まだ、走っている   作:監督

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昔の名前

 

 

研究室は、秋月が最初に想像していたより狭かった。

 

本棚が三方を埋めていて、机が二つ。窓は一つ。日当たりは悪くないが、本の背表紙が光を吸うせいで、部屋全体はどこか薄暗い。

 

その隙間に、調理器具と食材が自然に混ざっている。電気ケトルの隣に論文の束が積んであり、その上に、ミナトが昨日買ってきたらしいバナナが一房置いてある。

 

研究室というよりは、誰かの居住空間に研究の道具が紛れ込んでいる、という感じだった。机の周りに本が積み上がっているのは普通だが、その本の上にバナナが置かれているのは普通ではない。

 

だが、二度目、三度目と来るうちに、その配置にも理由があるように思えてきた。

 

全部が整っているわけではない。

 

ただ、人が倒れずに動くための場所だけは、きちんと空いている。

 

ケトルの周り。流しの前。冷蔵庫の開く幅。桐生の椅子の後ろ。

 

そこだけは、いつ来ても妙に保たれていた。

 

たぶん、ミナトがそうしている。

 

片付けている、というより、通り道を作っている。

 

その通り道は、きれいに掃除された場所というわけではなかった。

 

床の隅には、読み終えたのか途中なのか分からない資料の束が寄せられている。椅子の背には薄いカーディガンがかかっていて、机の下には紙袋が二つ押し込まれていた。どれも片付いてはいない。だが、足を引っかける位置には置かれていない。

 

誰かが通る場所だけ、ものが避けられている。

 

桐生のためなのか、ミナト自身のためなのかは分からない。たぶん、どちらでもあるのだろう。

 

秋月は、そういう整い方をあまり見たことがなかった。新聞社のデスクは散らかっているか、片付いているかのどちらかだ。締切前なら、散らかっている方が普通だった。だが、この研究室の散らかり方は、それとも違う。

 

生活があって、研究があって、そこにミナトの動く幅だけが残されている。

 

部屋全体が、誰かを中心に整えられているわけではない。

 

ただ、誰かが倒れないようにはできている。

 

「あれ、牛乳……」

 

ミナトが冷蔵庫を開けたまま、奥を覗き込んでいる。パックを取り出して、側面の日付を見た。

 

後ろで椅子が軋む音がする。

 

「それ、昨日開けたやつ?」

 

「はい。昨日です」

 

振り返らずに答える。

 

それから、注ぎ口を開けて、ほんの少しだけ匂いを確かめた。

 

「……使わない方がいいです」

 

「まだいけそうだけど」

 

「先生がそう言うときは、だいたい駄目です」

 

「信用がないですね」

 

「ありますよ。違う方向に」

 

ミナトはパックを流しに置き、代わりに未開封の小さい紙パックを冷蔵庫の奥から取り出した。

 

「こっち使います」

 

桐生は何か言いかけて、やめた。

 

「ありがとうございます」

 

「あと、開けた日は書いてください」

 

「研究室で牛乳に日付を書くんですか」

 

「研究室だからです」

 

桐生はそれ以上何も言わなかった。机に広げたままの資料から視線も動かさない。

 

ミナトはコップに牛乳を注ぎ、桐生の机の端に置いた。置く場所に迷いがない。資料に当たらず、桐生の手が自然に届く位置だった。

 

秋月は、そのやり取りを少し離れた位置から見ていた。

 

「ありがとう」

 

桐生は顔を上げずに受け取った。

 

「どうぞ」

 

やり取りはそれだけだった。受け取り方にも、渡し方にも、特別な気配はない。こういうものが来ると知っていた手の動きだった。

 

「……お前、毎回やってるのか」

 

「何がですか?」

 

「今の」

 

「牛乳ですか?」

 

「そうじゃなくて」

 

言いかけて、言葉を選ぶ。

 

「用意するのが当たり前みたいだったから」

 

ミナトは少しだけ考えてから、ああ、と頷いた。

 

「そうですね。たぶん、そうです」

 

「たぶん?」

 

「毎回意識してるわけじゃないので」

 

コップをもうひとつ取り出して、自分の分も注ぐ。

 

「気づいたらやってる、っていう感じです」

 

「頼まれてるわけじゃないんだろ」

 

「はい」

 

「でもやる」

 

「やりますね」

 

迷いがなかった。

 

「理由は?」

 

ミナトは少しだけ首を傾げた。

 

「別に、やらない理由もないですし」

 

軽く笑う。

 

「先生、こういうの気にしないんで」

 

「気にしないから、やる?」

 

「放っておくと、忘れることもあるので」

 

「忘れる?」

 

「飲むの」

 

秋月は一瞬、言葉を止めた。

 

桐生はその間も、特に反応しなかった。コップを持ったまま、資料のページをめくる。

 

「飲んだ方がいいじゃないですか」

 

ミナトはそう言って、自分のコップを両手で持った。

 

それで終わり、という口調だった。

 

秋月はそのまま黙った。

 

丁寧で、自然で、何も問題がない。だが何かが引っかかる。

 

引っかかるのは、世話の細かさではなかった。世話を焼く人間は、世の中に珍しくない。

 

気になったのは、その細かさが、桐生にほとんど波を立てていないことだった。

 

桐生は断らない。大げさに感謝もしない。ただ受け取る。

 

ミナトも、受け取られることを特別扱いしない。

 

その薄い温度のまま続いていることが、秋月には妙に見えた。

 

「秋月さんも飲みます?」

 

「いや、大丈夫だ」

 

「そうですか」

 

ミナトは特に気にした様子もなく、コップを戻した。

 

沈黙が少しだけ落ちる。

 

秋月は視線を机の上に移した。

 

資料の端に、走行データらしき数値が並んでいる。通過タイム、位置取り、上がりの速度。日付、競技場名、距離、馬場状態。見慣れない記号が多いが、記録として整理されていることだけは分かった。

 

その左上に、名前があった。

 

ミナトレーヴ。

 

秋月は、一瞬、別人の資料かと思った。

 

だが、隣に小さく印刷された写真には、見覚えがあった。ゲート前で膝を軽く曲げているウマ娘。今より少し髪が短い。目つきも違う。今のミナトより、少しだけ前を見すぎている。

 

けれど、横顔は間違いなくミナトだった。

 

「……これ、お前か」

 

秋月が言うと、ミナトは冷蔵庫の前からこちらを見た。

 

「はい」

 

返事は軽かった。

 

軽かったが、こちらへ来る足取りは少しだけ遅れた。

 

「ミナトレーヴ」

 

秋月はその名前を口にした。

 

声に出した瞬間、研究室の空気がわずかに変わった気がした。

 

ミナトは怒らなかった。嫌な顔もしなかった。ただ、ほんの少しだけ目を細めた。眩しいものを見るときの顔に近かった。

 

「昔の名前です」

 

「昔の名前、って言うのか」

 

「今も名前ですけど」

 

ミナトはそう言って、資料の端を指先で押さえた。

 

「でも、ここにあるのは昔のやつなので」

 

秋月は資料に目を落とした。

 

名前の下に、数字が並んでいる。通過順。ラップ。上がり。順位。評価値らしきもの。すべてが整っている。整いすぎているくらいだった。

 

「走行記録か」

 

「はい」

 

桐生が答えた。

 

「ミナトのか?」

 

「ミナトレーヴの記録です」

 

桐生はそう言った。

 

その言い方に、秋月は少しだけ引っかかった。

 

ミナトの記録、ではない。

 

ミナトレーヴの記録。

 

桐生は、隣にいる彼女を見るときと、資料の中の名前を見るときで、呼び方を分けている。

 

意識しているのか、していないのかは分からない。

 

だが、分けている。

 

「今見ると、変な感じですね」

 

ミナトが言った。

 

「何が変だ」

 

「ここにある私は、ちゃんと速いんですよ」

 

秋月は少し黙った。

 

その言い方が、妙に残った。

 

ちゃんと速い。

 

記録紙の中の彼女は、そうなのだろう。通過タイムも、位置取りも、上がりの速度も、きれいに並んでいる。そこにいるミナトレーヴは、走るものとして評価され、保存されている。

 

「今は違う、って言いたいのか」

 

「そういう意味じゃないです」

 

ミナトは首を振った。

 

「ただ、数字を見ると、そういう子がいたんだなって思います」

 

「自分のことだろ」

 

「自分のことです」

 

ミナトはあっさり認めた。

 

「でも、ちょっと遠いです」

 

秋月は資料の写真を見た。

 

ゲート前のミナトレーヴは、前を見ている。今ここにいるミナトは、その写真を横から見ている。どちらも同じ人物だ。けれど、同じ名前で呼ぶには、少し距離があるようにも見えた。

 

ミナトは資料の端を指で軽く押さえたまま、しばらく黙っていた。

 

その沈黙を、秋月は急かさなかった。

 

やがてミナトが口を開いた。

 

「数字には出ないものがあるので」

 

「数字に出ない?」

 

「はい」

 

「たとえば何だ」

 

ミナトは少しだけ考えた。

 

「走ってる最中の感じ、ですかね」

 

「感じ」

 

「はい。タイムには出ないんですよ、あれは」

 

秋月は眉を寄せる。

 

「それは……主観の話じゃないのか」

 

「主観です」

 

ミナトはあっさり認めた。

 

「でも、その主観で走り方が変わるんです」

 

「気持ちで速くなる、みたいな話か」

 

「それとは違います」

 

今度は少しだけ語気が強くなった。反論、というより、そこだけは間違えないでほしい、という声だった。

 

「もっと、体の話です」

 

ミナトは資料の写真を見たまま、少しだけ前のめりになった。

 

「走ってるときって、いろんなものが入ってくるんです。後ろの足音とか、客席の声とか、自分の息とか。全部ばらばらなのに、走ってる間は、それが一つの方向に集まる感じがするんですよ」

 

「一つの方向」

 

「はい」

 

ミナトは小さく頷いた。

 

「それが、好きでした」

 

過去形だった。

 

けれど、声の奥にあるものは、今も少し熱を持っていた。

 

秋月はその温度差に、目を細めた。

 

さっきまで、桐生に牛乳を出していたミナトと、今、走っている最中の話をしているミナトは、同じ人物のはずだった。だが、声の中に入っている熱が違う。

 

研究室で牛乳の開封日を気にしているミナト。

 

資料の中で、ミナトレーヴと記されているウマ娘。

 

その二つが、同じ部屋の中に並んでいる。

 

どちらも嘘ではない。

 

どちらも本物だ。

 

だが、同じようには呼べない気がした。

 

桐生がそこで、資料に視線を落としたまま口を開いた。

 

「数字は、後から見るためには便利です」

 

「だろうな」

 

「でも、走っている本人が何を拾っていたかは、ほとんど残りません」

 

秋月は桐生を見た。

 

桐生は資料を指で軽く押さえた。

 

「だから、本人に聞くしかない」

 

「研究者らしいな」

 

「聞いて、記録する」

 

「記録はします」

 

桐生はそこで、一度だけミナトを見た。

 

「ただ、記録にした時点で、少し別のものになります」

 

ミナトは何も言わなかった。

 

その沈黙は、不快そうではなかった。

 

ただ、もう知っていることを改めて言われたときの沈黙だった。

 

秋月は、資料の左上にもう一度目を落とした。

 

ミナトレーヴ。

 

走っていた頃の彼女が、そこに閉じ込められているわけではない。

 

けれど、その名前で呼ばれるとき、今ここにいるミナトとは別の扉が開く。

 

そんな気がした。

 

秋月は、資料の数字をもう一度見た。

 

さっきと同じ数字だ。通過タイム、位置取り、上がりの速度。何も変わっていない。

 

けれど、見え方は少し変わっていた。

 

数字は終わった後に残るものだ。

 

走っている最中の体の向きや、客席の音や、勝敗がまだ固まっていない時間は、そこには残らない。

 

「秋月さん、やっぱり飲みます?」

 

不意にミナトが言った。

 

「……もらう」

 

ミナトは何も言わずにコップを取り出した。桐生が資料から目を上げずに小さく笑う。

 

ミナトは秋月のコップに牛乳を注いで、机の上に置いた。秋月は受け取りながら、ミナトの手元を一度見た。コップの底を持つ指の力の入り方が、ちゃんとしていた。雑に扱う動作ではない。長くこの動作をやってきた人間の手だった。

 

秋月は受け取ったコップを両手で持ちながら、また資料に視線を戻した。

 

走っている最中の感じは、数字には出ない。

 

だが、その感じが走りを作っている。

 

その感じが、終わったあとも残っている。

 

だから、歌う。

 

点と点が、線になりかけている。だが、まだ繋がっていない。

 

何かが、あと少しのところにある気がした。

 

「ちょっといいですか」

 

ミナトが突然立ち上がった。

 

「何がだ」

 

「動きたいので」

 

それだけ言って、部屋の奥へ歩いていく。本棚と壁の間に、人一人分くらいの隙間がある。最初に来たとき、何のためのスペースか分からなかった。今は分かる。ミナトのための場所だ。

 

その隙間は、本棚を一列ずらすだけで簡単に埋められる場所だった。だが、埋められていない。意図して空けてあるのではない。だが、空いている状態が二人の間で続いている。

 

それは、桐生がそうしているのか、ミナトがそうしているのか、両方なのか、秋月には分からなかった。

 

ミナトは壁に手をついて、軽くふくらはぎを伸ばし始めた。会話しながらやる感じで、特に儀式めいたところはない。ただ、体が要求しているからやる、という感じだった。

 

「毎日やってるのか」

 

「大体です」

 

「リハビリか」

 

「リハビリというか…」

 

ミナトは少し考えた。

 

「習慣です」

 

「走れるようになるためか」

 

「それもありますけど」

 

ミナトは壁から手を離して、今度は上半身を軽くひねった。首を左右に動かす。どの動作も、余計な力が入っていない。長年繰り返してきた体の動かし方だった。

 

走る前の動作に似ていた。

 

走らないのに、走る前の体になっている。

 

秋月は、そのことに気づいた。

 

ミナトは壁に片手をついたまま、足首をゆっくり回した。

 

右、左。

 

同じ動きのはずなのに、左だけ少し時間がかかる。

 

本人はそれを隠そうとはしていない。ただ、見せようともしていない。毎日同じことをしている人間の、慣れた遅れだった。秋月はその遅れを見て、すぐに目を逸らすことも、見続けることもできなかった。

 

桐生は何も言わない。

 

資料を見ている。見ているように見える。だが、ページはめくられていない。

 

ミナトはそれに気づいているのか、いないのか。どちらでもよさそうだった。見られていることが負担になっているようには見えない。かといって、安心しているようにも見えない。

 

ただ、その視線も含めて、いつものことなのだろう。

 

ミナトは軽く膝を曲げる。

 

戻す。

 

もう一度、曲げる。

 

それだけで、部屋の空気が少し変わった。

 

研究室の中に、ほんの少しだけトラックの気配が入ってくる。音はない。歓声もない。だが、ミナトの体が作る間合いだけが、ここではない場所を思い出している。

 

秋月は、資料の写真を思い出した。

 

ゲート前で膝を軽く曲げていたミナトレーヴ。

 

今、目の前で同じように膝を緩めているミナト。

 

同じ体だった。

 

だが、同じ時間にはいなかった。

 

「……レースの時間だけじゃないんだな」

 

秋月が言うと、ミナトが足を止めた。

 

「何がですか」

 

「走ることだよ」

 

ミナトは少しだけ考えた。

 

「そうですね」

 

驚いた様子はなかった。秋月がやっとそこに来た、という顔でもない。ただ、そう聞かれたから、そう答えたという顔だった。

 

「いつからそうなる」

 

「レースに出るようになってからだと思います」

 

ミナトは壁に手をついたまま言った。

 

「走ってない時間にも、体がそっちを覚えるようになりました」

 

秋月は資料に目を戻した。

 

通過タイム。位置取り。上がりの速度。

 

そこには、終わった後の数字だけが並んでいる。

 

今、壁際で体を動かしているミナトは、その数字の外側にいた。

 

「レースは終わるんだろ」

 

「終わります」

 

「でも、体は残る」

 

「残ります」

 

ミナトはそう言って、床を一度だけ爪先で押した。

 

その一回で、秋月はそれ以上聞くのをやめた。

 

桐生はいつの間にか資料を閉じていた。

 

「聞いてたか」

 

「聞いてました」

 

「どう思う」

 

「今の方が、記録より分かりやすいですね」

 

それだけ言って、桐生はミナトの足元を見た。

 

ミナトは何も言わず、椅子に戻った。さっきまで動いていた体が、少しずつ静かになっていく。

 

秋月には、それを待っている時間の方が、桐生の説明より長く感じられた。

 

「ライブは、走りの続きなのか」

 

秋月が聞くと、ミナトは少し困ったように笑った。

 

「分けて考えたこと、あまりないです」

 

「分けない?」

 

「はい」

 

ミナトはコップを両手で持ったまま、少し視線を落とした。

 

「走り終わったあとって、まだ体がそこにいる感じがするんです。勝ったとか、負けたとか、あそこで踏み出せたとか、踏み出せなかったとか。そういうのが、まだ残ってて」

 

「それを歌う」

 

「はい」

 

そこで一度、ミナトは言葉を止めた。

 

「歌うと、帰れるんです」

 

秋月は顔を上げた。

 

「帰れる?」

 

「はい。少なくとも、その日は」

 

ミナトは少しだけ笑った。

 

きれいな答えではなかった。

 

だが、秋月にはその方が近い気がした。

 

終わる、とか、続く、とかではない。

 

帰れる。

 

その言葉だけが、研究室の薄暗さの中で、妙に生活に近かった。

 

帰れる。

 

秋月はその言葉を、頭の中で何度か転がした。

 

走り終えるでもない。

 

納得するでもない。

 

救われるでもない。

 

帰れる。

 

それは駅に向かうことでもあり、寮の部屋に戻ることでもあり、シャワーを浴びて、着替えて、明日の予定を見ることでもあるのだろう。勝った日も、負けた日も、体の中に残ったものを抱えたままでは、たぶんそこへ戻れない。

 

戻れたとしても、どこかでまだトラックに立っている。

 

ミナトはそういうことを言っているのかもしれなかった。

 

秋月は、ライブの帰り道を思い出した。

 

客たちは駅へ向かっていた。物販の袋を持ち、スマートフォンを見せ合い、最後の直線の話をしていた。誰も大げさなことは言っていない。だが、みな少しずつ、会場から何かを持ち出していた。

 

あれは、帰っていたのだ。

 

ただ出口を抜けていたのではない。

 

帰れる形になるまで、少しずつ歩いていた。

 

秋月はそう思ってから、少しだけ嫌な顔をした。

 

また言葉が先に立ちかけている。

 

気づいたことを、すぐに整えようとする。

 

見たものを、すぐに記事の形へ寄せようとする。

 

その癖が、自分の中で勝手に動く。

 

ミナトはコップを両手で持っていた。中の牛乳はほとんど減っていない。話しながら、指先だけが紙コップの縁を軽く押している。

 

彼女は説明しているつもりなのだろうか。

 

それとも、ただ自分の体の話をしているだけなのか。

 

秋月には、まだ分からなかった。

 

秋月はコップを机に置いた。

 

「……続けていいか」

 

「どうぞ」

 

ミナトが答える。

 

「勝ちたいとは思うんだろ」

 

「思います…めちゃくちゃ」

 

「めちゃくちゃ」

 

即答だった。その語気に、初めてはっきりとした熱が出た。

 

秋月はその温度差に、少しだけ目を細めた。

 

さっきまで静かに体を動かしていた人間が、勝ちたい、と言った瞬間だけ声が変わった。その声の中には、現役のときのミナトがまだいた。

 

怪我で走れなくなって二年経っても、勝ちたい、と言うときの声は、走っていた頃のままだった。

 

「それも、歌に出るのか」

 

ミナトは少しだけ考えた。

 

「……出ると思います」

 

「どういう形で」

 

「勝ったときと負けたときで、歌い方が変わるので」

 

「変わる?」

 

「全然違います」

 

「どっちが好きだ」

 

ミナトは一瞬だけ間を置いた。

 

「勝ったとき、ですね」

 

「当たり前か」

 

「当たり前です」

 

少しだけ笑った。だが、その笑い方には、さっきとは違う重みがあった。

 

「でも、負けたときの方が、残るんですよ」

 

「負けた方が?」

 

「はい」

 

ミナトは視線を少しだけ落とした。

 

「勝ったときは、うれしくて、近くて、ちょっと眩しい感じがするんですよ。だから、歌うと少し遠くなって、ちょうどよくなる」

 

「ちょうどよくなる」

 

「はい。でも、負けたときは遠すぎるので」

 

「遠すぎる?」

 

「はい。結果が先に来て、走った感じが遠くなるので」

 

「だから歌うと近づく?」

 

「近づきます」

 

ミナトは少しだけ前を向いた。

 

「歌うと、勝っても負けても、走ったこととの距離がちょうどよくなるんです」

 

秋月はその言い方を、しばらく黙って受け取った。

 

走ったこととの距離。

 

勝ったときは近すぎる。負けたときは遠すぎる。歌うと、ちょうどよくなる。

 

それは、二章で見た「残る」という話と同じ根っこを持っている。だが、今回は角度が違う。距離の話だ。

 

「ちょうどよくなると、どうなる」

 

「置けます」

 

「置ける」

 

「はい。自分の中だけに抱えなくていい感じになります」

 

秋月は少しだけ息を吐いた。

 

近すぎるものを遠くする。

 

遠すぎるものを近くする。

 

その調整として、歌がある。

 

そして秋月は、その場所が、今のミナトには無いのだということに、ようやく気づいた。

 

レースが無いから、ライブが無い。

 

ライブが無いから、ちょうどよくする場所が無い。

 

だから、ミナトは研究室の隅で体を動かす。

 

動かしても、それはちょうどよくする動作にはならない。なるとしたら、別の場所、別の人間との間でだ。

 

桐生が、そのことに気づいているのか、いないのか。

 

秋月にはまだ分からなかった。

 

「桐生」

 

「なんです」

 

「お前、この研究、どこまで行くつもりだ」

 

桐生は少しだけ間を置いた。

 

「どこまで、ですか」

 

「ミナトの走りのデータ見て、何を出したいんだ」

 

「何を出したいか、は決めてないです」

 

「じゃあ何をやってるんだ」

 

「気になるから、見てます」

 

「それだけか」

 

「それだけです」

 

あっさりしていた。

 

秋月は少しだけ苛立った。

 

「研究者として、もう少し目的があるんじゃないのか」

 

「目的より先に、気になることがあるので」

 

桐生はそこで初めて資料から顔を上げた。

 

「秋月さんも、最初は同じだったんじゃないですか」

 

「同じ?」

 

「なんで歌うんだ、って最初に言ってましたよね」

 

「……言ったな」

 

「目的があって聞いたわけじゃないでしょう」

 

「ただ、引っかかったから聞いた」

 

「そうです」

 

桐生は頷く。

 

「気になることが先にある。それで十分だと思いますよ」

 

秋月は何も言えなかった。

 

記者として二十年、取材には常に目的があった。何を書くか、誰に届けるか、何を明らかにするか。引っかかりはあっても、それはすぐに取材の目的に変換されてきた。

 

だが今は、まだ目的になっていない。ただ、気になっている。

 

桐生も同じだった。ミナトのデータを見ているが、何を出したいかは決まっていない。気になっている。それだけだ。だが、その「それだけ」を二年以上続けているということは、気になることの中身が、たぶん深い。

 

「ミナト」

 

「はい?」

 

「お前にとって、走ることは何だ」

 

ミナトは少しだけ目を丸くした。

 

「大きい質問ですね」

 

「答えられないか」

 

「答えられますけど」

 

ミナトは少し考えたあと、コップを机に置いた。

 

「たぶん、今話したこと全部です」

 

「全部?」

 

「はい。数字に出ないことも、体に残ることも、歌うと少し楽になることも」

 

そこで、少しだけ笑う。

 

「一言で言うと、だいたい嘘になります」

 

秋月は黙った。

 

その答えの方が、ミナトらしかった。

 

うまい言葉にまとめる気がない。

 

まとめると、こぼれるものがあると知っている。

 

「じゃあ、書けないな」

 

「書けますよ」

 

「どうやって」

 

「秋月さんが、見た通りに書けばいいんじゃないですか」

 

ミナトは何でもないことのように言った。

 

秋月は返事をしなかった。

 

見た通りに書く。

 

それが一番難しいことを、この女はたぶん知らない。

 

いや、知っていて言っているのかもしれない。

 

部屋の中は静かだった。

 

冷蔵庫の低い駆動音。ペンが机に当たる小さな音。ミナトがコップを机に置く音。

 

どれも小さいのに、薄くはならない。

 

秋月は資料の数字をもう一度見た。

 

さっきと同じ数字だ。だが、見え方が変わっている。

 

数字の向こうに、走っていたミナトがいる。体が全部前へ向いている時間がある。その感じが、レースが終わったあとも体にあって、歌うことで外に出て、観客に見てもらって、少し落ち着く。

 

それが、当然として成立している世界がある。

 

「……なあ」

 

秋月はぽつりと言った。

 

「はい」

 

「お前、走れなくなって、何が一番変わったと思う」

 

ミナトは少しだけ間を置いた。今回も、すぐには答えなかった。

 

「……外に出せなくなったことですかね」

 

「出せなくなった?」

 

「はい。体の中に前へ向いてるものが、あるじゃないですか」

 

「ある」

 

「それを、レースで外に出して、ライブでもう一回出して、置くことができなくなったので」

 

「それが一番変わったことか」

 

「はい」

 

ミナトは静かに言った。

 

「走れないのは分かってたんですけど」

 

少しだけ間が落ちた。

 

「それができなくなるとは、思ってなかったので」

 

秋月は何も言わなかった。

 

その一言だけが、今日聞いた言葉の中で、一番重かった。

 

感傷ではない。ミナトの口調は、今日ずっとそうだったように、事実として言っている。だが、その事実の重さだけが、この部屋に静かに残った。

 

外に出せなくなった、ということは、ミナトの中に、出すべきものが今もあるということだ。

 

出口がないだけだ。

 

出口がない状態が、二年続いている。

 

それは、走れない、というよりも重い話だった。走れないのは、医療や時間の問題かもしれない。だが、出口がない、というのは、場所と関係の問題だ。

 

桐生が、そこで初めて資料を完全に閉じた。

 

紙の擦れる音が、思ったより大きく聞こえた。

 

それまで部屋の中にあったものが、そこで一度区切られた気がした。桐生が何かを言ったわけではない。ミナトに声をかけたわけでもない。ただ資料を閉じただけだ。

 

それでも、秋月には分かった。

 

桐生は、いまの言葉を記録の側には置かなかった。

 

資料の上に積む言葉ではない。

 

数字の横に書き込むものでもない。

 

少なくとも今は。

 

ミナトはその音に反応しなかった。反応しなかったように見えた。けれど、コップを持つ指がほんの少し緩んだ。

 

秋月はそれを見て、また何も言えなくなった。

 

この研究室では、何かが言葉になる前に、先に置かれる場所がある。資料の上ではない。会話の中でもない。桐生の沈黙と、ミナトの手元と、冷蔵庫の低い音の間に、いったん置かれる。

 

そこに置かれたものが、あとで研究になるのか、ただの日常になるのかは分からない。

 

たぶん、桐生自身にも分かっていない。

 

何も言わない。ただ、閉じた。

 

その動作を、秋月は見ていた。

 

桐生はたぶん、ミナトの「出口がない」状態を、ずっと前から知っていた。知った上で、自分の研究室にミナトを置いている。

 

研究室は、走る場所ではない。歌う場所でもない。だが、桐生の研究室にいるあいだ、ミナトは少なくとも一人ではない。

 

出口は無いが、そばに人はいる。

 

それが、桐生がミナトに対してできることなのかもしれなかった。

 

秋月はそれを見て、少しだけ息を吐いた。

 

「……桐生の研究室にいるのは」

 

秋月は小さく言った。独り言に近かった。

 

「はい?」

 

ミナトが聞き返す。

 

「いや」

 

秋月は首を振った。

 

だが、言いかけた言葉の続きは、自分の中ではっきりしていた。

 

ここでは、走りの話ができる。数字で整理する人間がいる。ミナトの感じ方を、当然として受け取る人間がいる。

 

それが、出せないことの代わりになっているかどうかは分からない。

 

だが、それでもここにいる。

 

秋月はコップを置いた。

 

「……もう一個だけ聞いていいか」

 

「どうぞ」

 

「また走れると思うか」

 

ミナトは少しだけ間を置いた。

 

「分からないです」

 

「分からない、か」

 

「はい」

 

「でも、体は前を向いてる」

 

「向いてます」

 

「向いたまま、ここにいる」

 

「ここにいます」

 

その答えに、秋月は何も返さなかった。

 

返せなかった、というより、返す必要がなかった。

 

ミナトは今日ずっと、そういう話をしていた。終わっても体に残る。残ったものは外に出す。外に出せなくなっても、前を向いているものはまだここにある。

 

それが、走ることの全部だ、という話を。

 

桐生は、ミナトの「ここにいます」という言葉を、聞いていた。聞いた上で、何も言わなかった。だが、聞いていたことは秋月には分かった。

 

聞いていた、ということが、この研究室の温度だった。

 

窓の外が少し暗くなっていた。気づけば、かなり時間が経っていた。

 

「そろそろ」

 

桐生が言う。

 

「ああ」

 

秋月は立ち上がった。

 

ミナトがコップを集めて、流し台へ向かう。水の音がする。それもまた、今日何度も聞いた音だった。

 

ミナトは流し台で、コップを一つずつ丁寧に洗っていた。雑な洗い方ではなかった。長くこの動作をやってきた人間の手だった。

 

秋月は上着を取りながら、もう一度だけ資料の数字を見た。

 

さっきと同じ数字だ。

 

だが、もうただの数字には見えなかった。

 

数字の向こうに、走っていたミナトがいる。そして、走らなくなった今のミナトもいる。二人とも、同じ体の中にいる。

 

出口のない状態で、二年。

 

それでも、まだ体は前を向いている。

 

秋月はそれを、まだ言葉にできない形で、少しだけ受け取っていた。





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静かな話ではありますが、秋月たちの歩みをもう少し見守っていただければ幸いです。
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