研究室は、秋月が最初に想像していたより狭かった。
本棚が三方を埋めていて、机が二つ。窓は一つ。日当たりは悪くないが、本の背表紙が光を吸うせいで、部屋全体はどこか薄暗い。
その隙間に、調理器具と食材が自然に混ざっている。電気ケトルの隣に論文の束が積んであり、その上に、ミナトが昨日買ってきたらしいバナナが一房置いてある。
研究室というよりは、誰かの居住空間に研究の道具が紛れ込んでいる、という感じだった。机の周りに本が積み上がっているのは普通だが、その本の上にバナナが置かれているのは普通ではない。
だが、二度目、三度目と来るうちに、その配置にも理由があるように思えてきた。
全部が整っているわけではない。
ただ、人が倒れずに動くための場所だけは、きちんと空いている。
ケトルの周り。流しの前。冷蔵庫の開く幅。桐生の椅子の後ろ。
そこだけは、いつ来ても妙に保たれていた。
たぶん、ミナトがそうしている。
片付けている、というより、通り道を作っている。
その通り道は、きれいに掃除された場所というわけではなかった。
床の隅には、読み終えたのか途中なのか分からない資料の束が寄せられている。椅子の背には薄いカーディガンがかかっていて、机の下には紙袋が二つ押し込まれていた。どれも片付いてはいない。だが、足を引っかける位置には置かれていない。
誰かが通る場所だけ、ものが避けられている。
桐生のためなのか、ミナト自身のためなのかは分からない。たぶん、どちらでもあるのだろう。
秋月は、そういう整い方をあまり見たことがなかった。新聞社のデスクは散らかっているか、片付いているかのどちらかだ。締切前なら、散らかっている方が普通だった。だが、この研究室の散らかり方は、それとも違う。
生活があって、研究があって、そこにミナトの動く幅だけが残されている。
部屋全体が、誰かを中心に整えられているわけではない。
ただ、誰かが倒れないようにはできている。
「あれ、牛乳……」
ミナトが冷蔵庫を開けたまま、奥を覗き込んでいる。パックを取り出して、側面の日付を見た。
後ろで椅子が軋む音がする。
「それ、昨日開けたやつ?」
「はい。昨日です」
振り返らずに答える。
それから、注ぎ口を開けて、ほんの少しだけ匂いを確かめた。
「……使わない方がいいです」
「まだいけそうだけど」
「先生がそう言うときは、だいたい駄目です」
「信用がないですね」
「ありますよ。違う方向に」
ミナトはパックを流しに置き、代わりに未開封の小さい紙パックを冷蔵庫の奥から取り出した。
「こっち使います」
桐生は何か言いかけて、やめた。
「ありがとうございます」
「あと、開けた日は書いてください」
「研究室で牛乳に日付を書くんですか」
「研究室だからです」
桐生はそれ以上何も言わなかった。机に広げたままの資料から視線も動かさない。
ミナトはコップに牛乳を注ぎ、桐生の机の端に置いた。置く場所に迷いがない。資料に当たらず、桐生の手が自然に届く位置だった。
秋月は、そのやり取りを少し離れた位置から見ていた。
「ありがとう」
桐生は顔を上げずに受け取った。
「どうぞ」
やり取りはそれだけだった。受け取り方にも、渡し方にも、特別な気配はない。こういうものが来ると知っていた手の動きだった。
「……お前、毎回やってるのか」
「何がですか?」
「今の」
「牛乳ですか?」
「そうじゃなくて」
言いかけて、言葉を選ぶ。
「用意するのが当たり前みたいだったから」
ミナトは少しだけ考えてから、ああ、と頷いた。
「そうですね。たぶん、そうです」
「たぶん?」
「毎回意識してるわけじゃないので」
コップをもうひとつ取り出して、自分の分も注ぐ。
「気づいたらやってる、っていう感じです」
「頼まれてるわけじゃないんだろ」
「はい」
「でもやる」
「やりますね」
迷いがなかった。
「理由は?」
ミナトは少しだけ首を傾げた。
「別に、やらない理由もないですし」
軽く笑う。
「先生、こういうの気にしないんで」
「気にしないから、やる?」
「放っておくと、忘れることもあるので」
「忘れる?」
「飲むの」
秋月は一瞬、言葉を止めた。
桐生はその間も、特に反応しなかった。コップを持ったまま、資料のページをめくる。
「飲んだ方がいいじゃないですか」
ミナトはそう言って、自分のコップを両手で持った。
それで終わり、という口調だった。
秋月はそのまま黙った。
丁寧で、自然で、何も問題がない。だが何かが引っかかる。
引っかかるのは、世話の細かさではなかった。世話を焼く人間は、世の中に珍しくない。
気になったのは、その細かさが、桐生にほとんど波を立てていないことだった。
桐生は断らない。大げさに感謝もしない。ただ受け取る。
ミナトも、受け取られることを特別扱いしない。
その薄い温度のまま続いていることが、秋月には妙に見えた。
「秋月さんも飲みます?」
「いや、大丈夫だ」
「そうですか」
ミナトは特に気にした様子もなく、コップを戻した。
沈黙が少しだけ落ちる。
秋月は視線を机の上に移した。
資料の端に、走行データらしき数値が並んでいる。通過タイム、位置取り、上がりの速度。日付、競技場名、距離、馬場状態。見慣れない記号が多いが、記録として整理されていることだけは分かった。
その左上に、名前があった。
ミナトレーヴ。
秋月は、一瞬、別人の資料かと思った。
だが、隣に小さく印刷された写真には、見覚えがあった。ゲート前で膝を軽く曲げているウマ娘。今より少し髪が短い。目つきも違う。今のミナトより、少しだけ前を見すぎている。
けれど、横顔は間違いなくミナトだった。
「……これ、お前か」
秋月が言うと、ミナトは冷蔵庫の前からこちらを見た。
「はい」
返事は軽かった。
軽かったが、こちらへ来る足取りは少しだけ遅れた。
「ミナトレーヴ」
秋月はその名前を口にした。
声に出した瞬間、研究室の空気がわずかに変わった気がした。
ミナトは怒らなかった。嫌な顔もしなかった。ただ、ほんの少しだけ目を細めた。眩しいものを見るときの顔に近かった。
「昔の名前です」
「昔の名前、って言うのか」
「今も名前ですけど」
ミナトはそう言って、資料の端を指先で押さえた。
「でも、ここにあるのは昔のやつなので」
秋月は資料に目を落とした。
名前の下に、数字が並んでいる。通過順。ラップ。上がり。順位。評価値らしきもの。すべてが整っている。整いすぎているくらいだった。
「走行記録か」
「はい」
桐生が答えた。
「ミナトのか?」
「ミナトレーヴの記録です」
桐生はそう言った。
その言い方に、秋月は少しだけ引っかかった。
ミナトの記録、ではない。
ミナトレーヴの記録。
桐生は、隣にいる彼女を見るときと、資料の中の名前を見るときで、呼び方を分けている。
意識しているのか、していないのかは分からない。
だが、分けている。
「今見ると、変な感じですね」
ミナトが言った。
「何が変だ」
「ここにある私は、ちゃんと速いんですよ」
秋月は少し黙った。
その言い方が、妙に残った。
ちゃんと速い。
記録紙の中の彼女は、そうなのだろう。通過タイムも、位置取りも、上がりの速度も、きれいに並んでいる。そこにいるミナトレーヴは、走るものとして評価され、保存されている。
「今は違う、って言いたいのか」
「そういう意味じゃないです」
ミナトは首を振った。
「ただ、数字を見ると、そういう子がいたんだなって思います」
「自分のことだろ」
「自分のことです」
ミナトはあっさり認めた。
「でも、ちょっと遠いです」
秋月は資料の写真を見た。
ゲート前のミナトレーヴは、前を見ている。今ここにいるミナトは、その写真を横から見ている。どちらも同じ人物だ。けれど、同じ名前で呼ぶには、少し距離があるようにも見えた。
ミナトは資料の端を指で軽く押さえたまま、しばらく黙っていた。
その沈黙を、秋月は急かさなかった。
やがてミナトが口を開いた。
「数字には出ないものがあるので」
「数字に出ない?」
「はい」
「たとえば何だ」
ミナトは少しだけ考えた。
「走ってる最中の感じ、ですかね」
「感じ」
「はい。タイムには出ないんですよ、あれは」
秋月は眉を寄せる。
「それは……主観の話じゃないのか」
「主観です」
ミナトはあっさり認めた。
「でも、その主観で走り方が変わるんです」
「気持ちで速くなる、みたいな話か」
「それとは違います」
今度は少しだけ語気が強くなった。反論、というより、そこだけは間違えないでほしい、という声だった。
「もっと、体の話です」
ミナトは資料の写真を見たまま、少しだけ前のめりになった。
「走ってるときって、いろんなものが入ってくるんです。後ろの足音とか、客席の声とか、自分の息とか。全部ばらばらなのに、走ってる間は、それが一つの方向に集まる感じがするんですよ」
「一つの方向」
「はい」
ミナトは小さく頷いた。
「それが、好きでした」
過去形だった。
けれど、声の奥にあるものは、今も少し熱を持っていた。
秋月はその温度差に、目を細めた。
さっきまで、桐生に牛乳を出していたミナトと、今、走っている最中の話をしているミナトは、同じ人物のはずだった。だが、声の中に入っている熱が違う。
研究室で牛乳の開封日を気にしているミナト。
資料の中で、ミナトレーヴと記されているウマ娘。
その二つが、同じ部屋の中に並んでいる。
どちらも嘘ではない。
どちらも本物だ。
だが、同じようには呼べない気がした。
桐生がそこで、資料に視線を落としたまま口を開いた。
「数字は、後から見るためには便利です」
「だろうな」
「でも、走っている本人が何を拾っていたかは、ほとんど残りません」
秋月は桐生を見た。
桐生は資料を指で軽く押さえた。
「だから、本人に聞くしかない」
「研究者らしいな」
「聞いて、記録する」
「記録はします」
桐生はそこで、一度だけミナトを見た。
「ただ、記録にした時点で、少し別のものになります」
ミナトは何も言わなかった。
その沈黙は、不快そうではなかった。
ただ、もう知っていることを改めて言われたときの沈黙だった。
秋月は、資料の左上にもう一度目を落とした。
ミナトレーヴ。
走っていた頃の彼女が、そこに閉じ込められているわけではない。
けれど、その名前で呼ばれるとき、今ここにいるミナトとは別の扉が開く。
そんな気がした。
秋月は、資料の数字をもう一度見た。
さっきと同じ数字だ。通過タイム、位置取り、上がりの速度。何も変わっていない。
けれど、見え方は少し変わっていた。
数字は終わった後に残るものだ。
走っている最中の体の向きや、客席の音や、勝敗がまだ固まっていない時間は、そこには残らない。
「秋月さん、やっぱり飲みます?」
不意にミナトが言った。
「……もらう」
ミナトは何も言わずにコップを取り出した。桐生が資料から目を上げずに小さく笑う。
ミナトは秋月のコップに牛乳を注いで、机の上に置いた。秋月は受け取りながら、ミナトの手元を一度見た。コップの底を持つ指の力の入り方が、ちゃんとしていた。雑に扱う動作ではない。長くこの動作をやってきた人間の手だった。
秋月は受け取ったコップを両手で持ちながら、また資料に視線を戻した。
走っている最中の感じは、数字には出ない。
だが、その感じが走りを作っている。
その感じが、終わったあとも残っている。
だから、歌う。
点と点が、線になりかけている。だが、まだ繋がっていない。
何かが、あと少しのところにある気がした。
「ちょっといいですか」
ミナトが突然立ち上がった。
「何がだ」
「動きたいので」
それだけ言って、部屋の奥へ歩いていく。本棚と壁の間に、人一人分くらいの隙間がある。最初に来たとき、何のためのスペースか分からなかった。今は分かる。ミナトのための場所だ。
その隙間は、本棚を一列ずらすだけで簡単に埋められる場所だった。だが、埋められていない。意図して空けてあるのではない。だが、空いている状態が二人の間で続いている。
それは、桐生がそうしているのか、ミナトがそうしているのか、両方なのか、秋月には分からなかった。
ミナトは壁に手をついて、軽くふくらはぎを伸ばし始めた。会話しながらやる感じで、特に儀式めいたところはない。ただ、体が要求しているからやる、という感じだった。
「毎日やってるのか」
「大体です」
「リハビリか」
「リハビリというか…」
ミナトは少し考えた。
「習慣です」
「走れるようになるためか」
「それもありますけど」
ミナトは壁から手を離して、今度は上半身を軽くひねった。首を左右に動かす。どの動作も、余計な力が入っていない。長年繰り返してきた体の動かし方だった。
走る前の動作に似ていた。
走らないのに、走る前の体になっている。
秋月は、そのことに気づいた。
ミナトは壁に片手をついたまま、足首をゆっくり回した。
右、左。
同じ動きのはずなのに、左だけ少し時間がかかる。
本人はそれを隠そうとはしていない。ただ、見せようともしていない。毎日同じことをしている人間の、慣れた遅れだった。秋月はその遅れを見て、すぐに目を逸らすことも、見続けることもできなかった。
桐生は何も言わない。
資料を見ている。見ているように見える。だが、ページはめくられていない。
ミナトはそれに気づいているのか、いないのか。どちらでもよさそうだった。見られていることが負担になっているようには見えない。かといって、安心しているようにも見えない。
ただ、その視線も含めて、いつものことなのだろう。
ミナトは軽く膝を曲げる。
戻す。
もう一度、曲げる。
それだけで、部屋の空気が少し変わった。
研究室の中に、ほんの少しだけトラックの気配が入ってくる。音はない。歓声もない。だが、ミナトの体が作る間合いだけが、ここではない場所を思い出している。
秋月は、資料の写真を思い出した。
ゲート前で膝を軽く曲げていたミナトレーヴ。
今、目の前で同じように膝を緩めているミナト。
同じ体だった。
だが、同じ時間にはいなかった。
「……レースの時間だけじゃないんだな」
秋月が言うと、ミナトが足を止めた。
「何がですか」
「走ることだよ」
ミナトは少しだけ考えた。
「そうですね」
驚いた様子はなかった。秋月がやっとそこに来た、という顔でもない。ただ、そう聞かれたから、そう答えたという顔だった。
「いつからそうなる」
「レースに出るようになってからだと思います」
ミナトは壁に手をついたまま言った。
「走ってない時間にも、体がそっちを覚えるようになりました」
秋月は資料に目を戻した。
通過タイム。位置取り。上がりの速度。
そこには、終わった後の数字だけが並んでいる。
今、壁際で体を動かしているミナトは、その数字の外側にいた。
「レースは終わるんだろ」
「終わります」
「でも、体は残る」
「残ります」
ミナトはそう言って、床を一度だけ爪先で押した。
その一回で、秋月はそれ以上聞くのをやめた。
桐生はいつの間にか資料を閉じていた。
「聞いてたか」
「聞いてました」
「どう思う」
「今の方が、記録より分かりやすいですね」
それだけ言って、桐生はミナトの足元を見た。
ミナトは何も言わず、椅子に戻った。さっきまで動いていた体が、少しずつ静かになっていく。
秋月には、それを待っている時間の方が、桐生の説明より長く感じられた。
「ライブは、走りの続きなのか」
秋月が聞くと、ミナトは少し困ったように笑った。
「分けて考えたこと、あまりないです」
「分けない?」
「はい」
ミナトはコップを両手で持ったまま、少し視線を落とした。
「走り終わったあとって、まだ体がそこにいる感じがするんです。勝ったとか、負けたとか、あそこで踏み出せたとか、踏み出せなかったとか。そういうのが、まだ残ってて」
「それを歌う」
「はい」
そこで一度、ミナトは言葉を止めた。
「歌うと、帰れるんです」
秋月は顔を上げた。
「帰れる?」
「はい。少なくとも、その日は」
ミナトは少しだけ笑った。
きれいな答えではなかった。
だが、秋月にはその方が近い気がした。
終わる、とか、続く、とかではない。
帰れる。
その言葉だけが、研究室の薄暗さの中で、妙に生活に近かった。
帰れる。
秋月はその言葉を、頭の中で何度か転がした。
走り終えるでもない。
納得するでもない。
救われるでもない。
帰れる。
それは駅に向かうことでもあり、寮の部屋に戻ることでもあり、シャワーを浴びて、着替えて、明日の予定を見ることでもあるのだろう。勝った日も、負けた日も、体の中に残ったものを抱えたままでは、たぶんそこへ戻れない。
戻れたとしても、どこかでまだトラックに立っている。
ミナトはそういうことを言っているのかもしれなかった。
秋月は、ライブの帰り道を思い出した。
客たちは駅へ向かっていた。物販の袋を持ち、スマートフォンを見せ合い、最後の直線の話をしていた。誰も大げさなことは言っていない。だが、みな少しずつ、会場から何かを持ち出していた。
あれは、帰っていたのだ。
ただ出口を抜けていたのではない。
帰れる形になるまで、少しずつ歩いていた。
秋月はそう思ってから、少しだけ嫌な顔をした。
また言葉が先に立ちかけている。
気づいたことを、すぐに整えようとする。
見たものを、すぐに記事の形へ寄せようとする。
その癖が、自分の中で勝手に動く。
ミナトはコップを両手で持っていた。中の牛乳はほとんど減っていない。話しながら、指先だけが紙コップの縁を軽く押している。
彼女は説明しているつもりなのだろうか。
それとも、ただ自分の体の話をしているだけなのか。
秋月には、まだ分からなかった。
秋月はコップを机に置いた。
「……続けていいか」
「どうぞ」
ミナトが答える。
「勝ちたいとは思うんだろ」
「思います…めちゃくちゃ」
「めちゃくちゃ」
即答だった。その語気に、初めてはっきりとした熱が出た。
秋月はその温度差に、少しだけ目を細めた。
さっきまで静かに体を動かしていた人間が、勝ちたい、と言った瞬間だけ声が変わった。その声の中には、現役のときのミナトがまだいた。
怪我で走れなくなって二年経っても、勝ちたい、と言うときの声は、走っていた頃のままだった。
「それも、歌に出るのか」
ミナトは少しだけ考えた。
「……出ると思います」
「どういう形で」
「勝ったときと負けたときで、歌い方が変わるので」
「変わる?」
「全然違います」
「どっちが好きだ」
ミナトは一瞬だけ間を置いた。
「勝ったとき、ですね」
「当たり前か」
「当たり前です」
少しだけ笑った。だが、その笑い方には、さっきとは違う重みがあった。
「でも、負けたときの方が、残るんですよ」
「負けた方が?」
「はい」
ミナトは視線を少しだけ落とした。
「勝ったときは、うれしくて、近くて、ちょっと眩しい感じがするんですよ。だから、歌うと少し遠くなって、ちょうどよくなる」
「ちょうどよくなる」
「はい。でも、負けたときは遠すぎるので」
「遠すぎる?」
「はい。結果が先に来て、走った感じが遠くなるので」
「だから歌うと近づく?」
「近づきます」
ミナトは少しだけ前を向いた。
「歌うと、勝っても負けても、走ったこととの距離がちょうどよくなるんです」
秋月はその言い方を、しばらく黙って受け取った。
走ったこととの距離。
勝ったときは近すぎる。負けたときは遠すぎる。歌うと、ちょうどよくなる。
それは、二章で見た「残る」という話と同じ根っこを持っている。だが、今回は角度が違う。距離の話だ。
「ちょうどよくなると、どうなる」
「置けます」
「置ける」
「はい。自分の中だけに抱えなくていい感じになります」
秋月は少しだけ息を吐いた。
近すぎるものを遠くする。
遠すぎるものを近くする。
その調整として、歌がある。
そして秋月は、その場所が、今のミナトには無いのだということに、ようやく気づいた。
レースが無いから、ライブが無い。
ライブが無いから、ちょうどよくする場所が無い。
だから、ミナトは研究室の隅で体を動かす。
動かしても、それはちょうどよくする動作にはならない。なるとしたら、別の場所、別の人間との間でだ。
桐生が、そのことに気づいているのか、いないのか。
秋月にはまだ分からなかった。
「桐生」
「なんです」
「お前、この研究、どこまで行くつもりだ」
桐生は少しだけ間を置いた。
「どこまで、ですか」
「ミナトの走りのデータ見て、何を出したいんだ」
「何を出したいか、は決めてないです」
「じゃあ何をやってるんだ」
「気になるから、見てます」
「それだけか」
「それだけです」
あっさりしていた。
秋月は少しだけ苛立った。
「研究者として、もう少し目的があるんじゃないのか」
「目的より先に、気になることがあるので」
桐生はそこで初めて資料から顔を上げた。
「秋月さんも、最初は同じだったんじゃないですか」
「同じ?」
「なんで歌うんだ、って最初に言ってましたよね」
「……言ったな」
「目的があって聞いたわけじゃないでしょう」
「ただ、引っかかったから聞いた」
「そうです」
桐生は頷く。
「気になることが先にある。それで十分だと思いますよ」
秋月は何も言えなかった。
記者として二十年、取材には常に目的があった。何を書くか、誰に届けるか、何を明らかにするか。引っかかりはあっても、それはすぐに取材の目的に変換されてきた。
だが今は、まだ目的になっていない。ただ、気になっている。
桐生も同じだった。ミナトのデータを見ているが、何を出したいかは決まっていない。気になっている。それだけだ。だが、その「それだけ」を二年以上続けているということは、気になることの中身が、たぶん深い。
「ミナト」
「はい?」
「お前にとって、走ることは何だ」
ミナトは少しだけ目を丸くした。
「大きい質問ですね」
「答えられないか」
「答えられますけど」
ミナトは少し考えたあと、コップを机に置いた。
「たぶん、今話したこと全部です」
「全部?」
「はい。数字に出ないことも、体に残ることも、歌うと少し楽になることも」
そこで、少しだけ笑う。
「一言で言うと、だいたい嘘になります」
秋月は黙った。
その答えの方が、ミナトらしかった。
うまい言葉にまとめる気がない。
まとめると、こぼれるものがあると知っている。
「じゃあ、書けないな」
「書けますよ」
「どうやって」
「秋月さんが、見た通りに書けばいいんじゃないですか」
ミナトは何でもないことのように言った。
秋月は返事をしなかった。
見た通りに書く。
それが一番難しいことを、この女はたぶん知らない。
いや、知っていて言っているのかもしれない。
部屋の中は静かだった。
冷蔵庫の低い駆動音。ペンが机に当たる小さな音。ミナトがコップを机に置く音。
どれも小さいのに、薄くはならない。
秋月は資料の数字をもう一度見た。
さっきと同じ数字だ。だが、見え方が変わっている。
数字の向こうに、走っていたミナトがいる。体が全部前へ向いている時間がある。その感じが、レースが終わったあとも体にあって、歌うことで外に出て、観客に見てもらって、少し落ち着く。
それが、当然として成立している世界がある。
「……なあ」
秋月はぽつりと言った。
「はい」
「お前、走れなくなって、何が一番変わったと思う」
ミナトは少しだけ間を置いた。今回も、すぐには答えなかった。
「……外に出せなくなったことですかね」
「出せなくなった?」
「はい。体の中に前へ向いてるものが、あるじゃないですか」
「ある」
「それを、レースで外に出して、ライブでもう一回出して、置くことができなくなったので」
「それが一番変わったことか」
「はい」
ミナトは静かに言った。
「走れないのは分かってたんですけど」
少しだけ間が落ちた。
「それができなくなるとは、思ってなかったので」
秋月は何も言わなかった。
その一言だけが、今日聞いた言葉の中で、一番重かった。
感傷ではない。ミナトの口調は、今日ずっとそうだったように、事実として言っている。だが、その事実の重さだけが、この部屋に静かに残った。
外に出せなくなった、ということは、ミナトの中に、出すべきものが今もあるということだ。
出口がないだけだ。
出口がない状態が、二年続いている。
それは、走れない、というよりも重い話だった。走れないのは、医療や時間の問題かもしれない。だが、出口がない、というのは、場所と関係の問題だ。
桐生が、そこで初めて資料を完全に閉じた。
紙の擦れる音が、思ったより大きく聞こえた。
それまで部屋の中にあったものが、そこで一度区切られた気がした。桐生が何かを言ったわけではない。ミナトに声をかけたわけでもない。ただ資料を閉じただけだ。
それでも、秋月には分かった。
桐生は、いまの言葉を記録の側には置かなかった。
資料の上に積む言葉ではない。
数字の横に書き込むものでもない。
少なくとも今は。
ミナトはその音に反応しなかった。反応しなかったように見えた。けれど、コップを持つ指がほんの少し緩んだ。
秋月はそれを見て、また何も言えなくなった。
この研究室では、何かが言葉になる前に、先に置かれる場所がある。資料の上ではない。会話の中でもない。桐生の沈黙と、ミナトの手元と、冷蔵庫の低い音の間に、いったん置かれる。
そこに置かれたものが、あとで研究になるのか、ただの日常になるのかは分からない。
たぶん、桐生自身にも分かっていない。
何も言わない。ただ、閉じた。
その動作を、秋月は見ていた。
桐生はたぶん、ミナトの「出口がない」状態を、ずっと前から知っていた。知った上で、自分の研究室にミナトを置いている。
研究室は、走る場所ではない。歌う場所でもない。だが、桐生の研究室にいるあいだ、ミナトは少なくとも一人ではない。
出口は無いが、そばに人はいる。
それが、桐生がミナトに対してできることなのかもしれなかった。
秋月はそれを見て、少しだけ息を吐いた。
「……桐生の研究室にいるのは」
秋月は小さく言った。独り言に近かった。
「はい?」
ミナトが聞き返す。
「いや」
秋月は首を振った。
だが、言いかけた言葉の続きは、自分の中ではっきりしていた。
ここでは、走りの話ができる。数字で整理する人間がいる。ミナトの感じ方を、当然として受け取る人間がいる。
それが、出せないことの代わりになっているかどうかは分からない。
だが、それでもここにいる。
秋月はコップを置いた。
「……もう一個だけ聞いていいか」
「どうぞ」
「また走れると思うか」
ミナトは少しだけ間を置いた。
「分からないです」
「分からない、か」
「はい」
「でも、体は前を向いてる」
「向いてます」
「向いたまま、ここにいる」
「ここにいます」
その答えに、秋月は何も返さなかった。
返せなかった、というより、返す必要がなかった。
ミナトは今日ずっと、そういう話をしていた。終わっても体に残る。残ったものは外に出す。外に出せなくなっても、前を向いているものはまだここにある。
それが、走ることの全部だ、という話を。
桐生は、ミナトの「ここにいます」という言葉を、聞いていた。聞いた上で、何も言わなかった。だが、聞いていたことは秋月には分かった。
聞いていた、ということが、この研究室の温度だった。
窓の外が少し暗くなっていた。気づけば、かなり時間が経っていた。
「そろそろ」
桐生が言う。
「ああ」
秋月は立ち上がった。
ミナトがコップを集めて、流し台へ向かう。水の音がする。それもまた、今日何度も聞いた音だった。
ミナトは流し台で、コップを一つずつ丁寧に洗っていた。雑な洗い方ではなかった。長くこの動作をやってきた人間の手だった。
秋月は上着を取りながら、もう一度だけ資料の数字を見た。
さっきと同じ数字だ。
だが、もうただの数字には見えなかった。
数字の向こうに、走っていたミナトがいる。そして、走らなくなった今のミナトもいる。二人とも、同じ体の中にいる。
出口のない状態で、二年。
それでも、まだ体は前を向いている。
秋月はそれを、まだ言葉にできない形で、少しだけ受け取っていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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静かな話ではありますが、秋月たちの歩みをもう少し見守っていただければ幸いです。