改札を出たところで、秋月は一歩だけ歩幅を乱した。
転んだわけでも、誰かにぶつかりそうになったわけでもない。ただ、次の音が来なかった。
東京の駅なら、足音、案内放送、スーツケースの車輪、スマートフォンの通知音が順番を待たずに重なって、ひとつの塊になって耳の横を流れていく。秋月は無意識に、改札を抜けたそばからもう次が来るものとして構えていた。
ここでは違った。
自動改札の電子音がひとつ鳴り、止まった。その音が、消えるまでそのままあった。
コツ、と自分の革靴がタイルを打った。その音が、自分のものとして聞こえた。
東京なら、これが聞こえることはない。足音は最初から周りの音に溶けている。
ミナトは先に改札を出て、観光案内の看板の前に立っていた。頭の上の耳が地図を読みながら少し動いている。肩から下げたバッグの青いリボンが、歩いてきた余韻でまだわずかに揺れていた。
「タクシー乗り場、こっちです」
「バスは?」
「次が四十分後でした」
いつ確認したのかは知らない。秋月が構内を見回している間に、ミナトは時刻表まで見ていた。
桐生は少し離れたベンチで手帳を開いていた。文字を書いているのではなかった。線を引いている。地図なのか、何かの配置なのか、秋月の位置からは分からない。この男は何かを考えているとき、紙の上に形を作る。それが後でメモになることもあれば、そのまま手帳の奥に沈んでいくこともある。
「先生、行きますよ」
「あと一分」
「もう向かいます」
「分かった」
桐生は手帳を閉じた。立ち上がった拍子に、隣に置いていた紙袋をそのままにして歩き出しかける。ミナトが何も言わずに拾い、背中に差し出す。桐生は受け取りながら、もう改札の方を向いている。
この二人は、たぶんずっとこうなのだろう。
ロータリーに出ると、風が正面から吹いた。
広い。空が多い。人が少ない。タクシーが三台、間を置いて並んでいる。先頭の運転手がこちらを見た。東京なら客かどうかを判断したらすぐ次へ視線が動く。ここでは、判断の後に一拍ある。急ぐ必要がないから、確かめてから動く。そういう間の取り方だった。
先頭の車に乗り込んだ。ミナトが自然に助手席に座る。桐生と秋月が後部座席に並ぶ。桐生が後ろで考え事をする余白を、ミナトが最初から確保している。本人は何も言わない。
「ホテル神川まで」
「神川さん、五分ほどです」
車が動き出した。駅前の建物は、少し走るだけで低くなった。古い商店の屋根と、二階建ての住宅が交互に流れていく。屋根の上を、夕方近い陽が撫でていた。
ミナトは助手席の窓側に少し体を寄せて、外を見ていた。
信号で車が止まったとき、家と家の隙間から、一瞬だけ緑の帯が見えた。土手の上の草だ。その奥に、水面が低く光っている。
ミナトの耳が、わずかに前を向いた。
窓側に体を寄せたまま、しばらく外を見ている。
信号が変わって、車が動き出す。緑の帯はすぐに建物の陰に隠れた。だが、ミナトはまだ窓の外を見ていた。視線が、さっき緑が消えた方向に少し残ったままだった。
「川の遊歩道、走れますか」
運転手が、一度だけ横目でミナトの耳を見た。
「遊歩道なら問題ないですよ。ジョギングの人も来ますし」
「ありがとうございます」
「自転車だけ気をつけてください。飛ばす人がいるので」
それで終わった。名前は聞かない。レースの話にもならない。走るなら遊歩道を使えばいい、それだけだった。
秋月は後部座席から、ミナトの肩が一段落ちるのを見た。
ホテルは古いビジネスホテルだった。
フロントの年配の男性が、桐生の顔を見て少しだけ目を細めた。
「先生、今年も来てくれましたね」
「今年も来ました」
「いつもの部屋、空けてあります」
短いやり取りだった。だが「いつもの部屋」という言葉には、積み重なった時間がある。桐生がここに来たのは今回が初めてではない。いつから、何回来ているのかは聞いていない。おそらく桐生自身も数を数えていない。それでも、フロントの男は覚えている。そういう積み重ねがこの街にある。
荷物を置いて、すぐ外へ出た。
ミナトは靴を履き替えていた。駅で履いていた白いローファーから、底の薄い走りやすそうな靴に変わっている。普段着のままなのに、足元だけ変わると体全体が少し前傾きに見えた。
「川まで歩けるか」
秋月が言う前に、ミナトはもうバッグの口を閉じていた。
「すぐですから」
商店街を歩いた。
道は広くない。シャッターが下りている店もあるが、半分以上は開いている。八百屋の店先では老人が段ボールを積んでいた。魚屋から水の音が聞こえてくる。包丁がまな板を打つ。台車の車輪が段差で小さく音を立てる。
そのどれもが、押し合わずに聞こえた。
「静かだな」
秋月が言うと、ミナトは少しだけ首を傾けた。
「音はあるんですけどね」
それだけ言って、また前を向いた。
八百屋の前を通ったとき、店番の老人が顔を上げた。ミナトが会釈する。老人が返す。二人は知り合いではない。ただ通っただけだった。
「ここの人、よく会釈するな」
「通ったので」
ミナトはそれ以上説明しなかった。通ったので。東京では聞かない理由だった。
しばらく歩いたところで、ミナトが立ち止まった。
古いパン屋だった。窓越しに、女性が奥で生地を伸ばしているのが見える。看板の文字は手書きで、入口の鈴が少し錆びた金色をしていた。
「覚えてますか」
ミナトが桐生に言う。
「覚えてる」
「前に来たときのが、まだあるかな」
「入ってみたら」
ミナトが店に入った。桐生と秋月は外で待つ。
前に来た、という話は今まで出ていなかった。いつ来たのか、二人だけで来たのかは分からない。ただ、ミナトが「覚えてますか」と確認したとき、桐生はすぐに「覚えてる」と答えた。確かめる必要のない声だった。
数分して、ミナトが小さな紙袋を持って出てきた。
「ありました。先生が好きなやつ」
「いくらだった」
「私が出しました」
「返します」
「四つ買ったので、いいです」
桐生は紙袋を受け取ってポケットに入れた。すぐには食べない。
秋月が受け取ると、皮が少し焦げていて、上に砂糖が散っていた。一口食べると、中のカスタードが甘さを抑えてあった。東京でも似たものはある。だがこれはここで作られてここで売られているものだった。それが何を変えるかは分からない。ただ、うまかった。
「うまいな」
「ですよね」
「東京で売ってても不思議じゃない」
「ここで作ってるからじゃないですか」
当たり前のように言った。
商店街を抜け、家並みが低くなってきたあたりで、ミナトが急に立ち止まった。
小さな金物屋の前だった。店の向かいに古い自転車が一台置いてある。サドルの上に猫が座っていた。灰色で、前足をきちんと揃えて通りを見ている。
「覚えてますか」
今度は秋月ではなく、猫に言っていた。
猫は逃げなかった。ミナトの手の匂いを一度だけ嗅いで、興味を失ったように目を細めた。
桐生が横から言った。
「覚えてないと思う」
「先生よりは覚えてるかもしれません」
「なんで僕が比較対象なんですか」
「先生、パン屋の名前、言えますか」
「…場所は覚えてる」
「ほら」
秋月は少しだけ笑った。
こういう会話を聞いていると、二人の関係は余計に分からなくなる。世話を焼く側と焼かれる側、研究者と元競走ウマ娘、先生と助手。どの呼び方も間違っていないのに、どれか一つに決めると零れる。
猫が尻尾を一度だけ動かした。
ミナトは満足したように立ち上がった。
「行きましょう」
「猫はいいのか」
「店番中なので」
通りを抜けると、家並みが少しずつ低くなった。一軒家が増え、家と家の間に小さな畑が見える。空が広くなる。
ミナトが少し先を歩いていた。地図は出していない。前に来たときの順路を、足が覚えているらしい。曲がり角で一度だけ塀の上の植木鉢を見たが、確認というより目印に挨拶しているような視線だった。
「あ」
ミナトが立ち止まった。
「どうした」
「川の音」
秋月は耳を澄ませた。
たしかに、聞こえた。商店街にいたときは気づかなかったが、家並みが低くなった分、低く水の動く音が風に乗って届いている。
「前に来たときは、こんなに聞こえなかった気がします」
「水量か」
「たぶん」
ミナトはそれだけ言って、また歩き出した。歩幅が少しだけ広くなる。
家の屋根の向こうに、土手の盛り上がりが見えてきた。緑が、街並みのずっと先で帯になっている。ミナトが向かっているのはそこだった。ここに来るたび、ミナトはこの順番で川を聞き、土手を見て、上っているのだろう。秋月にはそれが、いつも来ている人の歩き方として読めた。
土手の手前に石碑があった。
苔はない。定期的に拭かれていて、文字がはっきりしていた。五十年前の水害で川がここまで来た、という記録だった。碑の上端は、秋月の胸の少し下あたりだった。
ミナトがその高さを指で示した。
「ここまで」
三人でしばらくそれを見た。
桐生が、長く見ていた。
この男が何かを長く見るとき、たいてい後になってから、別の話のついでに出してくる。今日かもしれないし、来月の電話かもしれない。秋月は十年付き合って、それをほぼ当てるようになっていた。今日は聞かなかった。
土手を上ると、川が広がった。
思ったより幅があった。水面は低く、夕方の光を細かく返している。対岸は低い家並みで、その向こうに鉄骨の照明塔が立っていた。
「レース場か」
「はい」
ミナトが川の方を向いたまま答える。
「地方のトレセンと併設の、小さい競技場です」
「向こうで走ったことがあるのか」
「小さい頃、記録会みたいなものがあって。何回か」
「覚えてるか」
「覚えてます」
そこでミナトの声が少しだけ変わった。変わった、というより、柔らかくなった。
「客席が近かったです。中央の場所みたいに音が上から来なくて、横から届く感じで。名前を呼ばれたら、誰が呼んでるか分かる距離です」
秋月は川の向こうを見た。
大きなレース場で見た、あの塊になって降ってくる声とは違う話だった。
「嫌じゃなかったのか」
「嫌なときもあります。逃げたくなる日も」
ミナトはそれをあっさり言った。あっさりしているのに、どこかで笑っていた。自分の過去を重くしすぎないように扱う笑い方だった。
「あそこでも、走ったあとに歌うのか」
秋月は川の向こうを見たまま聞いた。
「歌います。小さいところでも」
「大きな場所と違うか」
ミナトは少しだけ間を置いた。
「客席の顔が、全部見えます」
「全部?」
「はい。前の方に座ってる人は、どこの誰か分かる距離です。中央のレース場だと、そこまでは見えないです」
「それは、やりやすいのか。やりにくいのか」
「両方あります」
ミナトは川の向こうを見たまま続けた。
「顔が見えると、歌いながら、この人に届いてるかどうか分かるんです。届いてるときとそうじゃないときで、全然違くて」
「届いてない、というのが分かるのか」
「分かります。目が違うので。大きなレース場だと、光があって、音があって、全部が一緒にぶつかってくる感じです。小さいところは、それがない代わりに、ひとつひとつ届く感じがある」
秋月はその言い方を受け取った。
この前スタンドで見た、あの塊になって降ってくる熱とは別の話だった。大きいから良いわけでも、小さいから良いわけでもない。ただ、届き方が違う。
桐生は何も言わなかった。
遊歩道がまっすぐ伸びている。草は刈られていて、砂利が薄く混じっている。誰かが歩くことも走ることも、ちゃんと想定されている場所だった。
「走ってくる」
宣言だった。
ミナトはしゃがんで靴紐を結び直した。地面に指先をつける。押すほどではなく、触れて確かめる。それから紐を一度ほどいてもう一度結んだ。
立ち上がって、肩を回す。首を左右に倒す。足首を回す。右、左。左だけ少し時間がかかる。本人は気にしていない。長く繰り返してきた順番だった。
研究室の本棚と壁の間でやっていたのと、同じ動作だった。
研究室では、動かさないと落ち着かないからやっていた。今は、走るためにやっている。同じなのに、意味が違う。
「行ってきます」
ミナトは遊歩道へ降りた。
最初の二歩は、地面を確かめる踏み方だった。足の裏が何かと会話を始めている。三歩目から重心が前へ傾く。脚がそれを受け止め、腕が合わせて動き、髪が一拍遅れて揺れた。尾の先が弧を描く。
速くはない。
だが、歩いていたときとまったく違った。体全体がひとつの方向を持った。
スタンドから見た直線のときとも、研究室の隅で体を動かしていたときとも違う。あのどちらも、何かを出したいのに出せない体だった。今のミナトは走っている。
桐生がベンチに腰を下ろした。
「座るのか」
「座って見る」
ポケットから先ほどのパンを取り出して、包みを開けた。
秋月は諦めて隣に座った。
川沿いを歩いていた老夫婦が、少しだけ道を空けた。ミナトは頭を下げながら通り過ぎる。老夫婦が振り返る。数秒だけ見て、また歩き出した。それだけだった。
「怪我、完全に治ったのか」
「日常生活には支障がない」
桐生は少し間を置いてから答えた。
「レースは」
「出ていない」
「医者が止めているわけでもないのに」
「止めていない」
「走れるんだろ」
「走れる」
秋月はそこで桐生の横を見た。
桐生はパンを持ったまま、ミナトの方を見ていた。顔に何もない。困っているわけでも、判断を保留しているわけでもない。ただ、話している。
「もったいなくないのか、研究者として」
「もったいないとは思う」
それは少し意外な答えだった。
「では、なぜ言わないんだ」
「言ったら、走るかもしれないから」
秋月はすぐには返せなかった。
言ったら、走るかもしれない。
走ってほしいのに、言わない。言ってしまえば、それはもうミナトが決めたことではなくなる。データが欲しければ走ってもらえばいい。走れるなら尚更だ。だがこの男は、その一歩を踏まない。
「変な研究者だな」
「そうかもね」
桐生はパンをもう一口食べた。視線はずっとミナトの方だった。
遊歩道の先でミナトの背中が小さくなっていく。速さは上げていない。地面と呼吸を合わせながら、ゆっくり距離を重ねている。街が低く広い分、空が多い。川の光を受けて、ミナトの輪郭がどこかで切れずに続いていた。
秋月はそれを黙って見ていた。
研究室にあった走行記録のことを思った。数字が並んでいた。通過タイム、位置取り、上がりの速度。どれも今と同じ体で出した数字のはずだった。だが、あの紙の中にあったものと、今遊歩道を走っているミナトは、重なってもいたし、重ならなくもあった。数字が嘘だということではない。ただ、ここに来るまでは紙の上にしかいなかったものが、今は川沿いに動いている。
「桐生」
「うん」
「お前が研究で見たいのは、どっちだ」
「どっち?」
「記録の中にいるミナトレーヴか、今走ってるミナトか」
桐生は少しだけ間を置いた。
「今のを見てる」
「記録はいらないのか」
「記録があるから、今のが見える」
秋月は返事をしなかった。
その言い方は分かるような、分からないような答えだった。だが否定する気にもならなかった。紙の数字は、今を見るための手がかりであって、目的ではない。桐生の研究はたぶん、最初からそういう順番で動いている。
しばらく黙っていると、桐生がパンを膝に置いた。
食べるのをやめた、というより、手が止まった。ミナトの走りがどこかで変わったのかもしれない。秋月には分からなかったが、桐生は何かを拾ったのだろう。遊歩道の遠い方を見る目に、さっきまでとわずかに違う集中があった。
「何か変わったか」
秋月は小声で聞いた。
「フォームが少し前に出た」
「良いのか、悪いのか」
「良い」
桐生はそれだけ言った。
遠くでミナトが腕の振りを鋭くする。背中が前に傾いて、地面を踏む音の間隔が縮まった。流しているときとは違う走り方だった。体が何かを思い出している、という感じだった。
「あいつ、気づいてるのか。自分がそうなってることに」
「たぶん気づいてない」
「なぜそう思う」
「気づいてたら、もう少し控えめになる」
桐生はパンをまたひとつまみ取った。さっきまでの集中が、少しだけ緩んだ。だが、視線はまだミナトの方にあった。
秋月は、桐生がさっき「良い」と言ったときの声を頭の中で繰り返していた。
研究者の評価ではなかった。もっと手前にある声だった。走れない時間が二年あって、それでも今これだけ走れていることを、そのまま受け取っている声だった。
遊歩道の先でミナトが折り返した。速度を落とさず、きれいな弧を描いてこちらへ向かってくる。遠目でも、体が一本の線になっているのが分かった。
ミナトが戻ってきた。
速度を落として歩きに変え、少し歩いてから止まった。両手を腰に当て、深く息を吐く。首を回す。汗が首筋に薄く光っていた。
息は上がっている。だが荒れていない。整え方を知っている呼吸だった。
秋月が立とうとする前に、桐生がすでにそこにいた。ベンチから何歩もない距離なのに、ミナトが折り返してからここに着くまでの間に、いつの間にか立っていた。タオルを持っていた。いつ取り出したのか、秋月は見ていなかった。
「ありがとう」
ミナトはタオルを受け取り、首筋を拭いた。
「見てた?」
「見てた」
「どうでした」
「いい走りだった」
短かった。それだけだった。
それだけなのに、ミナトの肩が一度だけ小さく揺れた。笑ったのか、何かが緩んだのか、秋月にははっきり分からなかった。
ミナトはしばらくそのまま呼吸を整えていた。
「聞いてもいいか」
秋月が言うと、ミナトは息を吐きながら顔を上げた。
「走りながら、何か聞こえたか」
ミナトは少しだけ首を傾けた。
「聞こえましたよ」
「何が」
「川の音と、自転車のベルと、あと……」
少し間があった。
「先生が、パン食べるのやめたのも」
「それが分かるのか」
「なんか静かになったので」
桐生が小さく笑った。ミナトは笑い返さなかったが、タオルを畳む手の動きが少しだけ緩んだ。
「レースのときと似てましたか」
秋月がまた聞いた。
「似てるとこもあります」
ミナトはタオルを折りながら続けた。
「後ろに誰もいないのに、体が来るかどうかを気にしてました。変な話ですけど」
「変じゃないだろ」
「そうですか」
「体が覚えてるんじゃないか。それ以外の走り方を」
ミナトは少し目を細めた。秋月が言ったことを、自分の中で照らし合わせているような間があった。
「そうかもしれないです」
ミナトはタオルで髪の下を拭きながら、川の向こうを見た。
しばらく、三人とも黙っていた。
川の音が届いてくる。遠くで自転車のベルが鳴って、また川の音に戻る。対岸の照明塔が、夕方の残光の中で細く立っている。
「明日、行くんですよね」
ミナトが言った。
「橋を渡るのか」
「はい。トレセンに繋がってるので」
「向こうから、この辺りが見えるのか」
「見えます。川と、土手と」
ミナトはタオルを畳みながら、少しだけ目を細めた。
「あっち側から見ると、こっちが向こうに見えます」
秋月は川の向こうを見た。
今自分が立っているのはこちら側で、明日行くのは向こう側だ。明日の自分が今いる場所を見るとき、ここはどう見えるのか。低い土手と、草の刈られた遊歩道と、夕方に三人で立っていた場所。
それは記事に書けることではなかった。
だが、秋月には向こうへ行く理由として十分だった。
夕食は商店街の外れにある蕎麦屋に入った。油の匂いがした。天ぷらの匂いだった。テーブルが四つ。壁の高いところで小さなテレビがニュースを流している。
「久しぶりですね」
店主が桐生に言った。
「久しぶり」
「奥、空いてます」
またそれだ、と秋月は思った。ホテル、パン屋、蕎麦屋。桐生はこの街のあちこちに薄く顔がある。深くはない。だがちゃんと覚えられている。
席に着くと、ミナトはメニューを開かなかった。
「私は天ざるにします」
「走ったあとに天ざるか」
「走ったので」
その返事に笑いがあった。研究室で「いつものことですよ」という顔をするときの笑い方だった。
注文を取りに来た女性が、ミナトの耳を見てから顔を見た。
「あら、今日は走った?」
「少しだけ」
「川沿い?」
「はい」
「風は大丈夫だった?」
「大丈夫でした」
それで終わった。女性は注文票を書いて厨房へ戻っていく。
「知り合いか」
「前に来たときもいらっしゃいました。お名前は知らないですけど」
「名前も知らないのに、走ったかどうか聞くのか」
「見れば分かるので」
秋月はミナトを見た。走ったあとで髪が少し乱れている。首筋に汗の名残がある。靴には河川敷の砂が薄くついていた。
たしかに、見れば分かる。
この店では、それで十分なのかもしれない。
蕎麦が来るまでの間、桐生は窓の外を見ていた。通りの向こうを自転車に乗った高校生が二人ゆっくり通り過ぎる。片方がこちらを見た。ミナトの耳に気づいたのだろう。しかしすぐ前を向いた。
騒がない。呼ばない。ただ見る。
中央のレース場で浴びた視線は熱を持っていた。ここでは、視線は細く届いてすぐにほどける。見られていないわけではない。見られ方が違う。
天ぷらの皿が置かれた。衣の音がまだ少し残っている。
ミナトは手を合わせ、すぐ食べ始めた。遠慮がない食べ方だった。走ったあとの体が食べ物を欲しがっているのが伝わる。
「…見てますね」
ミナトが言った。
「見てる」
「食べにくいです」
「よく食べるなと思って」
「走ったので」
「それはさっき聞いた」
「じゃあ見ないでください」
「はい」
桐生は素直に蕎麦へ視線を戻した。
秋月は箸を止めた。
ミナトは見られていることに気づいている。気づいていて、文句も言う。だが拒んでいるわけではない。そこに、研究室とは違う明るさがあった。研究室では出せないものを抱えたまま、二人は同じ部屋にいた。ここではミナトは走り、食べ、桐生に文句を言っている。それだけで、呼吸が違って見えた。
少しして、秋月は蕎麦を一口食べた。つゆが濃い。東京の濃さとも、薄めた感じとも違う。この店の濃さだった。
「向こう、明日は何かやってるのか」
「明日はないと思います。でも、明後日から記録会があるそうです。桐生先生に聞きました」
桐生が頷くと、ミナトが続けた。
「地元の若い子が多いんですよ。焼きそばとかジュース売ってる屋台も出るし、祭りみたいな感じです」
「観客は来るのか」
「来ます。少ないですけど」
「少なくても来る」
「来る人は来ます」
ミナトは天ぷらを一つ食べてから付け加えた。
「顔が見える分、来てる人の方も、ちゃんと見えるんですよ。大きな場所だと、全体が明るくて、その分一人が薄い。小さい場所は、逆です」
秋月はその言い方を受け取った。
川沿いで聞いた話の続きだった。届き方が違う。一人が薄くならない。それは走る側だけの話ではなく、見る側の話でもある。
手帳を出しかけた。
だが、また途中でやめた。まだ言葉にすると何か逃げる気がした。今日ずっとそうだった。
店を出るとき、ミナトは厨房の方へ軽く頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
「また来てね」
「はい」
「明日も走るの?」
ミナトは少しだけ考えた。
「たぶん」
「じゃあ気をつけて」
「ありがとうございます」
それ以上の会話はなかった。
外に出ると、夜の空気が冷たかった。場内の湿った暖かさとも、研究室の薄暗さとも違う。乾いて、はっきりしていた。
ミナトが少し先を歩いていた。その足音が夜道にはっきり響く。左足の半拍の遅れは今日もある。だが、研究室で見たときより自然だった。場所の熱が体にまだ少し残っているのかもしれない。
「先生」
ミナトが振り返らずに言った。
「なに」
「明日、また連れてきてください」
「明日もここへ来る。トレセンに行くんだから」
「分かってます」
桐生が少し間を置いた。
「走れるから?」
「走れるから、じゃないです」
ミナトはそれだけ言って、また前を向いた。
桐生は「うん」と言った。それだけだった。
秋月はその言葉の続きを考えた。
走れるから来たいわけじゃない。では何のためか。
答えはすぐに出なかった。だが、今日のことを頭の中で並べてみると、なんとなく形は見えた。
駅で音が押し合わなかったこと。石碑を桐生が長く見ていたこと。ミナトがパン屋の前で「覚えてますか」と確認した声。老夫婦が道を空けてミナトが頭を下げたこと。遊歩道を走るミナトの体がひとつの方向を持った瞬間。桐生がパンを食べるのをやめた瞬間を、ミナトが走りながら聞いていたこと。「いい走りだった」と桐生が言ったとき、ミナトの肩が揺れたこと。店の女が名前も知らないのに走ったかどうか聞いたこと。
整理はできていない。
それでも、流れてもいない。ひとつひとつがそれぞれの場所にある。
この街では、ミナトは走った。食べた。文句を言った。猫に話しかけた。小さな照明塔を川の向こうから見た。走るためだけの場所ではない。走ったあと、そのまま続きとして、どこかへ行ける場所なのかもしれない。
思ってから、秋月は少し嫌な顔をした。また言葉が先走っている。今日だけで何度目か。だが今回は、無理に消そうとは思わなかった。
「なあ」
秋月は歩きながら、桐生に言った。
「うん」
「お前、この街に来るのはいつからだ」
「ミナトのリハビリが始まってすぐ、くらい」
「ミナトを連れてきたのか」
「ミナトが来たいと言ったからね。小さい頃に走ったことがあるとも。川向こうのレース場で」
秋月は足を止めずに聞いた。
「それで、一緒に来た」
「うん」
「最初から、川沿いを走ったのか」
「最初は歩くだけだった」
桐生はそれ以上言わなかった。
秋月も聞かなかった。歩くだけだった時間から、今日のように走れるようになるまでの時間が、この男の「いつもの部屋」やこの街への薄い顔の中に積み重なっている。桐生がここに来るのは研究のためだけではない。ミナトがここへ来られるように、ここへ来てきた。
建物の隙間から、川の向こうの照明塔の先が見えた。
明かりはついていない。夜の中で低く立っているだけだった。
中央の大きな場所で成立するものと、あの小さな場所で成立するものは、同じではない。名前を呼ぶ声が、名前を呼んだ声のまま届く。その距離感は、大きなレース場にはない。秋月には、まだそれを言葉にする手段がなかった。
ただ、明日橋を渡れば、もう少し見えるものがある気がした。
三人の足音が夜道に並んで続いた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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静かな話ではありますが、秋月たちの歩みをもう少し見守っていただければ幸いです。