いていた。

 

「もう行こうよ」

 

父親は画面を見たまま、「ちょっとだけ」と言った。

 

「さっきも見たじゃん」

 

子どもの声には、はっきり退屈が混じっていた。

 

秋月はそれを聞いて、少しだけ安心した。

 

全員が同じ熱に浮かされているわけではない。そういう子もいる。当たり前だ。むしろ、そちらの方が自然だった。

 

父親は笑って、画面を指した。

 

「ほら、ここ」

 

画面の中で、ゴール後のウマ娘が映った。

 

笑った、というより、息を吐きながら顔を上げた。頬が赤く、髪が少し乱れている。さっき秋月が見た、走り終えたあとの顔だった。

 

子どもはまだ不満そうだった。

 

けれど、袖を引く手が止まった。

 

数秒だけ、画面を見る。

 

その顔に、感動はなかった。理解もなかった。何かを言葉にして受け取った顔でもない。

 

ただ、見ていた。

 

やがて子どもは「ふーん」と言った。

 

父親は笑って、ようやく歩き出した。子どももそれについていく。歩きながら、一度だけ振り返ってモニターを見た。

 

それだけだった。

 

秋月は、その「それだけ」から目を離せなかった。

 

熱心な客ではない。

 

たぶん、今日の勝者の名前もまだ覚えていない。

 

帰りたいと思っていた子どもだ。

 

それでも、少しだけ止まった。

 

その数秒は、記事に書けばすぐに嘘っぽくなるだろう。

 

「帰りたがっていた子どもも、レースの余韻に足を止めた」

 

そんな書き方をした瞬間に、いま見たものは別のものになる。

 

子どもは余韻に浸ったわけではない。

 

感動したわけでもない。

 

ただ、父親の袖を引く手を止めて、画面を見ただけだ。

 

けれど、その「だけ」を切り捨てると、何かを見落としてしまう気がした。

 

二十年、出来事を切り分けて整理してきた。原因と結果、行為と感情、当事者と傍観者。整理すれば書ける。書けるものになる。だが、整理した瞬間に消えるものもあった。今日の子どもの数秒は、たぶんそういう種類のものだった。

 

整理すると、消える。

 

「見てました?」

 

ミナトが言った。

 

「見てた」

 

「あの子、止まりましたね」

 

「ああ」

 

「今日のやつが映ったので」

 

レースでもライブでもない。

 

今日のやつ。

 

秋月は、その言い方を頭の中で転がした。

 

今日のやつ。

 

たしかに、そうだった。

 

ゴール前の直線だけなら、ただのレース映像だったかもしれない。ステージの映像だけなら、ただのライブだったかもしれない。だが、ロビーのモニターでは、それらが一つの短い映像になっている。人はそれを見て、さっきの話をして、写真を撮り、袋を持って、外へ出ていく。

 

子どもも、その中で数秒だけ止まった。

 

その数秒が、秋月には妙に大きく見えた。

 

桐生が、そこでようやく口を開いた。

 

「秋月さんは、切り分ける訓練を積んできた」

 

「記者だからな」

 

「切り分けると、書きやすくなる」

 

「そうだな」

 

「でも、切ると、ああいう数秒が落ちます」

 

それだけだった。

 

秋月は、ロビーを見た。

 

写真を撮る人間がいる。物販の袋を持つ人間がいる。モニターの前で立ち止まる親子がいる。出口へ向かいながら、さっきの直線の話をしている客がいる。

 

一つずつは、ただの帰り支度だった。

 

けれど、それらを切り分けると、何かを見落とす気がした。記事にするなら、いくらでも分けられる。分けた方が書きやすい。見出しもつけやすい。

 

だが、ここにいる人間は、そんなふうには歩いていない。

 

さっきの子どもも、レースを見たのではない。ライブを見たのでもない。父親と並んで、今日の断片を見た。それだけのことなのに、袖を引く手が止まった。

 

そこに、秋月は引っかかった。

 

最初に気になったのは、走ったあとに歌うことだった。

 

今は少し違う。

 

歌っているウマ娘だけを見ても足りない。拍手している客も、パネルに並ぶ人も、モニターの前で足を止めた子どもも、そこから外せない気がしていた。

 

「……追うしかないな」

 

秋月は小さく言った。

分からないから追うのではない。分からないまま帰る気が、もうなかった。

 

「追うんですか」

 

ミナトが聞いた。

 

「たぶん」

 

「何を?」

 

秋月は少し考えた。

 

「まだ分からん」

 

それが正直な答えだった。

 

桐生が先に出口の方へ歩き始めた。ミナトが秋月の横に並ぶ。

 

ミナトは、出口の方へ歩きながら、少しだけ視線を後ろに残していた。さっきの親子が向かった方向だ。子どもがもう一度振り返った瞬間を、ミナトも見ていたのかもしれない。あの数秒の意味を、ミナトは秋月とは違う角度から拾っていた可能性があった。

 

「ミナト」

 

秋月は歩きながら聞いた。

 

「はい」

 

「お前、あの子の止まったの、どう思った」

 

ミナトは少しだけ間を置いた。

 

「見たんだな、って思いました」

 

「見た?」

 

「さっきまで帰りたかったのに、ちょっとだけ」

 

「それだけか」

 

「それだけです」

 

ミナトは歩きながら、少しだけ目を細めた。

 

「でも、そのちょっとが残ることもあるので」

 

秋月は黙った。

 

子どもが何かを理解したわけではない。感動したわけでもない。ただ、見た。その数秒が、どこかに残るかもしれない。

 

それだけの話だった。

 

 

 

歩いているうちに、出口の近くまで来ていた。

 

外気が少し入り込んでいた。場内の湿った暖かさとは違う。乾いて、冷たい。人が扉を開けるたび、夜の空気が細く流れ込んでくる。

 

その境目で、何人かが立ち止まっていた。

 

上着をまとう人。

 

スマートフォンをしまう人。

 

物販の袋を持ち直す人。

 

一度外へ出かけて、忘れ物をしたように振り返る人。

 

警備員が出口の脇に立って、軽く手を上げていた。

 

「段差、お気をつけください」

 

「駅方面は左手です」

 

声は淡々としている。だが、その淡々とした声も、今の場には合っていた。

 

外に出ると、夜の空気が冷たかった。

 

場内の熱が、肌から一枚はがれる。人の流れが駅の方へ伸びていた。みな、さっきまでいた場所の話をしながら歩いている。

 

「最後の衣装よかったね」

 

「直線、もう一回見たい」

 

「動画上がるかな」

 

「明日仕事なの無理」

 

「物販、買いすぎた」

 

何でもない会話だった。

 

秋月はその何でもなさを聞きながら歩いた。

 

誰も語らない。

 

誰も説明しない。

 

ただ、さっきのレースの話をして、最後の曲の話をして、物販の袋を抱えて歩いている。

 

その全部が、同じ一日の中に入っているように見えた。

 

外へ出ると、建物の音は急に遠くなった。代わりに、靴音と、駅へ向かう人の声と、夜の車道の音が耳に入ってくる。さっきまでステージに向いていた人たちは、今はそれぞれの方向へ歩いている。それでも、完全にばらばらになった感じはしなかった。

 

誰かがスマートフォンを見ながら笑う。

 

別の誰かが、袋の中身を確認する。

 

少し前を歩く二人組が、手振りでさっきの直線を再現している。

 

ミナトはその後ろ姿を、少しだけ目で追っていた。直線を再現する手振りに、自分の体が反応しないか、確認している顔にも見えた。だが、今度は重心は動かなかった。手も握られなかった。ただ、見ていた。

 

桐生はそのミナトを、見ているふりをしていなかった。だが、見ていた。

 

秋月は一度だけ振り返った。

 

建物にはまだ光が残っていた。音はもう聞こえない。だが、さっき見たものが完全に消えた感じはしなかった。中に残っているのではない。出てきた人間が、少しずつ外へ持ち出している。

 

走ったあとに、歌う。

 

最初は、それだけが引っかかっていた。

 

だが今は、ステージを見ていた客も、通路を案内していたスタッフも、父親の袖を引いていた子どもも、そこから外せない気がしていた。

 

秋月は、それを少しだけ分かり始めていた。

 

歩きながら、桐生が秋月に並んだ。

 

「次、どこから入ります」

 

「まだ分からん」

 

「決まったら呼んでください」

 

「お前も来るのか」

 

「来ますよ」

 

「なんで」

 

「面白いので」

 

それは桐生の口癖だった。

 

だが、今日のそれは、いつもより少しだけ重みがあった。「面白い」という言葉の中に、ミナトのことが入っているのかもしれない、と秋月は思った。桐生がミナトを研究室に置いている理由も、秋月をこの場所に連れてきた理由も、たぶん同じ場所から始まっている。だが、それが何なのかは、まだ秋月には分からなかった。

 

三人は駅の方へ歩いていった。

 

ミナトの足音が、夜道にはっきり響いている。さっきまで隠していた左足の半拍の遅れも、今はあまり目立たなかった。場所の熱が、まだ少しだけ体に残っているのかもしれない。





ここまでお読みいただきありがとうございます。
少しでも「続きが気になる」と思っていただけましたら、お気に入り登録や評価、感想などをいただけると嬉しいです。
静かな話ではありますが、秋月たちの歩みをもう少し見守っていただければ幸いです。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。